2011年度水俣病情報発信事業報告 3

3. 水俣病情報発信事業 講演会「水俣病を生きる~自己を開示すること~」

日時:2011/9/10(土)午後2時~午後5時
場所:在日本韓国YMCA アジア青少年センター9F国際ホール

①講演会「水俣病を生きる~自己を開示すること~」
講師:吉永理巳子(水俣病語り部の会)
吉永利夫(環不知火プランニング理事長)
②水俣と水俣病の現在「起きたことを記憶する」&質疑応答
講師:遠藤邦夫(相思社常務理事)
special thanks 金井景子さん(会場準備と受付を手伝っていただきました)

○はじめに

遠藤邦夫さん(以下敬称略):今日はお暑い中、水俣病情報発信事業の相思社の企画にご参加いただきましてありが とうございます。環境省と熊本県がやっている水俣病情報発信事業は6年前から実施されておりまして、毎年公募して選ばれているわけです。相思社は去年は大 阪で、2009年からの特措法にいろんな救済策の申請をされている人を対象に講演会を行いました。今回東京では、『ごんずい』120、121号で「水俣病 患者とは誰か」という特集をしました。今日お話をいただく吉永理巳子さん、吉永利夫さん、あと座談会のほうでは緒方正実さんと緒方正人さんが参加されたん ですけども、その内容をもう少し展開できたらいいなと思って企画しました。お二人のお話の後に少し最近の水俣をスライドを使いながらご紹介したいと思いま す。最初、相思社の職員の永野からはじまりのあいさつをさせますのでよろしくお願いします。

永野三智さん(以下敬称略):はじめまして、今日は本当にたくさんの人たちにお集まりをいただいて、本当にうれしいのと、それと私相思社に入って3年になるんですが、お名前だけ知っていた方たちとこんなふうにお会いできて、本当に今日はうれしいです。

私は水俣市に生まれて育ちました。思春期の頃は水俣病のことについてなかなか人に言えないという時期があったんですけど、あるきっかけで相思社に 入って、自己を開示する、している人たちとその現場に今立ち会っていると思っています。その中で今まで私が水俣病に対して抱いていたイメージが変わってき ています。
昨日は埼玉大学の学生たちと「自己を開示すること」っていうのはどういうことなのか、自分たちにどうつながっていくのか話し合ったんですけど、自己の開示 をしている人たちとの出会いが学生たちを大きく変えているというのに立ち会いました。私自身もそのことを考え始めているところです。

今、私は相思社を乗っ取る計画を立てています。今日は関連のみなさんもたくさんいらっしゃいますし、水俣病にずっと関心を持ち続けている方もたくさ んいらっしゃる中でご挨拶をさせていただいたこと、それから理巳子さんや利夫さんが自己を開示していく、迫っていくというその場に皆さんと一緒に立ち会っ ていきたいと思います。

みなさんと話ができたらと思っています。本当に今日はありがとうございます。

遠藤:永野はあいさつする前は遠藤と弘津を追い出して私の相思社にすると言っていたんですが、そんなつもりらしいんです。ただ実際に、僕らも随分年なので若い人にやってもらいたいなと思っています。今日がその出発というかそのきっかけになるといいと思っています。

あと一点だけ、相思社では長らく天野さんの紅茶を売っているんですが、最近とらやさんから天野さんの紅茶を使った羊羹が発売されています。とらやの ホームページを見ると、熊本県水俣市石飛の天野さんが作った紅茶と、ごく当たり前のことが書いてあるんです。水俣の人にしてみると、ごく当たり前に水俣で つくった紅茶だよと書いてくれているのは本当にうれしかったです。本当に当たり前のことが当たり前のように紹介されるようになったなと。よかったら紅茶も 売っております、一緒に買って帰って下さい。それから以前考証館をつくった時からありました、「絵で見る水俣病」っていうパンフレットがあるんですが、そ れの改定版を中国語版と日本語版でつくりましたので、興味のある方はお帰りになるときに買って行ってください。

スケジュールでいうとこの後吉永理巳子さんに約60分お話いただき、利夫さんに30分お話いただき、休憩をはさんで遠藤が少し今の水俣をスライドで 紹介したいと思っています。その後質疑応答と思っていますが、吉永ご夫妻の後がよかったら状況を見てと考えています。一応終了時間は17時と思っています が、会場は18時まで借りていますので、多少延びるのもいいかなと思っています。

それでは吉永理巳子さんよろしくお願いします。

○吉永理巳子さんのお話

吉永理巳子さん(以下敬称略):改めまして、今紹介していただきました、吉永理巳子と申します。今日は暑い中お出かけくださいましてありがとうございます。そしていつもお見かけする方たちもいらっしゃいます。また同じ話かもしれないですけど、熱心にいつも来ていただいてありがとうございます。

「水俣に生きる」というタイトルをいただいてお話をさせてもらいたいと思います。私は水俣に生まれてずっと育ってきたんですけど、今からの子どもた ちがずっと水俣に生き続けてほしいなという願いを込めて「水俣に生きる」というタイトルにしました。「水俣に生まれてよかったな」という思いを持って、水 俣に生きてほしいと思っているんです。それは私が幼いころにできなかったことなんですね。だからそういった願いを込めて子どもたちと共に元気に生き抜いて いきたいなと思って、今日はお話をさせてもらいたいと思います。

(スライド15)まず、少し自己紹介をしたいと思います。私は水俣の明神というところで生まれました。今も明神に住んでいます。私の住まいの庭を映 した写真です。庭の前に広がる水俣湾を修学旅行生の子どもたちに案内をしているところの写真です。今は残念ながら下の海の写真は写っていないですけど、随 分風景が変わりました。私の目の前に立っているのはアコウの木です。私の母が結婚して明神に来たときには、今とほぼ同じくらいの大きさだって言っていまし たから、100年以上もう少し経っているかもしれないですね。この木は今もずっと埋立地になってしまった海をずっと見てきた木です。

この木は生活の木でもありました。怪我をしたときはおじさんたちは、近所の人たちは、木の皮をはいで煎じて傷口に付ければ治るっていうんで、よくこ のアコウの木の皮をもらいにいらっしゃったそうです。もう一つは、私の祖父は漁師だったんです。そのじいちゃんが木の上に登って、水俣湾に魚が入ってくる わけですよ、その魚がどこ来ているのかを見るためにこの木を使っていまいした。だから随分私たちはこの木の下で生活をしてきたんですね。そういったお話を しています。

今この家で吉永利夫と私の母と、3人で悠々自適に暮らしております。今日のタイトルで自己を開示するということなんですけど、こんなお話を皆さんに できるようになって18年くらい経ちます。自分が水俣病と本当に出会うまでには、自慢するアコウの木のことも海のこともそんなに深く考えてなかったです。 やっと18年くらい前ですね、それを時がちょっと私にとってはすでに遅すぎました。埋立地になってしまって、本当に私にとっては大好きだった海がなくなり ました。もう少し自分の中で早くに気付いていたら、もしかしたら海がなくならなくてもよかったのかなってことを今感じております。もっと早く気付けばよ かったっていうのは、それは仕方がないかもしれないですけど。

(スライド14)これは水俣湾が埋立てされていない海の部分で、恋路島という島が浮かんでいるところです。今は綺麗な海になっています。もう少し早く気付けばというのは、私の家族を水俣病で亡くしていった時代ですよね。

(スライド2)私の大好きだった水俣湾の一番奥ですね。百間港のチッソの排水口を映したところです。1980年より前ですね。少なくともこの風景は 私にとっては高校生ぐらいまでずっと見ていた風景です。私の家から小学校に通うのに、この排水口を見て行ってました。私は水俣湾の海岸線をつたって、第二 小学校ってチッソの側にあるんですけども、そこの小学校に通っていました。その頃は、今は川みたいになっていますけども、川みたいなのが私は当たり前だと 思ってました。でもここは海なんですよ。だけどもヘドロがたまって川みたいになっているんですけども、水が流れ出ているところが排水口ですね。そこの色が 時には白い色の水が流れたり、茶色の水が流れたり、周りのヘドロは青の濃ゆい群青色みたいな色だったり。匂いがですね、卵と酢の腐ったような、鼻をツンと 刺激する匂いがしていました。だけれども、私たちは子どもの頃は当たり前の匂いだと思っているんですよ。ここの排水口っていうのはこういう匂いがするもん だろうと思って、何の疑問も持たずに今わざわざ写真に撮られるところだとは思っていなかったですね。そんなところを見て育ってきました。

(スライド3)私の家のすぐ下の写真です。排水口をずっと通って行って私の家の下が浜辺になるんですよ。みなさんから見て右から3番目が私です。小 学校6年生ぐらいだと思います。この時代は、まだまだじいちゃんたちの船があったりしてます。私たちは海で普通に遊んでたですね。普通に魚をとったり、貝 をとったりして遊んでいました。だけども、この時はすでに水俣病が起きている海なんです。だけど私たちは危険だとか、危ないということはあまり考えずに遊 んでましたね。なんかこう友だちが来たりすると海に行って遊ぶっていうのが、私たちの日常だったと思います。この時本当ならば「魚をとるな」「ここで遊ぶ な」っていうのを大人の人が言わなきゃいけなかったですよね。だって大人の人たちも平気で釣りざおを持ってきて魚をここで釣るわけですよね。だから埋立て になっていない、まだ廃水はこの頃流されています。昭和42年に排水は止められたんですか?

