財団法人水俣病センター相思社
2011年10月18日
あばぁこんねメンバー:天野浩、高倉草児、松本仁美
埼玉大学安藤ゼミ:安藤聡彦、院生C(記録)、他学生22名
相思社:遠藤邦夫、永野三智、芳田弓生希
14:00 〜 天野浩さんの話
15:00 〜 天野浩さん、高倉草児さん、松本仁美さんと3グループに分かれて
16:00 〜 話したことの共有化と意見交換
18:00 〜 懇親会
天野:こんにちは。何日水俣はどうです?
学生:何度か来ているので懐かしい感じがします。
天野:外からの人からいろいろ聞いて発信したい。水俣のことだけをやっていても、自己満足になってしまうので、外のまなざしを借りて水俣を調べて発信していきたい。きっかけはみなまた環境大学で、私は起業をするという分科会を担当しました。あばぁのメンバーでは、私はお茶農家ですが、観光農園をやっている福田さん、保育園園長の井上さん、もじょか堂という一次産品を扱っている沢井さん、ガイアみなまたで無農薬農産物の販売や加工をしている高倉さん、久木野愛林館で森林保護をしていたけどその後水俣に住み着いた松本さん、みんなで集まって飲み会をしながらやりたいことを話した。水俣にこだわってやっている人がいることを改めて確認しました。月1回ミーティングをやってきて、この9月で2年になります。物販、新しい物作りにこだわっています。
遅くなりましたが、自己紹介です。天野浩と申します。エコなお茶作りかな。水俣東部の山中の石飛で、無農薬でお茶作りをしています。父が32年前に無農薬のお茶栽培を始めました。水俣で出来たものを売ってきたんですが、水俣と言うだけで売れない時期がありました。水俣産のものというと水俣病と関連させて考えるので、買ってもらえない。でも作ったお茶は売らないと食っていけませんから、それで家のおやじは考えて市民を1件1件訪問してお茶を売り込んでいきました。相思社にも早い段階から行ったようです。15年前から紅茶を軸に仕事を組み立てようとしたのですが、こちらは紅茶のつもりだったのですが、最初は「紅茶が緑茶みたいだ」とか「堆肥じゃないのか」などと酷いことを言われましたが、親父は試行錯誤を重ねて、「けっこうおいしい紅茶だね」と言ってもらえるようになりました。紅茶といっても新しい切り口じゃないと注目してもらえないので、無農薬に特化したお茶作りを32年間やってきました。最初は3ヘクタールでしたが、お茶の値段も下がってきて周りの人が辞め始めて今では6ヘクタール栽培しています。
市場には出さず自分たちで買ってくれる人を見つけてきました、いわゆる産直販売でしょうか。去年から大手の羊羹を扱っている和菓子屋さんで扱ってもらっています。それで紅茶が足らないくらいになりました。水俣病の風評被害をうけてやってきたのですが「状況がどうでも生きていかないといかん」というように、親父が前向きだったことがよかったです。ここでやっていくしかないと覚悟を決めていたんです。私は20才の時から親父と一緒にお茶作りをして、今年で16年目です。36才になりました。モノづくりもおもしろいのですが、なにしろ水俣は僻地辺境の地です。なにしろ都会から遠いんです。人が入って来るには遠いので、水俣のことは人伝えでないと見えてこないように思います。私たちは一生水俣に居続けます。「ここにいて良かった」と言えるように、水俣でないと楽しめないことを創らないと思っています。
あばぁこんねの会は2年前に立ち上げて、これまで物販とかをやってきました。水俣病の公式確認から50年以上たって、次の世代の人たちが活躍できる時代になりました。今までだったら言いたいことも言えなかったけれど、50年たつとそれも変わってきました。段々と新しい人と人のつながりができはじめた。それに伴って新しい村の形も考えられるようになりました。あばぁのメンバーも、メンバーの父・母の世代が会うとケンカになるかもしれませんが(笑い)、子どもの世代だと以前の対立を引きずったような「考え方が違うから一緒には出来ない」とかはありません。ここのところは意識してやっています。考え方・生き方の違いはあたりまえ、仲違いして疲れるよりも違いを利用して新しいモノをつくろう。あばぁのメンバーは、みかん農家、チッソの人、フリーター、役所職員、お茶農家など、共通していることはみんな「水俣に暮らし続けたい」なんです。水俣に来れば、挫折した人も元気になるような地域にしていきたい。
あばぁマルシェとして物販もしていますが、そこでは自分で作ったものを自分で説明して売っていくんです。直接売ることで良い反応も悪い反応も受け止めることができます。ひとりよがりでだめだったんだ、と反省もできます。ネットワークをひろげていこうと、今あばぁのメンバーは24人です。それぞれ仕事を持っていて忙しいんですが、水俣にいる20−30代は全部で2000人ぐらいですから、あばぁの目指すのはこの2000人のネットワーク作りです。その次には、物作りをしてる人はあばぁに参加しやすいんですが、会社の勤めの人たちもなにか活躍できる仕事を創っていきたいんです。今は、「海」というテーマでクリアファイルを作成しています。水俣の海を撮り続けてきた尾崎たまきさんに写真を提供してもらいました。
あばぁは、水俣に来た人たちに水俣の魅力を発信していく。それが自分たちに返ってきて再確認できたりする作業も大事です。なんでもどんどんやっていこうと思っています。同級生とも話をしますが、「水俣は面白くない」「買い物行くところもない」「何もない」というのが大半です。ないものねだりをして愚痴ばっかりでおもしろくなりません。自分で面白くすればいいんです。そうすれば忙しくなるし愚痴をいっている暇もなくなります。まずは味方をつくっているところです。新しいモノがわき出てくるようなおもしろい地域にしたいんです。杉本栄子さんが言ってた「イオ湧く海」に水俣がなればと思っています。真水が湧いている汽水の海は、小魚が育ったり傷ついた魚が傷をいやす場所なんです。「来たら元気になるところ」「新しい発見をするところ」に水俣をしていきたい。そういう考えも入れながら「さすが水俣だな」と言われるようにしたいんです。こんな話はいきなり始めても分かってもらえないから、まずは飲み会から始めてお互いの信頼関係を作っています。「おまえが言うなら仕方ないな」という関係を目指しています。水俣病の経験を前面には出さないけれど、根っこには持っておこうと思っています。お互いが引っ張ってきた人のネットワークで紹介しあって、知らなかった水俣を知ってもらいたい。これまでの水俣病の積み重ねの上に乗っかっているところもありますが、それは水俣で起きたことを、事実は事実と受け止めてやっていこうとしている。
遠藤:あばぁと天野さんの紹介をしてもらいました。この企画については、ゼミの安藤さんが心配していて「いったい何が起きるんだよ?」と言われましたが、私の説明はよく分からないようでした。先行きの不透明感には自分ながら心配です(笑い)。天野さんは「水俣には何もなか」に対して、「そうじゃない見ようとすればあるものはいっぱいある」と言われました。私はどこにおもしろさを見つけ出すかが重要なんだと思います。「消費社会も楽しい」でもいいんだけど、そればかりでないいろんな嗜好があって良いかなとは思います。私たち親の世代はほんとにもやい直しがうまく出来なかったけれど、親と子どもは違うと思います。親の世代から見ると、僕らができなかったことをあばぁの世代がやろうとしていることはとても嬉しいことです。私は相思社に勤めていて水俣病を伝えることが仕事と思っています。でも、伝えられる人の方は「伝えられて良いことありますか?」。私たちは「大事なことだから伝えたい」「発信したい」「分かってね」と思っている。でも受け取る方は選択的でいいんです。人それぞれで良いと思うし、すべて受け止めると大変なことになってしまいます。水俣病を伝えられて感動・悲しみもあるかもしれないけど、暮らしていくということはもっと大事です。
年配の人たちは「水俣をなんとかしないといけない」と思ってやってきた。でも考え方で対立して、ことを一緒にやることがうまくできなかったんです。でも次の世代はそうならないようですね。違うネットワークや発信力があるんだろうなと思います。過剰な期待をしているのかもしれないけどね。今手元にある相思社の機関誌「ごんずい」で、あばぁの座談会のつもりじゃなかったのですが、結果的にはそうなっています。それで昨年末には環境省の人があばぁのうわさを聞きつけて、忘年会を一緒にしました。天野さんが先ほど話されましたが、飲み会から始めようと言うのはとてもいいなあと思っています。ネットワークというけれど、その実態はお互いに顔を合わせて一緒に飲んだり飯作ったりとかがないと、役立つネットワークにはなりませんよね。このあたりのスピード感が、私たちとあばぁの違いかなとシャクだけど思います。
埼玉大学の人たちは今回、緒方正実さん、山下善寛さん、御所浦のトントコ漁、烏峠、中原八重子さんの話や体験を組み合わされています。埼玉大学とあばぁという異質なものの出会いは、相思社的には良いプログラムになるだろうと勝手に思っています。何が生まれるのかよく分からないけど、新しい出会い・ネットワーク・情報交換等々、いろんなモノが生まれ「愛も生まれるかも・・・」(しばらくして失笑)。
天野:私たちはお金を稼ごうというのが軸じゃないんです。吉本哲郎さんの言われる三つの経済、貨幣の経済・自給自足の経済・共同する経済。水俣に住んでいて貨幣は要ること要るけれど、自分で畑を作って米作ってというのは、年配の人たちが元気になる元です。若者はまだ気迫だけですけどね。3つのなかで、水俣でも貨幣経済が大きくなってしまっているけれど、自給自足の経済・共同の経済を再構築していきたいということが根っこにあります。あばぁでやっている一個一個のプログラムは、関心持ってもらったらやるという方式です。企画してやっていくと先輩ともつながっていくんです。仕事面でも返ってくることがあるし、助けてもらえます。自分がどういう地域に住んでいるのかは大事だけれど、水俣だったら生活にもネットワークにも幅があります。マチでは貨幣経済がほとんどですが、水俣では貨幣が50%・共同25%・自給自足25%くらいの感じもあるし、貨幣経済が10%くらいになればもっと面白くなると思っています。でもこの考え方は水俣だけではなく、全国どこででも応用は利くと思います。
遠藤:共同する経済で言えば、幸福感が大きな要素になっています。大根をもらう嬉しさってのは、ただでもらうという嬉しさもあるけど、経済という範疇で考えられない幸福感を感じるね。先ほど、天野さんは上品に東京の和菓子屋と言ったけど、「とらや」という一流の和菓子屋なんだよね。それを知って何よりもうれしかったのは、とらやのホームページに「熊本県水俣市の山間部、石飛で生産された国産の無農薬紅茶『天の紅茶』を使用しています」と書いてあるんです。私はそれが涙が出るほど嬉しかったんです。その昔、水俣のサラダ玉ねぎを紹介したテレビ番組では、生産地を「熊本県神川」ってテロップが付いていたんですが、市民の方が「水俣市がないじゃん」とテレビ局にクレームをつけたことがありました。水俣の子どもたちが修学旅行に行ったら、水俣から来たというだけで辛い目にあったこともありました。だからこのとらやのHPが嬉しいんです。すこしずつ認められることが広がると、もっとおもしろいことが起きるかも知れません。みなさんもとらやの紅茶羊羹を食べてくださいね。
天野:分かり易いのは、海老蔵が使ってくれたんです。私も最初、正直とらやって聞いてよく分からなかったんです。いきさつとしては、うちの紅茶を扱ってくれている紅茶専門店にとらやさんから、「紅茶羊羹を考えているから、国産紅茶のうち10種類くらいをピックアップして持ってきてくれ」ということだったんです。それで羊羹を作ってみたらうちの紅茶が一番羊羹に良くあっていたんです。お茶作りを32年間やってきたんですが「変人」とか「お金にもならんのに」とか言われ続けてきました。でも良い物をきっちりやっていると評価してくれるんだなと、改めて思いました。水俣の人たちがほめてくれるし、地元の郵便局の人が「天野さんですか」って自分のことのように喜んでくれるんです。水俣でも勝負できるんです。それを直に感じられるようになりました。ちょっとかっこよく言えば、ちゃんとしたところとちゃんとつながっていけば道はひらけるんです。あばぁのみんなで話しているのは、こだわってあきらめない人がいれば何かの形になっていく。だからメンバーも芯を持って5年10年後かもしれないけれど、必ず本物が続々でてくることになる。そんなプレッシャーを常に持ちながらですけど、良いものを創ろうと思います。
遠藤:ますます、遊ぶ人の茂さんには紅茶作りは任せられないですね。
天野:任せられないですね(笑い)。
■3つのグループに分かれて意見交換
遠藤:この後は、60分くらい3グループに分かれて、あばぁメンバーと埼玉大学安藤ゼミメンバーで意見交換していこうと考えています。どうぞよろしく。
グループ@(天野浩さん)学生Hさん発表
水俣に来る前と後で、水俣の色のイメージに違いがある。前:モノクロ、漆黒など暗い色。後は、青、緑、深く暖かみのある緑、青、明るくなったけど、どこか暗いとか。
あばぁの活動について。水俣カラー、水俣を色で表すと? 水俣バディ。細胞は何週間かでかわる。何週間か水俣にいれば、水俣一色になってかえりましょう。食べ尽くしてみなまたのものに。水俣カラーを単色にしてほしくないという意見。単色の国旗はない。色には意味がある。みなまたは、海、山。意味を持たせてほしい。一人でも多くの人が来て良かったと思ってくれるように、という企画。活動として、お金をかけないという考え。なぜか?お金があると考えなくなる。利益、都会的になる。みんな誰かが何とかしてくれると考えてる、そこからやらないと。
グループA(高倉草児さん)学生Aさん発表
高倉さんは地元を離れて関西の大学へ。東京・仙台などの会社を経て、今は生まれ育った水俣で両親が創ったガイアで働いている。地元愛、愛郷心という話が出た。愛国心、国のレベルではなく。愛せる心が大切。地元に対して、おいしかったもの、良い場所、大事な場所、とか質問をなげかけていった。高倉さんはすぱっと答えた。すぐにこたえられるのは愛郷心の現れ。自己紹介で時間が押してしまった。
グループB(松本仁美さん)学生Cさん発表
自己紹介から始まった。水俣の魅力について、一言ずつ。人との関わり、自然が豊か、海がきれい、毎年行く毎に懐かしい思いがするなど。松本さんからは、住むのと旅行とは違うという話。旅行で行くと魅力的でも、住むとなると仕事がないとか、どうやれば水俣で暮らせるかという話をした。森林保全をやりたいと思っていて、愛林館の活動としての間伐材の利用の話をしてくれた。熊本市からきた。どんな人に水俣を知ってもらいたいか。水俣の人ではなく、いろんな人に知ってほしいとのこと。自分と人は違うということ、違いがあるということは当たり前、それを認識することが必要。魅力の話で、なぜリピートしてしまうのか。海を見たい、歌を唱いたい、毎年夏にはもう水俣に行くのが当たり前だったなど。最後に休学する話が出た。休学している人が多いグループだった。意味がある休学はいい。自分のやりたいことがあるんだったら、いいんじゃないかと。
遠藤:報告してもらった。それぞれ突っ込みたいことあるだろうし。そこも含めて。
高倉:高倉草児です。ガイア水俣というところで、みかんを売ったりマーマレードをつくって売っています。
松本仁美:熊本から来ました。大学の時に愛林館に来たのがきっかけ。夏は毎年通うようになった。森林組合に就職したが、愛林館で1年働いていました。森林保全、何かできないかと思っています。
高倉:渡辺京二さん知ってる人はいますか? 水俣に来られたら、是非読んでほしい。
遠藤:一次訴訟の支援をした熊本告発をつくった人といっていい。草児くんは渡辺さんの「義理と人情」が好きということですね。
Q:高倉さんと松本さんに質問。水俣で事件があってつらいことがあった中で、若い人はどう考えてきたのか? あばぁに参加するようになったきっかけは?
松本:私の入口は久木野の愛林館でした。水俣病や海と関わり始めたのはここ2年くらいかな。水俣=水俣病というイメージは薄かった。あばぁは活動に惹かれてというよりは、山手に住んでいて、町の人との接点がなかった。町の若い人たちとつながるということがきっかけ。飲んでる内に、力になれることがあるのかな。わいわいやってるのが楽しそうなので参加した。
高倉:面白いことやってると聞いた。友だちが帰ってきたときに、「おもしろいことやってるね」と思ってもらえるようにしたいんです。父は川本輝夫さんについて支援活動をしてた。水俣には多かれ少なかれしがらみがある。すべてのしがらみはぶっ壊したいと思った。あばぁだと壊せるかなと思った。
Q:ぶち壊すことは?
高倉:まだまったくわからない(笑)。一生をかけて探っていこうかな。
天野:起きたことは良かったとか悪かったとか思っても、過去には帰られない。水俣の未来は私たちが創っていくしかない。水俣のかたちをどう創るかということにある。高倉くんのところみたいに市民権を得てないような団体(笑い)もいまだあるし、水俣の中でも関係がずたずたなんです。私は山の人間です。水俣のことに客観的に対処できるポジションにいたのが大きい部分もある。それを上手に使ってこれからのありかたを考えてみたい。ただ年上だからあばぁの会長なだけですけど。あたらしいことを水俣で起こしている人が増えています。今日もせっかくつながったので、後方支援してもらって、埼玉大学の人たちから「水俣はどうなってるの?」って、いじってください。水俣に来たいという人がいればいんですが、課題もあるけどね。
松本:住むところが問題なんです。水俣は空家は多いけれど貸す人はいないんです。
遠藤:相思社に泊まっているとマチで言うと、田舎の場合は「わらじを脱いだ」ところで関係が決まるようなところがあって、人はそういう風に思うよと言うことがあります。
安藤:このゼミにはリピーターが多い。水俣に魅力があると思っているんだと思います。いろいろあると思うけど、単発的にくるのと生活の視点は違でしょう。外から来た人にはしがらみなんて全く見えません。あばぁの人たちは何が水俣にあって、何が不足してると思っているのか、そこらへんを教えてもらいたい。
高倉:とりあえず「情け」を重視しているんですが、水俣で喰いっぱぐれることはないと思う。実際に餓死するかしないかという意味ですけど。でもそのことの発信力がない。
遠藤:僕は水俣には発信力はあると思っている。三里塚の相川さんという人と知り合いになったんだけど、70年頃は三里塚の方が光り輝いて見えていました。40年たってみると、水俣はこんなところというあるモノを蓄積してきた発信力が、少なくとも三里塚より水俣の方があると思います。僕も最初水俣に来たときは、水俣病患者に会いに行くもんかと思っていました。水俣に来て水俣病のことをするのは当たり前すぎて、何かなるべくふれあいたくないと思っていました。一概に支援者なんて言われていますが、個々人に聞くと中身は多様です。いろんな関わり方や入口があって良いと思うようになりました。
松本:いや私は水俣の発信力は弱いと思っています。例えば熊本県の観光ガイドブックを開いたときに、阿蘇、天草はたくさんのページがあるけど水俣はちょっとしかない。今は人吉の方が元気なくらいです。条件的に近い人吉との違いって何でしょうか? モノは負けてなくて、やっぱり発信力違いかなと思います。
遠藤:確かにそれは僕らの力ではできなかった。水俣病をうまい具合に調整しつつ、明るく発信するのは難しいんです。僕らが作ると、どうしても水俣病が多くなってしまうんだよな。ぱっと見たときに行ってみようと思うようなガイドブックを是非、あばぁの人たちに作ってもらいたい。人吉にしたって、萩にしたって、観光だけではない文化や食べ物や自然をちゃんとかいたガイドブックがある。
高倉:旅行に行きたい時何を見る? ご飯、温泉、ほっとできるような場所とかだよね。
天野:どういう風に生きていくのか。自給自足でやっていきたいとか、観光とか。市の人とも話すと熱い思いを持ってる人もいるけど、方向がさまざまです。あばぁもこうやってるけど、いろんな人と共存はしたいけど、どうしていいのか分からない面もあります。お互いの距離を縮めていければ、あばぁはそうしたことの媒介となりうる可能性を持っているので、じっくりせんといかんのだろうけど、スピードもあげていかないとも思う。
Q:商店街のテナントが高いのは何故ですか?
