最高裁へ行ってきました。

3月15日(金曜日)、溝口秋生さんの最高裁口頭弁論で、東京の最高裁判所へ行って来ました。 

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20130315-00000110-mai-soci

最高裁判所というところは入るまでに様々な難関ありの物々しい雰囲気でした。SPみたいな人がいっぱいです。

最高裁判所に掲げられた掲示板

溝口先生とお母さんの遺影

傍聴の人たちより30分程度早く法廷へ通されて、先生と並んで原告席に座りました。待っている間、これまでの道のりをパソコンと口とで会話しました。 

先生は原告席にいる間、「早く終わらせたい」「どうにか県から捨てられた母親の無念を晴らしたいですよ」「何も悪いことをした訳じゃないんだ、おかしいことをおかしいと言っているだけなんだから堂々としていればいいね」「普通殺人事件が犯人は裁かれて報道されて大変なことになる。だけど水俣病はまるで犯人がいないみたい。誰も悪くないみたい。それどころか患者が悪いみたいだね。でもね、私は母親を殺されたんですよ、息子を傷つけられたんですよ。これを犯罪と呼ばずになんと呼びますか?」と、とつとつと語り、私はパソコンで相槌を打ちました。先生の思いは溢れます。

先生の亡くなった母親チエさんが認定申請をしたのは1974年。3年後に亡くなってからも県からの放置を受け続けて21年後の棄却。母を殺された先生は、毎年命日に熊本県に電話をかけ続け進捗状況を確認するも、県の対応は怠慢でずさんなものでした。先生はそれに怒りを抱き納得ができませんでした。それから更に18年が経過する中で裁判を起こしました。計40年近くの長い長い道のりです。この間の調査で、熊本県の放置や差別の歴史が暴かれていきました。

私には先生が口頭弁論の文章を作っている際に、ひとつ気がかりがありました。先生が、「本当に言いたいことは文章にはまとまらんとたい」と言い、前日に練習をしながらああでもないこうでもないと言っていたことです。
パソコンに「先生、よくここまで来ましたね。今日は先生が思いを語れる最後の最後の機会です。この場で先生のもどかしい胸の内を話していいと思いますよ」と打ち込みました。そして文章にまとまらなかった言葉を、裁判の場で付け加えることになりました。

裁判長が入場、「永野を通訳補助として原告席に着席させることを許す」という許可がおり、無事開廷です。
被告側から上告理由の弁論が10分程度あり、いよいよ溝口先生の番です。指で書面を追いかけながら、ゆっくりと書面を読み上げていきました。豊かな袋の海を回想するところから始まり、お母さんの発症、症状の悪化の詳細、胎児性水俣病患者として生まれてきた息子の被害、母を放置し続けた県に対する人道的道徳的なところへの怒り(県の棄却処分は1995年。申請から21年、死後18年が過ぎていました。毎年母の命日に県に上京を尋ねていたが、答えはいつも「検討中」でした)、県の対応への怒り、長すぎる裁判と全面勝訴した福岡高裁判決の喜び。

読み上げたあと、一呼吸おき、裁判長の顔を見ながら、更にゆっくりと語り始めました。

一番訴えたかった母親の放置、裁判が始まってからの長い道のりがどんなに辛く苦しかったか。毎晩寝床の中で裁判のことを考えている。こんなに長くかかるということは裁判をするなというのと同じ。この苦しみを一刻もはやく終わらせてほしい。
その言葉はさながら近所のおじさんにでも語りかけるようでした。法廷内では泣きだす人もいたそうです。

最後に、裁判長から判決日が言い渡されました。

2013年4月16日午後3時。

あまりにも早い判決に先生は大変驚かれました。

出ていく途中「裁判長はしっかりと私の話を聞いてくれましたね、私も言いたいことを言えてすっきりしましたよ。勝っても負けても社会に対して波紋を作ったんだから、悔いはありません。そして少しは裁判長にも伝わったでしょうね。」とおっしゃいました。

その後、東京地裁へ記者会見へ行きました。

先生はまず、「殺人事件」に例えて水俣病を語り始めました。自分の親を殺され、子に障害をもたせた犯人をさもいないように見て見ぬふりをする私たちの社会への問題提起のように思えます。6万5千人の水俣病特措法申請者に触れ、そのほかにもどれだけの人が犠牲になっているか、こんな風に裁判を起こせる人間はごくわずかで、それによって闇に葬られていく事実を語られました。そして最後に「高裁判決が覆るようなら日本に司法はない」と。そしてお母さんの放置。

報告集会にて解説をする山口弁護士

タイピングをチェックする溝口先生

記者会見が終了し、更に2時間半の報告集会。
溝口先生はいつも6時半に寝るのに、頑張って頑張って、9時過ぎまで集会場にいました。とてつもなく長い一日でした。
比較的若い私がそう感じるのですから、先生にはよっぽどだったでしょう。 

裁判は終わってからが重要だと思っています。
4月16日、どんな結果になっても先生を支えられる体制を作っていこうと思います。

私に何ができるだろうか。今日から一ヶ月、考え続けます。

撮影は東大・最首塾の丹波博紀さんという若き支援者です。

 

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