遠藤:公式には昭和43年。1968年。

理巳子:私たちはその廃水が流されているっていうのも何の疑問も持たなかったし、当たり前にここに行って遊んで いい場所だと思っていたんです。貝をとったりして遊んでいたわけですよね。だけど本当ならば水銀の入った魚は当然ここにいるわけですよね。その頃は、私は 水俣病のことはもう終わったことだと思っていました。私の父親が亡くなって、祖父が亡くなって、もう水俣病は終わったことだ、と自分の中では思っていまし た。だけども今思えば本当に不思議な話で、私の家族で水俣病に、一番最初に病気が出たのは私の父親です。

(スライド4)「海辺の暮らしを奇病が奪った」って書いてありますけど、私たちには生活の海だったんですよね。生活の海であって遊び場でもあった海だったんですけど、それが水俣病が発生してどんどん私たちの暮らしも変わっていきました。

(スライド5)ここに書いてあるのは、昭和28年9年ぐらいのことですね。その頃私の父親はチッソに勤めていたんですけど、父親に一番最初に症状が出てきました。

(スライド6)父親はですね、1954年、昭和29年です。チッソに勤めていたんですけど、ほとんど漁師と同じ暮らしです。勤めから帰ると、今度はカンテ ラっていうライトを持ってずっと夜ぶりに行って、魚をとって自分で食べていました。たくさん取れるとお弁当箱に刺身を入れて、一緒に働いているチッソの人 たちに刺身を食べさせたりしていたということです。休みの日にはじいちゃんの船で魚をとりにチッソの人たちも一緒に連れて行ったりしてたってことですか ら、それぐらい勤めをしていても漁師と同じような生活だったですよね。私の家では父親が一番最初に言い始めたのが、「口の周りがしびれる。ピリピリピリピ リして、なんかもやもやして話がしづらい、口がもつれて話がしづらい、舌がもつれて話がしづらい」って言い始めたのが一番最初の症状ですね。その頃はです ね、私のおばさんたちも漁師をしていたんですけども、おばさんたちも同じように魚とりに行って顔がピリピリピリピリするそうです。「なんかこの頃は顔がピ リピリピリピリして、手がチリチリチリチリしびれておかしかね。」だけど魚をとりに行くのは、朝早くから行くわけですよね。「朝早くて寒かけんこぎゃん あっとやろ」っていうのを、みんな話していたっていうことなんです。だけどそうじゃなかったですよね。それが病気の始まりだった。私の父親も手先がしびれ る、口がもやもやするっていうぐらいの時です、この写真はチッソの附属病院に父が入院した時の写真です。どれぐらい前の写真かというと、私が一番左の一番 前ですね。私が3歳の時に父親は発病しました。この写真は4歳ぐらいの時だと思います。「手がしびれて体が重かし」って病院に行ったんですけど、チッソの 附属病院で言われたのは、「この病気ではこれはわからないから、紹介状を書いてあげるから、熊大の大学病院に行きなさい」と言われたそうです。私の母と一 緒に父親は大学病院に早速行ったんですけど、大学病院でも「原因がわからない」と言われて。雨の日だったそうなんですけど、よく私の母親は50何年前の覚 えているそうなんですけど、長靴を履いて二人でとぼとぼ帰ってきた。結局はチッソの附属病院に入院したんですよね。原因がよくわからないっていうのがよく わかります。父が残した手帳に「今日はペニシリンを注射した」というようなことも書いてありました。「今日は手足を2,30回摩擦をしてもらった」ことも 書いてありました。よくベットのところに座ってですね「手がチリチリしびるっとたいな、手がしびるっとたいな」と母によく言っていたそうです。だからどん なふうに治療すればいいのかわからない状況だったと思います。このまま入院していれば命は助かったかもしれないんですけど、一年ぐらいして退院してしまい ました。

退院して当時は温泉治療がこの病気には効くかもしれないと言われるので、私の父親も隣町の鹿児島県の出水の湯川内温泉にひと月だったかな、当時鍋釜を持っ て母と私も連れて行ってもらったのを覚えています。だけども、それが私と父との最後だったですね。この写真は一番最後の写真です。父親はそれから湯治場か ら帰って、また魚を食べ始めるわけですよ。元気になったけどまだ仕事に復帰する状態じゃないからですね、また魚をとる、ビナって貝をとって食べ始めるって いうのが始まったんです。そしたらせっかくですね、口がしびれるぐらいで治まっていたんですよね、魚を食べなければ治まっていたんですよ、病院にいればで すね。だけれども、家に帰って魚を食べ始めて、今度は口のまわりがしびれるっていうような状態じゃなくて、痙攣が激しくて、ベットに寝かせとけばベットか ら落ちるっていう状態になりました。

その状態がわかったのは、当時の細川一先生の運転手さんをされていた方がまだお元気で、私の父親を覚えてらっしゃったんです。私の父親は痙攣が激しくなる と、看護婦さんが抑えきれないわけですよね。それで「坂本さん来てください」と呼ばれるそうですよ。坂本さんは呼ばれると、私の父親は大矢二芳っていうん ですけど、「大矢さんが暴れていると、大矢さんをおさえる役目でした」ということを言われました。「何回か看護婦さんに呼ばれておさえにいきました」。そ して私の父親を最後に亡くなる前に連れて帰ってきてくれたのもその運転手さんだったそうです。私の家で父親は息を引き取っていきました。36歳で発病して 38歳でなくなりました。この時に私の母は28歳です。私が5歳の時です。四人きょうだいでしたけど、もう一人兄がいるんですけども、この写真には写って いないです。

(スライド7)この写真は私の祖父の写真です。父親が亡くなってたった一ヶ月後です。同じ症状で祖父は寝込んでしまいました。祖父は全く声が出なかったで すね。自分から話すことができずに体が硬直したままです。寝返りもできない状態で9年間寝たきりで亡くなっていきました。

(スライド11)私が今、家族のことを話したんですけど、皆さんにお話すればたったこれだけのことなんですよ。でも私にとっては、私の家族のことすら40 年近く話せなかったです。私の父が亡くなって次にじいちゃんが病気になったときは、水俣病っていう名前すらない時だったんです。「奇病」って呼ばれていま した。私にとっては水俣病という名前より、奇病の方がドキッとする名前なんですね。奇病って言われると私のことを言われている気がするんですね。「あすこ の家は奇病の人が寝とらす」って言われると、私の家のことを言われているのかと前は思っていました。後から水俣病っていう名前が出てきたんですけど、私の 中では水俣病っていうのは奇病よりも位が高い、そんな感じがするんです。だけど水俣病のことをみなさんが取り上げてくださるっていうことは、40年前の私 にとっては非常に苦痛だったんですね。早く私の父親のことやじいちゃんたちのことは、人に知られずになくしてもらいたいなと思っていたんです。1990年 代初めには、あと10年もすれば水俣病公式確認から50年経つから、みなさんの記憶から水俣病っていうのがなくなって、静かになるんじゃなかろうか。そう すると私の家族のことを取り上げるっていうことはなくなってくるんじゃなかろうかって、私はずっと願ってましたね。だけども、自分の中に水俣病っていうこ とが一番気になっていたんです。なぜかというと、水俣病って言葉を聞くと顔は背けるんですけど、耳はそちらの方を聞いているんですね。何を言われるのか なっていうのがいつも自分の中で気になっていました。

18年前にやっと私は水俣病と出会う機会がはじまった、というのはおかしいんですけど、水俣病に出会わなきゃいけない時が来ました。水俣で18年前くらい に、水俣病のことをきちんと取り組もうというのが始まりました。その時に私にとっては一つの大きなきっかけだったと思うんですけど、水俣病について書かれ た本を一冊開くことができました。『水俣の啓示』っていう本ですけど、初めて水俣病は私の家族の病気だと思っていたんです。私の父親の病気であって、じい ちゃんの病気であって、親戚の病気だって思っていたんです。だけれども違ったな。本当はチッソの廃水は止めようと思ったならば止められたのに、止めさせな かった人たちがいたということに気づきました。その時に父親のことをやっと考えられるようになったんです。水俣病が嫌だと思っている時には、父親は病気で 死んでしまったから仕方がないと思ってたんですけど、やっと父親のことを考えるようになりました。父親は何が原因で命がなくなったかっていうのは、分から ないまま亡くなりました。もし、父親が生きていたらばどんなことを考えただろうかと思うと、涙がとまらない時があったんですね。何回も夜に起きて『水俣の 啓示』を読んだことがあります。なぜあの時に排水を止めなかったんだろうっていうことは、父親がもし生きていたならば、私はチッソに言っただろうというこ とを思ったんです。父親は組合活動もしてきてました。だから父親がもし生きていたならば、きちんと裁判もして原因がなんだったのか明らかにしたかっただろ うと考えるようになりました。

それからもっと水俣病のことを知りたいと思うようになって、初めて水俣病の人たちと出会うことができました。杉本栄子さん、緒方正人さんたちと水俣病のこ とを自分が知りたいと思うようになって初めて出会うことになって、それが今の始まりですね。私が本当は一番恥ずかしいと思っていた水俣病の人たちが、なん でこんな目にあわないといけないのか。死にたいと思って死んだ人はいないのに、なんで水俣病っていうことだけで恥ずかしいと思われて、死ななきゃいけな かったのか考えるようになりました。私は命がたまたま助かっただけじゃないか。私も魚も食べていました。一番じいちゃんにかわいがられていたからですね。 だけれども、水銀の入った魚を人より少ししか食べなかっただけで、手も動く、足も動く、それだけの違いでしかないんじゃないかとやっと気づきました。それ までは水俣病の人と、私は違う人間って思ってました。私は水俣病じゃないって思っていました。だけれども本当は、私も水俣病だったということに気づきまし た。たまたま命が助かっただけじゃないか。私は水俣病っていうのは私の父親やじいちゃんたちの、命が亡くなるぐらいのひどい症状を抱えた人が水俣病だと 思っていました。私の周りにはまた、典型的な症状を抱えた人が多いです。私の母も祖母も認定患者です。だけども幸いに水俣病の症状がそんなにひどくないで す。口のまわりがもやもやしびれたりすることはありますけども、手が不自由だということは幸いなことにあまりなかったですね。それぐらいの違いでしかな い、ということにやっと気づきました。本当ならば、一番最初に言ったように、水俣病が発生した時に排水を止めていれば、病気にならずに済んだ人も随分いた と思います。そのことはまだ50年経っても調べ上げていないので、相当難しいと思います。いち早くみんなの命を守るっていうことをしてこなかったっていう のは、チッソはもちろんですけど、県も国も市も人の命を守るっていう責任はまだ果たし切れていないと思っています。