遠藤:出水だと土地単価は水俣の60%かな。水俣は平地が少ないというのもある。空家をどう利用するのか大きな課題ですが、「環境で飯を喰う」とおもしろいことを言ってるけれど、言ったっきりになっている。それを話し合う場ができていない。
高倉:マチ中は敷居が高いんですよね。
松本:商店街もシャッターが閉まっている。賃貸料が入らなくても資産や年金で食っていけるから、下げてまでも貸したくない。
天野:「あんたが言うならしょんなかったい」と、そんな人が間に立つと話は違うんです。「お疲れです」みたいな感じでつきあいたい。今の風景を打ち壊してまで高層ビル街にしたいわけでもないし、自然と生産と暮らしがうまく連動すればいいんですが。人のつながりをガッツリやらないと大きなことはできない。
Q:全員が納得してできるような、マニフェストみたいな。それを作るのが難しい?
天野:水俣の中でも地域地域に行くと言葉も違うし、水俣はは昔から土地が薩摩にいったり、相良にいったりさらに水俣病事件が起きたり、いろいろと大変なところです。
Q:一人一人に話を聞いていくというのも、できるのは行政との関わりはどうですか?
松本:あばぁのメンバーにも行政の人はいるんですが、上をうごかせるだけの地位にはいないんですよね。
遠藤:マニフェストができないとわけじゃなくて、例えば水俣市の総合計画にはいいことが書いてあるんです。しかし、そこに汗を流して集中するのかというと、それはできていないんです。総論はいいが各論になると進まない。天野さんと「とらや」の話がありましたが、一つの成功体験から新しい局面を作っていくことが必要かなと思っています。信用・信頼をどうやって作っていくのか。特にあばぁはその信用を蓄積中かな?
Q:市長は水俣の人?
天野:国語の先生でした。一緒に仕事できるかというとなかなか難しいところがあります。私たちが欲しいのは、きれいな言葉ではなくてきちんと行動を残してくれる人が必要です。
松本:この前の市議選挙を見てびっくりした。市議会選挙はドラマティックだった。都知事選でも50%とかでしょ。水俣は80%です。町議選じゃなくて市議会選だよ。逆にしがらみがスゴイんだな思いました。
■2011年度水俣病情報発信事業の一つの企画を終えて
「あばぁこんね・埼玉大学 意見交換会」の設定は、今年度の水俣病情報発信事業のプレゼンテーションで、審査委員から「埼玉大学の学生たちが毎年水俣に来ているとのことだが、その時に水俣の人々との出会いが企画されると興味深いのではないか」という意見が出された。しかし6月末に審査結果が出される予定だったが、環境省もしくは熊本県の事務処理が遅れ、7月半ばを過ぎるも何らの連絡がなかった。埼玉大学が8月末に来ることは決まっていたので、担当の遠藤は熊本県に結果を問い合わせた。県の担当者からは「未だ結果をお知らせすることはできない」との返事だったが、遠藤はそのことに納得できず「どこの仕事が滞っているのか教えてもらいた。県ならばその責任者、環境省ならばその担当者を教えてもらいたい。私が直接電話する」と述べると、「少々お待ち下さい。こちらから電話します」とのことだった。しばらくして「決定とは言えないが相思社への補助金は申請通りでますので、計画を実施してください」との返事があった。6月末に来るはずの結果は、9月になっても来ておらず一体どういう始末になっていることやら。以上が当事業の置かれている状況である。ただこれらのことは、相思社の8月25日と9月9日の事業内容に影響を与えたわけではないが、同事業の別の主体では、連絡遅れによって関係者が信頼を失うという事態が発生している。
さて「あばぁこんね・埼玉大学 意見交換会」は、結論的に述べれば大成功というほどの成果は確認されていないが、水俣での新しい出会いと課題発見のきっかけになったのではないかと考えている。実際の進行は、埼玉大学安藤聡彦さんから提案された。担当の遠藤は両者が出会う場所を設定し、実際に顔と顔を合わせて意見を言い合えば、それで充分だろうと楽観的に考えていた。
しかし埼玉大学の学生たちにとってこの自主的な水俣フィールドワークは、特に大学の単位などに数えられるわけでもなく、交通費や水俣での宿泊費やその他費用は全額自費負担で行われている。さらに安藤さんによれば「彼女(遠藤註:出水の水俣病患者)に学生たちが会いたがるのは、まさに彼女の『自己開示』力によるというか、自分を、その内側にある煩悶や葛藤を外に出す力によっているのだと思います。あと、もうひとつは、<私>と<あなた>という関係で『つながれる』という感覚。学生たちにしてみると、私を私としてみて彼女にとらえられ、語りかけられる、という営みを通して、水俣病という世界がぐっと近づき、そこから人間の苦悩とか、社会とか、歴史とか、いろいろな風景が広がってくるわけです」という学生たちの真摯な態度からすると、遠藤の場と機会を用意すれば何かが生まれるだろうという楽観的な姿勢は、あまりにも埼玉大学の学生たちの姿勢とかけ離れていた。
とはいえ8月25日の意見交換会に参加してくれた「あばぁこんね」の天野浩会長のお話と、高倉草児さん・松本仁美さんを交えての意見交換およびその後の懇親会での懇談は、水俣にとって有意義であった。ただ意見交換会と銘打ちながら、実質的にはあばぁの天野さんによるあばぁの活動の紹介と、あばぁの目指すところを聞いてもらったに止まった。その後の小グループ討議でもお互いの自己紹介をでるものではなく、まとめの話し合いにおいても特に学生たちの受け止めや疑問に応えられたとは言い難い。つまり意見交換会としては、なされた議論も不十分でその到達点も定かではなく、性格的にはあいまいなままだった。その責任は楽観的な組み立てしかできなかった遠藤に全てあり、その点では埼玉大学の学生たちとあばぁメンバーには申し分けなく思っている。こうした企画については、事前に安藤さんおよび埼玉大学の学生たちとの打ち合わせが必要だったが、そのために十分な努力が払われなかったことに尽きる。来年も同様の企画を行うならば、情報発信事業の結果如何に関わらず実行できるような準備を整えて起きたい。
遠藤の言い訳を少ししておくと、一つは学生たちを熟知していないことに加えて、「あばぁこんね」グループの外部に対する志向を良く理解していないことがあり、いったいこの両者の出会いがどうなるのか予測できなかった。ただ両者とも水俣に対して真剣に取り組んできたという事実は知っており、その出会いから新しいモノ・新しい関係が生まれるのではないかと期待していた。「その程度の考えでこんな企画をしたのか」という安藤さんのため息が聞こえてくる。安藤さんの遠藤の楽観への不安は正当なもので、「遠藤さんのことをぼくは大好きですし、敬愛しているのですが、この点は『楽観なんてできないよ』という気分です」というメールをもらい、やっと当日の進行如何によっては、学生たちの水俣の受け止め方すら変わるかも知れないと思うようになったしだいだ。これは遠藤の実践に対する態度が、「やってみなければ分からない」を金科玉条として、当然準備すべき手はずや段取りを極めて手抜きしていることを、図らずも表してしまった。少し反省している。更に8月25日の意見交換会の進行が、9月9日に予定されていた埼玉に於ける座談会にも影響を及ぼす可能性すらあったことが、安藤さんから指摘されている。
日時:2011年9月9日 14〜17時半
場所:埼玉機関誌協会(部屋名称:コラボ21)@埼玉県さいたま市
出席者:吉永理巳子、吉永利夫、遠藤邦夫、永野三智、安藤聡彦、埼玉大学学生13人、院生3人 計21名
・吉永理巳子さん「水俣病を生きる;自己を開示すること」
・吉永利夫さん「水俣病を生きる;自己を開示すること」
・質疑応答/討論「自己の水俣病について語ること/応答すること〜その関係性をめぐって〜」
special thanks 安藤聡彦と埼玉大学の学生たち(会場準備をしていただきました)
****************************************
安藤聡彦:今回は吉永さんご夫妻とそして永野さんとですね、それから遠藤さんの四人をお迎えしています。今日は「水俣病を生きる;自己を開示すること/応答すること」をテーマにして、吉永理巳子さん、吉永利夫さんにお話をいただいて、その後討論に入っていきたいと思っています。学生の皆さんは吉永さんご夫妻とは初めてお会いすることになるんですが、1人30秒から1分くらい簡単に自己紹介してください。名前もそうなんですが、水俣何回行ったことがあってどんな印象持っていますとか、簡単にやっていただければと思います。
学生L:埼玉大学3年のLと申します。水俣合宿は1年生の頃から今回まで3年間で3回行っております。今年行って思ったのは、私は海と空がとても大好きで、1年生の頃からそれが見たくて参加させていただいたんです。それは3年経った今も変わらなくて、毎年行くのがとても楽しみです。夏の自分の中では行事の一つになっているくらい。あとはやっぱり、こっちとはちょっと違う人の暖かみとかをいつも感じさせていただいています。お世話になっている相思社さんも、まるで自分のおばあちゃん家おじいちゃん家のような感じで、勝手に思わせていただいているんで。本日はよろしくお願いいたします。
遠藤:質問をしていいですか? どちらのお生まれ?
学生L:生まれは埼玉県の蕨です。
学生A:埼玉大学の3年生のAといいます。私も水俣合宿は今年で3回訪れさせていただいています。私にとって水俣は、さっきLさんも言ったんですけど、本当に自然が豊かなところで、癒される場というか、本当に毎年楽しみに行かせていただいているんです。水俣合宿参加して、水俣の自然の中っていうのもそうなんですけど、お話を聞かせていただく方が自分の気持ちを素直にお話してくださる中で、その中で一緒に共有できるっていうことです。自分自身が今の場だと自分がなかなか素直になれないことがあるんですけど、水俣の地に行くと自分が素直になれるっていうか、自分と向き合える場だなというのが、水俣3回通って今思っていることです。今日はよろしくお願いします。
利夫:生まれはどこ?
学生A:母の実家が群馬で、生まれたのはそこなんですけど。住んでいるのはずっと埼玉の川口です。
永野:お母さんが里帰り出産だったってこと?
学生A:そうです。
学生B:2年生のBです。私も1年生の時から合宿に参加させていただいたので、今年で2回目になりました。私も空とか海とかきれいだと思うんですけど、星もすごくきれいです。いつも相思社さんの横の道路に寝転がって星を見るのが好きです。ずっと寝転がっているんで蚊に刺されます。蚊が大きいことが印象的で今年も紫に腫れましいた。こっちにはいないなと。
お話とかを聞かせていただいて、受け取りたいなと思って聞くんですけど、やっぱりこう自分についても考えさせられるというか。今萌さんもおっしゃっていましたけど、去年行ったときは初めてだったんで、いっぱいいっぱいでした。だから今年は受け取りたいなというのが強かったんですけど、2回目行ってみたら自分について考えさせられる場だなというのを実感したというか。よろしくお願いいたします。
院生A:大学院の修士2年のAと申します。水俣へは今年で5回目です。いつの間にか一番上の学年になっていまして、なんで5回も行っているんだろうなと考えますと、行けば行くたびに分からなくなるなっていうのはあるんですけど、やっぱり行きたいなって毎年思う。それが何なのかなっていうのは卒業するまで考えたい。今日の機会を通じても考えていきたいことではあります。よろしくお願いします。
院生B:はじめまして。私は埼玉大学大学院2年のAと同じ学年のBです。私は水俣には過去に2回訪れていて、学部3年生の時と去年修士1年の時に行かせていただきました。私にとってこの水俣っていうのを振り返ると、やっぱり自分の人生、まだ24年しか生きていないんですけど、人生の転機みたいなところがあって大学院の修士に進むのは3年生の時に水俣に行って、そこで学んだ、初めて自分が自分から学んでいるなっていう感覚を得たことで、なぜか修士に進んでしまったんですけど。そういうところがあるので、自分の原点みたいなところを見つめ直すにも水俣っていうのが大きいので、今回も私は特に一人ひとりの方の語りを大事にしたいと思って参加させていただきました。よろしくお願いします。
学生C:1年のCです。1年生なので水俣は今回が初めてだったんですけど、自分は水俣病については未だに難しくて、合宿の事前学習を通しても難しいと感じていました。だけど行ってみて、実際に緒方正実さんとか中原八重子さんとかに会って、水俣病患者としてじゃなくて人として会ってみて実感が湧いたというか、分かったというか、人柄だけかもしれないけど、その背景とかも一人ひとりずつではあるけど分かってきたのはあるかなって思っています。自分自身のことだと、水俣合宿に行く前はいろいろ悩んでいることがあって、水俣合宿に対して悩んでいるのではなくて、自分の今までの生き方であったり性格とかについて悩んでいます。水俣は時間がゆっくり流れているし、いろんな人と接する中で自分これからどうするかとか。まだ結論が出たりとか、今大きな変化があったりしないけどちょっと光が見えたというか、そんな感じがして。これから2年3年と行こうと思っているんですけど、その中で自分の生き方とかそういう部分も見つけられたらなと思います。
安藤:「あばぁこんね」さんとの話をしなよ。
学生C:自分が一番印象に残っているのは「あばぁこんね」の方々との懇親会で、飲み会みたいなやつなんですけど。自分はEさんとあばぁの松本仁美さんっていう方が近くにいたんです。その人は高校時代から森林保全に興味を持ち出して、森林のことが知りたいと思って休学して、1年間バイトしてカナダに1年間留学していたらしいんですけど。その時に自分は日本のことを知らないなというのを感じたと話してくれました。カナダの針葉樹林のことは知ったけど、日本のことは知らないという部分もあるけど、日本の文化とか日本のよさとか、日本人の人柄とか着物の着方とかいろいろあるけどそういう部分を知らないな、と。そのことを自分が聞いた時に、今回はカナダに行ったわけではなかったけれど、自分自身は何回か海外に行ったことがあったけど、自分は日本があまり好きではなかったんです。海外に飛び出したいと思っていたんですけど、それでも今回日本のよさとか日本人だからかは分からないけど、日本人の暖かさとかを知ることが出来て、これからもそういうよさとかを知っていきたい。まだ1年生だから後4年くらいあるから、今までは外国のこといっぱい知りたいと思っていたけれど、日本のことも4年間で知っていけたらなっていうのを感じました。
学生D:1年生のDと言います。水俣に行ったのはこの夏が初めてです。出身は東京です。水俣の印象は行く前から自然が豊かで、空も海もキラキラしているよって先輩方に言われていたんですけど、本当にきれいだなって思いました。海も太陽で光ってキラキラしていて、得体のしれない虫の鳴き声(笑い)がっていう印象でした。あとは、語り部の方とか「あばぁこんね」の方とかいろんな人の話を聞いて、この合宿は受け止めるのが精いっぱいでした。例えば緒方正実さんの「正直に生きる」ってお話があったんですけど、「正直に生きる」ってなんだよって思って?
遠藤:聞けばよかったのに。
一同:(笑)
学生D:例えば自分がやりたいことをやろうとしても、ある意味それ正直なんじゃないのって思うんです。でもやりたいことって結局目先の幸せとかに囚われちゃって、あれちょっと違うのかなっていうふうに、いろいろ考えたり悩んだりしているところです、以上です。よろしくお願いいたします。
学生M:埼玉大学1年のMです。初めて水俣に今回行かせていただきました。水俣の印象は空も海もきれいだったし、夜星がきれいというのが印象なんですけど、きれいだからこそ水俣病っていう事件が起こったっていうことが自分の中では結構辛いものでした。あとは語り部の緒方さんだったり、中原さんだったり、「あばぁこんね」のみなさんだったり、話を聞いて自分は何をしなきゃいけないかということを考えていて、それは自分の中で話を吸収してそれを自分の中で活かしていく、これからの生活の中に活かしていくことが自分に出来る事かなと思っていまして。水俣を通じて感じたことは、自分は人に対して何か壁をつくっている部分があった。だから壁をつくらずに、もっと自分の素直な気持ちを人に伝えていけたらなと思っています。よろしくお願いします。
学生E:同じく1年生のEと言います、よろしくお願いします。水俣には今回初めて行かせていただいて、大学に入ってコラボ(教育学部コレボレーション教育専修)で水俣病の勉強をするまでは、水俣病っていうのは私にとっては教科書に載っている公害であるとかそういう知識でしかなかったんで、水俣合宿の事前学習をしながら本当にいろんなことがあるんだなということを感じました。今の段階では一つのものが見えてきたりっていうことはまだまだ分からなくて、お話を聞かせていただいたんですけど、そこから私がどうやって吸収していこうかなってこともまだ考えている、ちょっとまとまらない状況なんです。水俣に行って一番印象に残っているのは、いろんな人と出会うことが今回できたので、その人たちが暖かくて、本当に患者さんの方のお話を聞いて、あと全然知らないおじいちゃんおばあちゃんと喋ったりとかもあったんで、それが今回私の中ではよかったなと思っています。今日はよろしくお願いします。
学生F:1年のFです。水俣に今回初めて行きました。大ちゃんと一緒で、海とかやっぱきれいだなって思ったんですけど、その中でお話を聞いてモヤモヤするのが大きくて。今回の合宿を通して、知らないことが多すぎるなってことに自分で気づきましいた。だから合宿をきっかけにもっと知っていきたいなと思いました。今日はよろしくお願いいたします。
学生G:2年のGです。私は水俣病について知りたいということで参加させていただいたんですけど、それは教科書だけの水俣じゃなくて現地に行って本当の水俣病を自分が知るっていうのが目的でした。実際に行って水俣病を知ったというよりは、水俣病によって自分を知ったということでした。例えば水俣病患者さん自身のことを知ったりとか、その人が暮らしてきた環境を知ったり、水俣病について勉強しに行ったのにそうじゃない気がしたんですが。そういうふうに違うなと思って、水俣病を最初は教科書で知って、頭の中で教科書の中での水俣病を想像して行っちゃったので、イメージが固いというか重いものだと思っていたんですけど、実際に行ったらその人自身がどういうふうに生きてきたか聞いて、自分がどう感じるかとか。例えば私が一番印象に残ったのは、先ほども出ていたんですけど、緒方正実さんの正直に生きるでした。でも私はそれを聞いて衝撃を受けて、自分は今本当に正直に生きているのかなって。正直ってなんだろう。「正直にいい悪いはない」って緒方さんはおっしゃっていて、「今自分が感じたこととか思ったことが、それ自体が正直な気持ちなんだよ」っておっしゃってくださったので、じゃあ今までの自分は何だったんだろうって考えてしまって、今回の水俣合宿はモヤモヤ感があふれ出ていたんですけど。
私は福島の飯館村の被災された方々に聞き取りに行ったんですけど、人の気持ちを知ったり自分の気持ちを知るっていうのは、人の気持ちを知ることが自分の気持ちを知ることにつながっている気がするというか。うまく整理しきれていないんですけど、モヤモヤ感が晴れるきっかけを水俣合宿では得たかなという気がしました。
学生H:3年のHと申します。水俣には1年生から3回目です。今ここ来る前に「なぜ自分は水俣合宿に行き続けているんだろうな」って考えていて、1年目は先輩方が海きれいだよとか魚おいしいよとか。本当になんか大学生だし遠いところで勉強するのもいいかなって、当時のよく分からない考えから実際に行ってみて、本当に言葉通りだったので、また来年も行きたいなと思って、また2年の時に行きました。そしたら今度は「なんで自分はここに来ているんだろう」って問いにぶつかり、結局それはモヤモヤとして残ってしまいました。また来年行こうかという話になり、いつの間にか水俣に立ってたそんな感じです。3年も行っていると、自分と水俣をどうつなげるかみたいなことを考え出すようになって、前2年がなんで行っていたんだろうって後悔というか。
埼玉大学一同:後悔!?(笑)
学生H:後悔というかなんというか。今年は割とそういう目的意識というかをしっかりと持って行こうと思って行ったせいか、前2年はもったいないことをしたな、楽しんで終わっちゃったなと思っていたんですけど。それでもやっぱり自分は頭の回転が鈍いというか、答えを出すのに時間がかかる人間なので、今年も水俣行って自分と水俣の関係性というか。特に緒方正実さんの正直に生きるっていう話が印象に残っていて、去年も同じ話を聞いたんですが。緒方さんの後に山下善寛さんの話もあったんですけど、2人の話が共通しているというか、自分で思い込みかもしれないんですけど、やっぱり2人とも同じようなことを言っている感じがしてます。自分たちの水俣病の経験を他の人に活かしてというか、「それをどう活かしていくかは君たち次第だよ」っていうことを暗に突きつけられている気がして、今それを考えているところなんです。う〜ん、どうすればいいんだろうっていう時点で、水俣から帰り現実から目をそむけつつあるんですけど。モヤモヤを断ち切ろうとすべく、今日も来ました。よろしくお願いたします。
学生K:特別支援専修3年のKです。
安藤:障害児教育の勉強をしている。
学生K:出身は東京の町田です。水俣合宿っていうことに関して僕は二つあるんです。一つは水俣合宿っていうものがなかったら、僕にとっての大学生活の活動は限りなくゼロに近いということですね。それはなぜかというと、最大の理由として人脈なんです。安藤先生の尻にくっついてって、同じ学年のコラボ(教育学部コラボレーション教育専修)のやつらにくっついてって、今年は水俣合宿の後屋久島行ったんですよ。水俣合宿がなかったらそういった大学生活の活動が全部ないんですね。いろんなもの繋がっていって、今の学びの実りがあるので、そういった意味では水俣合宿は非常に大きい財産ですね。
二つ目は、H君はカメラが趣味で非常にいい写真を撮るんですけど、今日ここに来る前にその写真を見てきたんですね。今回の水俣合宿の写真を見てきて、まあみんないい顔しているんですね。水俣っていうのはそういういい顔ができる、そういう環境なんだと思いますね。埼玉に戻ってくるとみんななんかね、湿気のせいか湿っぽい。水俣にいるとカラッと元気な顔をしているんで、そういう場所が水俣だと僕は思います。よろしくお願いします。
学生J:4年生のJと言います。出身は神奈川の横浜です。僕は1年生のころから水俣に行っているんですけど、その時にうちの母に「今度水俣に行くことにしたんだよ」って言った時にですね、母が僕に一言っていうのが「えっ、なんで今更水俣なんかに行くの」って。安藤先生の1年生前期の水俣病の授業っていうのがあって、それをきっかけとして「水俣合宿に夏休み行きませんか」ってなるんです。でも、母の一言を聞いた時に僕は授業で水俣病のことを多少なりとも知っていたので、まだいろいろ行ってみないと分からないこともあるんじゃないのかなと思ったんです。母からしてみれば水俣病っていうのはもう終わったことってなっていて、それが不思議だったんですよ。それがきっかけで行ってみて、確かにこれは自分から関わっていかないと、母がもう終わったこととして認識していたように自分も知ることはなかったんだろうなって感じたんですね。そんなことを思いつつ2年3年と行きまして、行って何か惹かれるものがあったなと。それはやっぱり今まで話されていたようなことを自分も感じていたなと思って、でも毎年迷うんですね、今年も行こうかな行かないかな。でも、自分に問いかけてみて水俣に行かない理由がない。行かない理由はないから、じゃあまあ今年も行ってみるかって思って行くと、更に迷わされたりあるいはいろんな大事な気づきもあったりしたんですけど、そんなことがあって今日もやっぱりお話を聞きたいなと思ってきました。よろしくお願いします。
遠藤:君のお母さんは何らかの社会運動をやった経験がある?
