熊本日日新聞コラム

熊本日日新聞コラム第4号。悩みながら書いています。

今回はヘイトスピーチのことをもっと書きたかったですが、
字数が足りないので改めて。
次号は「共謀罪と水俣病」について。やっと書けたと思ったら一回休みだと思い出して、、、

 

熊本日日新聞社のコラム一筆、第5回です。


複雑だった箇所は端的に、単純になりました。
市民はチッソだけを思って動いたわけではないと思っていて、
そのあたりは言葉が足りません。

去年、主権者教育の授業を高知県立須崎高校でさせてもらいました。
ちょうど選挙権が18歳へ引き下げになるということと水俣病の運動を絡めての授業でした。
自分の軽さや甘さを改めて確認をして、確認をしながら、ものが言えないということの恐怖が私たちの暮らしに侵入していること、水俣はすでに水俣病でそれを経験していること、戦時中の状況に思いを馳せました。誰がどんなことを許してきたか。
生活者の生存、健康を脅かすものと政治の接点についても。

人任せにすれば世の中は悪くならないなんてウソ。
無関心って悪事に加担すること。
NOと言わないと望ましくない現状は変わらない。
そういうことを水俣病の当事者運動と選挙の投票と絡めて話していると、
自分が「では私は?」と聞いてきます。
では私は?、は、患者の人の話を聞いているときも、
考証館で誰かと話をしているときも、付きまといます。
この記事を書いていても。
分かったようなことを、分かったようにして書いているけど、
本当に分かっている?あなたは水俣で、どう生きている?と苦しくなります。

先日は土呂久へ行ってきました。土呂久でも同じことでした。

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