(スライド16)この写真は私の家に修学旅行生に来てもらって話をしているところです。残念ながら水俣病への差別はまだ続いています。子どもたちがつい先 日も、サッカーの試合で「水俣病さわるな」って言うような言葉も言われました。だけども今私は修学旅行生に話をしていますけども、なぜ修学旅行生に来ても らいたいかと言うと、実際に水俣の風景をみてもらいたいんです。そして、水俣の空気に触れてもらいたいんです。それはなんでかというと、私たちは水俣病っ ていうとテレビや新聞を通して伝えられた水俣病っていうものが多いです。だから水俣病=灰色の町と言われて、色がついていない町という言われ方をしてきま した。私は「水俣に実際に来てみてどうだったですか」っていうのをたずねます。そうすると、水俣はカラーですね、色がついているんですね、ということを言 われます。これぐらいイメージというのは水俣=ドロドロした海で、空が灰色でっていうのがあると思うんですね。色のない世界と思われていたのが、実際に来 てみると海がきれいだ、山がきれいだという感想をもらいます。それと同時に、水俣の人に会ってもらいたいですね。

(スライド??)この映像は私の母が子どもたちに話している映像です。私の母は水俣病だったんですけど、今85になりますけどもまだ元気でおります。私が 母から学んだのは、悲しいだけでは生きていけない。苦しいだけでは前に進めないと教えてくれたじゃないかな。私は母から生きていくのに「辛い」という言葉 をあんまり聞いたことはない。私の父親が亡くなって、すぐ収入がなくなりました。私の母は28歳だったんですけど、建設現場に行って働き始めました。それ はなんだかんだ考えている暇はないですね、私たちを育てないといけないです。父親が亡くなった一か月後に祖父が倒れました。母には病院に入れるお金がない です。だから家で看病しなければいけない。その看病をしながら、私たちの生活を支えないといけない。チッソはもちろんこの頃自分の企業が原因で水俣病を起 こしたということを認めてませんから、補償金も払わないです。私の家に補償金が入ったのは私が高校2年生の時です。だから私にとって水俣病はとうに済んだ 話だったです。もっと母が大変な時に、駆けつけてきてほしかったです。

一回だけはですね、病気で私が寝込んでいる時だったと思うんですけど、母が「みんなで死のうか」といったことがあります。その時はよっぽど何か辛いことが あったんだろうと思うんですけど。それ以外の時はチッソの悪口を言うこともなかったですね。母はどうやって生き抜いていこうかということを考えていたんだ と思います。今から20年ぐらい前に、畑仕事をしていて片足を失いました、耕運機に巻き込まれて片足を切断してしまいました。片足は義足ですが、畑仕事を あきらめない人です。畑仕事がやりたくてたまらない人ですから、義足にビニール袋を履かせて畑をしています。とれた野菜を子どもや孫たちに送るのが楽しみ です。我が家で三人暮らしていますけど、一番働くのは母親です。掃除もします。自分ができないけれども、やりたいという気持ちがあるのは、すごいことだ なっていうのは私は母に学びます。掃除をするのにも雑巾を10枚ぐらい用意するんです。なんでかっていうと、義足を外した時にふき掃除をしないといけない ですね、義足をつけてしまうと掃除ができないんです。お尻に乾いた雑巾を1枚敷いてそれですべって回って拭いて回るんですね。一回一回洗わなくていいよう に。換気扇の掃除もしたい人ですから、だけども手が届かない。義足の先に雑巾をかけて自分の手が届かいところは義足で掃除をしています。義足を外してしま うと、腕の力がないから立てないという時があったんですね。それに介護の保険の資格をもらうのに、いろんなことを聞かれて答えないといけないです。母はそ れにさっささっさ答えてしまって、適応にならないんですね。私たちが子どもの時は、残念なことに国に守ってもらうということは難しかったんですけど、家族 に守ってもらって私はここまでこれたんだなと思います。

自分で初めて水俣病っていうのを考え始めて、今度やっぱり亡くなった人のことですよね。水俣病で犠牲になって亡くなった人のことは、どんなふうに考えられ ているのかなということを思います。補償金を払ってそれで終わり、ということではないんじゃないかな。もし水俣病がなかったならば、生きられた命だったか もしれない。その人たちがもし生きていたならば、どんなことを考えただろうなと思います。今、水俣病の資料館に私は水俣病で亡くなった人の顔を出したいと 思っているんです。それは当時の人たちに私はみなさんに出会ってもらいたいと思っているんです。水俣で何が起きたのか、なぜ自分たちが今生きているのかっ ていうのをその人たちと出会って、語らってもらいたいなと思っているんです。そこから自分たちの生き方みたいなヒントが得られるんじゃないかなと思いま す。今生かされている私たちと、亡くなった方と出会う場所が欲しいと思っています。そのためには小さい子どもさんから若いお母さんたちまでが、来れるよう な資料館を目指したいなと。ぜひ若いお母さんたちが一番大切な時期だと思うので、来てもらえるような工夫が出来ないかなと思っているんです。小さい子供さ んたちを連れて来てもらえるような資料館であれば、何回も足を運んでもらえるんじゃないかと思っているんです。だからその中で自分たちが生きているってい うのはどんなことかなというのを考えてもらえればと思っています。資料館はとってもいい場所にあります。私の家の畑もあったんです。だから私はこのいい場 所なんだから、本当みなさんに来てほしいなという思いがあるんです。みなさんに来てもらいたいために畑も提供したんですから、もっともっと活かしてもらい たいなと思います。

少し話が長くなりましたけど、これで私の話を終わります。ありがとうございました。

○吉永利夫さんのお話

吉永利夫さん(以下敬省略):こんにちは、10年振りに会った人が何人かいらっしゃって、ありがとうございます。

一つだけ訂正します。さっきの理巳子の話の中で、義足で換気扇を掃除している姿は間違いです。松葉づえです。

私は1951年、うちの(理巳子さん)とおない歳ですが、静岡で生まれまして20歳の時に水俣に来ましてもう40年目になります。当時は日本全国の 大学なんかに水俣病を告発する会があった時代で、大学生がいっぱい水俣に来ていますけど、私は定時制高校だったんで別に大学と関係ありませんし、静岡で何 か運動をやっていたこともありません。同級生が鹿児島に行ってましてそいつをたずねて、一週間ちょっと座り込みのテントにお邪魔させてくださいって寄って 以来40年います。もうそろそろ「お前はどうするんだ」っていうことを言われなくなってきていますね。20年ぐらい前だと僕らは水俣の人から直接問い詰め られるわけじゃないんですけど、「どうせ出て行くんだろう」とかあるいは「どこで死んでいくんだ」みたいな。

今考えてみると私は1972年、20歳で水俣に行きました。40年経ってふと思ってみると、水俣病の発見される1956年、私が水俣に行った年が 16年目なんですね。私が行ったときは、なんとなく水俣病は終わったという感じで、裁判は確かにやってました。チッソと自主交渉している川本輝夫さんたち はチッソ前で座り込みをやっていました。いわゆる病気とか被害者の数とかいう意味ではまだまだもちろん、認められない人もいるってみんな言っていました し、それは山を越えて後は補償をちゃんとしろ、みたいなことだったと思います。私は水俣病のことも水俣のことも全く知りませんでしたので、石田勝さんとい う患者の人に「ナマコとりに行くぞ、吉永くん」と言われて、はいはいとついて行きました。でも今思えば、ヘドロの海のちょっと向こうの一番危ないとこでナ マコ取って、「ほら食え」と言われたのを覚えています。みんな平気で食べてました。

私はどっちかっていうと、自己を開示させる側でやってきました。相思社に入りまして、水俣病歴史考証館をつくりました。もう20年以上経つんですか ね。相思社にある考証館にあるものはとても大事なんで、資料館をやりたいと言っているところです。相思社にいて考証館をつくってきたのですが、観光地に行 くと酔っぱらっているおじさんがいる。僕が想像したので嫌だったことは、酔った人が来て考証館に来てせせら笑う、そういうイメージが若干あってそれが嫌で したね。それ以外は患者の人たちの思いをどう展示するかとか、精神的な被害のことをどう展示するかっていうことを、一生懸命考えていたつもりなんですが。 やってみて、そんな人はあまり来ませんね。どっかで水俣病って怖い、あんまりそういう方は寄り付かないんだなとこの20年ぐらいで安心しています。