学生J:いえ、うちの母は普通の母でございます。
安藤:ちゃんと聞いたことあるか? 昔お母さん何やってたかって?
院生C:おいくつなの?
学生J:今年で55です。母が高校生の時に同級生がある日突然学校を辞めて、どこ行ったかというと水俣に行ったって。それでよく聞くと当時付き合っていた彼が学生運動やってて、それでどうやら水俣で活動をしに行くからついて行ったって話を聞いたんですけど。
安藤:今度ちゃんと名前聞いといてね。
学生J:はい。
安藤:あと、新潟も行ったんだよね。それをちょっと一言だけ。
学生J:大阪にあるあおぞら財団が公害病のスタディーツアーを企画していまして、それで去年は新潟の水俣病っていうことで行ったんですね。その時に僕が参加したグループの活動が、新潟水俣病の裁判に関することで、弁護士の方に和解に向けた裁判をおこなっているお話とか聞いて。患者の人にもお話を聞いたんですけど、そこで一言印象的だったのがいろいろ水俣病を巡っての問題はあるけれど、今は自分の体のことが心配で、今後の生活のことが心配だって言われていました。非常に現実問題としていろんな水俣病って抽象的に難しいこともあると思うんですけど、その人にとっては日々の生活ができるかできなくなるかっていう瀬戸際に立たされているのが、これは本当に深刻だなと思って。それをそのまま放っておくっていうのは、どうかなということを去年感じました。
院生C:こんにちは、大学院の修士1年になりましたCです。まずは遠路はるばる今日はありがとうございます。私と水俣の付き合いはもう6年目になりました。何回行ったかカウントができないんですけども(笑い)、なんだかんだで毎年お世話になっています。さっき学生Jが言ったように、私も最初は学部1年生の安藤先生の講義で水俣病と出会い、そこで最初「水俣病をやります」という話を聞いた時に、「えっ、水俣病?」っていう。
安藤:やめてくれ、と(笑)
院生C:やめてくれも何も、「なんだっけそれ」っていうような認識でしかなくて、そんなことを同期の友人とかと話していたのを未だに鮮明に覚えているんです。そこから講義の中で土本監督のドキュメンタリーや水俣病のいろんな本を読んだり、あと夏に今回もお世話になった水俣合宿という形で、いろんな方のお話を聞きながらどんどんどんどん自分が何も知らなかった、だけれどもどこか分かったようなつもりになっていた。そういうことを何度も何度も、それが自分に突き当たるっていうような経験がある中で、もっと知りたいな、「何なんだろうこれは」って衝動に突き動かされて、なんだかんだで6年通い続けているなというように思います。
出身は埼玉県の熊谷市というところなんですが、いろんなところを転々と地方都市というか都市周辺でずっと生活してきました。さっき学生Hも言っていたんですけど、なんで行くんだろうみたいなところもありつつも、もちろんもっと知りたいという気持ちと共に、お話いただく方であったり、水俣の自然と言われてもイメージが全然つかないところから、水俣の風土性っていうんですかね。驚きと共にこういうところって肌に合っているなっていうところもあって、どんどんはまっていくっていうことがありました。それで昨年度学部の卒業論文を書いたんですけど、それは相思社が行っていた実践学校であったり生活学校であったり、そういった実践を今追っかけているんです。そういう中で少しずつ「自分はなぜ水俣に行くんだろう」って問いをもう一度起こしているようなところがあります。公害と環境問題が全く結びつかないような世界で生きて来て、公害っていうものはもう終わったものだ、過去のものだっていう認識がどこかにあるように思います。公害をきちんと伝える場がないまま、一方でエコエコってことが言われている。その歪な関係っていうものを自分は考えていきたいんだなっていうことを思いつつ、今年もお世話になっているということになります。今日はよろしくお願いいたします。
学生I:2年のIと言います。私は水俣で「本当に終わっていないんだな」と思ったんです。私は2年生で初めて行ったんですけど、去年は行ってどうするのかなとか、学生とかが行って失礼じゃないかなとか思ってたんです。今年行ってみてやっぱり自分の水俣への付き合い方接し方とかが、未だ自分の中ですっきりと確立は全くしていないんですけど。大学入って、例えば水俣と出会っていく上で、いろんなことと出会う時にどうしたらいいんだろうって思っています。別に自分が一生それに尽くしていこうとか思っているわけじゃないから、何をやる時にもどうすればいいんだろうと思っていたんです。水俣行ってどの方も自分の生き方を話してくださって、それと接することと一生やっていこうということより、まずその時出会った人と自分のこれから生きていく上で感じ取れること、感じるだけでもいいから、それでもいいからいろいろやってみることがいいんじゃないのかなって思いました。今回水俣行くことで、これから大学生活できっとまたいろんなことがあると思うんですけども、そういう接し方とかスタンスとかちょっと自分の中で出来た気がしています。私は現地に行ったのは実際初めてだったので、これなら来年も行けたらいいなと思います。
みんななんかモヤモヤとか言ってたんで、私も違う種類のモヤモヤが一つだけあるんです。みなさんお話してくださる時に、先輩からも言われるんですけど「これからそれをどうしていこう」というより、「まず受け取ってくれたらいいんだよ」っておっしゃってくださるんですけど、でもやっぱり実際私たちが伝えていかなければ、実際今原発のようなことだって起こっているわけだし。起こっているわけじゃないですか。だから受け取るだけじゃ、次のことが実際起こっちゃっているんだから駄目じゃないかとも思う。でも自分が今伝えていこうと思っているわけでもないし、でもなあっていうそういうモヤモヤです。今日はよろしくお願いします。
安藤:はじめまして、安藤と申します。埼玉大学に来て13年ぐらいです。水俣の合宿を始めたのは2005年からですから、今から七年ぐらい前から始めました。
やっていることは環境教育とか、公害教育とかっていうことをずっとやっておりまして、自分の大学の恩師もそういうことをやっていたので、水俣のことに関心はずっとあったんです。学生さんたちがよく言うんですけど、僕らの頃の水俣はいろんな意味で遠いところがありました。いろんな意味で、物理的な距離も遠かったですし、それからやっぱり運動の激しさとかいろんなことがあって、そういうことの中でなかなかやっぱり踏み出せないで来ていたということがありました。さっき学生J君のお母さんの話がありましたけども、僕も学部二年生の時ゼミがあったんですけど、全く同じなんですけど、ある日突然友達が「大学辞める」って言って、「どうすんだ」って言ったら「水俣に行く」っていうですね。こないだから名前を思い出そうとしているんですけど、2か月ぐらいしか一緒にいなかったものですから、これからはちゃんと聞いとこうと思うんですけども。そんなことがあったりして、僕自身はその頃重度障害者の支援の活動みたいなことをやっていて、いろんなことで?がりを感じていながらも水俣には来てなかったんです。
2000年代の初めぐらいに水俣に行ったんですけど、その時にほっとはうすさんに行って胎児性の方とお話をしていた時に、本当に恥ずかしい話なんですけど、この人たち僕と同世代だっていうことが衝撃でした。その瞬間に、永本さんと話をしていた時に、研究者としては言わなきゃいけない、やんなきゃいけないということはあったんですけども、自分の世代の問題だって改めてその時気が付いたみたいなとこがあってですね。それで自分の世代の問題なんだから、後の世代の問題でもあるはずだっていうですね、それでもって合宿やりはじめたんです。2005年に初めて行ったとき10人ぐらいだったんですけど、正直言ってよく集まったなと思ったんです。まさかこんなに長く続くとは思っていませんでした(笑い)。リピーターが出るってことも思っていませんでしたし、僕にとっても水俣合宿っていうのは面白いなと思っています。今日は吉永さんたちや相思社さんのお力を借りて、何をやっているのかどっかで分かるといいな思いながら参加させていただいてます。どうぞよろしくお願い申し上げます。
遠藤:安藤自主ゼミって随分謎が深い取り組みだなと思うんですよね。単なる僕の疑問なんですけど、皆さんが3泊4泊で水俣に来られるじゃないですか。ゼミの単位になるわけでもない何にもならない、かつ何の支援もないから自分のお金で行っている。モノ好きな学生さんだね、と俺は思うわけだよね。でも埼玉大学の学生は評判がいい。どこ行っても評判がいい、ちゃんと聞いてくれるとかちゃんと仕事してくれるとか、ちゃんと見てるねとかね。いろんな秘密はグループの構成に隠されていて、1年生から修士までいますね。今まで便所を掃除した学校なんてないんです。「何考えてんだこの大学は」っていうね(笑)。だからね、不思議な人たちだなと思うし、いろんな不思議なことがいっぱい起きているし、ネタが山のようにあるなと思っています。自己紹介に突っ込みいれてると終わっちゃうのでももう止めます。
水俣病情報発信事業って環境省と熊本県が、水俣病のことを外へ伝えていこうってことをやっているんです。何人かからも出ましたが「水俣病を伝えるってどういうことよ」「知るってどういうことよ」って、それぞれ問いがあると思うんだけども、行政の人たちは中身は問わないんだよ。その中でどういう話が話され、どういう課題があり次回に何を残したのかが本当は大事なはずだけれども、行政的には全く大切ではありません。
最初言ったのは『ごんずい』でやっているその「水俣病患者とは何か」という議論をベースに、この集いで質疑応答とか水俣行った時の感想も含めてその関連で話が盛り上がっていくといいなと思ったら、安藤さんから「相思社でもやっとたどり着いた結論に学生をいきなり巻き込むな」ということでした。「自己を開示すること」ここらへんから始めようじゃないかという、非常に冷静なご指摘をいただき、ほとんど主催者は安藤さんだなと思っています。準備も含めて全部埼玉大学にやっていただいて、本当にありがとうございます。ではこれにて終わります。
永野:相思社に入って3年の永野と申します。よろしくお願いします。私は相思社から歩いて5分くらいの水俣市袋出月で生まれ育ちました。集団行動が嫌いで、学校にはほとんど行っていないので、皆さんみたいな人たちが来てワイワイやっているのが新鮮で毎年楽しみにしているんです。何をしていたかというと、学校に行かずにいろんなところに行って、いろんな大人を見て、ガイアに行って大人たちの中にいたりとかですね、一人で近くに冷水の森があるんですけど、そこに先生から逃げていたりしていたんです。
中学を卒業して高校から熊本市内に移るんですね。その前にも水俣病のことなんかで少し差別的な話を聞いたりして水俣病に対してのイメージが、私がいる水俣は「水俣病の水俣なんだな」っていうのを思っていたんです。外に出て私がしたことは生まれたところを隠すというか、芦北とか隣町の名前を言っている自分がいました。だけれども小さい時から近くに患者の方とかいて、愛されて育ってきたというのは感じていて、その葛藤の中にいました。
18歳で子どもを生んで、その前に結婚するんですけど、その後離婚するんですね。その時に、水俣に帰ってくる選択肢があったんですが、帰ってくる気持ちになれずに、子どもも水俣出身になるな、ということもちらっと思ったりもしました。小学校の頃から習字だけは習っていたんですが、習字の先生が水俣病の裁判をしているということを知ったんですね。ちょうど熊本市内にいて熊本地裁でやっていたので、傍聴に行ったのですがそこで初めて水俣病を知るというか衝撃だったんです。全然関係ない、水俣病とは関係ないと思っていたし、もうちょっというと患者さんたちがいるから水俣病の水俣なんだと少し思っていたので。こんなに近くにいた人が水俣病の裁判をしていたっていうのにも衝撃を受けたんです。その先生のお母さんが17年間放置されていてということを訴え続けていて、長い期間自分は何を見てきたんだろう。ずっと一緒にいたのに私はなぜ知らなかったのか、知ろうとしなかったのかっていうのが恥ずかしくなって、水俣病を隠した自分も恥ずかしくなって、その後にしばらく子どもを連れてウロウロしていました。障害者の福祉施設とか作業所とか環境に気を使っているところに行ったので、そこから水俣病の名前を聞いて。どこで生まれたの、って聞かれて水俣って言うとそこの人が水俣病の話をしてくれる。それまで受けてきた差別的でない水俣病の話をしてくれる。だんだん水俣病のイメージが変わっていって。
ちょうど子どもが小学校にあがるっていうので、子どもからも学校に行きたいという話が出て、水俣に帰ってみようということで。帰ってみたら私の周りにはいい環境が整っていて、どうせ水俣に帰るんだったら水俣病のことを仕事にしたいなと思って。今もそうなんですけど、水俣出身ということがすって出てこないということがコンプレックスで、水俣病のことを知ってからのコンプレックスとしてあったので。一つ挑戦をしてみようということで相思社にはいった。皆さんが初めて水俣病を知った時と同じような感覚に、水俣出身の私もなっていて、モヤモヤしています。このモヤモヤは大事だと思っています。
今は溝口先生のお家に定期的に通っています。だんだん体が悪くなってご家族の方もだんだん年老いてきて、今介護支援の手続きなんかをお手伝いをしていて、支援ってなんだろうっていうのをずっと考えています。相思社では「患者とのつきあい」ってテーマがあるんですけど、今までのつきあいを見直していると私は思っているんです。でもそのままでは、仕事としては私の中では曖昧になってしまう。付き合いだからいいや、というところが出て来てしまう。今は支援のプロになりたいと思っている。その支援のプロが何なのかも考えていきたい。
遠藤:みなさんが話されたモヤモヤのこととか悩みのこととか、実は僕が悩んでいることともテーマとしてはとてもよく似ている。だいたい失敗のほうが良い経験値になるので、がんばってねと思っています。
僕が永野のことが気に入ったのは、入社した時の口癖が「相思社は間違っています」と言うんです。「それなら辞めろ」と言うと「辞めない」というし、「私が変えます」という。今まで間違っていると言って辞めなかった人は珍しい。だんだん高まるやつは珍しい。安藤ゼミの人たちもちょっとそんな気がしています。
正実さんの本を読まれたことと思いますが、あんな人生はそうざらにないなと思っています。正直に生きるといいながら水俣病患者と自分を名乗れるまでは正直じゃなかったんですか、と突っ込んだんですよね。そしたらあまりうまくは答えられなかったんですよね。でもその間も不正直ではなかったんです。水俣病のことは言わなかったし認めなかったということはあるけれども、そのことで悩んでいた。本当のことと嘘のことの間の境界っていうのは、僕らが考えているようなものではないのかなというような気もします。その辺が正実さんから聞くというところで学べる。僕ら自身も勉強になっている。
水俣病患者とは何かというところで、実は未だに即答できない。一番標準的なことがうまく答えられない。水俣病事件が起きたことの認識の集大成の中には、膨大なトリックがあるに違いないと僕は思っています。じゃないとこんな変なことは起きない。順番に江戸時代の歴史を学ぶように、整理されてできるんだけど、水俣病事件って表の時制上の整理はできているけど、中身のことについて言うと、ずいぶんとタブーとか秘密とかあると思っています。その第一弾が、「水俣病患者とは何か」だったんですよね。でもその中でも一番核心は、緒方正実の自己を開示すること・吉永理巳子の自己を開示することかなと思います。そのことからしか始まらないというのかな。みなさんが人に出会って聞いたこともそういうことだと思います。
理巳子:改めましてこんにちは。水俣からまいりました吉永理巳子と申します。今日初めてみなさんにお会いして、埼玉大学の方たちと私は初めてお会いしたと思うんですけど。私がもっと若いころに皆さんに出会えればよかったなって今思いました。こんなに水俣のことを熱く語ってくれるみなさんっていうのは、私のみなさん頃の年頃では考えられなかったんですよ。だから、すごいなっていうのを正直思っています。
私は水俣に生まれて今も水俣に住んでいるわけです。水俣に生まれて暮らすっていうのは、それこそ普通、もう何の抵抗もなく当たり前のことだと思ってずっと過ごしていたわけですよ。だから私の生まれた時の、家族の状況とかそういったのを話さないと分からないと思うんですけど、私が生まれて3年ぐらい経って水俣病と出会っているからですね、水俣病があることも私にとっては普通だったんです。そんなにみなさんから特別に見られることではなかったんですよね。だから今50年経ってですね、ここでこんなに水俣病のことを、みなさんが水俣にわざわざ何回も来てくださって、水俣について考えてくださるっていうのは、当時の私にとってはちょっと考えられないことだったですね。だから本当はですね、私たちにはみなさんと同じような境遇が欲しかったですよね。私たちは水俣病っていうのを、水俣にいながらも他所の町で起きた感覚でしかなかったです。小学校、中学校、高校を通してですね。自分たちの町で起きている大変なことだっていうような思いっていうのは、私の中では全然なかったです。だから今日来て私の方がですね、衝撃を受けました。そして水俣病っていうのは考えれば考えるほど、みなさんモヤモヤするっておっしゃったんですけど、やっぱりモヤモヤっていうのが付きまとう病気だなって思いますね(笑)。
だから『ごんずい』の座談会でも水俣病は何かっていうを聞かれたんですよ。私は単純に、最初我が家に水俣病がやってきたわけです。私は自分で水俣病って思ってなかったんですけど、最初に水俣病じゃなくて奇病っていう名前で我が家にはやってきました。私が生まれたところは水俣湾のすぐそばで、水俣病資料館に限りなく近いところです。そこに生まれて、まず私が水俣病と出会ったのは、父親が最初に水俣病になったんです。その父親は奇病って呼ばれたですよね。私が3歳の時です。3歳の時だから当然私は父親のことは覚えていないです。断片的に覚えているのは、私の父親が病院に入院した時のことです。それから退院したことを覚えています。1954年、昭和29年に私の父親は病院に入院しまいした。チッソ附属病院に入院しました。そのことを何で覚えているかっていうと、一つは父親が言った言葉なのか、誰が言ったのか、入院した患者さんが言ったのか分からないんですけど、「あー」っていう叫び声を聴いたのを覚えています。それと、チッソの附属病院っていうのは第二小学校って、私たちの校区の学校がすぐ近くにあったんです。そこの小学校で運動会があってたと思うんですけど、その運動会の練習をしている音楽が未だに焼き付いているんです。「山の音楽隊」っていう、後になってそれは知ったんですけど。その音楽ですね、それを聞いたのを覚えているんです。だから父親の記憶はそれぐらいですね。
それから退院して何カ月かは温泉治療に行ったんですね。その時一緒に連れて行ってもらったのを覚えています。それは自炊の湯治場ですよね、温泉場が鹿児島県の出水っていうところにありましや。当時この病気には温泉がいいっていうことが言われていたらしくて、そこに湯治治療をするために私と母親と父親の3人で行ったんですね。その時に自炊をするから残飯が出ます。残飯をね、庭に捨ててたんですよ。そしたら犬が食べに来たんですよ。その犬を追い払うのに、私が確か石かなんかを投げたと思うんですけど、その時にここを噛まれた記憶があるんです。だからそれを覚えています。それが多分四歳の時。5歳の時に父親は亡くなりました。
私は記憶にないんですけど、亡くなる前は言葉も出ないで痙攣がひどくて、チッソ附属病院に行ってたった20日で亡くなったからですね、どれくらい病状がひどかったかわかると思うんですけど。私の父親は病院で亡くなったわけじゃないんですよ、そんなにひどい状況なのに家で亡くなったんですよ。昔は生まれるのも死ぬ時も家だったんですよね。だから病院からわざわざ、瀕死の状態なのに連れて帰ってくるわけですよね。父親が帰ってくる時の様子を教えてくれたのは、当時、チッソ附属病院の細川先生の運転手さんをされていた方で、坂本さんという方です。その方が私の父親と母親と私の祖母三人を車に乗せて、家まで連れて帰ってきた。家まで帰る途中に、金毘羅山っていうお宮があるんですけど、その金毘羅山を通って来る時に、父親がキッとひきつけを起こしたそうなんです。それを私のばあちゃんはしっかり抱きとめとったっていうことなんですけど、それから帰ってきて亡くなりました。
私はお葬式の時に5歳です。集まってくるおばさんにタオルを配って回っていた。みんなが泣くもんだから涙をふくようにタオルを配って回ってた。それを見ておばさんたちがもらい泣きをしていたということなんですけど。私によく質問があるのは、お父さんが水俣病って知った時にどんな思いましたかって。だけど私は3歳の時に水俣病と出会っているわけですよ。だからその意識をいつしたのか自分の中ではよく分からないですね。水俣病って知った時にどう思ったかなんて、いつのことなのかぐらい分からないです。それが最初の水俣病と私の出会いですよね。明神って私の生まれたところなんですけど、そこにはたった四軒しか家がなかった。その中でも私の父親が発狂して亡くなる。隣の胎児性の金子さんとこのお父さんも、私の父親と同じように狂い死をする。私は胎児性という言葉はあまり好きじゃないんですけど。たった4軒しかいないのに、周りはすごい症状を抱えた病人の人たちがいるわけですよ。だけど暮らしている私たちは、その人たちが変だとは思っていないんですよね。普通ならそんな病院の人がたった四軒しかいない村に起きるのはすごいことだと思うんですけど、みんな大人の人たちは平気で暮らしていたっていうか、私たちも平気でそんな人たちと病気の人たちもいる中で平気に暮らしていたんですよ。じいちゃんの発病は私の父親が亡くなったたった1か月後です。父親が亡くなった後に。その話をする前にその時の家族構成ですが、父親の職業はチッソに勤めていたチッソマン。私の祖父と祖母は漁師フィッシャーマンです。
学生K:それは父方の?
