福島の高校生の案内で考えたこと

【福島の高校生の案内で考えたこと】
全力投球でくたくたの永野です。少しは手を抜くことを覚えねばといつも思うけど、それでも後悔はしたくなくてやっぱり全力です。福島の高校生のご案内が、先ほど終わりました。

狂いそうになるほど忙しく、更新もできないまま今日まできてしまいましたが、今日こそは。

原発事故以降、福島在住者や避難者の方が来られることが増え、ご案内してまわると「わかります!」「今まさに福島がそう!」と相手の表情が変わっていくことがあります。
相思社で、「お願い、お願い、もう繰り返さないで」と伝え続けていることがそれ以上に大きなことが、現在進行形で起き続けている。経験を共有できるというのは、とてつもなく哀しいことです。

避難して来られた方たちの案内はもちろんですが、いまもまだ福島に残っておられる方たちの案内は苦しいものです。特に、子どもたちへの案内は…
昨年、初めて福島の高校生をご案内させていただきました。事前打ち合わせでは、彼女たちが「結婚できるのか」「子どもを産めるのか」という悩みを抱いていると聞きました。私にはとても語れないテーマだけど、それでも私が見てきた感じてきた水俣と水俣病事件を全力で伝えたいと思いお引き受けしました。

当日の案内は、何かに挑むような時間でした。普段は言いたい放題なのに、高校生を前に足がすくみました。
共に水俣を歩き、事件を追っていくことは、これからの彼女たちや福島の未来を伝えることのように思え、それをどう感じるのだろうかと常に躊躇し、それでも伝えたいと思い言葉をつなぐ、という葛藤の案内でした。

案内を終えたあと、そのことを高校の先生に正直に話し、返ってきた言葉にハッとしました。
「目の前の現実から目を逸らしては”未来”を思い描けるはずもなく、偽りの”未来”にはまた原発事故と相似形の悲惨な未来が待っている。”ニッポンの嘘”を見てその思いを強くしている」。

 

そして今回、福島の高校生を相手にした二度目の案内。彼女たちも前回の高校生と同じような悩みを抱いていると聞きました。水俣を重ねながら、女子高生たちと共にまちを歩き、最後には語り部の方のお話を聞きました。

話した内容は、水俣病の今昔、特に生命の話(女性たちの受けた被害)、私自身が持っている差別性と私自身が受けた差別、水俣は患者と企業の二項対立という単純なものではなく、複雑な関係や感情が絡まり合っていること。チッソ(原発)なしでは生きられない暮らしを、私とあなたは今も送っていること。社会全体の責任について。
水俣病事件によって明らかになったのは、国家の倫理では国民を守ることはできないこと。それは今も同じでは?歴史や事実というのは簡単にすり替えられてしまうこと。国家やメディアの流す情報は真実か。
だからお願い、あなたはあなたの福島を知ってあなた達自身を守ってと。そしてあなたの福島を伝え続けてと。一人ひとりが情報を発信するメディアになっていこうと。

案内中は、「あなたはどう思う?」と常に問いながら、一つのプログラムが終わると共有化。最中は、目をそらさず真剣そのものの目力で迫ってくる女の子、泣き出す女の子。それぞれに抱えているものがあることは、案内の最後に知りました。
以下、もらった感想の一部をそのままに。

「修学旅行の時、『放射能かぶってるんじゃない?』と言われショックだった」

「今の自分の状況とお話をしていただいたことを重ねて考える部分もありました。私達には原発という大きな問題がありますが、少しだけ活かすことができる部分があるのかなと思っています」
「私の地元は原発から5キロのところで震災からもうすぐ3年、まだ一度も帰っていません。除染もまったく進んでいないのが現状です。目に見えないものはとてもこわい。放射能も目に見えないし、流れている情報も本当なのか分からないまま毎日を過ごしている。」
私たちは彼女たちになんという思いをさせているのか。

「誰にも言えないでいる。差別されるんじゃないかって思うから。でも頑張って乗り切りたい。」という子もいました。ここには出せない内容だけど、でも心から苦しんで、悩んで、乗り越えようとしている。

そしていまも原発で身を削り、生命をかける人がいる。このことを忘れてはいけない。働く人たちの子どもの思いも。私たちは彼らの父親がいることで、生きることができている。特に事故の初期はそうでしょう。そして今も、自分の身を晒して危険な作業を続けている。

チェルノブイリの場合は国家をあげて住民を避難させました。だけど日本の場合は、、、

私は避難という選択をした人たちの苦しみと同様に、選ばなかった(もしくは選べなかった)人たちの苦悩も考えなければならないと感じています。(今日の高校生たちにとっては、彼らでなく親の選択、ということになるのだけれど)

選択は、どちらが正しい、誤り、どちらがより大きな被害か、という次元の話ではないと思うのです。水俣はこのことで、失敗を続けています。そういった論争や、被害者同士が非難しあうという哀しいことで終わらせず、この選択を迫られ強いられることになった根本を、見つめなおさなくてはなりません。そのためにも、立場や利害を超えた対話が必要です。そしていま脱原発を実現しなければ、日本に未来はないとも思っています。
私は今回の事故の直接の当事者ではないけれど、水俣や自分と重ね、またそれぞれの選択をした方やその子どもの話を相思社で聞き、それぞれが苦渋の選択をしていることを感じています。
雑感も含め、取り急ぎ今日感じたことを自分の覚書のためにもまとめました。

さて明日は娘の持久走大会と授業参観と夜は食事会!こんな親でも待っていてくれて、照れくさく笑う娘を訪ねます。

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