相思社で考証館つくってやってきたんですけども、相思社を辞める頃には二足のわらじを履いていました。片方で相思社の常務理事をやりながら、水俣教 育旅行プラングをやっていました。きっかけは吉井さんが市長をやっている時に、水俣に修学旅行を呼びたい。そのための集まりを市につくるんで出て来てほし いというのがありました。熊本県がちゃんと水俣病のことをやらなきゃいけないというので、環境創造みなまた推進事業っていうのが始まって、1993年だと 思うんですが、そういう流れの中で吉井さんの呼びかけがありました。最初は「県のやる事業に参加なんかするもんか」と思っていました。ユージンスミスとア イリーンさんの写真をいただいていたんで、それを展示してほしいという要望が確か市役所からあったと思います。その頃は、まだまだ県の人たちと未認定のこ とで喧嘩してましたので「冗談じゃねーよ」と断ったのを覚えています。県が一万人コンサートというのをやりまして、水俣の人たちが集まってコンサートをや るっていう話なんですけど、当日土砂降りになってかわいそうに中学生濡れながら歌ってました。というぐらいの意識だったんですが、そういうことをやってい く中で、人は出会えばだんだん丸くなるといいますか、気持ちもかわってきて自民党の人とか青年会議所の人とかといろんな話すようになって、考えたこともあ ります。

考えたのは、さっき酔っ払いが嫌だっていったんですけどもう一つは、水俣はもっと人口が少ない上にチッソが今でもある。水俣病のことを水俣の人たち に伝えたくて映画会、講演会をやるんですが、金太郎飴みたいなものですね。人口少ないですから、水俣で50人集まるということは、東京1万人以上集まった ことになると思うんですけど、50人は集まりますが、「ああどうも」「ああどうも」っていう仲間ばかりでやっている。これは駄目だなって思ったことはあり ます。これは行政の力を借りて市役所の方や県庁のみなさんが持っているネットワーク、あるいは市役所の人が行こうよっていうと行ってくれる人にも行ってほ しいと思って、環境創造水俣推進事業にかかわっていったっていうのもちょっと覚えています。

修学旅行を受け入れるための水俣教育旅行プランニングをつくりました。これをつくろうと思ったのは、今でもあるんですが当時も全く変わりませんで水 俣病に対する偏見です。偏見は被害者の中にもあって、自分の家族のことなかなか言いたくないみたいなことがありました。それをなくすのにどうしたいいか考 えました。水俣病があってもいいよね。言わない、考えないことがいけないんで「水俣病があってよかったね」と言えるような町あるいは市民にならないと、被 害者に対する偏見みたいなものはなくならないんじゃないかと考えました。そのためにはせっかく市長が呼びかけてくれたんで修学旅行やろうよ。5万人を目標 に掲げました。「一つの経済をつくろうぜ」というんで2億円を目標にしたと思うんですが、それだけ売り上げがあると一つの事業として見てもらえる。何から 何まで有料でやるということをやってきています。もちろん語り部の話も被害者の苦労もお金に変えられない、こんなことは当たり前なんですけど、やっぱり金 に換えないといけないものもあると思ってやってきています。現在、シンガポールや九州・関西・関東から1万人が来てくれているはずです。修学旅行を水俣に 呼ぶ仕組みというのをこの10年間でつくってきたと思っております。修学旅行は仕組みがはっきりしていまして、旅行社が教育旅行支店みたいな仕組みができ ていまして、そこの営業マンが私たちに替わってパンフレット持って学校を回ってくれるという業界です。ですからいいものがあれば、あるいは旅行社、先生に とって気に入るものがあれば、パンフレットさえ送れば営業マンがやってくれるという世界がありました。そこに水俣病の環境学習のチラシを送ったりしてやっ てきた。水俣というネームバリューもあって、かなりうまくいったほうだと思います。

やってきて考えたこともあります。旅行シーズンは埋め立て地がバス10台、15台くらいになるということが実現しました。200人とか250人の人 が、うちのとか緒方正実さんとか、川本愛一郎さんの語り部の話を聞いています。もっとここよりも広いホールで、スポットライトが語り部にあたって、聞いて いる人のところが暗くなっている。ひどい時3分の2の子どもが寝ています。これは子どもたちが悪いわけじゃなくて、そういう仕掛けをしちゃっているこっち が悪いので、これは残念だなと思い続けているところです。やってきているのはなるべく少人数に分かれてくださいというお願いをして、先生たちといろんな連 携取りながらやっています。一番少ない学校だと5人ぐらいで患者家庭にお邪魔して、話を聞くというプログラムをやっています。そうするといつもいつもでは ありませんが、まず寝る子はいませんね。自己を開示するっていうのもありますけど、人の話を聞くっていうのは10人とかそのぐらいじゃないと考えられない んじゃないかと思います。5人になると話している長さが狭められるんで、一生懸命聞いてくれる。中には人生変えてくれる子もいます。辛い話をしながら自分 を開示していろんな人たちに話をしてくれている人たちの力、エネルギーだと思います。

もう一つ修学旅行は流行廃りがありまして、一番の流行がディズニーランド、次が体験学習ですがそれはつい何年か前までです。3、4年前から、旅行社 のほうから「民泊やっていないんですか」と聞かれるようになりました。2年前から準備して、隣の出水の農家に泊まる民泊をこの春からはじめています。出水 市としては修学旅行で一人も来なかった地域なんです。ニーズはちゃんとみなきゃいけないと思っています。そのおかげでまた水俣に来てもらう子どもたちが増 えています。

そういうことをやってきて、少し水俣の人たちが自信を持って自分たちの町のことを考えてくれるようになったかな。水俣の山の方に地域全体を博物館と して考えて、学芸員が村の親父で、シェフが村のおばさん。そこに修学旅行の子どもも行っています。修学旅行に来る子どもたちは、水俣の人はみんな水俣病の ことを知っていると思いこんでくるんですね。そうすると山の手にいって、おじさんたちおばさんたちに水俣病の質問するんです。これ困っちゃった、全然知ら ない。これに困った村の人が、「だけん吉永さん水俣病資料館に見学に行ったっばい」っていう嬉しい話があるんですね。出水の民泊でもこの間ありました。農 家の方が「吉永さん水俣病の勉強会をやってください」というのがありますね、これは涙が出る程うれしい話です。そういうことが少しできてきたなと思って。

今考えていることは、この人(理巳子さん)には最初水俣病の市民会館というところで1,000人を前にしてお話をしてもらったんですが。その時に私 と吉本哲郎さんと二人で頼んで、本当に軽い気持ちで自分のことを話してくださいよと開示をさせちゃった側。ボロボロ泣きながら話をしていましたね。たぶん 人前で家族の話をするのは初めてだったと思うんですが、話すの大変だろうなとは分かっていました。でもあんまり相手のことを考えてしまうとお願いできない ので、かなり気軽にお願いしたつもりはあります。ただし、今その気力がなくなってきているなと感じています。もしもその時彼女が泣き崩れてしまった時には 抱きかかえてこっちへ連れてくるなり、話をつなげる覚悟はあったなと思っています。

二年ぐらい前に川本愛一郎さん、杉本肇さんにお願いしてみんなの前で話してよとやりましたね。二人は人の前でぽつぽつと話していたみたいですね。水 俣病資料館の語り部になるなんて意識はなかったようですが、これも「気楽にやってよ」みたいなことやったんですが。今二人とも語り部やってくれています。 杉本雄さん、上野エイコさんが一番年上。浜元二徳さんもですが、語り部13人のうち4人入院していますね。年齢的にも80、70ですよ。こういう言い方す ると怒られるかもしれませんが、小学校5年生、11歳に70歳、80歳が私の子どもの頃はね、と言っても通じない。起きていた現象とか、食べていたものと か、かなりのことは当たり前のことが通じないと思いますよ。語り部が悪いわけじゃないんですけど、そういうことが起きています。

今うれしいのはですね、杉本肇さんとうちのと川本愛一郎さんと緒方正実さん、この四人は私とかなり年齢が近いです。何が起きているかというと、確か に言いたいことが言える。正実さんですら、「今日話長かったね」とか言える。ちゃんとそれに応えてくれます。そういう関係がなくてやっているのはよくない と思います。水俣病資料館の方、市役所の方ですし、パートの方ですし、館長も2年ごとに変わりますので、吉本哲郎さんは別格でしょうけど、他の館長さんは 語り部の人にモノが言えない。それは仕方ないにしても、子どもたちとの関係性とか、高校生が今何を習っているとか、新しいところが見えないままやり続けて いるのは、語る側に対しても申し訳ないなと思っています。

正実さんたちと一つは語り部の会を自立させようと言っています。非常に言葉を悪く言うと、水俣市立水俣病資料館は語り部の会を利用していた。それは 一人ひとりが自分で、「市長さんに頼まれたけんやりよっとよ」という気持ちが集まって会をつくっていただけですから仕方ないと思うんですが、会を法人化さ せようと言っています。正直言って、愛一郎さんたちが語り部やってくれるのも後20年か30年。その後は誰もできなくなっちゃう。これはまずいなと。実際 に経験していなかった人間が、語れる仕組みを作らないと今の資料館、相思社もそうですけど、後に人材がいないじゃないかと何とかしたい。もっというと、修 学旅行誰も来ないよと。語り継ぐための仕組みをつくりたいと思っています。

午前中、東京おもちゃ美術館に行ってきました。なんとなくお母さんが子どもを連れて行きたくなるような空間にすることはいいんじゃないかと思って。 先週は沖縄のひめゆり資料館と、対馬丸記念館と佐喜眞美術館にお邪魔して、どんなことで悩んでいるのか、語り部は何をなさっているのかを聞いてきました。 その前は新潟水俣病資料館、富山のイタイイタイ病のみなさんにもお会いしてきました。全国どこでもそうですね。みんなもう80歳で、あと少し何人か出て来 てくれていると事はいいんですが、だいたいみんな困っちゃってますね。戦後、あるいは戦中起きたことで僕らが考え続けなきゃいけないんだって思っているこ とって、今こういう事態になっているだなって思いますね。考えているのは今の高校生が仕事として飯を食う手段として、あるいはそこまでいかなくても仲間と して、サークルつくって語り継いでいく仕組みをつくらないともう50年続かないと思います。

