ヨハネスブルグ・サミット 緊急カンパのお礼

緊急カンパのお願いに対しまして、たくさんの方々からカンパをいただきました。
厚くお礼申し上げます。
なお、2002年9月19日現在でカンパの総額は 614,005円となりました。
ご報告しておきます。

なお、カンパは引き続き募集しておりますので、よろしくお願いいたします。

(文責・弘津敏男)

今回のヨハネスブルグ・サミットにおいて、「水俣からの情報発信」、「水俣からのメッセージ」を行うについて、多額の費用が必要となります。
相思社はみなさまからの維持会費や寄付金といったご厚意によって運営しております。
今回の活動においては「地球環境基金」から助成を受けておりますが、費用が助成額を大幅に上回ることが確実になりました。

まことに心苦しいのではありますが、緊急カンパをお願いしたいと思います。

「水俣からのメッセージ」 (The Message from MINAMATA to the World) (A4版・34ページ・日本語・英語)を作成しました。
カンパをいただいた方には差し上げますので、「水俣からのメッセージ希望」とお書き下さい。(ただし、1000円以上のカンパを寄せていただいた方に限らせていただきます)

(今回の活動及びカンパ要請にいたる経過)

1972年の第1回国連人間環境会議において、水俣病患者、研究者がストックホルムにおもむき、「水俣アピール」を発表しました。
「水俣アピール」において、「水俣病センター」の設立を訴え、その2年後に設立されたのが水俣病センター相思社です。

今回のヨハネスブルグサミットは水俣病事件を世界に訴えた、国連人間環境会議から30年目の会議という事になります。

私たちは水俣病に関わり続けている者として、再度水俣からの訴え=水俣病事件の事実を伝え、30年間の苦しみの歴史とその中から得られた教訓(まだまだ十分なものではなく、教訓化の作業は今も続いているのですが)を世界に向けて発信しようと、考えました。

相思社は水俣病患者運動の中で生まれ、患者運動を支えながら、水俣病を伝えることを続けてきました。
公益事業を目的としていますから、直接収入に結びつく事業は少なく、長い間行政と対峙してきたこともあり、公的な補助もなく、毎年赤字に頭を悩ませながら、個人の方々からの寄付と自ら行う事業とで、経営を続けています。

ヨハネスブルグに行こうにも資金の裏付けがあるわけではなく、環境事業団の助成を申請するしか資金のメドがなかったのです。

1 患者や研究者にヨハネスブルグに行っていただき、経験してきたこと、経験から得られた教訓、などを話していただく。
2 水俣病写真展、ビデオ上映会、パネル展などの開催。
3 水俣病関連書籍の販売
4 パンフレットの作成と配布
等を計画し、その費用として980万円を事業団に助成申請しました。
申請自体は認められましたが、助成額は300万円で、大幅に計画を縮小するしかないと頭を悩ませていました。

そんなとき、水俣に心を寄せる方から、「水俣には発信すべきことは多く、非常に意味のあることであり、お金がないからと言って縮小すべきではない。他の組織(具体的には、ヨハネスブルグ・サミット提言フォーラム)の協力を得ることもできるだろうから、まずはお金のことを考えずに、何をすべきか、何ができるかを追求するべきだ」という趣旨の助言をいただきました。

この助言に従い、資金のメドはないまま当初の計画に沿って目一杯なすべきこと、できることをしてきました。また、提言フォーラムから協力を得やすくするのを目的に、提言フォーラムの幹事にも立候補し、認められ幹事となりました。

提言フォーラムの幹事会において、300万円余の協力を要請いたしましたが、「提言フォーラムとしても『水俣』の意味は理解し、協力もしたいが、支出全体のバランスなどもあり協力するのは100万円以内とする」との結論に至りました。

そのため、まだ200万円以上の資金が不足することになりました。すでに読売新聞などで紹介されたこともあり、少しずつカンパは集まりつつありますが、まだまだ資金不足の状況が続いています。

今後、新聞各紙、NHKなどの報道機関にも今回の企画を紹介していただくと共に、カンパ要請を広く訴えようと思っています。
みなさま方におかれましても、より多くの人びとに『水俣病事件の意味』を伝えていただき、また、今回の緊急カンパにご協力いただきたくことを、お願いいたします。

ヨハネスブルグ・サミットにおける課題は環境問題に加えて、貧困の問題と聞いています。
世界の人びと(各国政府首脳及びNGOの人びと)がいろいろと話し合われるのだと思います。

正直言って、私は水俣病以外のことはあまりわかりません。
ただ、17年あまり、水俣に住み、相思社の職員として活動を続けてきて、水俣病事件が単に一地方に起きた公害事件ではないと確信を持つようになりました。

