追悼 原田正純さん 原田正純さんの生涯をふりかえって

水俣病センター相思社理事長
水俣病研究会代表
富樫貞夫

今年六月十一日、原田正純さんは七十七年の生涯を閉じた。亡くなる直前まで、水俣病患者のために献身的な活動を続けた原田さんについては、改めて紹介するまでもないだろう。
私が原田さんと出会ったのは、一九六九年九月、水俣病研究会を立ち上げた日であった。それから四十三年、長い付き合いだったが、さる五月十八日、自宅療養中の原田さんに乞われて対談したのが最後になった。話題は訴訟派患者家族が提起した第一次訴訟とそれを理論面から支援した水俣病研究会の活動に終始した。
原田さんは、熊本大学医学部を卒業後、大学院に進学するとともに神経精神科教室(立津政順教授)に所属して研究生活をスタートした。それまでこの教室はタリウム説に振り回されて、肝心の臨床研究がおろそかになっていた。熊大に着任して間もない立津教授は、一九六一年五月、原田さんを含む数人の若手医師を水俣現地に派遣して水俣病に関する詳細な臨床疫学的調査に着手した。これが水俣病と出会う最初のきっかけになった。
しかし、この時点ではまだ胎児性水俣病には出会っていない。これに出会うのはさらに一年後のことである。当時、水俣の患者多発地区には出生後に「脳性小児麻痺」様の症状を示す子どもが十数人見つかっていたが、決定的な証拠がないため水俣病とは認められていなかった。神経精神科教室でもこの病気の正体を究明することになり、原田さんがこれを担当することになった。
調査の対象になったのは、当時二歳から七歳までの十七名の患児である。原田さんはその家々を訪ねて発病の経過や多彩な症状の一つ一つを丁寧に観察し、脳性小児麻痺とは異なる臨床像をつかんでいった。また、母親からもくわしく話を聞き、その症状を観察した結果、母親の七割に水俣病と同じ軽い神経症状があることもわかった。検討の結果、患児の症状はいずれも「母体内で起こった有機水銀中毒」によるものという結論に達した(「精神神経学雑誌」六十六巻六号、一九六四)。「胎児性水俣病」の発見である。
このときの経験が後の「原田医学」の基礎になったことは明らかである。被害の現場に足を運び、そこで患者を診ながら丁寧に所見をとる。患者の症状は、疫学的背景を念頭に置いて観察し、解釈した。こうした研究手法は生涯変わることはなかったが、そこには立津先生が与えた影響も否定できないように思う。
ところで、原田さんは、学生時代に演劇部に所属し、卒業後も労演活動に熱心に取り組んでいた。若いころの原田さんは、郷里の鹿児島県宮之城町(現さつま町)で父が開業していた医院のあとを継ぎ、診療のかたわら村の青年たちを集めて劇団を作ることを考えていたという。それほど原田さんは演劇活動に生きがいを感じていた。演劇は、表現者としの原田さんを読み解くキーワードである。しかし、村の劇団を立ち上げるという原田さんの夢はついに実現しないままに終わった。その後の水俣病事件の展開がそれを許してくれなかったのである。
一九六五年六月、新潟の阿賀野川流域に第二の水俣病が発生したと公式に発表され、大きな衝撃を与えた。福島第一原発事故と同じように、当時、第二の水俣病が発生するとは国も企業も想定していなかったからである。二年後の一九六七年六月、新潟水俣病の患者家族は昭和電工を相手取って損害賠償請求の訴訟を起こした。これに続いて、一九六九年六月、水俣病患者家庭互助会中の二十八世帯がチッソを相手に損害賠償請求の訴訟に踏み切った(訴訟派)。
半世紀を超える水俣病事件の歴史の中で、この訴訟の提起は大きな転換点になった。この裁判がなかったら、そもそも水俣病研究会も存在しなかったのである。チッソの過失をどう理論化するかという問題をはじめとして、川本さんらの行政不服をきっかけに認定問題も根本から再検討を迫られていた。研究会では、専門のわくを越えて徹底的に議論して結論を出したが、それが妥当かどうかは、裁判所や行政を説得して患者側の具体的なニーズに応えうるかどうかにかかっていた。
原田さんにとって、研究会の経験は大変新鮮で興味深いものであったばかりではなく、水俣病に対する視野を大きく広げる機会にもなった。この経験を活かして、原田さんは最初の著作『水俣病』(岩波新書、一九七二)を書き上げた。その後、原田さんは水俣三部作をはじめ膨大な文章を書き残したが、岩波新書『水俣病』はいまも原田さんの原点であり、代表作といってよい。
これを機に、原田さんは被害者に寄り添う水俣病の専門家として精力的な活動を展開していった。環境被害の現場を巡るその足跡は、国内だけではなく、アジア、アフリカ、中南米など世界各地に広がっていることは、周知の通りである。
原田さんの歩みは、各地に足を運んで水俣病事件の苦い経験を伝え、同じ過ちを繰り返さないように説く伝道者としての歩みでもあったように思われる。また、その歩みをふりかえってみて、「時代が人をつくる」という印象を私は拭うことができない。現代という時代がこのような原田正純を必要としたという意味で。
一九七〇年以降、原田さんは再びアカデミズムの世界にもどることはなかった。若いころに原田さんが着手した胎児性水俣病の研究も未完のままに残された。その発見につながった研究は優れたものであるが、対象となった患者は重症例のわずか十七名だけである。調査地域を広げて研究を続ければ、もっと多くの重症例が見つかった可能性があり、また重症例を頂点として軽症例にいたる「母体内で起こった有機水銀中毒」の膨大な被害像が解明されたかもしれない。
事実、患者多発地区ではかなり早くから知的発達の遅れた子や軽い神経症状をもつ子が多く存在することが知られていた。これらの子は胎児性水俣病の底辺に位置づけられる可能性をもっていたと思われる。原田さん自身、晩年 この点に気づいていた。しかし、原田さんに残された体力も時間も遠からず尽きようとしていた。

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