機関誌ごんずい91

目次
ごんずい91号表紙
水俣市久木野 カキを取る人々 

特集 : 私の聖なる場所

記事

水は本当に宝物 −日本一良いところ−   下田保富

プロフィール
しもだやすとみ。1924(大正13)年4月12日、水俣市大森に生まれる。水俣実務学建築科を1940(昭和15)年卒業。佐世保海軍建築部就職。1944(昭和19)年に徴兵され、佐世保海兵団から鹿屋に行く。復員後、大森で両親と共に5年間農業に従事。1946(昭和21)年に湯出下村のヒツ子さんと結婚、子どもは3人。1950(昭和25)年8月、水俣市役所に就職。市役所では主に建築・設計に携わる。1979(昭和54)年退職。以来農業に携わる。産廃反対の「水俣の命と水を守る市民の会」世話人。

戦後の暮らし向き

遠藤:戦後、この裏山の台地で、木場(註1)をやっていたということですが?
下田:家は当時、三代一一人住んでいました。あそこは今、杉や檜ですが、前は松山だったんです。その松が一五年くらいたった頃に、坑木に出していたんです。この家もその松山を売って造ったんです。坑木を出していたのは、終戦後二五、六年頃までですかね。
 坑木を出した後を焼くんです。雑木の根っこを取ったり、松の根っこは大きいから取りませんが、ソマコバ打ち(註2)といって打つんです。榊の根っこは、簡単には取れませんよ。鍬と山鍬だけで取っていくんです。葛根があるんですよ、こっちではクズマキというんですが、これが取れないし切れないんです。首が残っているとまた出てくるんです。
遠藤:台地の名前がありましたね?
下田:「うんまんた」ですかね。小字ですよね。「うまにた」ですが、漢字では馬尼田と書くと思います。イノシシなんかが水浴びするところをニタと言うんですが、この一番高い頂上のところにあったんですよ。そこは年から年中、水気があるんです。その回りには榊が生えているんです。イノシシが来ない時には、鳥の水場になっていました。
 下村の上の方にも、家内の実家なんかが何軒かで五、六反畑を作っていました。日添川から向こうの方は松窪というんです。矢じりとか石器なんかがでたところです。
遠藤:何を植えるんですか?
下田:夏休みの頃、火入れしてソマコバ打ちをします。九月の始めには、ソバの種を播くんです。ソバはまいて七五日で口に入ると言われていますから、一一月には収穫です。平らな畑ではなくて、傾斜があるんですよ。カライモ(さつまいも)は二〇度くらいのところまでは作ります。
 一反五畝から二反くらい作ってました。カライモの苗を四月に作って、田植えの頃雨が降れば、カライモの苗を植えに行きます。水分がないとカライモがつかないんですよ。カライモの蔓返し(註3)草取りがあるわけです。それで一〇から一一月の霜が下りないうちに、カライモを掘ってしまうんです。
遠藤:カライモは自家消費ですか?
下田:そうです、全部自家消費です。ここは田んぼが少ないから米が取れないでしょう。主食というんではないんですが、カライモをたくさん食べるんです。朝からイロリにかけて、大きな鍋で炊くんです。それを一日で食べてしまいます。カライモしょうけ(註4)一杯に毎日炊くんです。
 冬なんかはカライモをイロリで焼いて、それを食べてからご飯を食べるんです。ご飯と言っても米ばかりではなくて麦や粟です。
遠藤:カライモはだれが運ぶんですか?
下田:若い私たち夫婦が、一日七荷くらい運んでいたんです。てんびん棒前後のモッコにカライモを入れて、それが一荷です。四〇キロぐらいありましたかね。牛も運んでいましたね。家のカライモガマには一〇〇荷くらい入っていたので、全部で四トンくらいになります。家族の一年分です。
遠藤:カライモの後は何を?
下田:陸稲です。私たちは野稲と言うんです。カライモを取った後は、五月六月頃に野稲ん地といってならしをするんです。野稲は一尺五寸間隔ぐらいに浅い溝を掘って種を播いて次の土をかぶせて、そこにできた溝にまた種を播くんです。溝を作って土をかぶせる行程を「かがく」というんです。
 野稲には秋虫といって、九月になると茎の下の部分について、真っ黒になって枯れてしまう病虫害がありました。田んぼにも穂が出ているのに、真っ白になって枯れてしまうのがあるでしょう。それが出ると農薬をまくんですが、BHCかなんかですね。秋虫の薬もありました。自分たちが食べるのは野稲の米で、田んぼにできた米は売るんです。まあ売るといってもそんなにないし、昔は供出していました。
遠藤:その頃もトンノ溝(註5)はあったんですよね?
下田:私が子どもの頃からありました。その頃は大森でも米を作っている家が、一二、三軒ありました。家の石積みの田んぼは、親父が結婚する前から積んだようです。親父が明治二八年生まれですから、明治の終わり頃ですかね。原野を切り開いて作ったんです。
 トンノ溝はそれまでは公民館の上くらいまでだったようですが、親父が田んぼを作って、その時に鹿谷川を越えさせて延ばしたと聞いています。その頃も鹿谷川の先は四軒だったですかね。今は二軒しかありませんから。
 その頃は牛も飼っていましたが、エサの草切りが大変だったんです。
遠藤:この辺りには共有地はなかったんですか?
下田:それはないですね。木を伐ったあとの空き地に茅が生えていたので、それを切りに行ってたんですよね。牛の草切りは毎日でしたね。よその茅を切って怒られたりしましたね。牛の草は冬が大変なんです。夏はワラを少しで、草が主だったんです。草を丸めて両方にかついで、これが一荷ですね。冬はワラが主で、草は少しだったですね。
遠藤:牛でダシゴロ(註6)もされていたんですよね?
下田:ダシゴロもしていましたが、山切りと言って杉・檜を切って倒す仕事も市役所に就職するまでしていました。季節は主に冬です。