理巳子:父方ですね。だからなんかこの話をすると、本当に我が家に加害者と被害者がいたというようなことを言われるんですけど、そうじゃなくて普通に暮らしていたんですよ。漁師のじいちゃんとばあちゃんが魚をとって来て、私の父親はチッソの勤めが終わったら魚をとりに行ったりして、食べるためにとっていたからですね、普通に暮らしていたんですよ。その中で劇的なのはチッソに勤めていた私の父親が最初に病気になって、亡くなってしまったということですよね。父親は36歳で発病し、38歳でなくなりました。
その後に私のじいちゃんが同じ病気になったんですね。じいちゃんは10年間ぐらい、病院に入院しませんでしたから家で寝たきりになってました。だからじいちゃんは言葉が全くでなくなったんです。「あーあー」とか「こーこー」っていうような言葉しか出なかったですよね。だけど、私たちの言うことは全部分かってました。だから今私は考えると、私は自分が言葉で話せないイコール、言っても分からないって思っていたんですよね、小さい頃は。じいちゃんは自分で話が出来ない分、私たちが言っていることも分からないと思っていたんですよ。だけれども、じいちゃんは私たちが喋ることは全部理解できていたし、知っていたんですよね。そんなことは大人になって考えたことです。だからじいちゃんが寝ているところで、枕元で平気でじいちゃんの悪口を言ったり。ですけど、今になって後悔してます。中学2年生の時にじいちゃんは亡くなりましたが、じいちゃんが寝ているということは、小学生の時はそんなでもなかったんですけど、友だちを家に連れてくるのが嫌だったんです。じいちゃんが寝ていると「なんでじいちゃんが寝ているの」って聞かれると、「水俣病で寝ている」というのを言わないかんからですね。なんか水俣病っていう言葉を使いたくなかったんですよね。水俣病っていう言葉を私が使い出したのはつい最近です。小学校中学校高校通して、水俣病っていう言葉をあまり使った記憶がないですね。水俣病の話を友だちと話したという記憶もないです。学校で水俣病のことについて学習をするっていうことも私の記憶ではないです。だから本当に、水俣病について自分で考える時間っていうのがなかったですね。そしてなぜその水俣病で水俣がこんなにいつまでも苦しんでいるっていうのを、私たちは若い時は考えるっていう時間がつくられなかったです。
だから今です、私がやっと水俣病について考える時間をもらっているのは。だから私の年代の人はほとんどの人が、水俣病の歴史についてもあんまり知らないんだと思います。原因はみなさんさすがに知っているだろうし、水俣病が移る病気じゃないことは知っているかもしれないですけど。なぜその50何年間も水俣病っていうのが終わらないのか、なぜ自分たちがこんなに水俣で苦しんでいるのかっていうのは、私たちの世代の人っていうのはあまり分かっていないような気がします。
私も偉そうにこんなことを言うんですけど、私も本当に10年ぐらい前から。
遠藤:18年前です。
理巳子:もう18年前になりますか。もうね、逃げ切れるものならば、水俣病から私は逃げ切りたいと思っていたんですよ。だから、今から18年前っていう指摘があったんですけど、その頃もうあと10年もすれば水俣病も50年経つから、みなさんの記憶から忘れ去られて風化してしまって、我が家のことを問われることはないだろうっていうのを思っていました。早くあと10年ぐらい経たないかな、早く逃げ切りたいな。水俣病っていうのが私の中からなくなれば、なんて軽い気持ちで生きられるんだろうかって思っていたんですよ。やっぱり水俣病っていうのは、私は直接面と向かっていじめの言葉を受けたりした経験はないです。だけど、水俣の中で語られる水俣病っていうのは耳に入ってくるわけですよ。「あの人たちは人が食べんような腐った魚を食べて、そして病気になった人たちやろ」とか「あん人たちは補償金が目当てで水俣病になっとらすとやろ」「あん人たちは補償金ばもらって新しか家建てて、仕事もせずにパチンコばかりしてよかよね」っていうな話が入ってくるわけですよね。私は自分の家族にも水俣病患者がいるのに、その話が入ってくるともうそこにいたたまれない気持ちになるんです。だからその話をされるところから、なるべく遠くに行きたいとずっと思っていました。私も高校生ぐらいの時に、男の友達の人もできました。だけどですね、やっぱ家族のことについては話さないんですよ。世間話っていうか、他のことでは話すんですけど、家族のことについては私の記憶の中ではあまり話したことがないんですよね。父親には話が及ばないんですよ。今になって考えてみると、その人は私の父親が水俣病で亡くなったっていうのは知っていたんですね。だからそのことを私のことを気遣って話さなかったのか、またその人も水俣病のことを話すのが怖かったのか。とうとう自分の家族のことを話さないまま、その人とはただの友達で終わりましたね。
その人は高校生だから友だちで終わったんですけど、それから結婚をすることになりました。その前に大阪に出て就職したりすることもありました。だけども、遠くに行って水俣のことを見て、水俣病のことを口に出すっていうのは多分1回もなかったと思います。その頃は水俣からなるべく遠いところに、場所も遠いところにだけど、気持ちが遠いところに行きたいで精いっぱいだったからですね。水俣のことを話すっていうことは大阪でもなかったですね。結局は水俣に帰って結婚をしました。結婚する時の、自分からはやっぱり家族のことを言えなかったんですよ。自分の父親のこと、そしてじいちゃんのこと。私の家族は、水俣病患者は誰かっていう話にもなるんですけど、認定患者は4名います。私の父親と祖父と祖母と母親、4人が認定患者です。その中でもう3人は亡くなった。
私の家族に水俣病患者がいるっていうことを、結婚する時にはとうとう話せなくて相手方から言われました。結婚するってなると、どんな人と結婚するんだってことを相手方のお母さんはやっぱり心配するわけですよね。やっぱり水俣の人だから、狭い町だからそこの誰それさんって言えば、大概の人たちが「ああ、あそこの娘さんはこういう人よ」っていうのが分かるんですよ。私と結婚するって言ったらば、相手のお母さんはすかさず聞かれて「お父さんは水俣病で亡くなっとらす」っていうのを言ったらしいんですよね。私が結婚する前にその相手から「あんたのお父さんは水俣病やったんね」というのを言われました。その時に私は初めてそうだったっていうのを、お見合いでもなんでもないんですけどね、その時に初めて水俣病のことを話しました。相手の人も私には「ああそうやったんね」というぐらいしか言わなかったんですよね。だから私は非常にその時に肩の荷がおりたような気がした。自分は今までここまで言わないといけないと思うわけですよ。私にとっては水俣病で亡くなった父親っていうのは、人に知られたくない部分だから、だけどもう結婚するっていう相手だから言わないといけないと思うんだけど、ここまで出かかっているんだけど、それがポロって出てこない。だから相手から聞かれた時は、非常に、もう自分から言わなくていいっていう肩の荷がおりたのを覚えています。
それから時間が経って、子どもが3人います。一番下が30になるから、32、34と3人の子どもがいます。もう大人だからそれぞれ独立してますけど、一番下の子がまだ20歳になってなかった18年前に私は離婚したんです。その前後かな。
遠藤:理巳子さんが水俣病患者が家にいると認めた1993年には、まだお子さんは20歳前?
理巳子:20歳前ですね。ずっと水俣病のことを言いたくないと思っていたんですが、一九九三年頃ちょうど私の連れ合いが青年会議所っていうところに所属していました。青年会議所っていうところでも、もう一回水俣病のことを学ぼうっていう取り組みがちょうど始まったんです。その時に、私の家族のことを話してくれないかっていうのを私の連れ合いから言われたんですね。私はずっと言いたくない言いたくないと思っていた時です。その時、ちょうど水俣病を知ろうという取り組みがあった時に、水俣病の本を私にじゃなくて、私の連れ合いにある知り合いが貸してくれた。それを読んだのが、最初の水俣病との出会いですね。水俣病を知りたくないと思う時には、水俣病のことの本を一冊もひらくことができなかったです。
今の私の連れ合いは利夫さんですけど、その時はもう水俣に来ていました。相思社っていうところに居ました。遠藤さんたちもいました。だけども私は水俣病のことを避けていた時には、相思社の存在すら知らなかったんです。相思社に行ったこともなかったし、相思社がどこにあるのかも知らなかったんです。水俣病のことを最初に知ることになったきっかけになった、『水俣の啓示』っていう本ですけど、その本を開いて、やっと水俣病っていうのが我が家のだけの病気じゃないっていうのに気付いたんです。私にとって水俣病は自分の父親の病気であって、じいちゃんの病気であって、家族の病気だったんですよね。その本を開いた時に、本当は排水を止めようと思えば止められたんじゃないか。なぜ止めなかったのかっていう疑問がわいてきました。止めさせようっていう人たちをいろんな手づるで、役所の人だったら違う部署に移したりして、排水を止めさせなかった。
そのことを知った時に、私は父親のことを考えたっですよ。私の父親は自分が何の病気で亡くなったかっていうのは知らないです。私は5歳の時に父親が亡くなっていたから仕方がないと思っていたんですよ。だけど、でも排水を止められたのに止めなかったって。私の父親は裁判をする機会も与えられなかった。私はそう思って父親のことを考え始めたら、父親が生きていたらどんなことを考えたろうかっていうのを思い始めたんです。そしたらですね、もう涙が出て止まらなくなって、夜になって何回もその『水俣の啓示』っていう本を読んだことがあります。父親が生きていたならば、このまま曖昧なことにして終わらせなかったよね、っていうのを思ったんですよね。私の父親のイメージは、五歳の時亡くなったからですね、他の人から聞いたイメージしかないです。母親とかおばさんから聞いたイメージしかないんですけど、私の父親はチッソの中で組合活動をしていた。チッソっていうところは身分制度が徹底していて、どんなに仕事が出来る人でも学校を出てないと駄目なんです。大学を出てないと、上の方にも上がれないし、認めてもらえないっていうのがあって。給料も安いっていうのがあったんですよね。だから昭和25・6年に身分制度の撤廃っていう運動をしています。父親がもし生きていたら、そのままチッソが今終わらせようとしているようなことでは、しなかったっていうのが自分の中ではあって。そんなことを考え出したら、黙っていられなくなったんですよね。黙っていようと思っていても、なんか父親がそんなことでいいのかってことを言っているような気がしたんですよ。私が水俣病のことを恥ずかしい恥ずかしいと思っている間は、子どもたちも水俣病ってそういうことでしかとらえんだろうって。もっとやっぱりなぜ、なぜっていうのを考えろってメッセージをもらったような気がしたんですよね。その時にちょうど、「そろそろもやい直しば始めんば」というので、水俣市からだったですよね、あの時にみんなの前で話をしてくれっていうのがありました。1993年、その時に初めて自分の家族のことを話しました。「やっと話したいと思うようになりました」ですかね。
私が話そうと思っていたのは、みんな水俣の中でも水俣病っていうのは本当に貧しくて、人が食べないようなものを食べる人たちが病気になると言われていたんですよ。貧しいって、当時はモノもそんなになかったから、貧しかったかもしれないですけど。水俣の人たちがいうように腐ったようなものを食べたりする、そんな貧しさじゃなかったよなっていうのがずっと自分の中にありました。私たちも普通に、魚はすぐ下が海だからとって食べてました。おやつも、家の周りにいっぱいあったから、カテシモモっていうモモをとって食べたり。クチナシノハナを食べたり、ナスビを食べたり、それも私たちのおやつです、全部。食べるものにもそんなに不自由はしなかったんですよ。家で鶏も飼っていたし。お店はなかったですね、そういう意味では不便だったですけど。鶏の卵を食べたり、つぶして鶏を食べたり。そんなに言われるほど、貧しいのかなっていうのが私の中であったんですよね。
私の兄はクラシックが好きだったから、クラシックを聞いたりしていました。だから「水俣病患者」っていうので勝手にイメージをつくって、「水俣病患者」イコールこんな人たちって一緒にされるんです。一束にまとめられていたんですよ。だけど水俣病患者っていう人の中にもいろんな暮らしがあって、いろんな考えをもっている人がいるんです。つくられてしまった水俣病のイメージが、私の中にはずっと違和感があったんですよね。だから今でも水俣病っていうのは私でも分からないです。つい最近、水俣病事件っていう言葉が、ああそうだよな、水俣病っていうのは病気じゃなくて事件なんだっていうことを思うようになったのはつい最近です。だからもっとなぜ、なぜっていうのを考えていくのが水俣病なのかなと思います。
私の話はこれで終わります。
遠藤:理巳子さんの「やっと話したいと思うようになりました」という企画をつくったのが、吉永利夫さんなんですよね。理巳子さんのお話は、94年の環境創造みなまた推進事業という事業の中でやるんです。熊本県と水俣市の事業の事業だったもんですから、僕らは行政には92年まで協力していないんですよ。相思社というのは元々、行政とかチッソに敵対してきたのが売りだったもんですから、今更一緒にやるっていうのはちょっとまずいんじゃないのって。支持者に愛想つかされちゃ困るなっていうんでちょっとビビりながら。でもこの時代、僕の勝手な解釈ですけども、1989年にベルリンの壁崩壊して以来、全世界で社会主義だ共産主義だっていう未来はなくなりましたから、どうしていけばいいのか悩んでいました。水俣をどうすればいいのっていうのは、相思社もけっこう悩んでいたわけです。その時に相思社は甘夏事件を起こすんです。
水俣病事件、運動的かかわりの転機であるという認識がそれなりにはあったのね。やはりこれまでのチッソや行政との関係ではにっちもさっちもいかなくなっているんじゃないの。それもあって、環境創造みなまた推進事業は魅力的ではあったんだけど、結構躊躇しました。ただ、九三年からは恐る恐る関わり始めるんですよね。93年、相思社はユージンの写真を10点だけイベントに出すんですね。その翌年から吉永は全力で環境創造と付き合いだすんです。その時のイベントが理巳子さんの「やっと話したいと思うようになりました」っていうのがメインだったんですね。確かに今から振り返れば、非常にいい流れなんですが、でもその時はドキドキもんですよね。理巳子さん自身が本当にこんなことしゃべってもらっていいのって思うし、相思社がこんなのに関わっていいのって思っていたんです。吉永利夫さんに今の話をもうちょっと詳しく、自分の意志も含めて話してもらいます。
利夫:どうもこんにちは。私は自己の開示を迫ってきたほうなんで、その話をしようというんで来ました。1951年に静岡に生まれています。だから理巳子さんとはおない歳ですね。1972年に20歳で水俣に来ました。考えてみると、水俣病が発見されたのは1956年ですから、私が行った時は、水俣病はもう終わっているっていうか、裁判はやっていたんですけど、あとは補償の問題だけでみたいなことだったと思うんですけど。それは発見されて16年後ですね。まさかこんなに長くなるとは思っていませんが。今私が水俣に行ってから40年目かな。
私の仕事は遠藤さんも一緒ですけど、みなさんとうちの理巳子さんたち被害者の人たちとかいろんな人をつなげる、今風に言うとファシリテーターの役をやっているかなと思います。私は水俣に行って水俣病センター相思社に入るのはだいぶ後なんですけど。彼女もそうですけど、結婚して離婚して再婚を僕らは経験しているんですけど。
環境創造みなまた推進事業のところでは、だいたい遠藤さんが今話しましたけど、水俣湾の埋立地のヘドロ処理が終わって、熊本県は水俣のマチづくりをしようということを考えたんだと思います。県の人たちがやってきて、とにかく明るい街にしようというんで、「一万人コンサート」っていうのを埋立地で企画します。我々相思社としてはそんなもの土砂降りになっちまえみたいなことを思っていました。というぐらいの時代もありました。その時に緒方正人さんが嫁さんと一緒に「人殺しの水銀ヘドロの上でお祭り騒ぎですか」というビラを会場で配っていた。それを見て何日か後の新聞で、当時の細川知事がもうあすこの場所で歌舞音曲はしません、みたいなことを言っています。後で聞く話ですけど、これが大きな転換点になって、熊本県としては明るい水俣みたいなことだけではこりゃ駄目だっていうことになった。「水俣のマチづくりは水俣病のことを真正面に据えてやらないと駄目だってことに気付いたんです」っていうのを、後から聞かされました。ということで、相思社に水俣病の写真を埋立地のイベントに展示してくれっていう依頼がきました。最初の年は断りました。
理巳子さんと私が知り合っていくのは、本願の会っていう緒方正人さん、石牟礼道子さんたちが中心になった団体の会議です。本願の会は、埋立地に自分で彫ったお地蔵さんに思いを託して置いていこうとしていました。その人たちの会で理巳子さんが活動を始めていたので、水俣病のことをやっていた相思社の職員の吉永は知り合っていくんです。青年会議所の人たちともだんだん僕らは知り合っていく。それまでは自民党、共産党はとんでもない奴の両極端だと僕らは思っていましたから、自民党の人も青年会議所、商工会議所、みんな悪の根源みたいな思っていましたから、やっとそういう人たちと会って水俣病のことを話すようになったんです。
後から聞いたらそんなチラシを回してくれたんだっていうくらいですけど、そのことをきっかけにして彼女は本を読みだして、水俣病のことを考え出したと思うんです。その時に、県の企画で副知事が来て挨拶するとか、他の水俣市民の人たちも、自分の水俣、水俣病への思いを文化会館という一番水俣の中で大きなホールで話しましょうってやっています。その頃一番仲の悪かった被害者の会の人と私が、並んで司会をする「もやい直し」みたいなこともしましたね。
彼女に「こういうことやるんだけど、話をしてよ」と開示を迫ったこともあります。今回、開示って話でちょっと考えてきたんですけど、どういう思いでそのときに私がこの人に「話をしてよ」、と考えたのかなと思い出すと、ほとんど何も考えないで言ったんです。みんなもびっくりするかもしれないけど、かなり適当に「話してくれない?」ぐらいだったと思う。彼女が話すのは大変だなってことはいくら私でも分かってはいました。人前で話すことも初めてだろうと想像はついていたんですが、あまり分析はしていません。今でも同じようなことをやってます。
私はこれから来週水俣に帰って、次の日からまた大阪に3日間っていうのがあるんですけど、それは旅行社を周る営業マンになるんです。要するに「水俣に来てくださいよ」っていう営業をしている。みんなも修学旅行行ったと思うけど、修学旅行って要するに学びのテーマがないといかんのよ。ディズニーランドに行く学校が一番多いんだけど、ディズニーランドに行くのはつけたしの位置づけです。でも本当はそれがメインなんだけどね。東京に行く学校は「東京の歴史を学ぶ」とかね、科学館に行きますとか学びの部分がないとっていうのがあります。とにかく学びが必要なんです。水俣で何をやっているかっていうと、学びの要素をつくっている。簡単に言ってしまうと、お寺に行ったり神社に行ったりするのがあるように、水俣病資料館見られますよとか、語り部の話が聞けますよ、というのが水俣でいうと売りです。来てください、1泊2日しないと学べませんよっていうのを今やっている。要するにもっともっと来てほしい。人をいっぱい集めている。
私はいろんな人をつかまえて話すのと同様に、この人にも気楽な軽い気持ちでちょっと話してよと言ったんですね(笑い)。面白い人だなって思うと「修学旅行が今度来るんだけどちょっと話してよ」っていうノリで今でもやっています。これはね、どっかで自分では図っているつもりではありますね。この人はあんまり無理言うと悪いなっていう人なのか、押せば話すなっていうのはたぶん私の感覚で図ってはいるつもりです。基本的にはそういう軽いノリなんです。みんな修学旅行生の前に出てやるときはかなり緊張してやる。さっきからみんなにも出ていたけど、モヤモヤしている。みんなね、水俣の人も。そのモヤモヤを話さないといけないわけだから「え、吉永さん何話せばいいんですか」みたいにかなり緊張して電話かけてくるやつとかいる。「そんなことはどうでもいいんだよ」、とか「適当に話してくれればいいんだよ」とか、話したいことまず語ってもらう。でも「今度来る学校は水俣の人権のことを学びたい先生なんです」「今度来る学校は水俣の再生を一生懸命子どもたちに伝えようとしている先生なんです」ぐらいのことは言います。だから「水俣で経験したこととか、水俣病のことで気になっていることを話してくださいね」というのをやっています。だからこの20年ぐらいやっていることは全然変わらないですね。開示を迫ることを今もやっている。
もう一つやっているのは、開示を迫りながらお金にしているのがよそと違う。要するに普通は、沖縄のひめゆり資料館には証言員がいましたけど、基本的にはボランティアなんですね。全国的にはこれが多いんです。被害を受けた側の、広島のあるいは長崎の原爆のことを話してくれる語り部というか証言員は、みんな多分ボランティアだろうと思うんです。ところで質問だけど、例えば理巳子さんが水俣から出て行くケースで、小学校から呼ばれたりいろんな自治体から呼ばれると謝金をいくらもらうと思う?
