熊本県知事の、謝罪

熊本県知事が溝口先生宅へ来て、先生のお母さんの「チエさん」の仏壇の前で謝罪をしました。印象に残ったこと。知事が、溝口先生の目を見ずに謝罪したこと。前回の県庁での謝罪の時も、でした。

知事は一分間のお参りの後、「ご遺族に長い間ご心労をおかけして申し訳ありません」と話をしました。
溝口先生はそれを受けて「私はですね、上告をされたことが、ですね…私には、一番…」と言葉を詰まらせました。

福岡高裁での勝訴判決が伝えられたとき、溝口先生が最初に口にした言葉は「これでやっと謝ってもらえるね」でした。
先生にとって、福岡高裁判決までの38年は「行政からの放置の歴史」でした。裁判所から熊本県交渉へ向かうバスの中で、求めて続けた「謝罪」を得られることへの期待を語り合いました。
1974年の申請から1995年の棄却まで、先生は一人で熊本県と協議を続けました。毎年お母さんの命日に熊本県に電話をし「早く母の処分をお願いしま す」と頼み続けましたが、21年間無視され続けました。裁判中に熊本県から出てきた資料の中には、「溝口秋生には対応しないこと」とあり、行政の溝口先生 への扱いがあらわになりました。

先生のお母さんが棄却された1995年は、水俣病事件にとって歴史的な年です。それまで水俣病の認定を求めながら患者として認められなかった1万人以上の 人たちが「水俣病最終解決」という国の和解案を、涙を飲んで受け入れました。「苦渋の選択だ」と泣いた患者の証言を聞く度に、私は胸が苦しくなります。

そうやって、水俣病が終わりにされた年。21年間放置を続けたチエさんを含む、多くの未検診死亡者(※)も、この年に捨てられました。

95年の棄却を受け、溝口先生は行政の判断が間違っていると感じ、熊本県に抗議をしました。行政不服という形でもう一度認定申請をしたのです。しかし、6年後に棄却。先生は泣き寝入りできないと、裁判の提訴を決めます。

そして、申請から38年後の福岡高裁の勝訴判決。蒲島知事への謝罪を求め、交渉へ行った県庁には、彼はいませんでした。溝口先生は更なる放置を受けたのです。
知事はこの日、「政治資金パーティー」に出席しました。

それから一週間、これまでの人生の中でこんなに長く感じた週はありません。
先生と一緒に熊本県へ足を運び、環境省へ足を運び、集会を開いてもらい、署名を集めてまわり、なんとか上告しないでと訴えました。
(熊本県が上告すると、裁判は更に続き、高裁の判決がくつがえされる可能性もあります)

イライラしたり不安になったり不眠になったり、高齢の先生にとって辛い日々が続くのを見ていて、どうにか先生に楽になってもらいたいと、お願いだからこれで終わりにしてと、心から思いました。

しかし、熊本県は上告。先生は更なる闘いを強いられることになりました。

あれから一年。最高裁の判決を受けて、知事はようやく謝罪に来ました。

最高裁が最終決定をし、チエさんの認定をした後の今回の謝罪はだから、私にとっては複雑なものでした。

この一年が先生にとってどれだけ長かったか、あなたに分かりますか?
あなたの判断が、先生をどれだけ苦しめたか分かりますか?
なぜあの日、あなたは来なかったのですか?

謝罪に立ち会いながら、たくさんの知事に問いたいことを堪えました。私は先生の代弁者ではありません。私の感情で先生の時間を奪うことはできません。でもここでは、言わせてください。

そして昨日、チッソ患者センターの人が先生のもとにやってきました。チッソ本社の森田社長からのお詫び状と虎屋の羊羹を持ってきました。
深々と頭を下げるその人に、先生は言いました。「チッソよりも、私は行政を恨んどります」。原因企業より恨まれる行政とは、一体何でしょう。

忘れられない言葉があります。知事が最高裁判決後に県庁で言った「人はシステムの中でしか生きられない」という言葉です。このシステムに、昔も今も、水俣病患者は苦しめられています。

※未検診死亡者(→水俣病の認定を求めている途中に、検診を十分に受けられないまま亡くなった人。長年の放置の末棄却。)

以下は謝罪に関する新聞記事
http://www.nishinippon.co.jp/nnp/item/360193

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