自己を開示する、当事者性ということを聞きましたけど、私が患者家族だと言えば曖昧な立場です。お母さんに半年ぐらい前に「あんたも申請せんな」っ て言われたことがあって、これちょっと自分でも愕然としている。当事者性を考えると、私はどこにいるんだと考えているんです。次のことを考えないといけな い時代に、水俣も入っているなと思っています。具体的には水俣市の資料館を、環境省も国も県も市もお金を出してやっていく。基金をちゃんと積んでもらって 続けられるようにしたいと思っています。運営のメインは民間がやる、被害者の意志が入った形でやっていく。遺影があって当たり前、怖くて当たり前です。死 んだ人がいっぱいいるんだから。怖くて楽しい場所にどうするかを考えたいと思っています。東京のおもちゃ美術館に行って思ったのは、おしゃれですね。だか らおしゃれで怖くて楽しい。そのための仕組みをつくらないといけないと思っています。ボランティアガイドとか。展示もみなさん言ってください、分かりに くい。今現在の資料館の展示を小学校5年生に分かれっていうのは非常に難しい。これもなんとかしないといけないと思う。

もう一つは、宮本さんなんかもそうだろうし、ちゃんと自分で開示されている。皆さんもフォーラムのメンバーも語り部ですよ、証言者だと思うんでちゃ んとお前らも責任とって時々は水俣に来て語り部やれ、ですね。市民の前で、あるいはよそから来る人の前で、自分が水俣病にどうかかわったかということを話 してもらえるような資料館にしたいと思っています。

どうもありがとうございました。

○質疑応答

遠藤:吉永さんのお話もいろいろな意味での問題提起かなと思うし、実際は水俣病のことにかかわってきて吉永さん も僕も還暦過ぎちゃって、自分でも信じられないくらい時間が経っているんですよね。本当にここから先どうなんだよと、関わってきたものとしての責任は果た さないかんやろなと。

今のこと、もうちょっと聞いておきたいとか、どなたかありませんか?

会場:水戸から参りました橋浦です。吉永さんに20何年振りでお会いしました。去年と一昨年と水俣を訪れまし た。大分変っていたのに驚きました。私は教師の卵を育てる職業についてますけども、私のゼミの出発は石牟礼道子さんの著作を、文学を読む、その討論からす ることにしています。私の専門は文学、近代文学です。
今のお話を思い返して、子どもたちが水俣を訪れるという状況がありましたけど、その時に中に入る先生方への何かお気持ちご感想あるいはご要望があれば、是非聞かせていただきたいと思います。よろしくお願いします。

利夫:一つは形が出来過ぎちゃっています。具体的に言うと、熊本県が県内の小学5年生に「水俣に行きなさい」と バスの予算出してくれます。一年間に一回は必ず行くんです。そのためにはこれとこれは最低しないさいというのがありまして、環境センターと資料館見なさ い、語り部聞きなさい。その形が出来過ぎてて、今までは相思社やうちに直接相談があって、あんなことしたいんです、こんなことしたいんです、と言っていた 先生たちがいなくなっちゃった、ほとんど。ワンパターンになって動きだしちゃったねっていうのがちょっと、今の特にその熊本県の小学校5年生の先生に対す る僕らの気持ちです。

昔からそうだと思いますけど、もう決めてくる先生。「水俣病って大変なのよ、被害者の話ちゃんと聞きなさい」とだけで来る先生がいます。ありがたい んですけど、子どもたちに何かを発見させるんじゃなくて。眠くていやになっちゃう子もいるじゃないですか。もっと子どもに発見させる、正実さんたちがたじ ろぐような質問を子どもが平気でするような、そんなことがないかなと。被害者に対してつまんないとか分かんないとか非常に大事だと思うんですけど、子ども たちが発見するような仕組み、やり方みたいなことを「吉永さんやりたいんだけど」っていう先生がもっと出てこないかなと。

遠藤:こんなふうにお願いします、というような先生向けのパンフレットとかは?

利夫:作ってませんね。それは僕が悪いですね。

遠藤:質問があったらどうぞ。特に今なければこの後休憩をとって。

(休憩)

○遠藤邦夫さんの話

遠藤:最近水俣に行かれた方はご存じだと思いますが、少し長らくご無沙汰の方もいらっしゃると思いますので、少しその辺をご紹介したいなと思います。

(スライド1)このページはですね、こんなにおいしいものが不知火海にはあるんだよと。つい水俣病のことで水俣を訪れた人というのは、もちろん水俣 病の原因が魚ということもあるので、「えっ、魚」と思われるんですがすでに水俣湾を含めて普通に食べる分には問題ない。厳密にいうと安全かどうかは国の基 準は確かに下回っています。しかし基準っていうのはリスク論的なレベルですから、万全というと各人で決めてくださいということです。例えば今福島で食品に ついては500ベクレルという数字が出ていますが、成長途中の人たち、幼児や妊婦の人に対しては500という数字は全く違うものと思います。

(スライド2)水俣病と全く関係ないですね。冷水(ひやすじ)の森です。ちょうど袋小学校の近くの森なんです。昔この冷水の森の脇に袋小学校が 1970年頃までありました。水が湧いている。山は官山というか国有地だったので、その国有地というだけではなくて神様の関係、しめ縄なんかもあって足を 踏み入れるなという、そういう場所だったそうです。とてもきれいな井戸、今度行かれた時には是非ここに行って水をがぶがぶ飲んでください。

(スライド3)「往時の水俣」、昔の水俣、景気の良かった頃です。これは主にですね『水俣民衆史』からとった写真です。

(スライド4)これは水俣市の昭和の初めにつくった絵葉書なんですけど。チッソの旧工場が写っています。その隣を流れている川は古賀川というんです ね。昭和7年以前は今の水俣川ではなくて、川が二つ、チッソのポンプ場になる下のところで分かれていましたから、古賀川というのがメインの水流です。チッ ソの旧工場はこの川のそばにあります。中学生ぐらいに質問出すんですが、「なぜこの工場は川のそばにあるんでしょう?」。いろんな答えが出て来て面白いで す。基本的には運搬ですね。やっと鹿児島本線ができた時代です。ですから基本的な運搬は機帆船でやっています。明治時代の終わりまでは塩を出したりしてい ました。

(スライド5)今はこの風景は全くありませんが、昔の永代橋です。僕ですら見たことありません。こんなに人間がいたんだな~と。

(スライド6)これがチッソ旧工場の脇の岸壁ですね。今は空き地になっています。

(スライド7)河口にあった避病院です。昔の伝染病の隔離病棟ですから、これは水俣病とは別に、ここに入れられたら生きては出れないよ、という場所でした。最初、水俣病の人たちはこういうところにも入れられて、そういう意味では暗いイメージがあります。

(スライド8)チッソが景気のいい時代。チッソの岸壁の写真より上の大園にですね。旧古賀川大園にあった女郎屋です。

(スライド9) 「水俣病の水俣」水俣の人にとっては水俣病の水俣はちょっと待て、でよね。もちろん水俣病が起きたのは事実だし、このことが長い間辛い言葉でした。

(スライド10)これは昭和30年、ちょうど水俣病公式確認の前年ですね。湯堂という水俣市の南部の漁村です。中央に船に乗せた鰯のいかし籠が写っ ていますね。水俣市の梅戸の先にある二子島で、孟宗竹を使って大きいのは8畳間くらいの籠をつくっています。カツオ船が生きた鰯を餌にして撒くんですね。 カツオがそれを食べるために狂乱状態になって来ると、もうその後は水でもいいやというね。その最初の鰯を生かしておくための籠です。これは御所浦とか天草 に出荷していました。

(スライド11)これは歴史考証館をご覧になった方はご存知かと思いますが、1961年の坪段の写真です。普通は市場に出した残りの雑魚を、みんな で分けて今日の晩御飯にしようよというね、子どもたちがあれ食べたいなというような表情ですよね。僕は写真としてとっても好きなんですが、1961年とい うのはチッソがアセトアルデヒドを一番作った時ですから、メチル水銀も一番流出していた年です。ですからこの魚のメチル水銀平均値は11ppmと言われて います。今の日本のメチル水銀暫定規制値は0.3ですから、大方40倍近く入っています。この魚をみんな食べたわけですよね。

(スライド12)僕は1987年に相思社にはいりましたから、こんな時代は知りません。1971年、相思社もできていませんね。71年というのは ちょうど環境庁が出来た年です。怨の旗を持って行っていますね。これは考証館に展示してありますが、僕なんか水俣病のことをあまりよく知らない時代には、 この写真の印象はちょっと変わった運動だなと思いました。

(スライド13)環境庁大石武一長官が水俣に来た時に、駅前に迎えた人たちです。よく読んでいただければ分かるんですが、書いてあることは変なこと ではありません。どれをとっても住民たちが要望するというか、こうありたいな、誤解しないでねというのは全くその通りだと思います。ただその写真を撮った 時に、ここは肥薩おれんじ鉄道の水俣駅の前です。ちょうどここから100メートルほど西に行くと、チッソの正門があります。川本輝夫さんたち自主交渉派の 人たちが、テントを張って座り込んでいたんです。そこのテントの前には「私たちを被害者として認めよ」って書いてあるんですね、更に「水俣病患者は数千人 いるぞ」と書いてあります。当時水俣病として認められた人たちは100人ちょっとですから。川本さんたちはそんなもんじゃないぞ、というので書きました。 残念ながら被害者の数はそんなものじゃ収まりませんでした。

