Q6−1−1 水俣病の現状はどうなっていますか?
A6−1−1 水俣病は治らない病気です。ですから、毎月数回はお医者さんに通っています。中には毎日のように医者通いをしている人もいます。胎児性患者(たいじせいかんじゃ=お母さんのおなかの中で水俣病になった人)も40歳を越えました。胎児性患者は重症(じゅうしょう)の人が多いのですが、年をとって症状がますます重くなっている人が多いのです。数年前までは歩いていた人が車いす生活になったりする人もいます。
Q6−1−2 今も水俣病のかん者さんはいるんですか?
A6−1−2 水俣病が発見されてから40年以上が立ちました。その間に半数以上の患者がなくなりました。それでも、数千人のかん者が今も生きています。水俣病は治らない病気なので、すべてのかん者が死にたえない限り、水俣病かん者がいなくなることはありません。
Q6−1−3 水俣病かん者の生活を今と昔はどう違うんですか?
A6−1−3 かん者だからといって特に変わるということはありません。そのときそのときの社会の変化で生活が変わっていくのは、かん者でない人と同じことです。ただ、年をとると病気が重くなる人が多いので、以前より医者にかかったり、入院したりする人は多くなっています。
Q6−1−4 水俣病かん者と、周りの人の様子は
A6−1−4 水俣では「もやい直し」といって、水俣病かん者とかん者以外の人が仲良くなろうとする運動が行われています。水俣病のことをちゃんと知ろうという人も少しずつ増えてきています。でも、まだまだ水俣病や水俣病かん者をきらう人も多く、多くのかん者は自分が水俣病かん者であることをかくしています。
Q6−1−5 水俣病のかん者さんたちは現在どうしているですか?
Q6−1−5 現在の患者さんの生活を教えてください。
A6−1−5 水俣病のかん者であっても、特別にほかの人と変わりはありません。ちがいはみんな病人ですから、自分の病気とつきあっていることぐらいでしょうか。少ない人でも月に数回、多い人は毎週何回かお医者さんにかかっています。
Q6−1−6 水俣病が治った人は今は何をしているんですか?
A6−1−6 水俣病は治らない病気です。ですから、この質問には意味がありません。
Q6−1−7 今でも水俣病の被害は続いているんですか?
A6−1−7 水俣病は治らない病気ですから、その意味では被害はすべてのかん者が亡くなってしまうまで続くといってよいでしょう。水俣病の被害は病気の苦しさだけではありません。水俣病や水俣病かん者に対する偏見(へんけん)や差別もあります。偏見や差別は時には病気以上にかん者を苦しめます。そして、偏見や差別はなかなかなくならないのです。
Q6−1−8 今でもかん者さんの生活が苦しいことはあるんですか?
A6−1−8 ほとんどの水俣病かん者は毎月何回もお医者さんにかかったり、時には入院したりします。多くのかん者の医療費はチッソや国や県が出してくれるので、医者代の心配をしなくていい人が多いのですが、病気のために働けなくなったりする人も多く、苦しい生活をしている人もいます。
Q6−2−1 現在の水俣市の様子は?
Q6−2−1 周囲の反応は今と、昔ではどんなに違うか
A6−2−1 最近はずいぶんと変わりました。以前は水俣病のことを話す人はほとんどいなかったのですが、最近はいろんな場所で水俣病のことを話す人が増えてきました。水俣病や水俣病かん者を悪く言う人はずいぶんと少なくなりました。
Q6−2−2 まだ、漁師をしている人はいるんですか?
A6−2−2 海があり、魚がいる限り漁業は続きます。海岸の人、島の人にとっては漁業は中心的な産業ですから、漁業で生活している人はたくさんいます。ただ、最近は海が汚れて魚が少なくなり、漁業で生活できなくなり、漁業をやめる人も多くなっています。これは水俣病のためではなく、山の木を切ったり、ダムをつくったり、環境に悪い生活排水が海に流れ込んだためと思われます。
Q6−2−3 水俣の特産品は?
