
私と水俣病そして相思社 宇井純
水俣への想い 塩田武史
私と水俣の関わり 中村雄幸
ごんずいインタビュー 新立清人さん
高嶋由紀子の相思社日記
水俣トピックス 新潟はおもしろい
新作能「不知火」ワークショップ
水俣病犠牲者慰霊式
相思社日誌
ありがとうございます
プロフィール
1945年香川県生まれ。
1967年より撮影を始め、1970年に水俣に移住。
水俣病・水俣病闘争を写真雑誌などに発表。第一次訴訟当時の写真を多数撮る。
1973年、『写真報告−水俣・深き淵より』を西日本新聞社より出版。
同年、ユージン夫妻、宮本成美ほかと共同で『不知火海・終りなきたたかい』を創樹社より出版。
現在、熊本市在住。
「相思社創立三十周年によせて」ということで何か書いてくれと言われて、ハタと困ってしまった。水俣を離れてかれこれ二十年。日々の仕事に追われて、頭の中は目の前の仕事のことでいっぱい。水俣のことに頭を切り替えるのにしばらく時間がかかりそうだ。
水俣で少しでも生活した者として、相思社三十年の功罪をここで書くつもりはない。また、書く資格も私にはない。私には相思社がそこにただ存在するだけで良いと思う。個々に細かい問題はあっても、それ以上の功績があると思っている。
何の見本もなかったこの「水俣病センター相思社」という試みに、創立以来連綿と生活と時間を全て注ぎ込んできた歴代の職員スタッフたちの労苦にただただ頭を下げたい。それは創立初期に関わった私にとって、懐かしいメンバーが現在ひとりも残っていないことでもわかる。
私と水俣病センター相思社との関わりは、何ともさもしい。一九七三年の暮れもせまった頃か、年が明けて仕事始めの頃か定かに憶えていないが、センターの基礎工事の土方人夫としての仕事に携わったことに始まる。貧乏写真家の私は、生活の糧を得るために、いくらか忘れたが、日当が出るというので、「侍の家」のメンバーらと共に毎日、手の豆と筋肉痛と闘いながら鶴嘴を振った。赤土の中から、なぜか岩のように大きな石がゴロゴロ出てくるような厄介な地盤だった。「ガツン」と石を叩いて鶴嘴がはね返されるイヤな感触が、私の手に今だに蘇ってくる。
センター設立構想は、第一次訴訟を中心とした水俣病闘争の全国的な高まりの中で、「患者と地獄の底までつき合えるか」という論点、裁判後の患者と支援者たちとの拠り所としての拠点づくりがささやかれ出したのが始まりだと思う。
それは同時に私個人の生活基盤づくりでもあった。
大学を卒業し、就職もせず、フリーのカメラマンとして、一人水俣に住みついた。その頃は何の心配もせず、自由にノビノビと動き、まさに青春まっ盛りであった。それが縁あって所帯を持ち、家族となり、子供が一人、二人…。自分一人の時のように、今日も明日もインスタントラーメンというわけにはいかない。センター建設の頃は我家の転機でもあった。
我が家もセンター同様、“財政基盤の確立”が最重要課題であった。それは今もって続けられているが…。何かひとつしっかりした職業、たとえば教師とかタクシー運転手などの生活基盤があって、写真活動に動くということであれば良いのだが…。現在、それに近い状態で生活を営んではいるが、それじゃ余った時間を水俣の撮影に費やせるかというと、これまた、難しい。ギリギリの体力(エネルギー)と時間で働いているので、余力は? というと、しんどい部分があるのも事実だ。
それを補って余りあるのが水俣、水俣病患者への熱い想いだ。
私は水俣病の撮影に関わる以前に、原爆被爆者の問題に関わっていた。沖縄、台湾にまで被爆者を訪ね歩いたこともある。被爆者たちとそれなりにつき合ってはきたが、水俣病の患者たちほど深いつき合いにはなれなかった。それはなぜなのか? たとえば、自分の苦悩を笑いながら明るく笑い飛ばす、あの強さ、あの澄み切った不思議な世界は、私の知る限り水俣にしかない。それに惹かれて、私は水俣に住みついたのかも知れない。こういった人たちは私だけでなく当時も今もきっと多いハズだ。恋愛のような損得のない理屈ぬきの縁なのだ。