下田さんの楽しみと自慢

遠藤:戦後に農業していた頃の楽しみって何でしたか?
下田:うーん映画も一年に一回か二回、夫婦で行くことはなかったですね。夕食が済んだ後に、夫婦で湯の鶴温泉に行きました。この辺りの若い人は、毎晩温泉に行ってました。青年たちはこの下の公民館で、青年団がありましたからね。でも私はすぐ結婚したから、青年団には入っていないんです。
遠藤:下田さんにとって大森はどんなところですか?
下田:大森は私の子どもの頃と今も、戸数は変わっていません。私は自分が暮らしてみて、日本一良いところだと思っています。温泉は近いし、空気は良いし、水はきれいなのが湧くしですね。とくに水は本当に宝ものです。濾過もしなくていいし、消毒もしなくて良いし、涸れたことはないんです。
 そしてここの部落は、争いごとがない本当に平穏なところなんです。湯出川の谷間にありますから、日当たりだけが悪いんですよね。だから稲作りにしても、よそと比べると日照時間が短いんです。一日に四時間くらい違います。だから収穫も少ないんですね。でも水が冷たいから米はおいしいんです。
遠藤:他にはありませんか?
下田:みんな白岩の棚田を写真に撮るんですが、私は家の石垣の方がきれいじゃないかと密かに自慢に思っています。親父がついだ棚田なので、あまりおおっぴらには言えませんが。
 それから、私の家の二階から見るこの風景が一番です。鬼獄からずっと見えていますし、一番良いですよ。その右側の山は木がなくて草原だったんですが、冬になると雪も積もっていました。

