2003年度 理事会報告

設立以来29年の間に相思社は何度か大きな節目を経験してきた。
1976年寄付金の急激な減少から「経済自立」を目指すこととなり、一方では未認定患者運動の事務局も引き受けることになった。このことにより財政と活動の方向性が定まった。しかし、そこに落とし穴があった。相思社の自立は職員の努力によるものであったが、いつしか「職員による、職員のための相思社」となり、最高決定機関である理事会は形骸化していった。そのような中で、1988年「原因裁定」と「チッソ交渉」の運動が開始された。しかし、原因裁定不受理、204日に及ぶ座り込みの失敗により、相思社と患者運動は致命的な痛手を被った。そこに追い打ちを掛けるように「甘夏事件」を引き起こし、相思社は財政の柱の甘夏を失い、看板活動の未認定患者運動は人々の支持を失い、存亡の危機に立たされた。甘夏事件以降の10年あまりの間に何度も職員体制の改革を試みたが、残念ながら有効に機能する体制とはならなかった。そして2002年ヨハネスブルグ・サミット参加で、理事会の承認なしに行うという失敗をおかした。
今年度からスタッフ&パートの体制がスタートする。評議会立ち上げの準備段階として、相思社のあり方を検討するアドバイザー委員会も設立された。また同一賃金を廃止し能力給を導入した。今回の体制変更は「理事会の主導による」体制改革という点にある。理事も職員も今までとの違いを充分に認識しておかなければ改革は成功しない。こういった中で相思社は30周年を迎えようとしている。相思社が脱皮し、21世紀に存在を確立できるかどうかは、理事、職員そして相思社に心を寄せていただく方々と目指す方向を共有していくことができるかどうかにかかっている。2001年度答申で「患者とのつきあいを深化・拡大」「水俣病事件を伝える活動の拡充」「地域との主体的な関係の構築」とまとめられた主題を、具体的な事業として提案・実施しながら、それがネットワークを産み出し、同時に主題の深化となっていくような活動が求められている。
相思社は生まれながらにして、自らの手で道を切り開いていかなければならない存在である。決して「これでよい」と立ち止まれない存在なのだ。また2006年には水俣病公式確認から50年を向かえるが、もやい直しからもやい創りとして関係者を巻き込んだ事業を提案していきたい。

〈アドバイザー委員会〉
アドバイザ委員会は、水俣在住者5名、熊本県内在住者4名、東京在住者1名の合計10名で構成されている。評議会立ち上げの準備としてばかりでなく、多角的に相思社活動を点検し提言してもらう機関としても期待している。
初年度は全員が集まる会議は年間3回程度として、それ以外に会議の議題で継続になった課題については意見交換の仕組みを作りたい。全員が忙しい人たちなので、会議に全員が集まることは難しいこともあり、文書やメールでの意見交換がスムーズに進展することが求められると考えている。

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