つまり水俣病闘争は夢なのだ。人々はいつまでも夢を追いかけなければいけない。相思社の存在そのものが夢なのだ。水俣から熊本市内に移って二十年。離れてみてわかる。相思社は、水俣病患者に心をよせる人々に夢を与えてきたと思う。実際に活動に携わる人たちにとっては日常の生活は多岐にわたり、大変さは理解しているつもりだ。相思社の活動は全国の水俣病に熱き想いを抱く人々の夢なのだから。センター創立時の初心を貫徹し、これからも生き続けなければならない。
かつて、水俣病第一次訴訟判決の直前に西日本新聞社より、写真報告『水俣、深き渕より』を出版したことがある。誰でも買えるように値段を一,五〇〇円に押え、安くしたおかげで製本・印刷ともに雑になってしまった。これでは死んでも死にきれないと、ずっと燃焼し切れないモヤモヤが残っていた。
二〇〇六年の「水俣病五十年」を機に、相思社が私の写真集を出したいという。財政的には厳しいハズだが、これも夢のひとつなのかも知れない。
遠藤 なんで山の中の中頸城郡から水産大学へ行こうと考えたんですか?
中村 進学するときに海へ行きたいと思ったんです。それで水産関係の学校へということで東京水産へ行く予定だったんですが、落ちて下関に行ったんです。
遠藤 大学はどうでしたか?
中村 学校というよりは、生活するのが楽しかったという感じだね。寮生活は本当におもしろかったんです。寮は軍隊と同じですよね。野間宏の『真空地帯』じゃないけどそう言う感じです。船乗りの養成所みたいなものだから、八畳くらいの部屋に八人部屋です。どこの部屋にも三年生が一人いて、二年生が二人いて、新入生が五人です。三年生が神様で、二年生が天皇で、新入生は奴隷です。何から何までさせられてね。
遠藤 水産大学の寮って、学生運動があったんじゃないですか?
中村 一年生の終わりくらいから。うちはね、頭じゃないんです。力対力です。おかげで体力だけはつきました。
遠藤 学校はどうだったんですか?
中村 学校は全然です。朝起きて代返だけは行かされるんです。おれは三年の途中で止めたんです。
遠藤 それでは水俣に行ったのはいつが最初なんですか?
中村 初めて行ったのが一九七〇年です。柳原(彰一郎)や同姓の中村と三人でね。おれはその頃水俣に関心はなかったけれど、公害問題をやってた柳原にさそわれてきたんです。その前に、一回生の時に自転車で九州を一周したことがあるんです。その時には田川の友だちと二人で回ったんですが、水俣を通ったときに「ここの水は飲まない方がいいぞ」と言われたんです。ああそうなんだって思っただけです。そのころは関心も何もなかったからね。
遠藤 学校を三年でやめたのはどうしてですか?
中村 その頃はほとんど水俣に来てたからね。籍はあったけど成績もあれでね。学校は二年生までしか行ってないよね。水俣の方が多かったくらいだと思う。試験なんかも勉強やってないから、「その問題はさておき、水俣病についてどうのこうの」と書いてね、それで六〇点とれたからね。
遠藤 中村さんが水俣に来ようと思った最大の魅力は何ですか?
中村 いっぱいあるけど、最初は茂道の杉本さん一家に三日くらい泊めてもらったんです。水産大なら船ができるだろうと言われて、網船に乗せられてオタオタしてただけなんですが。でも海のこともあったし、漁も新鮮だったし、それと杉本さんたちの暮らしぶりやね。
帰ってから石牟礼道子さんの『苦海浄土』を読んでね、なんか俺にできることあるのかなと思うようになって、それからまた水俣に行ってみたいなと。それで杉本さんところに「一ヶ月くらい置かせてください」と行ったんですね。俺はノンポリだから水俣病の運動だとか闘争については、関心がないわけじゃないけど、俺の問題ではなかったですね。患者さんたちの支えになれればいいなという気持ちで行きよったですね。だけど結果的に見ればずいぶんおぶさっていて、足を引っ張っていたなと。
遠藤 七二年から水俣に全面的にきたわけですよね?