湧き水のこと

遠藤:りっぱな鯉が泳いでいる池ですが、この水の水源はどうなっていますか?
下田:これは家の水源からの水をタンクに引いて、そのオーバーフローした水を入れています。家の水源はこの裏山の中腹にあります。一日五七トンくらいの湧水量があります。大森には一日一〇トン以上湧いているわき水が、二二カ所あります。私は以前から知っていましたが、産廃の問題が起きてから湧水マップを作りました。
 水量の少ないものはもっとあるでしょうけど。何代も前から利用していますが、濾過も消毒もしたことはありませんが、とてもおいしいきれいな水です。この産廃の問題が起きて、初めて水質検査をしましたが何の問題点もありませんでした。
遠藤:今は塩ビのパイプを使われていますが、昔はどうだったんですか?
下田:昔は孟宗竹を二つに割って、それで水を引いていました。塩ビになったのは今から四〇年前くらい前からですかねえ。水源は大きな二つの岩からしみ出した水を、大きなタルに貯めて、そこからタンクに引いて三軒で使っています。
 この家を建てる前には今、鯉が泳いでいる池の端の当たりに、風呂と洗い場がありました。台所はちょっと離れたところにありました。水は大きなハンズ瓶に入れて飲料水にしていました。

忘れられた日本人の慎み

遠藤:地域の役なんかはしなかったのですか?
下田:戦後消防団はやったけど、長のつく役は絶対しないんです。人前では話すことができないことが一番の悩みというか、それが私のコンプレックスでした。市役所で課長になれば、分かったような顔して議会なんかで答弁しなければならないから辞めたんです。それでお寺に行ったら役はないかと思っていたけど、いろいろ役があるんですね。
 産廃の問題でも、世話人なんかもホントはできないんだけど、でも逃げるわけにはいかないでしょう。集会なんかで人前に坐っているは、いやでいやでしかたがない。挨拶なんかもしたくないんです。やっと今年の夏頃から、人前で話せるようになったんです。集まりでも、意見が言えるようになった。私の人生も八〇になって、少し変わって来たなと思えるようになったんです。
遠藤:私なんか産廃のことで、大学生やJICAの人にお話していただいてますが、そんな悩みがあるなんて全く気が付きませんでした。
下田:人前で話ができるようになったのは、ホントにこの頃なんです。(インタビュー:遠藤邦夫)

用語解説
註1 焼き畑のことソマコバ打ち
註2 杣木場。木を植えた山を焼き畑にして、そこを耕すこと
註3 カライモの茎を動かすこと。そのままにしておくと、あちこちから根が出てイモが太らなくなる
註4 カライモを入れる竹製の目の粗いザル
註5 湯出川大森橋上流の新イデから取水している用水路
註6 山で切った木を牛に引っ張らせて降ろす仕事のこと

ぼくの聖地―吉野川第十堰(だいじゅのおせき)―   姫野雅義

プロフィール
ひめのまさよし。1947 年、野川第十堰のある旧藍畑村(現石井町)で生まれ,吉野川で遊んで育つ。本業は司法書士。93 年、吉野川シンポジウムを開催。以後「徳島方式」と呼ばれる住民運動がはじまる。98年から国の公共事業では初めての住民投票実施に取り組む。吉野川シンポジウム実行委員会、吉野川第十堰の未来をつくるみんなの会世話人。

吉野川という川

 ぼくは一九四七年、吉野川のそばの藍畑村(現石井町)で生まれた。藍畑村はその名の通り藍作りが盛んだった村であるが、また洪水の常襲地帯でもあった。

 徳島の藍と洪水は縁が深い。なぜかというと、毎年必ず襲ってくる台風の洪水が運んでくる肥えた土が、連作を嫌う藍のかっこうの客土になったからである。吉野川流域の藍作りが長年全国一を誇り、他藩の追随を許さなかったそのわけは、洪水氾濫にあったのである。藍のもうけは大きい。このため蜂須賀藩はあえて連続堤防を作らず、とぎれとぎれの「霞堤」と、「勧農」と呼ぶ水害防備林作りを奨励した。洪水が運んでくる有害な砂礫は竹林で食い止め、突進する洪水流は霞堤によって回り水に変え勢いをそぐ。藍作りは洪水と共存する多くの知恵を生んでいったのである。だから藍畑村は、吉野川のもっとも特徴的な地域と言ってよいかもしれない。

第十堰

 この藍畑村に、一七五二年(宝暦二年)、吉野川を代表する構造物が生まれた。それが第十堰である。「十番目の堰」という意味ではない。「第十」は地名だ。蜂須賀藩の新川開削によって水量の減った旧吉野川の川筋の四四か村が一致団結して作った分流堰である。以来二五〇年間ひとびとはこの堰を守り続けてきた。並大抵の苦労ではすまなかったはずだ。全長は一二五〇mを超え、現存する石積みの堰では日本最大である。