A6−2−3 昔は寒漬け(かんづけ)という大根をほしてつくるつけものとか、和ろうそくの原料となるハゼの実などがありました。最近は水俣病を経験した町だから健康や環境にやさしいものを作ろうということで、低農薬で栽培するみかんや甘夏みかん、無農薬栽培のお茶やお米、低農薬で作るサラダタマネギなども売られています。
Q6−2−4 水俣の人は水俣湾で取れた魚をたべているんですか?
A6−2−4 水俣湾の魚が安全になったので、水俣湾でとれた魚を食べても問題はありません。
Q6−2−5 水俣の人が作っているみかんはどこで買えるんですか?
A6−2−5 いろんなところで売っていますが、相思社でも注文があれば送っています。
Q6−3−1 現在の水俣湾の様子は?
A6−3−1 水銀に汚染された魚はいなくなったということで、1997年に仕切り網がとられて、水俣湾でとれた魚も市場に出回るようになりました。(参考)
Q6−3−2 川や海は元のきれいな水に戻りましたか?
A6−3−2 水俣の海はきれいになりました。水俣をおとずれた人はみんな、水俣の海のきれいさにおどろきます。水俣湾にはサンゴ礁(しょう)もあります。熱帯魚も住んでいます。サンゴは岸からは見えませんが、熱帯魚は岸からでも見られるときがあります。色のきれいな熱帯魚を見て感動する人も多いです。
Q6−3−3 水俣の海ではどんな魚が捕れるんですか?
A6−3−3 タイ、ブリ、イワシ、タチウオ、ガラカブ、アジ、チヌ、ボラ、イカ、タコなどいろんな魚がとれます。
Q6−3−4 水俣湾では今でも漁業をしているんですか?
A6−3−4 水俣湾の魚の安全が確認されたので、1997年に水俣湾の仕切り網が取り払われました。今では水俣湾でとれた魚も市場に出るようになりました。
Q6−3−5 今でも水俣湾の魚は食べてはいけないんですか?
A6−3−5 1997(平成9)年に熊本県は水俣湾の魚について安全宣言(=食べても安全です)をし、仕切り網を撤去(てっきょ)しました。それからは湾内の魚を食べることが公式に認められるようになりました。
Q6−3−6 再開された漁業の様子が知りたい。
A6−3−6 再開されたのは水俣湾内だけです。湾の外(仕切り網の外)はずっと漁を続けていました。湾内は汚染魚捕獲(おせんぎょほかく=水銀に汚染された魚をとってしまうこと)によって、ずいぶんと魚が少なくなっていましたので、漁場としては汚染前とはくらべものにならないくらい悪くなっていました。元のように良い漁場にもどるにはこれから何年もかかると思われます。
Q6−3−7 現在水俣の海はどれぐらいきれいなんですか?
A6−3−7 海水はずいぶんときれいになっています。10メートル以上の深さの海底が見えるほどです。ただし、海底には今もヘドロが残っているので海底をかき混ぜると細かいヘドロが舞い上がって回りが見えなくなります。
Q6−3−8 水銀汚染(おせん)された水は2度と元には戻らないんですか?
Q6−3−8 水銀汚染(おせん)された水をどのようにしてきれいにしたんですか?
Q6−3−8 元のきれいな水に戻るまで何年かかるんですか?
A6−3−8 海にも流れがあるので、たえず水は入れかわっています。ですから、水銀に汚染された海水は水俣湾の外に出て行き、海水そのものはずっと以前からきれいになっています。
Q6−4−1 水銀汚染(おせん)された海をどうやってきれいにするんですか?
Q6−4−1 もう、水俣湾には有機水銀は残ってないんですか?
Q6−4−1 水俣湾にふくまれる有機水銀の量は減ってきているんですか?