中村 最初来た時は侍の家というのがありました、そこに寝泊まりしていたんです。侍の交差点のところです。
相思社構想が出たのはいつですかね。それが出て侍の家というのは、相思社で胎児性の患者さんたちが何ができるのかを、コロニーというか共同作業所というかそれを探るための機能として、位置づけられたんです。その中で、初代社長橋本一さんがいて、柳原がいて、ちょっと遅れて俺が入ったのかな。その当時の手当は月額二〇〇〇円でしたね、もちろん家はあるし食事は別だし、小遣いみたいなものだね。侍の家ではいろんなことをやりましたね。相思社の土地や建物のことは、柳田(耕一)が東京にいて別に進んでいたからね。侍の家は過激派の集まりでということ敬遠されていたんです。
遠藤 相思社が最初始まったとき、職員は何人いたんですか?
中村 侍の家が三人、柳田夫婦、堀田静穂さん。キノコ工場がありましたから高橋さん、木口さん、高倉さん。患者さんたちでは坂本登さん・浜元フミヨさん・加世堂さん・上野さんそれから坂本輝喜さん、江郷下一三さん、くらいですね。
遠藤 それからいろいろ苦労が始まるわけですよね。
中村 そのころは寄付金が多かったと思います。キノコ工場も始めたけれど赤字ばっかり。ミミズもやりました。相思社の給料は額面六万円だったと思います。あのころはみんな独身だし、金がいる人はいなかったもんね。だから返しますってやってたもんね。
遠藤 中村さんはどういう仕事していたんですか?
中村 いろいろやったけれど長いのはミカンと堆肥作りかな。ミミズは元は取ったけれど、その間の努力はなきに等しかったですね。
遠藤 私が知っている中村さんは、八八年だったと思うんですけれど、原因裁定をやるという話がありましたよね。中村さんが一人反対していたじゃないですか?
中村 俺、反対してたっけ?
遠藤 中村さんはその時「水俣病ってこんなふうに延々と闘争ばかりやっていくんだろうか? それでいいのか?」と言われたんです。僕なんか生活学校から野次馬みたいにやってきてたんですが、中村さんは患者をそんなふうにリードしていくことに疑問があるとおっしゃっていたんです。
中村 覚えていないけど、それほどだいそれた判断じゃないけど、自分の気持ちはイヤだったんでしょうね。あの後座り込みもあったけれど、俺は行かなかったもんね。相思社を止めた理由は抽象的だけど、それまでの相思社というのは「べきだ」「ねばならない」ということで動いてくるし、やってたわけだよね。それに対するリタイアだろうね、俺は俺で飯を食って生きるよと思ったんだろうね。無理して相思社やるよりは、楽して自分で食っていくよってことだろうね(爆笑)。
![]() |
| 1974年相思社設立集会で紹介を受ける職員たち 立っている左から五番目が中村さん |
遠藤 相思社を辞めてすぐに魚屋さんを始めたんですよね。なんで魚屋だったんですか?
中村 昔から魚屋やってみたいなというのはあったんですよ。たまたま福浦の福浦さんという申請協の人だったけれど、移動販売やっている人がやめて車が空いているという話があったから、移動販売なら俺もできるかなと思って始めたんです。なで(なでしこ 中村さんの一人娘)が一年生になったときに俺も魚屋一年生だったんです。
遠藤 魚屋さんは順調ですか?