 堰の上は最高の漁場でもあり、腕達者たちが鮎を捕る腕前を競った。子どもでも捕れた。青石の石畳のうえを流れる水音は堤防を越えて遠くまで聞こえ、四季折々堰に人影は絶えなかった。出征や就職で遠くへいくときは家族でここにきてふるさとを目に焼き付けて旅立った。だから地元ではこの堰を畏敬と愛着をこめて「おせき」と呼ぶ。

日本一の川 吉野川

 ぼくが初めて釣りに行ったのもこの第十堰だった。幼稚園の頃だ。父親にせがんで自転車の荷台に乗って行った。家から一五分くらいだった。堰から少し離れたゆるい流れでタナゴと手長エビが釣れた。父親は村で唯一の薬屋で、釣りなどはあまり好きではなかったから、猛者連の陣取る第十堰に割り込むのは遠慮したのだろう。本場と比べると釣果はすこし見劣りしたが、それでも父親と釣りができるのはうれしかった。

 この父親と対照的だったのが母方の祖父であった。祖父は行商からたたき上げた商人だったが、鮎のシーズンには店は祖母に任せきりで、吉野川に行っていた。カンドリ舟と呼ぶ鮎釣り用の川舟を操り、プロの川漁師たちと互角に張り合い負けなかった。

 母親が外孫であるぼくを連れて実家に帰ると、祖父は相好を崩して喜びカンドリ舟に乗せた。舟には七輪ややかんなど炊事道具が積んであって、吉野川の真ん中に漕ぎ出し、さばのような鮎(徳島では巨鮎のことをこう言う)を焼いて一杯やるのである。そして必ず「まさよし覚えとけ。吉野川の鮎は日本一ぞ」というのが口癖だった。

 ぼくは長年祖父の言葉を信じ込んでいた。ぼくにとって吉野川は日本一大きくて美しかった。

川が変わってしまった

 長男が生まれた一九七六年、吉野川に巨大な早明浦ダムが完成した。すると吉野川の水に異変が起きた。台風の大水が去ったというのに川の濁りがいつまでもとれない。ふだんの水量は二五%も減った。さらに、膨大な砂利採掘で川の瀬が消えた。うっそうとした竹林もきれいに刈り取られた。そして第十堰は毎年青石がはぎ取られコンクリート張りに変えられていった。

 こうして、父親といっしょに来て三〇年がたち、今度はぼくが子どもを連れて行く番がきたとき、楽しみにしていたいい水辺は全部なくなっていた。川ガキ(川で遊ぶこども)たちの姿もとうに見なくなっていた。そしてだめ押しのようにバブルの時代が始まった。吉野川はもう終わったと思った。りっぱになった堤防道路を毎日マイカー通勤しながらやりきれなかった。

第十堰からの問いかけ

 そんなとき、まるで黒船襲来のように、突然目の前に現れたのが可動堰計画だった。第十堰を撤去して河口部にダムを作るというのだ。もしやれば吉野川は本当に死ぬ。ぼくは迷ったが物申すことに決めた。言わなければ一生後悔すると思ったからだ。

 ぼくだけではなかった。住民運動の広がりはものすごかった。ついに二〇〇〇年、可動堰計画は白紙となり、第十堰では応急処置ながら青石による補修がはじまった。時代の流れは変わり始めたのだ。その昔、藩の河川政策に困った農民が決死の思いで起こした大事業「第十堰」が、二五〇年のときを超えて吉野川のためになにをすべきかを問いかけたのに違いない。

 こうして第十堰は、ぼくの大切な聖地になった。

姫野雅義の吉野川日記 http://himeno.exblog.jp/
NPO法人 吉野川みんなの会 http://www.daiju.ne.jp/index.html