これは通常は水俣病事件史では病名反対運動と呼ばれていて、だいたい運動側からすると糾弾の対象です。僕の意見ですが、水俣市民が自分の生まれた土 地が病気の名前なわけですから、いやだなと思う感情的にはその通りだと思います。しかし問題は、被害者と加害者の争いがあり、更に座り込みをしているとい う状況の中でこの人たちが駅前に立って環境庁の長官に訴えるのは、非常に政治的な行動だったとして、患者や関係者は思って批判の対象とします。

(スライド14)これは1990年に完成した埋め立て地です。変な線が引いてありますが、ここが元の海岸線です。随分もとは広かった。実は埋め立て 地の説明をするのですが、私の好きな説明は明治の終わりまでここは塩田だった場所です。塩田が日露戦争の戦費調達で専売制になり、全部つぶれて空き地だっ たんですよね。この辺はさっき理巳子さんが紹介した『水俣の啓示』の中で小嶋麗逸さんが、チッソはどのようにして土地を獲得していったのか書いています。 10ヘクタールだと思って買ったら100ヘクタールだったと、普通はないんじゃない? と。どうもチッソは勝手に国有地をゲットしていたらしいです。

(スライド15)1996年、埋め立て地の上に実生の森をつくっているところです。水俣あたりっていうか温帯モンスーンの地域っていうのはおそろし いもので、ほおっておくとあっという間に森になりますね。単に森をつくるっていうだけじゃなくて、環境創造みなまた推進事業をやっていましたから、水俣病 患者と水俣市民、チッソと行政、支援者、距離を縮めようというのがテーマとしてありましたから、いろんな人が集まって植えています。水俣市は勘違いがある らしくて、この森はほっとくとあと50年くらいで立派な照葉樹林になるはずなんですが、草取りや肥料をやって一生懸命育てています。ほっとけば、元々の森 に戻るはずです。茂道とかグリーンスポーツとか今そんなふうになっています。

(スライド16)これは相思社の集会棟ですね。杉本栄子さんが小学生に向かって話しています。「メモしないで私の顔をみよ」って言っているところだ と思いますが。逆に熱心な学校の先生は患者さんの言っていることを書きとれと、みんな下を向いちゃうんですよね。下を向かれてると話しづらいですよね。真 ん中に仏壇があります。水俣病で亡くなった方や関係者のお位牌が増えています。時間の流れ、しょうがないんですけども。相思社1974年からやっているん ですけど、今年で37年目です。37年間本当に経営は自転車操業ですよね。37年間自転車操業できるっていうのは結構な能力じゃないの? と最近は勝手に 自覚しています。よく、相思社ってどうして暮しているのと聞かれるんですが、やってる本人がうまく説明できない。なんとかうまくいっているんだよね、とい う。相思社って本当にみなさんによって支えられているものです。みなさんから会費とか寄付、カンパをもらうし、ミカンやリンゴ、殿様商売だろと言われてい ますし、環境省の方からデータベースの助成金をもらったりですね。90年代中ごろは水俣市の事業委託で一千万近く仕事をしたり。こんなのは5年先どうなる かといわれも何もわからないです。

(スライド17)考証館のネコ実験の小屋です。これは吉永さんが畑の中に転がっている小屋をもらってきたようです。世界で一個しかない、民俗博物館の平井京之介さんによれば「考証館の価値ある財産は、このネコ小屋と石牟礼道子の自筆原稿だけだ」と言います。

(スライド18)これは水俣湾埋立地。エコパークという愛称がついているんですが、私は絶対に使いたくない。やはり土地の本願を理解するためには分 かりやすい名前がいいのかなと思います。資料館の駐車場に曲がるところの右側の空き地、埋め立て地最後の遊水池だったところです。そこに1974年から捕 獲して保存していた汚染魚を、この名前は魚が聞いたら怒ると思います。その魚をコンクリ詰めしてドラム缶に入れて、その最後に残ったスペースに放り込んで いる。鬼塚巌さんに言わせれば2,500本ぐらいはあったようです。看板を立てた理由は、生物の命をごみのように扱うことはよろしくない。看板は熊本県の フィールドミュージアム事業という事業で作ってもらいました。

(スライド19)資源ごみの分別風景が映っているんですけど、移動すると必ず消える写真の一つです。僕の意見としては環境負荷とかごみ減量になって いるとは全く思っていません。資源ごみの分別はコストかかり過ぎだし、本当にいいのかどうかの検証は必要だと思います。残念ながら水俣市の資源ごみ分別 は、ごみ減量のためのステップアップするための一段階とは残念ながらなっていません。93年くらいから資源ごみの分別をはじめて、何が起きたのかが大事か なと思っています。ここから先は僕の解釈です。

それまで水俣は水俣病で知っているし、相思社は全力で水俣病患者や水俣病のことを隠蔽しようとしてきた水俣市とか水俣市民を糾弾してきました。ある 程度ものを考える人たちの間では理解されていたんですけども、水俣市民というのは周りからよく思われていない。ちょうど水俣に来た頃、1987年頃です が、その頃まだ相思社と水俣病患者と行政とか市民は敵対関係だと思っていましたから、水俣の子どもたちが修学旅行に行って随分つらい目にあう。僕の正直な 気持ちは「ざまあみろ」です。お前らの親たちが水俣病患者を差別しのけ者にしようとしたからそんなことが起きるんだ。反省しろと僕はその時思っていまし た。

理屈とすると幼い理屈かなという気もしますが。問題解決をしようとする気がない主張ではありました。かく言う私も1995年に子どもができました。 この子どもは水俣生まれ水俣育ちなんですよね。ちょっと時制がずれるんですが、この子どもがそんな辛い思いをするっていうのは嫌だなと、完璧親のエゴなん ですけど、そういう想像力も働いていく中で、水俣をこれからどうしようという話が、90年代半ばに盛り上がっていくわけですよね。ごみ減量で何が起きたか と言うと、最初16分別だと思いますが、当時そんな地域はあまりありませんでした。全国から議員とか市民団体とか、行政職員が見学に来て、「水俣市民すご いですね」と褒めてくれた。実際に資源ごみを分別していた人たちはうれしいですよね、褒められているわけですから。来た人たちはこう言うんです、「やはり 水俣市民は水俣病で環境意識が高いから」と言われる。こういわれてみると悪い気もしない。想像の部分もありますが、ずいぶん気をよくしたと思うんですね。 環境のこととかごみのこととか水俣病のことも少しは考えていていいか、そういう企画や事業もいっぱいやっていたこともあり、少しずつ水俣病の中で少しずつ タブーでなくなっていった。きっかけが資源ごみ分別だと僕は思っています。

(スライド20、21)これは石鯛を掲げているのは杉本肇さんです。子どもたちがお魚教室というので、不知火海でとれた魚を焼いて食うという。とれ たアジをさばくんですね。小学生から大学生まで、やったことある子どもはあまりいないですね。不知火海の魚を子どもに食わしていいのかという意見もありま すが、黙って食わしているわけではありません。個体のアジの水銀値は0.2ppm以下ですから、普通に食べる分には心配ないという話をします。子どもが親 に言うんです、「今日水俣の魚食べたよ」と。でも、親に子どもが説明してくれるというので、なかなか面白い企画だと思っています。

(スライド22)これはあの、2008年からはじまった水俣エコタウンの中にあるエコボ水俣というビンのリユース工場ですね。リサイクルよりリユー スがいいだろうという。焼酎飲む場合は、Rビン以外は飲まないでね。Rビンは回収されて洗ってまた出て行くという仕組みがあります。

(スライド23)修学旅行の生徒たちが茂道の海岸で眺めているところです。ナマコやらいっぱい引っ張り出して、きゃーきゃー喜んでいる。修学旅行の生徒連れて行って一番喜ばれるのはここです。

(スライド24)秋にやっている火のまつり。民間人が主体で水俣病の慰霊をやろうということです。主に寄ろ会の人たちがリードしています。

(スライド25)これは2000年に杉本栄子さんと東京荒馬座がつくった2001ハイヤ節という踊りです。この時やっと50年近く経って、水俣病のことを歌や踊りで表現できるようになったというのは、とっても喜びだったんですね。

(スライド26)3月の明神海岸です。わかめをとっていますね。石の上にみえるのはヒジキです。ヒジキは2月が旬ですからもう固いかな。

(スライド27)埋立地の一番端の親水護岸には、本願の会の人たちが彫って安置している魂石です。この魂石は1000年経っても残りますから、水俣病の記憶装置です。

(スライド28)これは水俣で一番高いところにある大関山にある山の神様です。ご承知のように「山が豊かだといい水が出てくるよ」という意味では、山神さんに参るのは漁師さんですね。ですから塩や海岸の石やサンゴが納めてある。

(スライド29)これは茂道海岸を歩いている中学生。真ん中を歩いているのは生駒秀夫さんという50年代に中学生で発症した人ですね。

(スライド30)これは茶摘みをしています。水俣のお茶が売れないのは風評被害なんですよね。水俣のお茶がチッソのメチル水銀に汚染された可能性はゼロですから、福島、東北は残念ながら風評被害と被害はきっちり線引きできない。

(スライド31)水俣市の東の端にある久木野の棚田です。ちょうど収穫前、景色としてはいいですね。こんな狭い棚田で米を作るのは大変です。

(スライド32)杉本さん家のバッチ網という、片口いわしをとっている船。今若干巻き上げの方式は変わりましたが、ズボンをさかさまにしたような巨大な網でとっています。

(スライド33)これは今から10年ほど前の杉本水産の船おろし。新造船のお披露目ですね。もう水俣でこんなふうに新造船をつくるのは珍しい。

ありがとうございました。

○質疑応答

遠藤:この後ですね、いろんな疑問とか意見交換しませんか?