A6−4−1 海水は入れかわるのでチッソが水銀の垂れ流しをやめるとすぐにきれいになっています。海底には水銀を含んだヘドロがありましたが、浚渫(しゅんせつ=水底の土砂をさらうこと)したので、海底の水銀もほとんどなくなりました。浚渫された海底の水銀ヘドロは水俣湾に埋立地を作って閉じこめてあります。
Q6−4−2 埋め立てたヘドロからは水銀はでてこないんですか?
A6−4−2 鉄の板で埋め立てた水銀ヘドロと海水は仕切られています。ですからほとんど外には流れでないと思います。しかし、鉄の仕切りは50年しか持たないと言われていますので、鉄がさびてアナがあいたり、仕切りがこわれたりすると水銀が海に流れ出る危険性はあります。
Q6−5−1 今でも、水俣でとれた魚を食べると水俣病になってしまうんですか?
Q6−5−1 今でも、水俣病にかかる危険性はあるの?
Q6−5−1 メチル水銀が含まれた魚や貝はまだあるんですか?
Q6−5−1 今でも水銀汚染(おせん)された魚は捕れますか?
Q6−5−1 水俣湾で取れた魚には、まだ有機水銀が残っているんじゃないんですか?
Q6−5−1 今も水銀汚染(おせん)された魚を食べているんですか?
A6−5−1 基準値以上に水銀をふくんだ魚はもういません。ですから、水俣湾の魚を食べても水俣病になることはありません。ただし、水俣湾の魚に限らず、すべての魚にはわずかですが水銀がふくまれています。わずかの水銀でも長い間食べ続けるとなんらかの障害がでてくるのではないかと心配する人もあります。これを長期微量汚染(ちょうきびりょうおせん)と言いますが、影響については現在研究中でまだくわしくはわかっていません。
Q6−5−2 今も水俣湾で魚をとっているのはなぜですか?
A6−5−2 1997(平成9)年に基準以上の水銀をふくむ魚がいなくなったことが確認されて、水俣湾の魚をとったり、食べたりしても良いことになりました。
Q6−5−3 水俣湾のヘドロは埋めたが、魚などはどうなったんですか?
A6−5−3 水銀の汚染された魚はミンチにしてドラム缶にコンクリートづめにして、埋立地の底に埋めこみました。
Q6−6−1 チッソ水俣工場は今でもあるんですか?
A6−6−2 あります。ただし、前とくらべれば働いている人の数は少なくなっています。それでも、水俣では一番大きな工場です。
Q6−6−2 現在のチッソ水俣工場はどんなことをしているんですか?
Q6−6−2 現在のチッソの工業活動を教えてください。
A6−6−2 アセトアルデヒドを作るのは1968年にやめましたが、今もさまざまな製品を作っています。中心になっているのはファインケミカルズといって、パソコンや電卓に使われている液晶(えきしょう)などの高い技術力が必要な製品です。液晶は世界中の半分以上をチッソ水俣工場で作っています。
Q6−6−3 今でも、チッソ工場は工場排水を川や海に流していますか?
A6−6−3 流しています。ただし、水俣市と公害防止協定(こうがいぼうしきょうてい=汚れた水は流さないという取り決め)を結んでいますので、工場からは危険な水は流れ出ていないことになっています。
Q6−6−4 今でも、チッソは水銀汚染(おせん)された排水を流しているんですか?
Q6−6−4 工場の有機水銀を含んだ排水は今はどうなっているのですか?
Q6−6−4 以前と比べて、工場排水は?
A6−6−4 1968(昭和43)年からチッソ水俣工場は水銀を使わなくなりました。ですから、それから後は水銀は流れ出ていないことになっています。
Q6−6−5 以前と比べて、川(=排水路:はいすいろ)のようすは?
A6−6−5 1968(昭和43)年にチッソは水銀を使わなくなりましたが、水俣湾だけではなく排水路にも水銀ヘドロはたまっていました。1988(昭和63)年に排水路の水銀ヘドロの浚渫(しゅんせつ=水底の土砂をさらうこと)されました。
Q6−6−6 水俣病の原因を作ったような工場を、なぜ水俣の人は必要としているんですか?