中村 最初も今も大変ですね。俺が「魚屋やりたいから車ゆずってください」と言ったときに、「今頃魚屋やるやつはいないよ」と言われたんです(笑い)。最盛期には水俣芦北に組合員が六八人いたのが、今は三三人ですよ。そういう状態だから一人だけ儲けられるという流れはないんですよ。あと何年やれるかなというふうに考えたほうがいいかな。この仕事は定年無しで身体が動く間はやれるからいいかなと思ったけれど、このままいくとね、身体が動けるけど魚がもうないよというか、魚がいないんですよ。獲る人がやめているでしょう。
遠藤 九〇年代になって漁師を始めた人もいますから(笑い)。
中村 そうそう、そういう人を育てないかん、ホント。景気の動向もあるけど、もっと深刻なのは魚が少なくなっている、売るモノがなくなっている。朝、毎日市場に行って疲れていても、魚をみれば元気が出るけど、その魚が少なくなっているんです
五月三日、新潟で映画「阿賀に生きる」一二周年集会が開かれた。今年は続編「阿賀の記憶」の特別試写会があり、参加することにした。
五月二日に新潟入りし、「環境と人間のふれあい館=新潟水俣病資料館」主催の「常呂の原風景を訪ねて」という講演を聴き、ついでに近くの津川町の「狐の嫁入り行列」も見物に行った。
常呂の話はなかなか面白かった。役場の職員兼カメラマンの表さんとJAの職員金澤さんが話してくれた。北海道網走近くの農漁村常呂の町おこしの話だった。「漁師が山を買い木を植える」というのに「そうだ、そうだ」と相づちを打ったが、「ホタテをドンブリで食わせます」というのが腹を打った!
「狐の嫁入り」はこれまた町おこしの一つで、人口五千人のマチに四万人ほどが訪れる一大イベントとなっている。選ばれた新婚カップルが、狐の扮装でマチを練り歩く。面白かったのは帰りの列車。新潟安田町(この四月から阿賀市になった)名物の渡辺参治さん。世話役の旗野さんの口車に乗って、列車の中で歌を歌い出した。一〇人あまりの仲間連中が合いの手を入れるやら手拍子をたたくやら、お座敷列車ならぬ宴会列車になってしまった。
翌三日が本番で、「阿賀に生きる」に続いて「阿賀の記憶」の試写会。監督の佐藤さんとカメラの小林さんのトーク。その他諸々。多彩な催しだった。
「阿賀に生きる」はよくできた映画で、初めて見たときから好きだったが、「阿賀の記憶」はそれとはずいぶんと趣が変わっている。「分かりにくい」って言えば分かりにくい映画だけれど、深みがあるって言うか…。佐藤さんも小林さんも「無意味なものを撮る」ことに執心していたそうな。その夜の交流会で佐藤さんに「『阿賀の記憶』を見られただけでも新潟に来た甲斐があった」って言ったけれど、これはお世辞じゃありません。(弘津敏男)
相思社でも取り扱うつもりです。よろしければご注文下さい。
◆瓦職人・新潟水俣病未認定患者 渡辺参治さんの聞き書き
「安田の唄の参ちゃん」
八〇〇円(送料別途)
著者 里村洋子
◆渡辺参治さん米寿記念アルバム
「うたは百薬の長」
二〇〇〇円(送料別途)
唄 渡辺参治
◆阿賀に生きる
カラー/一一五分/一九九二年/「阿賀に生きる」製作委員会作品
監督=佐藤真/撮影=小林茂/録音=鈴木彰二
ビデオ価格一六八〇〇円(送料別途)
八月二八日の奉納公演に向けて、現在、新作能「不知火」を知るためのワークショップ(WS)が行われている。四月から七月まで、月一回計四回のWSを通して、能という表現形式を理解し、新作能「不知火」の世界に近づこうという企画である。これまで開催された二回のWSでは、参加者が各回一〇〇人を超え、「不知火」への関心が高まっていることが感じられた。また、参加者の顔ぶれは、従来の水俣病関係者を広く超えたものとなっている。「新作能『不知火』は水俣病のことだけで行うのではない、水俣病を超えて人間の生きる道筋を訴えるもの」という緒方正人氏の呼びかけへの応答が、水俣で始まっていると言えるのかもしれない。