豊饒の浜辺から カメラを持って「ちょっち行ってくっで」−父の思いで− 鬼塚純子・春男

おにづかじゅんこ:鬼塚巌・サク夫妻の長女として水俣市侍に生まれる。一番身近に父を見てきた。
おにづかはるお:1938年、水俣市八幡に生まれる。純子さんと結婚後、鬼塚家で一緒に暮らしてきた。

鬼塚巌 おにづかいわお。1928−1998年。熊本県葦北郡水俣町江添侍村に生まれ、14歳でチッソ水俣工場に少年工として入社した。第一組合員として安賃闘争を闘い、水俣病市民会議にも参加。水俣病を我がこととして8ミリやカメラで水俣病に取り組んだ。水俣の全てを写し撮りたいという願いは、膨大な記録となり残されている。著書『おるが水俣』、映像作品「怒れない世界」「汚濁と放出」「水俣病T・U」など。

安賃闘争の頃

春男:親父は河童の話とか、たかんばっちょの話とか、そら好きだったですね。その頃、私は長距離トラックに乗っとったもんだけん、あんまり会いよらんかったですけど、八時か九時頃帰ってくれば、起きて待っとったですね。この居間に座っとって、一杯飲みながら「また話ばせんな」っち。そういう昔話が好きやったです。私が木臼野のばあちゃんの話をこまんかときから聞いとったもんだから、「こげんこげんして、田舎ではたかんばっちょっちいうのがおるらしかばい」って言えば、真剣に聞きよらったです。
小里:巌さんは、家ではチッソでこんなことがあったという話もされていたんですか。
春男:自分の方から会社でどうだったこうだったという話はあんまり話さなかったですね。
純子:主人が聞けば、少しは。飲みながらですね。
春男:自分の方からはなかなか話さなかったです。
純子:子どもには安賃闘争とか、話さなかったですね。
小里:私は、家族で写っているこの写真が一番好きなんですよ。鬼塚さんが家族といることがすごくうれしそうで。安賃闘争自体は大変だったですけど、この時にほっとした空気があったように感じます。この時に何かお話とかされていましたか。
純子:いや、話さなかったですね。この写真は、ダムかなんかに行っていた時期があったんですよね。
小里:発電所にオルグに行ったり。
純子:多分その前後じゃないですかね。家族全員で写っているから、誰かが撮っているんでしょうね。もしかしたら三脚で撮っているんですかね。
春男:このヤッケが流行りよったです。三井のオルグがみんな着ていたんですよね。体格がよくて。おっどんが子どもだったからそう見えたのかもしれないけど。
小里:じゃあこの安賃の頃はお家にいらっしゃらないことも多かった。
純子:本当覚えていないんですね。侍でも今、広場になっているところにピケ小屋があって、三池のオルグのおじさんが張っていてとか。そういうのを部分部分でしか覚えていないですね。
小里:安賃の頃で鬼塚家で何か印象に残っていることは?
純子:そういうのはないですね。話さなかったですからね。聞かせなかったですね。チッソの正門でピケ小屋とかあって座り込みしとったでしょ。子どもがお弁当持っていくんですよね。一度私が行ったら、母が怒られとったです。子どもはやるなと。そういう話も全然しなかったし。
春男:頑固は頑固でしたよ。
小里:巌さんですからねぇ。