A6−6−6 チッソ工場が水俣にできて、水俣の町は大きくなりました。明治時代から公害が社会問題になるころ(1970年代)までは、日本中の人たちのほとんどが大きな会社、大きな工場があることは良いことだと思っていたのです。だれも公害について考えていなかったし、公害という言葉自体使われていませんでした。自動車は便利なものですが、排気ガスをまきちらしました。公害が問題になるまでは大きな工場はほとんど煙をもくもくと出していました。そして大気汚染を引きおこしましたが、ほとんどの人々はそのことを問題だとは思っていませんでした。水俣の人たちも同じです。チッソ工場が大きかったために大きな公害がおきたのです。水俣の人たちの問題ではなく、世界中の人々の共通の問題です。
Q6−6−7 現在、工場では、環境汚染(おせん)しないような設備になっているんですか?
Q6−6−7 チッソ工場は二度と公害を起こさないようにどんな努力をしているんですか?
Q6−6−7 工場は水俣病に対し、どのような対策(たいさく)・工夫・責任をとっているの?
A6−6−7 チッソ工場は1968(昭和43)年に水銀を使うのをやめています。今では水俣市と公害防止協定を結んで、基準以上の汚れた水は流さないようになっています。責任については「水俣病かん者の補償・救済について」を見てください。
Q6−6−8 現在チッソ水俣工場に勤めている人は水俣病のことをどう思っているんですか?
A6−6−8 「自分の会社の責任だから二度と公害を出してはいけない、かん者の補償はちゃんとしなければいけない」と考えている人もいますが、水俣病のことをよく知らない人も多いようです。
Q6−6−9 チッソに対して言いたいことは何ですか?
A6−6−9 チッソに限らず会社とか組織というものは人によって作られているのです。チッソの責任者は水俣病の責任をちゃんと考えなければなりません。水俣病のことを社員にきちんと伝え、それぞれの社員が会社のことだけではなく、地域のこと、社会のことを考えるようにしてほしいと思います。チッソの社員だけではなくみんなに水俣病のことをよく知ってもらい、自分の生き方、暮らし方を考えてほしいと思います。これは大人だけではなく、みなさんのような子供にとっても同じことです。
Q6−7−1 水俣病かん者の気持ちは?
Q6−7−1 水俣病かん者の願いとは?
Q6−7−1 水俣病のかん者さんの一番の願いとは?
Q6−7−1 私たちに伝えたいこと、解ってもらいたいことは何ですか?
A6−7−1 かん者はたくさんいますし、それぞれに思いはちがっています。かん者の浜元二徳さんたちは水俣病の語り部として水俣病のことを多くの人に伝えています。「二度と同じあやまりをくりかえさないようにしてほしい」という気持ちを強く持っています。(もっと詳しい説明)
Q6−7−2 かん者さんにとって、水俣病とはどのような病気ですか?
A6−7−2 複雑な思いがあるでしょう。病気と一生つきあっていかなければなりませんから、それぞれに苦しい思いがあり、病気とのつきあい方の工夫もしています。原因企業であるチッソをうらむ気持ちもあるでしょう、かん者を差別する人たちをにくむ人もあるでしょう。チッソを止めなかった政府をにくむ人もあります。数は少ないですが、中には、水俣病になったことで深く物事を考えるようになり、世の中のことがわかるようになった、多くの人と知り合えるようになったと考える人もいます。
Q6−7−3 水俣病かん者の家族は水俣病についてどう思っているんですか?
A6−7−3 これも様々です。親や兄弟を亡くした人たちのうらみはなかなか消えません。子供を亡くした人の気持ちはもっとつらいでしょう。子供が病気で今も苦しんでいるのを見る親の気持ちは何とも言えません。「私が死んだらこの子はどうなるの」という言葉を聞いたことがあります。いつも不安で心配ばかりという人もいます。
Q6−7−4 もしも、水俣病が治ったら何をしますか?