学生K:10万円?
利夫:俺がやりたいのは10万円もらおうって思っていますが、まだそこまでは言っていない、3万円。水俣でやるときは2万円。更にファシリテーターが必ずついて行きます。遠藤さんがついて行ったり、俺がついて行ったり。俺らは1万5千円。だからちょっと離れたところでやると4万5千円の企画になる。遠藤さんたちには話してくれた市内の人に五千円払ってますね。昨日まで普通の市民だった人に、いろいろ付き合いができて、あっ面白いじゃんと思うと、その人に5千円払う。なんでそんなことをやっているかっていうと、水俣の人口は2万8千人ですが、高校生含めて小学生から2万8千人全員開示させたい。開示して価値があるやつらだと思っている。それが幼稚園の子どもでも、今の子どもたちもどっかでテレビ見ながら、ニュースで水俣病のことが流れると横でプチンと切ってしまう親がいたり、あるいはまた「こんなことやってんだよね」って幼稚園の生徒の前とか小学生の前で言っている親がいると、私は想像しているんです。中には「患者の人たちは大変だね」って言っているかもしれない。とにかくそういう経験を子どもたちも親もしている。これは立派な商品だなと思っている。他所から来た人に、幼稚園児が「僕のお父さんはね」って言えるんだったらこれは立派な商品。お前3万円もらえるぞっていう話だと思ってやっています。いつもそんなこと考えているわけじゃないけど、やっていることはそんなことです。
なぜ開示させたいかというと、この人がいつも困ってきたのは、水俣病は隠さなきゃいけないわけ。なぜ隠さなきゃいけないのか、なんで被害者が自分のことをいやだと思わなきゃいけないのか、っていうことを私は変えたいと思っています。更に、変えていくためには話す方もプラスにならないといけないと思っているんです。三方良しっていうのもありますが、水俣病の語り部も一緒だと思っています。来てくれるみなさんもリピーターになったように、3万も4万も金払って行くんでしょうけど、それでもまた来年も行こうと思っている人たちがいる。語る方も自分のいやなことを言うんだけど、お金のためにやっているわけじゃないけど、多少お小遣いになると思う。それを我々は水俣に還元する。宿泊につながったり、お弁当につながったりっていっているんで、やっぱり嫌なことを嫌なことだと思っている人が、多少の良いことにもつながる。というのと、修学旅行や研修で他所から人に来てもらうっていうのは、水俣の人たちにとっては「なんで?」だと思っている。
このシーズンは一回調査したほうがいいと思うけど、観光バスが水俣の中をうろうろしている。要するに熊本県の小学5年生がバスに乗っていっぱい来ている。水俣の人たちは多分、何人かは嫌な顔をして見ている。「また来ている」「水俣病のこと」「水俣病のことって、いいながらまた来やがった」って思っている人もいると思うけど、他所から来るっていうのは魅力があるからですから、水俣病だろうとなんだろうと魅力があるから来る。それをお前らも魅力だと思えよっていうことですね、僕がやっているのは。お金をちゃんともらいながら、この人たちだけじゃなくて水俣に生まれて育ったあるいはよそから来た水俣の人は、自分たちの地域にある素晴らしい水俣病を売り出せ、素晴らしいものだと思え、ということをやるために今の仕事もやっているんだと思います。そうすることで被害者に対する偏見、差別意識がなくなってくるだろうと思っています。そういう流れがないと人権学習やっているだけでは、被害者に対する偏見がなくならない。この人たちが苦労して、正実さんたちもそうだと思うけど、何も悪くないのに嫌な思いをしているのは変わらない、それを変えようよと思ってやっている。自己開示をこれからも迫るのかなと思っています。
遠藤:公害とか、沖縄もそうだし、広島、長崎いろんなところでいろんな公害や戦争やらの被害があるんですけども、それを商品化しようなんて考えているのは吉永利夫以外にはいない。相思社はこっそりやってるんですけども。どこもね、自分たちのやっていることは社会的に意義があると思ってやっているんですよね。これは意志としては大事なんですけど、残念ながら長く続かないですね。やっぱりこれを続けられる仕組みをつくるためには、それなりに金も必要だし、やっている人のインセンティブが生まれないと続きませんから。そういう意味で、吉永さんがやっていることは、この資本主義社会の中で事業化しようという場合には必須ですよね。そういう意味で言えば、沖縄も広島も終わりに向かって始まっている。
実はそこばっかじゃなくて、資料館の語り部制度もこのままじゃ長くは続かないですよね。一体全体、いつまで水俣病を伝えればいいのかっていうのもあるし、永遠にできるわけでもないし、何をどういうふうに考えればいいのか長らく僕らのテーマです。こういうことはどちらかというと、水俣に来ていろんな人の話を聞かれたみなさんの中に答えがあると思っている。僕らの方は、答えは持っていないです。典型的には吉永さんがね、何の考えもなしに自己開示を迫っている、今も迫っている。それはほぼ吉永さんの直感で、大方、直感が結構この人あっているんだよね。事態をよく、正確に把握していて。それは皆さん自身が水俣に来ることの中にあるだろうし、いろんな人の話を聞いた時に思っていることの中に答えと発展する契機があるんで、残念ながら俺たちの中には多分ないんだよね。俺たちも何とかしようという意思がないといけないんだけど、俺たちが一生懸命ああしたい、こうしたいって思って、大方空振りになっていて今までね。そういう意味でね、僕や吉永さんにとってみると、埼玉大学の学生っていうのは、こんなうまい素材はないんですよね。今でも僕なんかは平然と言いますが、水俣病を素材に仕事をしてきたと思っていて、みなさんは更にもっとおいしい素材なんですよね。この後、意見交換や疑問やらできればいいなというふうに思っています。よろしくお願いします。
安藤:とりあえずは、理巳子さんと利夫さんのお話でみなさんで質問があったら。
遠藤:あと、今回水俣に来て不思議に思ったこと、疑問に思ったことなんかもあれば是非一緒に。
安藤:とりあえずはお二人の質問の方から。あるいは意見でもいいですけど。
遠藤:僕としては彼あたりから。学生Cくん。
学生C:理巳子さんに。今回のテーマは自己を開示することなんですけど、それにはちょっと関係ないかもしれないんですけど、自分が小さいころに相手がおじい様の言っていることが分からないけど、理巳子さんとかの言っていることは伝わっているんだってことが分かったって言ってました。自分も水俣行く前だと、障がい者の施設に行ったりすることもあって、自分の兄が身体の障がいを持っているんです。そういう施設に行くことが多くで、双子なんですけど兄は身体だけの障がいだから、自分の言いたいことはちゃんと言うし、知的な障害はないので大丈夫ですけど、施設にいる人の障がいはさまざまで、やっぱり自分の言いたいことを伝えられない人もいます。そういう人に対してはどう思っているのか分からないし、逆に自分の思っていることを伝えようとしてもそれは難しいのかなっていうのを感じていました。今回水俣に行ってみて、ほっとはうすのことだったり、話そうとしているのは分かって、でも分からないっていうこともあって。自分たちが伝えようと思って問いかけたりするときに、相手は分かってくれているんだなっていうのを感じる時があって、自分はそういうきっかけがあったんです。理巳子さんはおじい様は自分の言っていることは全部分かっていたんだと思う、というのはどういうきっかけがあったのか。
理巳子:もちろん大人になってから思ったんですけど、うちの祖父はもともと漁師だったんですよ。一緒の漁師仲間のおじさんたちがよくうちのじいちゃんの寝ている枕元に来ていろんな相談っていうか、話をしていたんですよね。だから今思うと、言葉はじいちゃんは出てこなかったんですけど、おじさんたちの相談相手に多分なっていたんだなと思うんですよ。私のじいちゃんは網元だったからですね、漁の仕方とかそういうのもよく知っていたんですよ。だからなんで来るのか、まだ小さかったから分からなかったんですけど、ちゃんと相談役になってたんだなっていうのを思いました。そういったことで、じいちゃんは実は自分では言葉は発せられなかったけども、私たちが言っている意味とか、自分がやりたい意志とかちゃんと伝えていたんだなというのが分かったんです。
10年間近く寝込んだままのじいちゃんっていうのを、その時にどんな気持ちだったのかなっていうのも私も考えるようになりました。その頃っていうのは介護の制度とか何もない時です。家でおしっこを私も取ってあげたこともありますし、うんちも取ってあげたこともある。だけどじいちゃんは全部分かっているんですよね、自分がされていることも分かっているわけですよ。私の母親はじいちゃんにとってはお嫁さんですよね、息子の嫁です。父親が亡くなった時、私の母は28歳だったからですね、28歳のお嫁さんに自分の下の世話を、じいちゃんはさせないといけないっていうその思いっていうのはどうだったかなって。本当に息子が亡くなって申し訳ないなってこと思っているじいちゃん。そしてまた自分がそんな体になって、世話もさせないといけないということを考えた時に、病気になったじいちゃんが、一番本当は辛い思いをしとったなっていうのをですね、やっとそんなことを考えられるようになりました。
安藤:じゃあどうでしょう。
院生A:お話ありがとうございました。お二人の接点となった大きな出来事として、利夫さんが理巳子さんに対してお話をしてくれないかと頼まれたっていうお話があったと思うんですけども。その時に、利夫さんはあまり何も考えずにということを言われていたんですけど、理巳子さんは利夫さんの言葉を受けて、その当時どう思ったかっていうことについてもう少し詳しく聞かせていただきたいんですけど。
理巳子:確か市役所の方と二人で来られたと思うんですよ。「実は今回こんなことをするので話してくれないか」というのを、言われてきたんだと思うんですけども、その時はやっぱりなんかこう、そんなに重要なことを言ってくださいというようには、多分市役所の方も。その市役所の方もざっくばらんな方でしたから。そんな気持ちでは迫られなかったんですよね。だからかえって迷う時間が少なかったっていうかな。そんなに私も拒まないで「いいですよ」という返事をしたと、その時は思います。あんまり重要なことだというような印象を受けなかったのがかえって気楽にしてくれたんじゃないかな、とその時は思いましたね。
「話したいように思うようになりました」というタイトルなんですけど、それもその市役所の吉本さんが夜に電話かけてきて、「おい、話の内容はなんにすいや」って言う。「そうですね、そろそろ話そうかなち思うようになったですけど」ち言ったら、そしたらそれがそのままタイトルになってたんですよ。そんなに大変なことだよっていうようなメッセージがなかったのは、私にとってはかえってその時にはよかったのかなって思います。
利夫:本になっています、今の話と喋っている内容と、私が司会して。ボロボロだね、ボロボロ泣いてましたね。
理巳子:『再生する水俣』かなっていうので出ています。
学生J:利夫さんの話では、開示を迫るときに割と直感で、基準は自分の中にあるけれども、割と自然と迫ったとおっしゃっていたんですけど、例えば僕の友人とか僕自身に人に言えない気持ちがあった時に、それがどちらか気付いた時に、それを心配してその人の気持ちを何か打ち明けてほしいという気持ちを抱いたりすんですけど、開示を迫る、自分自身から迫っていくっていうのは抵抗があって。
安藤:みなさんの世代はそれをやらないと思うんだよね。開示を迫るって多分やんないんじゃあない?
学生J:それって、とてつもないことだなって思った。
安藤:世界にない。開示を迫るって。
学生J:開示を迫るっていうのは聞いたことなくて。それはなぜ、っていうのでさっき二つ、水俣病を隠さなきゃいけない人たちがいるっていうと、水俣病患者に対する差別偏見をなくしたいという気持ちっていうのが、僕の解釈ですけど、それが強い信念のように利夫さんの中にあったから開示を迫れたのではないのかなというふうにお聞きしたんです。利夫さんご本人はどのように思っているのか、もう一度お話をしていただきたいんですが。
利夫:今ちょっと嫌になっているけど。
遠藤:この人の集中力は30分くらいかな。
吉永:それじゃないんだよ。これからも自己開示を迫ると思いますと、最後に言ったじゃない。今回の企画があったから少し考えなきゃなと思って、少し考えたことなんだけど、やっぱり今何人いるかっていうと30〜40人くらいのプロフィールを持っている。それを先生たちに送っているわけ、メールでね。先生はそれを見て、遠藤さんのお話を聞きたいです、みたいなことをやっているわけね。だから40人ぐらいの人に迫るっていうほどじゃないけど頼んでます。ちょっと嫌になっているのは、あなたが言った信念かどうか分からないけど、決意と覚悟がなくなっているんだな。だんだん自分で考えると薄くなっている。だから理巳子さんに頼んだ時なんか、もしこの人がその場で泣き崩れてどうにもならなかったら、横から出て行ってもうちょっと抱き起して場所から外してあげて、「今、お話途中でやめましたけど」と言って、あと10分や15分ぐらいは俺は喋るぞと当然覚悟していました。話せなくなったら横についておこうとか、覚悟ができていたと思うんだけど。そういうことも含めて、今は例えばこの人と同じような人がもしいたとして、なんかの関係で知り合いになっていて、やっぱりこの人に話してもらおうと思った時に、言えるかなと。少々自信がなくなってきているのは、自分にそういう覚悟というかそういう自信が薄れてきたなというふうに思っているっているのが一つね。
遠藤:なんで?
利夫:語彙が少ない吉永さん流に言うと、めんどくさい、大変。めんどくさいっていうのは、かなり気を使ってよ、そうはいっても。ヘラヘラはしているけどかなり気を使って、その人のある意味では自信話を聞かせてもうらならいいんだけど、どっかでマイナスの話をしてよという部分があるじゃない。別に恥ずかしいことと思うなよっていうのはもちろんあるんだけど、とはいっても気の重いことをさせるんで、気を使ってやっているんで。例えば正実さんに今でも頼むね、正実さんは1時間じゃ無理という、1時間半は欲しいという。吉永さんの役割は、要するに正実さんも1時間半は、って言われた時に、他のやつは言えないわけよ、正実さんがああやって熱心に話している時に、横から言って「正実さんそろそろいいですか」っていうのは、それこそ俺だけだよ。俺も平気じゃないけど、かなり気が重いけど、言わないとバス出られないとか、船次乗るんだけどみたいな仕事をしている。そういうのもあっていろんな気を使うんで、その気持ちは自分の中でも緒方正実に言うぞ、ここは言わなきゃな、後5分しかないじゃないか、みたいなことでやっているわけだから。それは結構私としても、結構なエネルギーなんだよ。それを持ち続けていくのは少しめんどくさくなっているね。なんでかというと、今の仕事をもうやめようと思っている。要するに、簡単に言えばそういう覚悟、エネルギーみたいなものが自分の中で少しなくなっているのは、実は理巳子さんとこの何か月かどんどん盛り上がっているのは、水俣病資料館を俺らのものにしようぜという気持ちになっている。市立の水俣病資料館だけど、このまんまあのままで終わらせていいのかと俺らもう六〇歳になっちゃったから、いくら長生きしたって80歳ちょっとやろ、と。こんなことやってられんの後10年だぜ、と。この間にあのまんまやらせんのか、俺らが死ぬまであの程度でいいのか、さっき言った商品にならねぇじゃねーかっていうのも含めてよ。どんどんこの人たちいなくなっちゃうんだから、みんなみたい人が水俣に来て、リピーターになってくれないよ、と思っているわけ。ということをやりたいと思っていて、そっちにエネルギーを使いたいというのもあって、ちょっとそういう気になっている、という。
遠藤:補足が二つあります。一つは実はその決意と覚悟って結構大変なんですよね。つまり水俣病患者の話を、それを時間通りに切って「よし、これにて終了、次」っていうのは意外と大変なんです。だってすっげー悪い人になるんだもん。盛り上がっている話の途中に、「すみません、もう時間ですから終わりですよ。あと3分で閉めてね」と。結構意義のある話しているわけだから、力のある感じでしか「もう終わり」って言えないよ。もちろんみんなは話を聞きたいわけだよ、聞きたいわけだから。そこんところは結構理解されないし、軽いようにとられているよね。単にお前が時間管理するからそんなことを言っているだけだろっていうね。
もう一つ、自己開示を迫った失敗例がありますよね。被差別部落の解放運動の中では、部落民宣言というのをやらせた時期があります。それは、「私は部落出身なんです」ということを学校とかクラスとか、先生が主にやらしたんだよね。もちろん自己開示をすることによって、元気になった子どももいると思うんだけど、そのことがトラウマになった。要するに言ったことがどんどんマイナスになったケースもあります。家でもお父さんお母さんに「お前も余計なこと、先生の口車に乗って言って、ろくなことにならない」とか言われる。どんどん自信を失っていく。本当は自己宣言は自信をつけるためだったんだけど、残念ながらフォローも含めて難しかった。
ただね、水俣は一応そういうことについては右肩上がりかなと思っている。僕と吉永さんにはまだ続ける意志があるので、不利益になるかもしれないけど、一応まだ継続中なのでなんとかなるかなとは思います。決意と覚悟は変化してきたと言われると、これは別に話をつけないといけないという課題です。
学生J:補足ありがとうございました。利夫さんがきっかけとして開示を迫る決意をするときに、今の話だとある第三者に向けて開示をするという話、患者の人が。ただ利夫さん自身は、自分は開示を迫ることが聞き手だったのか、それとも介入役というか場を設定する役割が自分にあるからっていうのでやったのか。
利夫:それははっきりしています。場を設定するためです。もちろん聞きたいとも思うよ。でもやっていることは場を設定している。
学生J:その開示を迫るきっかけとしては、自分が話を聞こうという思いとかはありました?