会場:小笠原と申します。さっき理巳子さんがおっしゃった遺影を資料館に飾りたいという話ですよね。私は相思社 の集会棟に一人で泊まった時に、位牌があれだけたくさんあるっていうのを見ると、本当にこれだけの方が亡くなったっていうのが実感として迫ってきて。資料 館に遺影を飾る企画はとてもいいと思う。怖くても私はあった方がいいと思う。遺影を飾るとう資料館の企画は進んでいることなんですか?

利夫:さっきの話は今夫婦二人が頭の中で考えているだけで全く進んでいません。今そんな話を市役所の人たちに言い出しているところです。スペースもありませんし、やろうと思うともうちょっといろいろな工夫を。
会場:支持はありそうですかね?

利夫:どうですかね、支持はないでしょ多分。被害者団体からも反対が出てくると思います。水俣もたぶん患者家族 からは。実際に水俣フォーラムが水俣で遺影を展示しようとした時に、自分の家族はやめてくれっていう人は何人かいました。とってもいいことだと思ってい ま、反対しろと思っています。多分私がやるんだったら、断りもなく貼っちゃう。そうすると遺族が怒ってくる。これ幸いで、なんで嫌なのって言うのを徹底的 に話し合う。申し訳ないけどそれぐらいしないと、遺影ってあすこには展示できないなと思っていますね。一軒一軒に聞いて回ったら、孫の世代、ひ孫の世代も ありますから、うちのじいちゃんばあちゃん、いやですという人の方が多いのではと思います。

遠藤:相思社の位牌も今の世代に聞くと返してくれという人もいる。持って帰った人も一人いるんですね。

今頃なんで産廃のパンフレット配ってるんだよっていうご意見がおありかと思います。2008年に産廃は計画が中止になったわけですが、実はこのパン フレットは高木仁三郎基金の助成で、IWDが計画を中止する一か月前につくっちゃったんですよね。こういう準備を積み重ねていったってことが処分場断念に なった理由なのかなと思います。産廃処分場っていうのはどの場所にも決して無縁じゃないと思いますが、こんな尾根の上につくる産廃処分場は日本中にない。 産廃処分場は基本的に谷につくる。谷っていうのはだいたい水で掘れて硬い岩盤が出ているので、そこにつくるのが普通なんです。こんな尾根の上につくったら どうなるかっていうと、当たり前ですが重さによって変形して次々汚水が漏れていくんです。それに対して熊本県は42項目に及ぶ県知事意見を出しました。 IWDは杜撰な調査で自分の首を絞めました。最大の難関は、処分場の浸出水を処理施設に入れる時に、浸出水の汚染の濃度の中身を明らかにしろという県知事 意見です。不可能ではないですが、こんなことをやっていたら商売になりません。こんなところをキチンとしている処分場はまずないです。熊本県は浸出水の処 理をしなくていい屋根付きの産廃処分場をつくるんですよ。そうすると、さっき言った県知事意見はクリアできるんですね。いろんな意味で教訓というのは、熊 本のことは参考になるのかなというので配りました。

理巳子:私もですね、遺影を展示するのに二つほど意味合いがあると思っているんですよ。一つは亡くなった人たち は未だに差別される、恥ずかしい存在であるっていうことで、出してもらえない人なのか問いたいと思っているんです。水俣病の慰霊碑というのがあります、5 月1日に毎年慰霊祭も行われるんです。その時に名前も入れます。だけどもそれは慰霊碑の中に小さな銅板に名前を書いて入れられるんですけど、外からも見え ない存在なんです。今でも300名程度の名前しか入ってないです。もう亡くなられた人も認定患者だけでも1000何人いらっしゃると思うんでけど、名前す ら出されない存在っていうのはどういうことなのかというのを問いたいと思っているんです。

私の父は30半ばで亡くなりました。もし私の父が遺影として出てくるならば、今の人たちに何を語りたかったか。私の父は、今から日本を復興していこ うというチッソで働いていました。だけどその時に政策転換をしようと思えば、水俣で亡くなった人がいっぱいいるっていう時にできたはずです。だけども残念 ながらその時代っていうのは、ほぼ水俣病のことを終わったことにして、私たちに知らされた時には終わりにされた時だったです。今福島の原発も起きてますけ ど、その時政策転換が出来ていれば原発のことはなかったかもしれない。そういうことを父親たちは問うていると思います。あの時、もう少し自分たちの命をも う少し大切に考えてくれれば、自分たちが幸せのために突き進んだはずが、また同じ過ちをしているんじゃないかということを問うていると思うんです。そこま でみんなに考えてもらいたい。水俣が問いをしているのはそういうことだと思います。50何年経ってもまだ解決できない水俣っていうのはそういうことなん じゃないかな。

遺影は怖いというのもあります。誰が水俣病なのかっていうのもはっきりしないままです。今水俣フォーラムで展示をされている遺影も土本典昭監督さん が書かれた遺影が500名程度ありますけど、認定患者じゃない人もいらっしゃいます。誰が水俣病なのかわからないままです。そういったこともいろいろ考え てもらえる場に、私はもっと深い場所にしてほしいなと思っています。まだ私と私の連れ合いだけの考えだけですけど、そういった資料館の場所にしたいな。今 の資料館ではそういったことまでは考えてつくられなかった資料館ですから、場所にしても狭いです。後50年100年先まで考えたらばもう少し広い場所も欲 しいです、そして小さな子どもさんが来れるような託児の場所も。お母さんたちに伝えるような仕組みをつくらないといけないと思っているんです。もう少しそ ういったことも考えて、お金もかけてほしいなと思っています。よろしくお願いします。

遠藤:遺影の展示を続けてきた水俣フォーラムの人も来ているんですが。

会場:服部と申します。実は水俣市は最初に水俣東京展が終わった後に、遺影を水俣市で展示してはどうかという提 案というか、遺影をとった土本さんの意向もあって打診したんですけど、水俣市では到底できないという返答でした。当時の水俣市はそういう態度だったという か、返答だったということで。ですから今の吉永理巳子さんのような方がそういうようなお考えをお持ちというのはすごく何かが、たかだか10数年前の話です けども、ちょっとそういう水俣市で遺影を展示する意味っていうか、それは意味のあることだと個人的には思っています。それはただ、私たち外、よそ者だと 思っています。それは私たちがどうこうというよりは、今水俣に生きている人たちがどう考えるかによるでしょう。それについては、少なくとも私は、吉永理巳 子さんがお考えになっていることは、いろんな人に知ってもらいたいなと思っています。私たちができることであれば、お互いに考えながらというか、そういう ことはすごくやっていきたい、そういうふうに思っています。

遠藤:ありがとうございます。

会場:藤沢から来ました駒崎と申します。「水俣病を生きる」っていう題名に非常に感動しました。僕は心の病を生 きる若者が、統合失調でも発達障害じゃないかとかいろいろ言われている、引きこもっている若者たちとたまり場をつくったりしているんです。その彼らが自己 を開示することを経緯にして、父とか母とか、アルコール依存になっていた人が、あるいはDVを受けていた自分とか、そういうのを開示するっていうこととつ ながる話じゃないかと思って来まして。案の定と思って、来てよかったと思います。

聞きたいのはですね水俣のニュースの題名、『告発』『水俣』の変化を含めて、どうして変化したのか。今のをテーマにして、福島の原発の後、飯館村に 二・三回行っているんですが、飯館村みてますと再生するってどういうことなのか思ったりします。非常にホコリの高いすばらしい村なんです。脱原発のいろい ろ集会やデモがありまして、ノーモア・フクシマ、ノーモア・ヒロシマってセットで言われることがあるんです。当然そうなんですけど、脱原発の取り組みをす るのに、そこの怒りというか、御用学者を攻撃するのは当たり前なんだけど、そこにポイントおかない動きもあるんですよね。その辺のいろんな動きがあって当 たり前なんだけど、再生っていうことを考えると、例えばノーモア・ミナマタ、ノーモア・ヒロシマってつなげる話が必要だと思って。その時に、『告発』って いう名前を『水俣』に変えたその辺の経緯が、関係あるんじゃないかと思って想像するんですが、遠藤さんどうでしょうか。

遠藤:すみません、その経緯は全く知りません。時制から言うと『告発』は50号まで出ていますが。77、8年だと思うんですけど、その後…

会場(宮本成美さん):もっと前。私よりも詳しい人がいると思うんですが、裁判闘争が終わって一応交渉が73年 の7月何日ぐらいまで環境庁とチッソと補償金以外の年金の交渉をやっています。それが一応終わって、撤収するんですね東京の方から。それで水俣に戻りま す。それが整理がついた段階ぐらいで、9月か。詳しい人がいれば補足してください。9月ぐらいに最終『告発』の紙面がでまして、ここで一応『告発』という ものは休刊にしますという掲示がでます。その後に水俣病のことを伝える情報誌として『水俣』がでると確か書いてあった気がします。それが最後にできたわけ で、73年の動きだったと思います。それは熊本の方の動きですから、私東京におりましたので、内部でどういう論争があったかは私は知りません。