カメラを持って「ちょっち行ってくっで」

純子:安賃のあと一番最後だったじゃないですかね、チッソに戻ったのは。
坂西:やっぱり第一組合ということでですか。
純子:そうですね。
小里:そういうのもあんまりお話されなかった?
純子:ただあとになって、仕事をさせてもらえなくて、草取りとかしてたっていうのは、ちょっと聞いた記憶がありますけど。子ども達にこげんだったよ、とかは言わなかったですね。仕事の話は何にもしなかったですね。兄弟も聞いていないですね。あの年代の人はそうじゃないんですかね。
小里:門を出たところで置いてくるんでしょうね。この頃からカメラはずっと。
純子:しょっちゅうどこそこ連れていって。菜の花畑に連れて行ったりとか。チッソのよく見える陣の坂に連れて行ってったですね。
小里:純子さんの写真が一番多いんじゃないですか。
純子:いや、そんなことはないでしょう。私だけじゃないですね、兄弟平等じゃないですか。みんな撮っていますよ。
小里:それは希有なお父さんですね。
純子:子供心にも、お父さんは写真が好きなんだなあというのは思っていました。多分、病気になる前ぐらいから、家族の記録を残そうとはしてたみたいです。写真をほとんど普通のサイズよりも大きく引き伸ばしていたから。今から家族の写真をしようかなと思っていたんじゃないかなって。そして、侍が好きだったけんですね、父は。じいちゃんばあちゃんの写真も結構撮って、持って行っていたですね。
小里:巌さんは、純子さんにとってどんなお父さんでしたか?
純子:普通のお父さんですよね。私に言わせればちょっとお酒の好きな。
小里:チッソからだいたい何時に帰ってくるんですか。
純子:三交替してたから。日勤の時は五時過ぎじゃないかな。
小里:帰ってきたらすぐに、どこへ行くとも言わず、あっちこっち出かけていたんですか。
純子:言わないですよ。「ちょっち行って来る」って。「『ちょっち、ちょっち』っていってちょっちじゃなか」って母が言ってたですね。
小里:それはいつ頃からだったんでしょうね。
純子:自然にそうなっていて、いつ頃かは…。でも、けっこう家族サービスはしていたですよ、父は。よく海なんかにも連れて行ったし。中尾山なんかも行ったし。
春男:写真が本当に好きやったですね。いつ撮らったか知らんですが、ビデオなんかも帰ってきてここでテレビに繋いで見よったですよ。やっぱ、カメラ、ビデオはなんか身につけとったですね、どこ行くにも。
純子:父って言えばもうカメラですね。何を撮っているかは別にして、カメラの記憶が。しょっちゅうカメラ持って。だから、うちの母はですね、けっこう経済的にも余裕がないから、「趣味にはお金かけて」ってぶつぶつ言いよったですよ。そういうのしか覚えてないですね。
小里:カメラはレンズとか現像代とか、お金がかかりますよね。昔は現像だって高かったし。
純子:どういう風にしていたんでしょうね。本当は暗室を作りたかったんでしょうけど。相思社にお世話になっとたみたいだけど。
春男:写真撮る格好ば見ればすごかと思いますもん。普段一緒に飲んどるときと、全然違う、ピシッと締まっとるごたる感じですもん。
小里:たうちがねの写真とか、動いたら撮れないですよね。
純子:這いつくばるかなんかって言ってました。
小里:純子さんは一緒に行ったりとか?
純子:そんな、まさか。うちはみんな兄弟は行っていないですよ。
小里:例えばお家でたうちがねがっていう話とかされないんですか。
純子:家族にも全然話はしない。母にもそうですよ。何か写真を撮っているっていうのはあったけど。
小里:家ではどんな話を。
純子:これ以外ですよ。普通の話ですよ、畑の話とか。
坂西:お母さんの趣味は何だったんですか。
純子:大正琴とか。母は、あとは百姓ですよ。家で食べるだけの。仲は良かったですね。父と母は本当に仲が良かった。まぁ、けんかもしてたけど。
春男:仲がよかけん、後ば追うようにして。気をつけとかいかんねぇッて言っていたら案の定。
純子:どこへ行くのにもひっついとったですね。
小里:お母さんはとっても可愛かったでしょうね。そういう鬼塚さんが。
純子:うちの父は、兄弟は女ばっかりでしょ。一人息子で。皆から可愛がられて育ってるけん、ちょっと弱々しいところがあったですね。
小里:兄弟からは何て呼ばれていたんですか?
純子:いわちゃん、いわちゃんって。近所の人からもいわちゃんて呼ばれてました。(インタビュー:小里アリサ・坂西卓郎)

水俣トピックス

私が水俣病と出会った瞬間        曽布川恵(埼玉大学安藤ゼミ)

 大学では水俣病をはじめ児童虐待、世界の貧困、戦争など様々な事を学ぶ。私は一つ一つの問題に心を痛めながらも、それをリアルに捉えることができなかった。本の中の水俣病ではなくリアルな水俣病に出会うため、私は水俣の地を踏んだ。しかしチッソを目の前にしても水俣湾の埋め立て地に立っても、必死に頭で水俣病を考えていた。