利夫:もちろんそうだと思うけど、やってきたことと今やっていることは、要するに理巳子さんにとっては生まれて水俣病に出会ってというか、そのまんまじゃない、あるとかないとかじゃなくて水俣病の中に暮らしてきたわけでしょう。私は逆に外から来て、いいも悪いもないのよ。この人にとっては不幸なものだったよ、水俣病ってね。だけど私にとってはおじさんたちがおばさんたちがカッコ良くチッソに迫っていたり、知事に向かってわーわー言っているおじさんたちが水俣病なわけ。すっごい面白いわけだよ。要するに偉そうにしている部長とかさ、その頃は20歳だからね今のみんなとあんまり変わらないから、みんなの年齢で知事に向かって「バカやろー」なんて普通言えないじゃん。ということを平気でやっているおじさん、っていうのを後ろから見ていてやっているんだから、ものすごく水俣病ってすばらしいもの、吉永にとっては。もちろん帰ってその人の家に行くと、旦那が寝たきりで大変なこともあるんだけど、そういうことも含めてすごいわけだよ、何年も寝込んじゃっているなんてすごいと思えばすごいじゃない。みたいなことなわけ俺にとっては。「なんでそのことを自分から言わないの?」と思うぐらいの重みがあるわけよ。だから僕らと出会った頃のこの人たちの思っていることからすると、全く違いますよ、水俣病に対する価値観というのが。俺らは金出してもお前ら聞けだよ。さっきあなたが言ったみたいに、この人の話を聞くなら「10万円出せよ」と思っているぐらいにすごいことだから、ある意味で言うと「あんた早く言ったら、とってもいい話だよ、それ」みたいに言っているんだなと思いますね、多分ね。
遠藤:ちょっと補足。要するに話す人がいて、聞きたい人がいて、場があるということが、この三位一体になっていないと話を聞くというのは成立しませんよね。実は水俣の中でもこれが成立したのはそんなに古くない、90年代初頭がやっとだと思うね。それまで相思社でもやっていたけど、相思社のは運動だったからどちらかというと政治的扇動ってやつですね。要するに自分たちの主張をみんなに納得してもらうためにやってたことであって、決してその話す人の自分自身の人生であるとか暮らしであるとかを話していたわけではなくて、聞きたい人に聞きたい話を聞かせていただけ。極論にすればね。それは語りとはちょっと違うんだよね。
安藤:僕、今これ大事なとこだと思っているんだけど、この自己開示っていう言い方って、多分みなさんにとってみるとあんまり使わないと思うんですけど。ましてや自己開示を迫るって使わないと思うんだけど、自己開示を「カミングアウト」っていうような言い方をするとみなさんにとっては極めて身近な、日常的な話になってくると思うんだよね。みなさんが言っているカミングアウトみたいな問題とここで言っている自己開示って共通しているとこが多分違うとこがあるんじゃないかなと思っていて。
学生J:君はそのこと自身は卒論にしているところがあると思うから、ちょっと自分にとってみるとカミングアウトとはどういうことなのか少し説明してくれますか? その場とか聞く人、話す人の関係が違うと思うのね。
学生J:卒論でテーマが「障がいを持つ人のきょうだい」、健常児のきょうだいが、きょうだいの障がいをカミングアウトすることに関しての調査をおこないたいと考えています。そのきっかけは、自分自身の兄が障がいを持っていまして、自分がその当事者であるということで、そのカミングアウトっていうことの課題意識があるのかなと。
僕が使っているカミングアウトっていうのは、自分を孤立させないためというか、自分がカミングアウトすることで、相手とのつまり自分自身でつくっている壁を取り壊して、その人と関係性を結ぼうとか、更に強くしようとか、その人に話すことでその人との関係性の中に自分の場所をつくる。自分を孤立させないためです。というのは、やっぱり水俣病の差別・偏見とはちょっと種類が違うと思いますが、障がい者に対する差別・偏見の目っていうのを自分の近くに何か感じているのかな。自分も小学校、中学校と周りに兄が障がい者だっていうことは言えなかったんですね。そういうところの言えない、隠さなきゃいけないというのか、そこに関するもどかしさ苦しさなどがありました。ただ、それをほっといても大変なだけですし、それを自分から何回か語ったことがあるんですよ。その受け手の反応っていうのが、自分が想像しているものではなかったんですよ。そんなに本当差別する人とか、自分と距離を置く人っていうのが、話した後で「ああそうだったのか」って受け止めてくれているというか。そういう経験もあって、やはりカミングアウトすることっていうのが、自分の生きづらさっていう壁を打破していくためには、自分自身でその術があるんだっていうふうに思って、それが研究のテーマにしたいなというふうに思っています。
安藤:要するに、何かを言えない自分を抱えている生きづらさを持ってきたわけじゃない。そのJ君にとって水俣に行くというのは、どういう意味があったんですか?
学生J:僕らが合宿に行って何をしているかというと、患者の人の話を聞くわけですよ。その人にとってはつまり、言えないことを言う、その場で言うってことで。それってやっぱ自分自身が潜在意識の中で求めていたことっていうか。自分はその時は聞き手ですよね、でもそれを自分の立場の問題として思った時に、その語るっていうことがやはり人間関係の壁をつくらずに構築していくっていうか。やはりそれは毎年毎年合宿に参加して、何年も同じ人にお会いして、やっぱり1年目とは違うし2年目は2年目で違うし。それは自分が聞き手としてどんどん合宿に参加していくことで、人間関係が濃密になっていくということを感じました。その中でやっていたことは話を聞く、向こうの方は語るっていうことで。なんかそれは自分にとってのものすごいヒントになっているなと今は捉えています。
安藤:遠藤さんにしても吉永さんにしても、何のために来ているんだ、という問いかけをされているわけよね。何かモノ好きなのかとかさ。
学生J:一言でいうと、僕がお話を聞くというのは、どこか水俣病の話っていうのが自分の人生と共通することがあるな、というふうに何か感じていて、それを今四年生になり、言語化できるレベルで意識をできるようになってきたなっていうふうに思っています。
安藤:これは本当に何度も行っている人と1回目の人と全然経験が違うと思うんだけど、当面その辺についてみなさんの方から自分なりのあれを言っていただけるといいんじゃないですかね。いかがですかね?
院生A:最近思うのが、私は今年で水俣合宿が5回目になるんですけど、かかわり的に言えば6年目になるんです。ふと思ったのが、1年生のころは私が行っていいのかなとか。水俣に行く理由を探しだそうとしてて、もがいていたところがあったと思う。でも6年目になって「理由っているのかな」ってふと思ったりなんかして、単純に「今年は行かなきゃな」っていう思いがパッパッと出て来ていて。それが自分の中であったのかな。何に惹かれるのかなといったら、やっぱり自分のことを開示してくださる方を目の前にして、それで自分がその開示を受ける。そうすると自分の中で、さっきJも言っていましたが、刺激されるものがあるんです。それで更にああいう環境、すごく開放的な環境があって。そうすると、それが言葉は悪いかもしれないけど、自分に追い打ちをかけるんです。すごくこう、自分もいろいろと話したいと思うようになっていく。さっきの話にも合ったけど、潜在的にそれを求めている自分に気づいたりとか、っていうところがあるんじゃないかなって。そういう時間が、場が楽しいんですよ。そこに魅力を感じている。水俣に行くと、学部の1年生なんか全然知らなかったんですが、それまで全然かかわりはなかったのに、急激に仲良くなる。そういうところもある。それはすごく面白いし、それは先輩としての魅力の一つかな。
安藤:Aさんの場合には、1年生のときからさ、歌にしたわけじゃない。歌をつくるわけね、自分でね。なぜ歌にしたんですかね?
院生A:高校ぐらいから自分で自分の歌をつくることがあって、ありがちな話なんですけど、歌の中に自分の想いを込めるというか、そういう自分がいて。普段はあまり自分の思いを積極的に話せるほうじゃないんです。それで歌にしたいと思ったのは、水俣に行った自分っていうのが、そこに一番自分がいるというかいたというか。だからその時の思いを歌にすれば、それこそ本当に「正直な思いっていうのを表現できるんじゃないかな」ってその時は思ったのかもしれません。だから、1年生の合宿の最終日に私は歌を今回の合宿の経験を歌にします、ということで歌をつくりました。
遠藤:ちょうど彼女と一緒にギター持っていた男の子。1年下かな?
安藤:N君ね。はい。
遠藤:彼がレポートで、自分のお父さんとの和解の話をしてきましたよね。それまでお父さんとあまりいい関係じゃなかった。でもお父さんが脳梗塞で倒れて、水俣に来て水俣病の人の話を聞いてお父さんと話ができるようになったっていう話があった気がしたんですが?
院生A:はいそうです。
遠藤:Jくんの、カミングアウトもそうなんですが、話を聞いて自分自身を考えるようになった。水俣病の知識が増えたなんて誰一人もいなかったから、俺良いなと思っています。そうじゃなくて自分自身を見つけるようになったって。Nくんがお父さんと仲良くなったのもいいし。そんなふうにして和解の話というのはなかなか面白いなと思ったし、埼玉大学ってなかなか次々面白い。
利夫:さっきから聞いていると、すみません水俣合宿では単位は当然出ているもんだと思ったし、自費だってことや何度も来ているリピーターがいるっていうのは、これはこの卒業生とみんなの今の話。何回か行った人の話を聞くと面白い。
遠藤:疑問が深まるやろ?
利夫:とても研究対象になる。なぜ続いているのか。基本的に言うとそれ以外の人っていないのかな?
遠藤:学生で来るのはなんかの補助がでるとか単位が出るとかが、そういうの多い。
利夫:うちもちゃんとそれを売りにして、大分のAPUはうちに来て4泊5日やると1単位っていうのを打ち合わせして。
学生J:合宿を自分たちで楽しんでいる。
学生K:なぜそのリピートするかっていうことなんですけど。おそらく、僕たち大学生の大学の環境っていうのは、自己開示をすることをするのが難しい場なんじゃないのかなと思う、これはカンですけど。だからこそ、なぜ水俣に惹かれるかっていうと、自己開示をする人が目の前にいるっていうことと、自己開示を迫っている人がいる。安藤先生もある意味では自己開示を求めている。なぜ僕たちが自己開示をしたいかというと、普段できていないんだよね。もっとなぜ自己開示をするかというと、自己開示に対してJ先輩が言ったようにつながっていく人間関係だとか、A先輩のように自己開示をすることが楽しみであったり、それがエネルギーになっているわけだよ。つまり自己開示っていうのは生きるためのエネルギーをつくっているもんなんじゃないかなと僕は思う。僕たちがなぜ水俣に惹かれるかっていうと、僕自身の考えなんだけども、一人ひとりの中におそらく自己開示を自分自身に迫っている人がいる。一人の人間の中に自己開示を迫る僕と自己開示をする僕がいるわけ、そこのやり取りが葛藤を生むんじゃないのかなって思うし、モヤモヤを生むんじゃないのかなって思う。コラボっていうのはおそらく。
安藤:ここは大体が同じ学科(コラボレーション教育専修)にいるんですけども、KとGさん、2人は別の学科の学生さんなんですよね。
学生K:コラボっていうのは、自己開示を迫ってくる機会が多い。
安藤:それは吉永さんと僕が同じであるっていう仮説?
学生K:うん。
理巳子:自己開示をすると楽しくなるっていうのが、私が体験したのはあるんですよ。水俣病が嫌だったころは、私のいとこも水俣病、彼女は本当に水俣病の症状も典型的にあるわけですよ。私はその人をずっと避けていたんですよね。水俣病のことを自分が本を読んだりして考え始めた時に、私はたまたま生き残っただけじゃないかと気付いたんですよ。私はたまたま生き残って、水銀が入っている量が少なくて、手が動くだけじゃないか、足が幸い動くだけじゃないか、言葉もまともに少しは出せるだけじゃないかということに気付いたんですよ。そしたらね、自分が一番身近な水俣病の人を差別していたというのに気付いたら、笑いが出たんですよ。笑いが出た時に、初めて水俣病の人と話すことができた。それまで近くにいっぱい水俣病の人がいたのに、いやだと思っている時には話すこともできなかったです。だけどだんだん楽しくなってきたというのは、それからですよね。自分が本当に水俣病の人と出会うようになってから、水俣病のことを考えるのが楽しくなった。学生Jさんが言われていたように、私も水俣病のこと嫌だと思ってずっと黙っていれば隠し通せると思っていたんですよ。そしたら私が水俣病のこと話して、小学生の時の友達に会った時言われたのが、「本当は見えていた」。「私が水俣病のこと、お父さんが水俣病だっていうのも知ってた」と、だけど「あなたが人から言われまいと思って、こうガチガチガチガチ守ってるのが分かっとったから、声かけられんやった」っていうの言われたんです。
安藤:それはおいくつぐらいの時?
理巳子:それは40歳過ぎてから言われた。それまで、本当、私は何だったのっていう。もっと早く返して欲しいと思うんですけど、してみないと分からない。体が楽になっていくっていうのは、少し自分の気持ちを開くっていうのはそういうことなのかなっていうのを体験しました。
学生K:自己開示が生み出すものっていうものは、楽しさであったり、人とのつながりだったり、いろんな快感だったり解放だったり、いろんなことが使えると思う。それはおそらく自己開示をしていくその人の言葉で、その人が考えている感覚で表せると思うんですけども、おそらく自己開示が生み出すものっていうのは、よりよく生きていくためのものであるということはちょっと確信していますね。
利夫:遠藤さんが言ったこともあるからね、マイナスに働いちゃうこともある。
遠藤:それはその時の部落解放運動と今の水俣で、条件というか前提というか大分違うけど。
学生K:それはおそらく自己開示がなぜ失敗するかっていうと、場の条件が悪かった。つまり場の条件が合っていれば自己開示っていうのはうまくいく。より良きものとして回収することができると思うんですけど、その場の条件がやっぱり合わなかった時には、負の産物も生まれてしまうということなんじゃないんですかね。
遠藤:個別的にはいろんなケースがあって、もう少しややこしい話はたぶん引っかかっていると思うんだけど、大筋は同じだと思う。
安藤:どうですか? 3年生。やり方は毎年いろいろなんですけど、今年は学生Lさんが中心なってやってくれたんですけど。たぶん、1年生の時にまさか自分が中心になってこんなことやるとは思わないでしょ?
学生L:思っていないです。そういえば、これは単位も出ていないし、お金もかかるし、結構な負担だなと(笑い)。でもそれでもやっぱり進んで足を運んでしまうのはなぜだろうって考えていて、まだ答えがでなくて。今思ったのが、私は海と空とか好きだっていうのを言っていて、それがずっと続いているからって思っていたんですけど、多分それだけじゃないんですね。例えば1年目にお会いした人と次の年に会いたいと思う気持ちとか、例えばその時はあまり話せなかったけど、2年目になったら話すことが出来るとか。
個人的に今年は永野さんに名前を呼んでいただいたことがとってもうれしくて。永野さんは1年生時からお会いしていたんですけど、今年初めてそういうことがあって、それがすごくうれしかったとか。あとは、話し手が話すっていうのは聞き手がいて成り立つことだから、話す−聞くっていう関係性が生まれるとか。自己開示とかカミングアウトとか結構そういう重いもの、難しいところまではいけないんですけど、自分が話す、自分の思っていることとか自分が抱えていた悩みとかを誰かに話すとか聞くとかすると、私は勝手にその人との距離が縮まったなっていつも思うんです。だからこそ、そういう自分の体験されてきた辛い出来事とか苦しいこととかを話していただけるというのはやっぱり有難いことだと私たちは思いますし、そういう関係をずっと続けて来てくださっているっていうのも。そういう積み重ねがあって、どんどん距離が縮まっているんじゃないかなって思っていて。その関係性を望んでいただけている中でこうして毎年来させていただけるっていうのは本当に幸せなことだと思いますし。今年中原八重子さんにお会いした時に「来年も再来年も会いに来てください」っておっしゃっていて、それが私はうれしくて。最初に遠藤さんが埼玉大学は評判がいいとおっしゃっていたが、そういう中の一員として来られているのは幸せなことだと思うし、今年は特にそれを感じて去年とか一昨年とか何で来ているのかとか特に考えてはいなかったんですけど、そういうのが知らないうちにあったのかなと思って。このメンバーで来れるから私も来ているのかなって、この埼玉大学として来ているから。
安藤:今日の話で、自己開示って結構重たい話が出ているんだけど、一方でみなさんからでてくるのは例えば覚えててもらえるとか、名前を呼んでもらえるとか、記憶されてるとか。それはどういうことなんですかね? 僕だって名前呼んでいる、何なんですかね?
学生K:名前を呼ばれるとそこにいるっていう感覚がすごい。
学生L:自分を認めてもらえる。自分がそこに、その人に会いに来ている意味があったのかなっていうか。そういうのを。名前とかじゃなくていいんです、どっかで見たっていうのを言ってもらえるだけでも。
安藤:もうちょっと、どうですか?
学生I:聞きたいこと、理巳子さんになんですけど、自己開示っていろいろあると思うんですけど、私も人に話していないことって結構あるんです。私がそれを人にあまり話さないのは、別に人に受け入れてもらえないからではなくて、やっぱりテレビとかでも悪いことをした人の話とか悲しい人の話とかあるじゃないですか。それってやっぱり人が聞きたいと思っちゃうからじゃないですか。本当に親身になっちゃうとかじゃなくて、興味をそそられるような話だからテレビとかでやるわけじゃないですか。ここの人たちを信頼していないとか一切そういうのではなくて、自分が話をすることを、興味をひかれる話だからっていう意味で、そういう気持ちで聞かれるの怖いんですよ。本当に自分のことを理解してくれると言うよりは、人間の興味がそそられるから聞きたくなるじゃないですか。
安藤:興味本位で聞かれることは怖くありませんか? ということ?
学生I:そういうことです。
永野:野次馬みたいな?
学生I:そういう。
安藤:言って自己開示して、受け止められればいいんだけど、受け止められない可能性だって十分あるわけだよね。
学生I:それについて反対されるんじゃなくて、ミーハー心って言ったらいいんですかね。受け止めているっていうよりは、ミーハー心みたいに聞かれちゃうことに抵抗はないのかなって思って。
理巳子:ありますよ、それは実際に興味本位で聞かれるっていうことも多分あると思います。だから怖くはないっていうか、本当に私だって全部が全部話しているわけじゃないです。本当にまだ話せないこともあります。だから自分がここまでは話せるっていうのでやっぱり話しますよね。もしかしたら2人になったらまだ私が話せないことをもしかしたら話すかもしれない。だから私は資料館で今語り部をしていますけど資料館にはいろんな人が来られるわけで、そういった意味では観光で来られたお客さんも、みなさんみたいに水俣病の学習をしてくる方もいらっしゃいます。だから私は自分でここまで話すと思ったことは話してます。このことを言うとこの人傷つくなっていうことは、やっぱ話せないことがありますね。だから興味本位でっていうことがあるかもしれないですけど、自分が話せるだけのことは話しています。このことは自分で伝えたいし、話したいと思うことは話している。だけど、自分が話せることと、話していいことっていうのはあると思うから、それは自分の中で考えて話しています。
学生I:それでもお話をされるのは、自分の為なのか、伝えるためなのか、そういうのってありますか?