>新作能「不知火」の持つ意味
第一回は四月三日、水俣市もやい館において「はじめて能を見る人へ 新作能『不知火』の持つ意味」と題して久野啓介熊本近代文学館長による講演が行われた。
新聞記者として水俣病に出会った久野氏が、三〇億年の進化の歴史の凝縮再現であるという胎内で、有機水銀が生命世界にダメージを与えた胎児性水俣病にショックを受けたこと、水俣では患者と市民が対立してきたこと、その対立を超えて、患者から「ともに人間としてのよみがえりを果たそう」という呼びかけがなされていると、新作能「不知火」誕生の背景が語られた。
緒方正人さんのお父さんの「魂うつれ」という言葉を引きながら、石牟礼道子氏の「死と再生」というテーマが凝縮されたのが新作能「不知火」であるとし、水俣公演は二一世紀地球人類へのメッセージの色合いをより鮮明にさせて来つつある、と結んだ。
>新作能「不知火」に託すもの なぜ今奉納か
五月一日に行われた第二回WSは、栗原彬水俣フォーラム代表を聞き手に、緒方正人奉納する会代表が、「奉納という意味」、「チッソへも呼びかけたのはなぜか」を語った。 「生きる基盤を汚し続けて生命の迷い子となった私たちがこれからどうしたらいいのか。亡くなった方、あの世に尋ねるというのが奉納ではないか。現代を生きる私たちに課せられた応答だと考えている。そして、チッソにも一緒にやろうと呼びかけたのは、加害企業チッソからもうひとつ違う捉え方をするときが来ているのではないか。ふり返ってみれば私もチッソであったと思うようになった。加害責任から、私たちもまた課題を背負っている。私たちは一人一人という存在において課題責任を共に負うという確認が必要ではないか。加害・被害を超えて人として出会いたい。」と、心の深い部分への呼びかけがなされた。(小里アリサ)
今後のワークショップスケジュール
六月一二日(土)第三回
新作能「不知火」のこころ
土屋恵一郎氏(明治大学教授)・石牟礼道子氏(作家)
原作者の思いと土屋氏による解説から新作能「不知火」の世界に迫る。
七月三日(土) 第四回
新作能「不知火」を読む
笠井賢一氏(演出家)・櫻間金記氏(能楽師)
面や能装束を間近に見、能の発声を聞き、一緒に声を出すことを通して新作能「不知火」の世界を体験する。
一九五六年五月一日、チッソ付属病院細川一院長によって水俣病が公式に確認された。当時は水俣病という名づけではなく、奇病もしくは水俣奇病と呼ばれていた。それから四八年が経過した水俣では、毎年その日に水俣病犠牲者慰霊式を行っている。
今年も慰霊式は不知火海を望む水俣メモリアルで行われた。その年に亡くなった犠牲者の名簿を収め、数百人の参列者は献花した。患者挨拶では、チッソ水俣病患者連盟の松崎忠男さんが、チッソに補償と排水の停止を求めて抗議した一九五九年の漁民闘争を回想して「チッソも行政も排水を止めることはなかった。その時の無念さは忘れもしない」と、水俣病事件の傷の深さを語った。環境省の小池大臣やチッソの岡田社長の挨拶は型どおりのものであり、何故自分たちがここに立っているのかを、感じさせるものではなかった。江口水俣市長は挨拶の中で、八月二八日に行われる新作能「不知火」にも触れて、水俣がやってきた環境モデル都市作りと交差していくことだとの理解を示した。
毎年収める名簿については、犠牲者に比べるとその数が少なく、どの団体・個人に呼び掛けるのか? 認定患者ばかりでなく未認定患者も対象としたらどうか? 等々の課題を持っている。
また、二年後には水俣病五十周年を迎えることになる。その時の最大の課題は、チッソが新しい一歩を踏み出すかどうかではないだろうか。水俣病の加害企業としてではなく、生命・環境・暮らしを企業がどのようなスタンスで守っていくのか? 物質的な豊かさに貢献するだけでは、二一世紀にふさわしい産業社会の展望は見えてこない。(遠藤邦夫)