例えば、水俣病は貧困と差別の問題でもあります。
産業構造の問題でもあります。
日本の近代化の根元を問う事件でもあります。
人間の生き方を考えさせる問題でもあります。
政治のあり方を問う事件でもあります。
教育を問う問題でもあります。
等々、あげれば切りのないくらいの切り口が水俣病事件にはあります。

ひとつの例として貧困と差別を切り口として、私なりの考えを延べさせていただきます。

水俣病患者が差別されてきたことを知る人は多いと思いますが、実は水俣病発生以前から差別があったことはあまり知られていません。
水俣の漁民は「天草流れ」として、被差別者であったといえます。
天草の島々は平地も少なく、海に囲まれていますから、当然漁業が盛んなわけですが、次男坊、三男坊は島に住むには家を建てる土地もなく、新しいすみかを求めて、水俣へ、熊本へ、福岡へと移住を余儀なくされました。

水俣へ住み着いた漁民は旧住民やチッソの求心力によって集まった住民とはほとんど交流もなく(今も普通の水俣市民は漁村には足を踏み入れません)、そういった人たちから一段下に見られてきました。(「天草流れ」という言葉自体にさげすみのニュアンスが感じられると思います)

漁村に水俣病が発生したとき、多くの水俣市民は「貧乏人が腐った魚を食べたから変な病気になったのだ」と思い込みました(今もそう思っている人がいます)。
水俣病患者(被害者)がチッソに補償を求めたとき、会社だけでなく、一般住民も労働組合の人たちでさえ、相手にしませんでした。
それどころか、患者たちがやむにやまれずチッソを相手取って裁判を起こしたとき、原告患者たちは地域から完全に疎外されました。(例えばあいさつをしてもフンとそっぽを向かれるとか、近所で結婚式があっても原告患者だけは声もかけられないとか、村八分以上に差別されました)

苦しい裁判闘争に勝っても患者たちに安住の場は生まれませんでした。
水俣はチッソが存在することによって大きくなった町です。住民の多くが(7割ともそれ以上ともいわれますが)チッソと直接、間接的に結びついています。
患者たちが勝訴し、チッソが賠償金を支払うことになったとき、多くの人びとは「水俣病患者のためにおらがチッソが苦しくなった」と感じました。「自分たちが被害者で、患者たちが加害者だ」という、普通では考えられない状況が生まれました。
しかし、このように感じたのは特別な人ではなく、ごく当たり前に生活している人びとなのです。
もしかしたら、私が水俣の住民であったなら、同じ感覚を持っていたかも知れません。

明治の終わりにチッソが水俣にやってきて(これは先見の明があった地元有志が誘致したのです)、水俣の「近代化」が始まりました。
水俣はチッソのおかげで「輝ける都市」となりました。
南九州で最も「豊かな」町となりました。
住民たちはチッソを誇りにしていました。(今もそういう人は多い)

「善意」の人びとが「努力」することによって、被害者が生まれ、増え続け、被害者は「善意」の人びとから蔑まれ、「加害者」として疎まれたのです。

水俣病患者の多くは「加害者」であることを恥じるかのように、自らの病を隠し、患者であることを悟られまいとしました。(今も9割以上の患者は患者であることを隠しています)
水俣病という病に苦しみ、もがき続ける中で自らの精神を昇華させた患者が生まれました。
自らの身に降りかかった不幸を、不幸としてではなく、そのままに受け入れ、ある意味では「人間を超越した」存在となりました。(もちろんごく少数の人びとですが)

彼らの発する言葉は聞く人びとの心の奥底にしみ込んでいきます。(ある語り部患者は講話を終えるとエネルギーを使い果たしたように寝込むこともあります)
頭だけで理解しようとしても理解できない部分があります。
「感じる」と言ったらよいでしょうか、「祈り」という言葉で表現するしかないような部分もあります。
人間が近代合理主義の中で見失ってきたものを呼び覚ますと言えばよいのでしょうか。

水俣病事件はどのような切り口から入っても、深く考えさせられる事件であると思っています。
どのような切り口から入っても、出口の見えない迷路のような問題であろうと思います。

何をどのように伝えるのがベストなのか、私に確信があるわけではありません。ただ、今、できる限りの努力をするしかないと思っています。

水俣病問題は、水俣病問題に終わらず、あらゆる問題、課題に結びつくであろうことをご理解いただきたいと思います。

そして、「水俣からの情報発信」、「水俣からのメッセージ」をヨハネスブルグ・サミットにおいて、世界に発信することの意味を理解していただき、この活動にご支援をいただきたいと思います。

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