理巳子:8割方自分のためなのかな、話しているのは。
学生I:話してよかったなって、今までを振り返ってそう思われますか?
理巳子:話してよかったと思いますよ。話すことで聞いてくださることがあるじゃないですか。話さないと分からないですよね。だから水俣病についてどんどんなんでこうなのかな、と自分の中で深まりができてきたというのがやっぱりよかったなって思います。まだ話せない時には、考えつきもしなかったことなんだけど、話してみてどんどんやっぱり水俣病の不思議さっていうのが自分の中で湧いてきたから、その点はよかったなと。それとね、水俣でお話を聞いてもらって小学生の時に聞いてもらった人が、もう高校生になった人なんですけど、いまだに年賀状をくれたり、手紙をくれたりしてくださるんですよ。そうすると、歳の差を超えてそんな交流ができるっていうのは、あんまりないんじゃないのかなって。おそらく水俣病があってのことなのかなっていうのを思います。
利夫:今聞いてて思ったのは、普段私がやっているのは、この人たちが語り部で話している時って200人、300人の子が同時に聞いている。アンケートとってないけど、ほとんど聞きたくて聞いているわけではない。いやいやっていうか「なんで俺たち修学旅行水俣なんだよ」って。水俣ってなんだよって聞いている子どもがほとんどで、更に正直3分の1から2は寝ている。そうでない子どもいるよ。この人たちはそれが見えていてしゃべっているから、そうとうひどいことさせているっていうのがみんなに言われて思ったこと。
もう一個はね、今日は話すことのエネルギーをもらって帰ると思いますよ。こんなに真面目に聞いたことを考えてくれる人が東京にいる。だからこの人たち、正実さんたちの話を聞かせたいのは、これでも多いぐらい、10人ぐらいだと思っている。もう一方で、資料館は評価が人数になっているというのがちょっと気になっている。本当は人生これだけ変えてくれましたっていうのが、何万人っていうのが評価になっていかないといけないなと。評価は人数だけじゃなくて聞いたやつの何かを問題にする。
安藤:1年生あたりどうですか?
学生M:自己開示っていうのは、水俣病やる前から自分のテーマだったりして。自分の思いだったり、今まで隠したことをいう時に、合宿のための事前学習でレジュメに書いたりするときに、不安に駆られながら書いたりする。不安だけど、けどこれがいつも自分なんだって思ってレジュメを書いたり何かを話したりしてます。でも言った後は、それで自分を知ってほしいっていうのが強いんで、よかったということはいつも思うんですけど。でもたまに不安がまさってしまって、自己開示というか、思っていることを言えなかったり、書けなかったりっていうのがあります。言った後書いた後の楽しさはわかるんですけど、でもその不安をどのようにすればいいのかなって結構悩んでいるところでして、出来れば聞かせていただけばいいなと。理巳子さんに。
理巳子:言ってしまえば、不安といっても自分でそこを耐えるじゃないですか。私は自分で言っただけのことは、そんなに耐えられないようなことを言ってしまうということは、多分ないんだと思うんですよ。自分で言ったということは、それだけ自分に自信があると思うんです。本当に言えないことっていうのは、自分がまだ耐えられない時には言わない。私も何のきっかけで水俣病のことを話すようになったんですかって言われるんです。それは一つは私は時間です。この歳になりました、40・50の歳になりました。その人にとっての出会いの時、その時間っていうのはあるんだと思います。だからまだまだ開示できないことっていうのは、もしかしたらあと何十年かの人生を積み重ねていく中で出てくるんだと思います。私は根っこに、ずっと水俣病のことが嫌だと思いながら、ずっと自分の中に残っている、抱えているということをずっと分かっていたんですよ。それを出すタイミングっていうのが、40年、50年かかったんだと思うんですよ。だから、時期はまた必ず来ると思うから、耐えられる自分になった時にはでてくるんじゃないかと思うんですけど。
安藤:ここは足りないとか、あれば。
遠藤:シンプルなんだけど、例えばこの4月から県内の教育事務所で人権担当の先生を集めて話しているんですね。話したことに質問ありませんか、って質問しても疑問を言う人はいない。なぜかというと、人に質問するって人の言ったことが分かっていないとうまく質問できないし、トンチンカンな質問して恥ずかしいなと思うからしない。ということが多いと思うんだけど。Mくん、何の不安なの?
学生M:自分が認められないことに対する不安ですかね。
永野:埼玉大学に関する感想。毎年来るたびに、何人か心が揺れて揺れて帰っていくというのを見てきています。それはやっぱり自己開示した人たちなのかなって、すごいと思っています。水俣に来て、心が揺れたり不安定になることを認めてくれるのが安藤ゼミだと思っている。このゼミが続いている理由の一つがそれなんじゃないかなと。
利夫:補足みたいなものなんだけど、このメンバーってやっていること自体が自己開示を内包しているんでしょ。
安藤:自己開示は、こういうところポイントだなと思った。今回。
利夫:そういう意味ではこの場そのものが、自己開示を考えさせるような関係性があるんだなって、さっきからずっと聞いていて思いました。だからリピーターになってくれてんのかな。それから、これが自分なんだということをMくんは言っていたけど、これが自分なんだと思えるかどうかだと思う。ちゃんと論理立てて、説得しようとする自分がいたりさ、この人にはそういうふうに言わないといけないとか。いろいろあるんだけど、どうせそんなことは俺はできないと俺は思うから、そういうことをちゃんと自分で理解しているから、自分でそう思えればいいんですよ。
遠藤:勝手に総括的なことを言うと、2月1日に緒方正人、緒方正実、吉永夫婦を呼んで座談会をやったんですけど、あのレベルの議論ってほとんど出ていないんですよね。この場はそれに匹敵します。ただ「課題がいっぱい残っちゃったな」と思うし、考えなきゃいけないんだけど、埼玉大学の学生とこの4人でそこまで突っ込めたって望外の幸せです。
利夫:こんなやっぱり真面目にちゃんと、水俣のこととか、水俣で会った人のことを考えてくれているっていうのは、本当にありがたいと思う。仕事やっててよかったなと思いますね、自分でね。どうもありがとうございました。
理巳子:今日はありがとうございました。私は水俣の子どもたちと一緒に設定できればと思うんですよ。是非、水俣の高校生であったり、中学生であったりする子たちがここに入ってほしいなと。これだけ水俣のことを自分のこととして考えているみなさんがいるんだっていうことは、水俣の子どもたちはまだ分からないんじゃないかと思うんですよね。だから是非、水俣でこういった場を持てればと思いました。今日はありがとうございまいした。
永野:相思社に入ったおかげで、自分が水俣病に対して抱いていた感情とかどんどん変わってきて。みんなが来ることで、私が嫌だなって思っていたり当たり前の風景が、どんどん特別なことになってきたのは幸せだと思っています。相思社もそうだし水俣の人たちがみんなと触れ合って、そういう感情が抱けるようになっていけばいいなと思っている。
自己開示っていうことを今回初めて考えて、去年と一昨年に不登校の立場で話すということを初めてやったんですね。自己開示をすることが生きることのエネルギーになるということを聞いて、何かがすとんと落ちたなっていうのを感じています。「今日来てよかったな」っていうのと、これからもずっとこういう関係が続いていけばいいなと思います。私もみなさんの中の自己開示をこれからしていきたいなと思いました。一緒にがんばりましょう。
安藤:本当に4人の方ありがとうございました。とてもいい議論ができたんじゃないかと。ありがとうございました。
一同:拍手
吉永理巳子
その節は大変お世話になりました。そして最後までお付き合いいただいて、ありがとうございました。
学生の皆さんに、受け入れてもらえるかどうか、少々?年齢の開きがありますから、当日は少し緊張して会場に向かいました。安藤先生はじめ皆さん方には小心者の私たちを温かく迎えていただき感謝しています。
今回の学生さんとの座談会は水俣病を次世代に語り継ぐ、課題を抱えている、語り部としても、わたしにとって大学、大学生の意義を考える良いきっかけとなりました。
水俣は、大学がありません。水俣の人がなかなか、水俣病への理解が進まないひとつの要因に、このことがあるかもしれません。他人の意見に耳を傾け、議論し、そして一緒に飲み食いできる、仲間であることはとっても魅力的な時間であり年数を重ねて熟成していく期間でもあるのかと思います。中学、高校生では余りにも短期間であり、社会に接する機会が少なすぎて地元で議論できる環境が作られないままになっています。もし水俣に大学があったならば、様々な地域から様々な人たちが来るでしょう。出身地が違うと当然、それぞれが育った環境の違いが見えてきます。自分と他人、地域を考える刺激的なところになります。
みなさんの自己紹介から、水俣に足を運ぶ理由に、水俣の自然の美しさ、いごこちのよさをあげる人が多く見受けられました。
非日常を感じられる距離、星が輝いて見える適度な暗さ、時間をかけて、年齢も暮らし方も違う人と出会い語る、そんな空間に身を置く事が自己を開示する土壌づくりになっているに違いありません。
水俣の若い人たちも、外から来た同世代の人に問いかけられることで自分に気づく。事あるごとに、外の空気に触れる機会が欲しい
ほんのひと時でも、人、モノ、場所、風景、時間、食を共有することで何かが生まれる。
吉永利夫
九州の片田舎から見ていると、東京も埼玉も群馬も茨木も同じようなものであるのに、そこに住み暮らしている人々は、「東京じゃないぞ!」「埼玉だぞ!」と、誇らしげにそしていつもの様に反応する。大都会には安らぎや安心感、満足感や充実感、人とのふれあいや交流、緑の風や秋の風情など無いものだと勝手に整理してしまう「田舎」。
東京との出会いは、この所そんな感じが続いている。大量生産、大量消費の権化の様な東京の人々が、3万人にも満たない小さなまちで、それも50年も60年も昔に起こったことに、あんなにしっかり反応してくれることには、少々畏敬の念も感じてしまう。いったい都会の人々は、いったい都会の若者たちは、水俣の何が気になっているのだろうか。いったい何に引っかかってしまったのだろうか。
水俣の魅力は真夏の朝の澄み渡った青い空。名前も知らない人から、思いがけないもらい物がある夏の午後。水俣の魅力は不知火海に浮かぶ、夕焼け雲。見も知らない若っか者に、腹いっぱい食べさせようとするばあさんの明るい声。数日間車を止めておくと、あちこちにはびこる黄色と黒の怪しげな女郎蜘蛛の巣。「ノラ犬にエサを与えないで!」の看板を無視して、せっせと野良犬にエサを運ぶ知り合いのおやじ。水俣の魅力はボーナスもなく、昇給もなく毎月15万円で、まじめに働く青年がいること。水俣病資料館で語りを続ける語り部が、思いもよらない哲学を語っていること。水俣湾の親水護岸に立つと、「長崎に落とされた原爆のきのこ雲が見えた」との話を思い出すこと。水俣の魅力は会いたくもないヤツに、やっぱり会ってしまうこじんまりとした空間なこと。ふらりと何の前触れもなく、熊本県庁の役人が遊びに来てくれること。どこで会っても、歴代市長が、親しそうに挨拶を返してくれること。水俣の魅力はやっぱり毎朝道路を掃除しているおばさん、おじさんがいること。
こんなまち水俣に、大学を創ったら学生さんは来てくれるのかしら。こんなまち水俣に、大学を創ったら青年たちが、元気に故郷を往復してくれるのかしら。こんなまち水俣に、大学を創ったら青年たちは、このまちでどんなことにふれあうのかしら。
座談会を終えて、若い人々のまじめな笑顔と出会い、少々やる気が無くなっていたおやじの頭も、少し整理された様で、もう少し元気を出して明日のことを考えてみようと、思えたのです。大学から単位も出ない水俣行きを、何年も続ける大学生がいるとは、まだまだこの国も捨てたものではないと、まじめに考えた。
ありがとうございました。
永野三智
9月9日、埼玉大学安藤水俣合宿メンバーと意見交換会を行った。参加は、吉永理巳子さん・利夫さん、相思社の遠藤と永野だ。毎年合宿で相思社に宿泊をする安藤ゼミは、とても礼儀正しく活発な人たちだ。最終日には必ず集会棟近辺やトイレ掃除まで念入りにしていく。この一つをとってもこのゼミの性格がわかるだろう。
今回の意見交換のテーマは「自己開示」。自己開示とは何かと調べてみると「自分についての情報を、率直にありのまま伝えること」と出てくる。安藤ゼミの学生たちは、毎年水俣に来、水俣病を生きる人たちと出会う。自己開示する人の言葉を「受け取りたい」と思って聞くことで、水俣の問題を自分の問題と重ね合わせる。
私もそうだが、私たちの世代は「自己開示は恥かしい、カッコ悪い」と考え、また環境的にも自己を開示しにくい空気がある。だから周りにも本来の姿や考え、根っこの部分がなかなか伝わらない。見た目には優雅に見えても、水面下では必死で水をかいている白鳥と同じだ。
それが水俣に来ることで患者から強烈な自己開示を受け、返報性のルールを意識下で意識しつつ、自分自身の誰にでも言えない問題や、それを解決しようとアヒルのように必死で水をかくかっこ悪い一面をさらけ出す。このルールの中には、返さなければならないという責任とともに、一つの意思というか欲求も働いているように思う。自己開示している人を目の当たりにし、自己開示したいという欲求が起こる。そこに合宿で目に見えて心が揺れても受け止める、という安藤さんの姿勢が大きく影響しているように思う。その環境があって初めて学生たちは自己を開示し、ステップアップする。そして確固たる自分ができあがっていくのだと思う。
感情がそこでどれだけ解放されたのか? 受け入れられたのか? 自分と向き合えたのか? それによって水俣は故郷になり、自分にとって水俣病はより特別なものになっていくのだと思う。相思社でもそういった場づくりをしていきたい。
それには私自身が自己開示をしながら、同時に自己開示とは何を自分に迫るものなのかを考え続ける必要がある。今回の意見交換会で宿題をいくつももらった。来年この宿題を、安藤水俣合宿のみんなと共有できることを目標にして、1年間自己開示とは何かを考えていきたいと思う。
この意見交換会は2011年度水俣病情報発信事業の補助を受けて実施した。相思社が補助事業を行う理由は、本来自身の事業として実行したいのだが、金銭的な制限から行うという選択が決心できない事業の場合が多い。事業内容は、「講演会『水俣病を生きる〜自己を開示すること〜』と座談会『水俣病から何を学ぶのか』の二つを計画している」を融合させて、埼玉大学安藤水俣合宿メンバーと吉永理巳子・利夫夫妻と相思社職員(永野三智+遠藤邦夫)で、テーマに沿って合宿経験を振り返りながらの意見交換会となった。
吉永夫妻も私も、「最近の若い者は」というような年となったが、私たちは本当に「最近の若い者」が何を考えどう行動しているのか、知っているのだろうか? また水俣では水俣環境大学が取りざたされているが、「若い者」は、どんな大学を望んでいるのか いないのか? 実は良く分かっていなかった。今回の意見交換会で、改めて埼玉大学安藤水俣合宿の参加者たちのことは少し分かった。
「今の大学は大学じゃない」という大学教員の安藤さんの自己批判的な叫びは、裏を返せば学生たちに「ホントの大学を味わってもらいたい」になろう。意見交換会の後の飲み会で学生K君に、「安藤さんは僕たちに大学らしい大学を経験してもらいたいと思っているの違いない」と聞いた。彼からは「僕たちは埼玉大学教育学部の中では、落ちこぼれみたいなものなんだよ。要領の良い奴は、既存の教育システムにうまく乗っかって、それに疑問は持たず良い成績を取ることだけを考えている」とも聞いた。私たちの時代には「大学は労働力再生産機関だ」と批判して、路上で機動隊と衝突を繰り返していたが、そのような牧歌的な状況は今の時代どこにもない。大学を卒業しても新卒で就職できなければ、アルバイトや派遣社員の道しかない。私などはろくに大学を卒業してなくても、就職に困ったことはないし、生きていくこと自体が困難と考えたこともない。そしてK君に「学生時代はさんざん好き勝手なことをしたくせに、ちゃっかり良い会社に就職して退職後は年金生活で安泰だなんて、ふざけるなって感じですよ」と言われ、言い返すこともできず「そうだよな」とうなずく自分がなんだか罪深い存在に思えてしまった。
埼玉大学安藤水俣合宿のメンバーたちは、意見交換会でも「自分の兄弟が障害者なんです」とカミングアウトして、多くの学生たちが「モヤモヤ」している自分と向きあっていることを語ってくれた。この「モヤモヤ」にこそみんなが水俣に来る、水俣に来なければ掴まえられない何かの表現なのではないか。私のように年ととってしまうと、先の方が短いので「モヤモヤ」している場合ではなく、一つひとつを「これはこうだ」と決めつけて生きている。いろいろと困難を抱えているのかも知れないけど、それでも「モヤモヤ」しながら考えてもらいたいと思う。なによりも、ちょっとくさい表現だけどそのことを共有できる安藤水俣合宿の仲間がいることが、「ホントの大学」に迫っているように思う。お互いの話に耳を傾けることができる、と言ってもいつでも肯定してくれるというわけではない。安藤水俣合宿は、安藤さんのキャラクターと参加者が共有している「モヤモヤ」があって、続いているように思う。
私たちは様々な自分を演じていることもあるが、人生全体がドラマと思えば演じている自分も決して虚偽の自分ではない。「今の大学は大学じゃない」ならば、どうするのか? ホントの大学を作るのか? 大学ではない何かを求めるのか? 私たちはいったい何を求めて生きているのだろうか?