遠藤:その『水俣』も休刊になるのはいつだっけ…。相思社の動きも『告発』の時代からヤナヤナ日記とか『告発』 にも『水俣』にも書いてもらっています。とくにその、相思社は独自に機関誌という発想ではなくて、『水俣』に情報を集めて外に出すということだったと思う んですけど。ずっと『水俣』という機関誌に書いていました。ですから、『水俣』の送り先のラベルは、95年前だと思うんですが、水俣から送ってましたよ ね。お金も来ていました。それは95年前後だと思うんですが、その頃にほぼ休刊になったと理解している。時期がよくわからないんですが、『告発』が休刊に なった時期というのは、『告発』はいつまでだというと、渡辺京二さんでいうと勝手な推測ですが、1973年の3月21日までじゃないかと勝手に思っている んですが。違います? もうちょっと後まで? 補償協定までぐらいですね、が『告発』の時代だったと思います。

会場(橋崎):言葉を単純化して言うと、告発だけしている場合じゃないっていうも変だけど、告発ももちろん大事 だし、糾弾も大事だし、批判して体制変えるのも大事なんだけども、それを更にうわまわって、今脱原発でやっている中でもね、もちろん糾弾するんだけど、ど ういうのが日本の文化とかこれからの若者たちと、構築する運動としてあるのかなっていうことで、『水俣』っていうのがでてきたと思うんで。わかんないけ ど、ノーモアヒロシマ、ノーモアフクシマの話はするんだけど、もう少しノーモアミナマタの話をしてもいいかなっていう。福島と合わせてねっていう感じを。

遠藤:十分にこたえる用意のある人はあまりいなくてですね。今はっきり言えることは、水俣市、水俣市民が総体と して水俣病の教訓はこうでしたね、このことが福島のことに活かせるというのには残念ながらなっていないですね。個々人的にはいろんな考えがあってやっては いるんですけど、「もやい直し」は90年代初頭からやっているわけですが、なかなか前途多難なこともいっぱいあるんですけど。今言われた流れで言えば、 『告発』から『水俣』と言うこところで言えば、水俣のもやい直し、地域直しという念頭はほぼなかったというふうに僕は思っています。時代が70年代ですか ら、まだまだ遠かったですね。やっと地域がどうかという話は90年代になってやっと僕らも言えるようになったと言っていいかと思います。90年になるまで は患者の救済すら終わっていないのに、地域振興なんてふざけんじゃねーよ、というのは言っていたんですから。

会場:白木と申します。産廃の問題で水俣の埋立地に関して、鋼矢板が打ってあると思うんですが、あれは50年しか持たない。でももう37年経っているということでそれに関する動きは何かはじまっているんでしょうか?

遠藤:民間人のほうからその問題があるとは言っていますが、実質的な動きとしては県がなんとかしなきゃというの で検討はしています。検討の中身は現時点では入手していない。こちら側のほうでは、水俣市内のヘドロの処理や埋め立て地、いろんな汚染の問題提起という段 階ではあるんですが、動きにはまだなっていない、という状態ですね。

会場(白木):もうとりかかないと、手遅れになる可能性があると僕らは思っているんですが、そういう危機感ではないんですか? どちらも。

遠藤:間に合わないというのはどういう意味でしょう?

会場(白木):50年と言われているけれども、それよりも短い可能性っていうのが結構あると聞いているんですけども。水銀が外に流れ出すという可能性が高くなっていると聞いているんですが。

遠藤:鋼矢板が壊れると中の水銀ヘドロが、ドボドボ出ていくという可能性がないとは言いません。鋼矢板が劣化し て、一部破損状態が確認されるぐらいの状態だと中の水銀ヘドロが一挙に外に出て行くということはないと思います。それは鋼矢板の打ち方の問題と内側の始末 の問題、鋼矢板とヘドロの間はかなり斜めに山土をぶち込んでいますから。鋼矢板が壊れた段階でどうなるのっていうのはそれほど予測はできないですよね。た だ、少なくとも50年を迎える前に今の状態を改善しようということですよね。白木さんがおっしゃるようなことは当然対象になっていると思います。一番端っ この鋼矢板は海水や静電気で劣化してますから、それは調べていますよね。ただ、県の仕事は常に聞いていったほうがいいし、見ていったほうがいいと思いま す。

会場:友澤と言います。埼玉から来ました。1980年生まれで、直接公害が大変だった時のことを知らないんです けども人事ではないと思っています。そんな形で水俣のことを感じたりできる理由は、直接今日みたいにお話を聞かせていただく機会があるからだと思うんです ね。さっき遺影というかお顔を残されたいと話されていました。そういうものがあると、例えば100年後とかになってももしかしたら今生きているところのつ ながりとして、そういう人たちの存在を具体的につなげられるきっかけになるかもしれないと思いました。どんなお顔をして、服を着て、家族をもっていたの か、そういうことから話を聞く。想像力を広げていく断片がたくさん残っているのは、後から追いかける者にとってはすごくうれしいことだと思っています。今 念頭にあるのは足尾鉱毒で村を追われた谷中村の方々の暮らしが分かるようなものがほとんど残っていなくて。調べればいけばたくさんのことがもちろん見えて くるんですけども、もっと具体的な形でお顔が分かるというのはすごくいいなと思います。
理巳子:ありがとうございました。若い方に感想をいただいてありがたいなと思います。形に残るものはすごく訴える力がある。話だけではやっぱり伝わりにく いというのがあるんですね。たまたま今日皆様にお見せした父親がチッソに入院していた時の着物が、この間押入れから見つかったんですよ。そっくりそのま ま、少し虫食ってますけど、着物と帯と写真に写ったそのままがありました。この間資料館で夜にお話するというのをしたんですが、着物の他にタライとかも 残っているんでそういったのと一緒にお話すると、当時の暮らしっていうのがよくみなさんに伝わるんですね。モノが持っている力っていうのはすごく大事だと 思っています。そういった意味では資料館はモノが少ないですから、今あるものを私は保存していきたいと思います。

利夫:遺影を展示するためには被害者自身がいいよと言ってくれないといけないというのがあるんですが、偏見をな くすことをちゃんとやらないといけない。これが今まで運動してきた側がほとんどやってきてないと思います。語り部の人たちにある意味でおんぶに抱っこでお 願いしてきて、水俣市も熊本県も環境省も水俣病の教訓をと言われていますが、具体的に偏見をなくす努力はできていないと思っています。熊本県から水俣病啓 発事業っていうのがありまして、熊本県下の教育事務所に語り部が出かけて行って話をする。うちが提案してのは、語り部の話を聞くだけで終わっちゃうのは嫌 だと。二つ提案しました。私や遠藤くんが行くパターンと、語り部と私たちがついて行くパターンを提案して。先生たちの要望は、遠藤邦夫とか私に来てくれと いうのが多かった。それは先生たちが語り部の話を一回聞いているというのもありまして、水俣病全体のことを知りたいというのがあったと思うんですが。少し そういう動きがでてきてうれしいと思います。この事業が終わったら、熊本県下、水俣市内の先生たちと市民の人たち巻き込む形で偏見をどう解消していくかの 動きをしたいなと思っています。

遠藤:最初に橋浦さんからいただいた、先生たちへの働きかけっていうこと。僕や吉永さんが行って人権担当の主任 たちに話をしています。結構刺激的な話をするんですが、全く反応もなければ質問もない。これは僕の怠慢だと思っているので、来年やるとすれば人権の先生 が、この講演会に出てきたことを後悔するようなワークショップをやろうと思っています。人権担当の主任ってこれほど大変なことなんだよっていうのを、力 いっぱい迫ろうと思います。

このイベントは相思社が企画したんですが、以前に生活学校に参加した渋谷さんから手紙をもらいました。渋谷さんに一言。

会場(渋谷):渋谷と言います。25年程前、水俣に生活学校があってそこにいました。今日聞いて思ったのは、身 内で話すべきで十分なんでしょうが、外の人、水俣に関心がない、忘れられている人間に対してどう説得するのか、訴えることができるのかなと。今こういう 会って、この中ではいい話を聞いたなでいいんですが、ここにいない人間、あるいはあまり関心がない人間にどれだけインパクトがあるのかということを思いま す。

遠藤:熊本県の啓発事業もそうなんですが、自分が語った言葉で伝えられた人たちがどうなのか、反発持っている人 たちとか、水俣病なんて終わったんじゃないの、という人が耳をそばだてられるような問題提起を。駒崎さんからも出ましたが、福島で起きていることに対し て、水俣って気の利いたことがいえないのか。50年も公害や被害補償、人間性を問う、行政の問題だといいながら。そういうプレッシャーの中で仕事をしてい きたいと思っていますので、渋谷さんのように難問を出してください。その中に考えなきゃいけないことがきっとあるので。それを探して是非がんばりたいと思 います。

会場:千葉県から来ました、相川です。10月1日に船橋で福島と水俣をくっつけて、映画とパネルディスカッショ ンをやります。これの狙いの一つは、水俣を福島の問題は根っこでつながっているんじゃないかという私の感じですが、同根であると発言されている方も結構い る。逆に原発の問題で水俣を連想するかたはまことに少ないと思います。狙いとしては水俣で活躍している方にも来ていただきたいし、放射能って大変と言って いる方に、50年経っても終わっていない水俣というのをもう一回思い出してほしい。人の命を大事にしない世の中を支えて来てしまったことなんかもさらけ出 そうと。その後ははっきり言ってまだ見えていない。来年の2月にはエネルギー問題どうするの、っていうので考えてみたい。福島だけの問題じゃなくて同じよ うな問題は起きてくると思います。よろしくお願いいたします。

遠藤:どうも今日は長い時間本当にありがとうございました。気を付けてお帰りください。

会場:(拍手)

 

 

2011年度水俣病情報発信事業報告書
2011年12月15日
水俣病センター相思社編集

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