 そんな中、水俣病患者である生駒さんに出会った。生駒さんは明るくて優しくて人当たりのよい方だ。私が水俣病を頭ではなく心で感じ、リアルな水俣病に出会えたのは生駒さんと煙草をふかしながらお酒を飲んだ時であった。とりとめのないことを楽しく話していた。

 その時ふと生駒さんの病気の症状である手の震えが気になった。グラスを持つと中身がこぼれそうになり、煙草を吸おうとしてもうまく火が付けられないでいたのだ。また時折過去の辛い経験や水俣病に関する話をすると優しい顔が険しい表情に変わった。そんな生駒さんを見たときに今まで私が学んできた本の中の水俣病患者と私の目の前にいる生駒さんが一致し、あぁこれが水俣病なんだと実感した。

 人が創りだした有機水銀に、人からの差別・偏見に、人が集まり構成される社会に、ずっと苦しめられてきた生駒さんが私を暖かく受け入れてくれた。私は生駒さんを苦しめてきたものに自分も含まれている気がして、生駒さんの優しさがうれしかったが辛くも感じた。 今回水俣でいろんな意味で本当にいい出会いがあったと思う。
(安藤ゼミは二〇〇五年九月一七日から二〇日にかけて、相思社に宿泊して環境教育の切り口で水俣現地調査を行った)

相思社な日々     ボランティア 平井京之介

 相思社へ来てから僕は、ゴミのことばかり考えています。台所に専用のゴミ箱があって、燃やすゴミ、廃プラスチック、埋め立てゴミ等々、全部で二二種類の分別をしなければなりません。廃プラや缶、ビンは洗ってから捨てる。はじめてプラスチックの弁当がらをスポンジで洗ったときは、一種のカルチャーショックを受けました。

 「捨てればゴミ、分ければ資源」という張り紙があります。そのとおりだよなぁ。「ゴミ」というのは「不要になったもの」のことだから、ちょっとすすいだり、分けてやるだけで、「必要なもの」に変えられる。

 とはいえ、それほど簡単な話でもありません。考えても考えても、うまく分類できないものが出てくる。まちがえて叱られないように、こちらも必死です。表示がないけど、この缶はアルミ? スチール? 「シーチキンのフタは埋め立てゴミ」ってあるけど、イワシ缶は? プレス機が壊れるから、固いプラスチックは「燃えるゴミ」だって。「固い」なんて主観的な形容するなよ。いったいどれくらい固いと「固いプラスチック」なんだ! 一番悩んだのはレトルトカレーの袋。べっとりとカレーのついた中身はとても洗い落とせない。燃えるゴミか、はたまた埋め立てゴミか?

 夢を見ました。僕はなにかを手に持って、立ちすくんでいる。目の前にはアルミ缶の箱とスチール缶の箱。しばらく悩んだ末に、ひらめきます。「燃やすゴミ」にしよう。「燃える」じゃなくて、「燃やす」ゴミって書いてあるんだから! 夢のなかで僕はこのアイデアに歓喜し、手に持っていたものを「燃やすゴミ」の箱にオーバースローで投げ込むと、深く安堵するのでした。

 ある文化人類学者が書いています。人間はうまく分類できないものを畏怖する。四つ足動物なのに反芻しない豚は忌み嫌われる。体の内部か外部か判然としないもの、ゲロやウンチは不浄とされる。夢に出るほど悩まされるのも謂われのないことではないのです。

 考えました。捨てるときに悩むもの、カスが出そうなものは、買わない、食べない。容器に表示のないものに手を出さない。洗うのに便利なモノを買う。飲むなら断然、紅茶よりコーヒーです。ティーパックだと、ホチキスをはずしてから、袋は燃やすゴミ、中身はコンポスト、という手間がかかるから。

 ゴミはいま、僕の生活の中心にあります。


(2005年11月25日発行)

ご意見・ご感想・ご質問・お問い合わせ

前のページへ戻る