A6−7−4 水俣病は治らない病気です。「治ったら」というのはまったく架空(かくう)の話になります。だから、かん者にそのことを聞くことじたい残酷(ざんこく)なことです。でも、人の良いかん者なら「水俣病が二度とおこらないように努力します」と答えるかもしれません。
Q6−8−1 水俣の人は水俣病についてどう思っているんですか?
A6−8−1 いろんな考えの人がいます。「水俣病なんかがあるから町がダメになった」と考える人もいますし、「水俣病があったからこそ、いろいろわかったし、それをいかしていい町にしよう」という人もいます。40年以上の長い歴史とそれぞれの人がいろんな経験をしていますからひとことでは言えません。
Q6−8−2 水俣病に対して水俣市民の関心は?
A6−8−2 関心といってもいろんな意味があります。「水俣病なんかなかったらよかったのに」というのもありますし、「水俣病の教訓を町作りにいかそう」という人もいます。以前とくらべると水俣病に対して前向きにとり組んでいる人は多くなっています。でも、「水俣病なんかには関わりたくない」と思っている人の方が多いでしょう。それは水俣病でつらい思い、苦しい思いを経験した人が多いからです。
Q6−8−3 水俣病に対して水俣の人たちの反応は?
A6−8−3 「水俣病の教訓をいかして、水俣を人や環境(かんきょう)にやさしい町にしていこう」という人たちもいます。でも、水俣病の長い歴史の中で多くの人たちがつらい思いをしてきましたから、「水俣病なんかには関わりたくない」と思っている人の方が多いようです。
Q6−8−4 水俣市民の願いは?
A6−8−4 以前は「水俣のマチは水俣病でダメになった」「水俣病という名前があるからいけないんだ。水俣病という名前を変えてほしい」という人がとてもたくさんいました。今は「水俣病の教訓をいかして、よわい人や環境(かんきょう)や健康のことを考える町にしたい」と思う人がふえてきました。「水俣病というつらい、苦しい事件があったから水俣のマチがよくなったんだ。水俣の町に生まれ、育ったことは自分のほこりだ」と思えるようにしたいですね。
Q6−9−1 もやい直しとはどういうことですか?
A6−9−1 「水俣病10の知識」や「水俣病について知っておいてほしいこと」を見てください。
Q6−9−2 その中の「人と人との関係」の取り組みは、どのようなことをするのですか?内容を具体的に教えてください。
A6−9−2 例えば、水俣市民が水俣病患者の話を聞く「水俣病市民考座」というのが開かれました。水俣病犠牲者の魂(たましい)をなぐさめる「火のまつり」が一般市民が中心となって開催しています。ほかにもいろんな取り組みがあります。相思社機関誌「ごんずい」にも「もやい直しの年表」や特集記事がありますので、参考にしてください。
Q6−9−3 「もやい直しのもやいとは、もともと船と船をつなぐことや共同でことを行う意味です」と書いてあったのですがどのように船と船をつなぐのですか?
A6−9−3 「水俣病10の知識」にある写真を見てください。2艘(そう)の船が綱(つな)で結ばれています。「もやい船」と呼ばれています。
Q6−9−4 「共同でことを行ったりする」というのは、どういうことをするのですか?
A6−9−4 少し前までは大都会以外ではごく普通に「結い(ゆい)」とか「もやい」あるいは、「講(こう)」といったものが行われていました。地域の共有林をみんないっしょになって手入れするとか、お金を出し合って共同で水道を作ったり、神社の修理をしたりしていました。また、みんなでお金を出し合って必要な人に貸し出すというようなこともしていました。言葉は違っても「相互扶助(そうごふじょ=おたがいに助け合う)」という意味で共通していますし、いろんな地域で行われていたことです。