日時:2011/9/10(土)午後2時〜午後5時
場所:在日本韓国YMCA アジア青少年センター9F国際ホール
@講演会「水俣病を生きる〜自己を開示すること〜」
講師:吉永理巳子(水俣病語り部の会)
吉永利夫(環不知火プランニング理事長)
A水俣と水俣病の現在「起きたことを記憶する」&質疑応答
講師:遠藤邦夫(相思社常務理事)
special thanks 金井景子さん(会場準備と受付を手伝っていただきました)
遠藤邦夫さん(以下敬称略):今日はお暑い中、水俣病情報発信事業の相思社の企画にご参加いただきましてありがとうございます。環境省と熊本県がやっている水俣病情報発信事業は6年前から実施されておりまして、毎年公募して選ばれているわけです。相思社は去年は大阪で、2009年からの特措法にいろんな救済策の申請をされている人を対象に講演会を行いました。今回東京では、『ごんずい』120、121号で「水俣病患者とは誰か」という特集をしました。今日お話をいただく吉永理巳子さん、吉永利夫さん、あと座談会のほうでは緒方正実さんと緒方正人さんが参加されたんですけども、その内容をもう少し展開できたらいいなと思って企画しました。お二人のお話の後に少し最近の水俣をスライドを使いながらご紹介したいと思います。最初、相思社の職員の永野からはじまりのあいさつをさせますのでよろしくお願いします。
永野三智さん(以下敬称略):はじめまして、今日は本当にたくさんの人たちにお集まりをいただいて、本当にうれしいのと、それと私相思社に入って3年になるんですが、お名前だけ知っていた方たちとこんなふうにお会いできて、本当に今日はうれしいです。
私は水俣市に生まれて育ちました。思春期の頃は水俣病のことについてなかなか人に言えないという時期があったんですけど、あるきっかけで相思社に入って、自己を開示する、している人たちとその現場に今立ち会っていると思っています。その中で今まで私が水俣病に対して抱いていたイメージが変わってきています。
昨日は埼玉大学の学生たちと「自己を開示すること」っていうのはどういうことなのか、自分たちにどうつながっていくのか話し合ったんですけど、自己の開示をしている人たちとの出会いが学生たちを大きく変えているというのに立ち会いました。私自身もそのことを考え始めているところです。
今、私は相思社を乗っ取る計画を立てています。今日は関連のみなさんもたくさんいらっしゃいますし、水俣病にずっと関心を持ち続けている方もたくさんいらっしゃる中でご挨拶をさせていただいたこと、それから理巳子さんや利夫さんが自己を開示していく、迫っていくというその場に皆さんと一緒に立ち会っていきたいと思います。
みなさんと話ができたらと思っています。本当に今日はありがとうございます。
遠藤:永野はあいさつする前は遠藤と弘津を追い出して私の相思社にすると言っていたんですが、そんなつもりらしいんです。ただ実際に、僕らも随分年なので若い人にやってもらいたいなと思っています。今日がその出発というかそのきっかけになるといいと思っています。
あと一点だけ、相思社では長らく天野さんの紅茶を売っているんですが、最近とらやさんから天野さんの紅茶を使った羊羹が発売されています。とらやのホームページを見ると、熊本県水俣市石飛の天野さんが作った紅茶と、ごく当たり前のことが書いてあるんです。水俣の人にしてみると、ごく当たり前に水俣でつくった紅茶だよと書いてくれているのは本当にうれしかったです。本当に当たり前のことが当たり前のように紹介されるようになったなと。よかったら紅茶も売っております、一緒に買って帰って下さい。それから以前考証館をつくった時からありました、「絵で見る水俣病」っていうパンフレットがあるんですが、それの改定版を中国語版と日本語版でつくりましたので、興味のある方はお帰りになるときに買って行ってください。
スケジュールでいうとこの後吉永理巳子さんに約60分お話いただき、利夫さんに30分お話いただき、休憩をはさんで遠藤が少し今の水俣をスライドで紹介したいと思っています。その後質疑応答と思っていますが、吉永ご夫妻の後がよかったら状況を見てと考えています。一応終了時間は17時と思っていますが、会場は18時まで借りていますので、多少延びるのもいいかなと思っています。
それでは吉永理巳子さんよろしくお願いします。
吉永理巳子さん(以下敬称略):改めまして、今紹介していただきました、吉永理巳子と申します。今日は暑い中お出かけくださいましてありがとうございます。そしていつもお見かけする方たちもいらっしゃいます。また同じ話かもしれないですけど、熱心にいつも来ていただいてありがとうございます。
「水俣に生きる」というタイトルをいただいてお話をさせてもらいたいと思います。私は水俣に生まれてずっと育ってきたんですけど、今からの子どもたちがずっと水俣に生き続けてほしいなという願いを込めて「水俣に生きる」というタイトルにしました。「水俣に生まれてよかったな」という思いを持って、水俣に生きてほしいと思っているんです。それは私が幼いころにできなかったことなんですね。だからそういった願いを込めて子どもたちと共に元気に生き抜いていきたいなと思って、今日はお話をさせてもらいたいと思います。
(スライド15)まず、少し自己紹介をしたいと思います。私は水俣の明神というところで生まれました。今も明神に住んでいます。私の住まいの庭を映した写真です。庭の前に広がる水俣湾を修学旅行生の子どもたちに案内をしているところの写真です。今は残念ながら下の海の写真は写っていないですけど、随分風景が変わりました。私の目の前に立っているのはアコウの木です。私の母が結婚して明神に来たときには、今とほぼ同じくらいの大きさだって言っていましたから、100年以上もう少し経っているかもしれないですね。この木は今もずっと埋立地になってしまった海をずっと見てきた木です。
この木は生活の木でもありました。怪我をしたときはおじさんたちは、近所の人たちは、木の皮をはいで煎じて傷口に付ければ治るっていうんで、よくこのアコウの木の皮をもらいにいらっしゃったそうです。もう一つは、私の祖父は漁師だったんです。そのじいちゃんが木の上に登って、水俣湾に魚が入ってくるわけですよ、その魚がどこ来ているのかを見るためにこの木を使っていまいした。だから随分私たちはこの木の下で生活をしてきたんですね。そういったお話をしています。
今この家で吉永利夫と私の母と、3人で悠々自適に暮らしております。今日のタイトルで自己を開示するということなんですけど、こんなお話を皆さんにできるようになって18年くらい経ちます。自分が水俣病と本当に出会うまでには、自慢するアコウの木のことも海のこともそんなに深く考えてなかったです。やっと18年くらい前ですね、それを時がちょっと私にとってはすでに遅すぎました。埋立地になってしまって、本当に私にとっては大好きだった海がなくなりました。もう少し自分の中で早くに気付いていたら、もしかしたら海がなくならなくてもよかったのかなってことを今感じております。もっと早く気付けばよかったっていうのは、それは仕方がないかもしれないですけど。
(スライド14)これは水俣湾が埋立てされていない海の部分で、恋路島という島が浮かんでいるところです。今は綺麗な海になっています。もう少し早く気付けばというのは、私の家族を水俣病で亡くしていった時代ですよね。
(スライド2)私の大好きだった水俣湾の一番奥ですね。百間港のチッソの排水口を映したところです。1980年より前ですね。少なくともこの風景は私にとっては高校生ぐらいまでずっと見ていた風景です。私の家から小学校に通うのに、この排水口を見て行ってました。私は水俣湾の海岸線をつたって、第二小学校ってチッソの側にあるんですけども、そこの小学校に通っていました。その頃は、今は川みたいになっていますけども、川みたいなのが私は当たり前だと思ってました。でもここは海なんですよ。だけどもヘドロがたまって川みたいになっているんですけども、水が流れ出ているところが排水口ですね。そこの色が時には白い色の水が流れたり、茶色の水が流れたり、周りのヘドロは青の濃ゆい群青色みたいな色だったり。匂いがですね、卵と酢の腐ったような、鼻をツンと刺激する匂いがしていました。だけれども、私たちは子どもの頃は当たり前の匂いだと思っているんですよ。ここの排水口っていうのはこういう匂いがするもんだろうと思って、何の疑問も持たずに今わざわざ写真に撮られるところだとは思っていなかったですね。そんなところを見て育ってきました。
(スライド3)私の家のすぐ下の写真です。排水口をずっと通って行って私の家の下が浜辺になるんですよ。みなさんから見て右から3番目が私です。小学校6年生ぐらいだと思います。この時代は、まだまだじいちゃんたちの船があったりしてます。私たちは海で普通に遊んでたですね。普通に魚をとったり、貝をとったりして遊んでいました。だけども、この時はすでに水俣病が起きている海なんです。だけど私たちは危険だとか、危ないということはあまり考えずに遊んでましたね。なんかこう友だちが来たりすると海に行って遊ぶっていうのが、私たちの日常だったと思います。この時本当ならば「魚をとるな」「ここで遊ぶな」っていうのを大人の人が言わなきゃいけなかったですよね。だって大人の人たちも平気で釣りざおを持ってきて魚をここで釣るわけですよね。だから埋立てになっていない、まだ廃水はこの頃流されています。昭和42年に排水は止められたんですか?
遠藤:公式には昭和43年。1968年。
理巳子:私たちはその廃水が流されているっていうのも何の疑問も持たなかったし、当たり前にここに行って遊んでいい場所だと思っていたんです。貝をとったりして遊んでいたわけですよね。だけど本当ならば水銀の入った魚は当然ここにいるわけですよね。その頃は、私は水俣病のことはもう終わったことだと思っていました。私の父親が亡くなって、祖父が亡くなって、もう水俣病は終わったことだ、と自分の中では思っていました。だけども今思えば本当に不思議な話で、私の家族で水俣病に、一番最初に病気が出たのは私の父親です。
(スライド4)「海辺の暮らしを奇病が奪った」って書いてありますけど、私たちには生活の海だったんですよね。生活の海であって遊び場でもあった海だったんですけど、それが水俣病が発生してどんどん私たちの暮らしも変わっていきました。
(スライド5)ここに書いてあるのは、昭和28年9年ぐらいのことですね。その頃私の父親はチッソに勤めていたんですけど、父親に一番最初に症状が出てきました。
(スライド6)父親はですね、1954年、昭和29年です。チッソに勤めていたんですけど、ほとんど漁師と同じ暮らしです。勤めから帰ると、今度はカンテラっていうライトを持ってずっと夜ぶりに行って、魚をとって自分で食べていました。たくさん取れるとお弁当箱に刺身を入れて、一緒に働いているチッソの人たちに刺身を食べさせたりしていたということです。休みの日にはじいちゃんの船で魚をとりにチッソの人たちも一緒に連れて行ったりしてたってことですから、それぐらい勤めをしていても漁師と同じような生活だったですよね。私の家では父親が一番最初に言い始めたのが、「口の周りがしびれる。ピリピリピリピリして、なんかもやもやして話がしづらい、口がもつれて話がしづらい、舌がもつれて話がしづらい」って言い始めたのが一番最初の症状ですね。その頃はですね、私のおばさんたちも漁師をしていたんですけども、おばさんたちも同じように魚とりに行って顔がピリピリピリピリするそうです。「なんかこの頃は顔がピリピリピリピリして、手がチリチリチリチリしびれておかしかね。」だけど魚をとりに行くのは、朝早くから行くわけですよね。「朝早くて寒かけんこぎゃんあっとやろ」っていうのを、みんな話していたっていうことなんです。だけどそうじゃなかったですよね。それが病気の始まりだった。私の父親も手先がしびれる、口がもやもやするっていうぐらいの時です、この写真はチッソの附属病院に父が入院した時の写真です。どれぐらい前の写真かというと、私が一番左の一番前ですね。私が3歳の時に父親は発病しました。この写真は4歳ぐらいの時だと思います。「手がしびれて体が重かし」って病院に行ったんですけど、チッソの附属病院で言われたのは、「この病気ではこれはわからないから、紹介状を書いてあげるから、熊大の大学病院に行きなさい」と言われたそうです。私の母と一緒に父親は大学病院に早速行ったんですけど、大学病院でも「原因がわからない」と言われて。雨の日だったそうなんですけど、よく私の母親は50何年前の覚えているそうなんですけど、長靴を履いて二人でとぼとぼ帰ってきた。結局はチッソの附属病院に入院したんですよね。原因がよくわからないっていうのがよくわかります。父が残した手帳に「今日はペニシリンを注射した」というようなことも書いてありました。「今日は手足を2,30回摩擦をしてもらった」ことも書いてありました。よくベットのところに座ってですね「手がチリチリしびるっとたいな、手がしびるっとたいな」と母によく言っていたそうです。だからどんなふうに治療すればいいのかわからない状況だったと思います。このまま入院していれば命は助かったかもしれないんですけど、一年ぐらいして退院してしまいました。
退院して当時は温泉治療がこの病気には効くかもしれないと言われるので、私の父親も隣町の鹿児島県の出水の湯川内温泉にひと月だったかな、当時鍋釜を持って母と私も連れて行ってもらったのを覚えています。だけども、それが私と父との最後だったですね。この写真は一番最後の写真です。父親はそれから湯治場から帰って、また魚を食べ始めるわけですよ。元気になったけどまだ仕事に復帰する状態じゃないからですね、また魚をとる、ビナって貝をとって食べ始めるっていうのが始まったんです。そしたらせっかくですね、口がしびれるぐらいで治まっていたんですよね、魚を食べなければ治まっていたんですよ、病院にいればですね。だけれども、家に帰って魚を食べ始めて、今度は口のまわりがしびれるっていうような状態じゃなくて、痙攣が激しくて、ベットに寝かせとけばベットから落ちるっていう状態になりました。
その状態がわかったのは、当時の細川一先生の運転手さんをされていた方がまだお元気で、私の父親を覚えてらっしゃったんです。私の父親は痙攣が激しくなると、看護婦さんが抑えきれないわけですよね。それで「坂本さん来てください」と呼ばれるそうですよ。坂本さんは呼ばれると、私の父親は大矢二芳っていうんですけど、「大矢さんが暴れていると、大矢さんをおさえる役目でした」ということを言われました。「何回か看護婦さんに呼ばれておさえにいきました」。そして私の父親を最後に亡くなる前に連れて帰ってきてくれたのもその運転手さんだったそうです。私の家で父親は息を引き取っていきました。36歳で発病して38歳でなくなりました。この時に私の母は28歳です。私が5歳の時です。四人きょうだいでしたけど、もう一人兄がいるんですけども、この写真には写っていないです。
(スライド7)この写真は私の祖父の写真です。父親が亡くなってたった一ヶ月後です。同じ症状で祖父は寝込んでしまいました。祖父は全く声が出なかったですね。自分から話すことができずに体が硬直したままです。寝返りもできない状態で9年間寝たきりで亡くなっていきました。
(スライド11)私が今、家族のことを話したんですけど、皆さんにお話すればたったこれだけのことなんですよ。でも私にとっては、私の家族のことすら40年近く話せなかったです。私の父が亡くなって次にじいちゃんが病気になったときは、水俣病っていう名前すらない時だったんです。「奇病」って呼ばれていました。私にとっては水俣病という名前より、奇病の方がドキッとする名前なんですね。奇病って言われると私のことを言われている気がするんですね。「あすこの家は奇病の人が寝とらす」って言われると、私の家のことを言われているのかと前は思っていました。後から水俣病っていう名前が出てきたんですけど、私の中では水俣病っていうのは奇病よりも位が高い、そんな感じがするんです。だけど水俣病のことをみなさんが取り上げてくださるっていうことは、40年前の私にとっては非常に苦痛だったんですね。早く私の父親のことやじいちゃんたちのことは、人に知られずになくしてもらいたいなと思っていたんです。1990年代初めには、あと10年もすれば水俣病公式確認から50年経つから、みなさんの記憶から水俣病っていうのがなくなって、静かになるんじゃなかろうか。そうすると私の家族のことを取り上げるっていうことはなくなってくるんじゃなかろうかって、私はずっと願ってましたね。だけども、自分の中に水俣病っていうことが一番気になっていたんです。なぜかというと、水俣病って言葉を聞くと顔は背けるんですけど、耳はそちらの方を聞いているんですね。何を言われるのかなっていうのがいつも自分の中で気になっていました。
18年前にやっと私は水俣病と出会う機会がはじまった、というのはおかしいんですけど、水俣病に出会わなきゃいけない時が来ました。水俣で18年前くらいに、水俣病のことをきちんと取り組もうというのが始まりました。その時に私にとっては一つの大きなきっかけだったと思うんですけど、水俣病について書かれた本を一冊開くことができました。『水俣の啓示』っていう本ですけど、初めて水俣病は私の家族の病気だと思っていたんです。私の父親の病気であって、じいちゃんの病気であって、親戚の病気だって思っていたんです。だけれども違ったな。本当はチッソの廃水は止めようと思ったならば止められたのに、止めさせなかった人たちがいたということに気づきました。その時に父親のことをやっと考えられるようになったんです。水俣病が嫌だと思っている時には、父親は病気で死んでしまったから仕方がないと思ってたんですけど、やっと父親のことを考えるようになりました。父親は何が原因で命がなくなったかっていうのは、分からないまま亡くなりました。もし、父親が生きていたらばどんなことを考えただろうかと思うと、涙がとまらない時があったんですね。何回も夜に起きて『水俣の啓示』を読んだことがあります。なぜあの時に排水を止めなかったんだろうっていうことは、父親がもし生きていたならば、私はチッソに言っただろうということを思ったんです。父親は組合活動もしてきてました。だから父親がもし生きていたならば、きちんと裁判もして原因がなんだったのか明らかにしたかっただろうと考えるようになりました。
それからもっと水俣病のことを知りたいと思うようになって、初めて水俣病の人たちと出会うことができました。杉本栄子さん、緒方正人さんたちと水俣病のことを自分が知りたいと思うようになって初めて出会うことになって、それが今の始まりですね。私が本当は一番恥ずかしいと思っていた水俣病の人たちが、なんでこんな目にあわないといけないのか。死にたいと思って死んだ人はいないのに、なんで水俣病っていうことだけで恥ずかしいと思われて、死ななきゃいけなかったのか考えるようになりました。私は命がたまたま助かっただけじゃないか。私も魚も食べていました。一番じいちゃんにかわいがられていたからですね。だけれども、水銀の入った魚を人より少ししか食べなかっただけで、手も動く、足も動く、それだけの違いでしかないんじゃないかとやっと気づきました。それまでは水俣病の人と、私は違う人間って思ってました。私は水俣病じゃないって思っていました。だけれども本当は、私も水俣病だったということに気づきました。たまたま命が助かっただけじゃないか。私は水俣病っていうのは私の父親やじいちゃんたちの、命が亡くなるぐらいのひどい症状を抱えた人が水俣病だと思っていました。私の周りにはまた、典型的な症状を抱えた人が多いです。私の母も祖母も認定患者です。だけども幸いに水俣病の症状がそんなにひどくないです。口のまわりがもやもやしびれたりすることはありますけども、手が不自由だということは幸いなことにあまりなかったですね。それぐらいの違いでしかない、ということにやっと気づきました。本当ならば、一番最初に言ったように、水俣病が発生した時に排水を止めていれば、病気にならずに済んだ人も随分いたと思います。そのことはまだ50年経っても調べ上げていないので、相当難しいと思います。いち早くみんなの命を守るっていうことをしてこなかったっていうのは、チッソはもちろんですけど、県も国も市も人の命を守るっていう責任はまだ果たし切れていないと思っています。
(スライド16)この写真は私の家に修学旅行生に来てもらって話をしているところです。残念ながら水俣病への差別はまだ続いています。子どもたちがつい先日も、サッカーの試合で「水俣病さわるな」って言うような言葉も言われました。だけども今私は修学旅行生に話をしていますけども、なぜ修学旅行生に来てもらいたいかと言うと、実際に水俣の風景をみてもらいたいんです。そして、水俣の空気に触れてもらいたいんです。それはなんでかというと、私たちは水俣病っていうとテレビや新聞を通して伝えられた水俣病っていうものが多いです。だから水俣病=灰色の町と言われて、色がついていない町という言われ方をしてきました。私は「水俣に実際に来てみてどうだったですか」っていうのをたずねます。そうすると、水俣はカラーですね、色がついているんですね、ということを言われます。これぐらいイメージというのは水俣=ドロドロした海で、空が灰色でっていうのがあると思うんですね。色のない世界と思われていたのが、実際に来てみると海がきれいだ、山がきれいだという感想をもらいます。それと同時に、水俣の人に会ってもらいたいですね。
(スライド??)この映像は私の母が子どもたちに話している映像です。私の母は水俣病だったんですけど、今85になりますけどもまだ元気でおります。私が母から学んだのは、悲しいだけでは生きていけない。苦しいだけでは前に進めないと教えてくれたじゃないかな。私は母から生きていくのに「辛い」という言葉をあんまり聞いたことはない。私の父親が亡くなって、すぐ収入がなくなりました。私の母は28歳だったんですけど、建設現場に行って働き始めました。それはなんだかんだ考えている暇はないですね、私たちを育てないといけないです。父親が亡くなった一か月後に祖父が倒れました。母には病院に入れるお金がないです。だから家で看病しなければいけない。その看病をしながら、私たちの生活を支えないといけない。チッソはもちろんこの頃自分の企業が原因で水俣病を起こしたということを認めてませんから、補償金も払わないです。私の家に補償金が入ったのは私が高校2年生の時です。だから私にとって水俣病はとうに済んだ話だったです。もっと母が大変な時に、駆けつけてきてほしかったです。
一回だけはですね、病気で私が寝込んでいる時だったと思うんですけど、母が「みんなで死のうか」といったことがあります。その時はよっぽど何か辛いことがあったんだろうと思うんですけど。それ以外の時はチッソの悪口を言うこともなかったですね。母はどうやって生き抜いていこうかということを考えていたんだと思います。今から20年ぐらい前に、畑仕事をしていて片足を失いました、耕運機に巻き込まれて片足を切断してしまいました。片足は義足ですが、畑仕事をあきらめない人です。畑仕事がやりたくてたまらない人ですから、義足にビニール袋を履かせて畑をしています。とれた野菜を子どもや孫たちに送るのが楽しみです。我が家で三人暮らしていますけど、一番働くのは母親です。掃除もします。自分ができないけれども、やりたいという気持ちがあるのは、すごいことだなっていうのは私は母に学びます。掃除をするのにも雑巾を10枚ぐらい用意するんです。なんでかっていうと、義足を外した時にふき掃除をしないといけないですね、義足をつけてしまうと掃除ができないんです。お尻に乾いた雑巾を1枚敷いてそれですべって回って拭いて回るんですね。一回一回洗わなくていいように。換気扇の掃除もしたい人ですから、だけども手が届かない。義足の先に雑巾をかけて自分の手が届かいところは義足で掃除をしています。義足を外してしまうと、腕の力がないから立てないという時があったんですね。それに介護の保険の資格をもらうのに、いろんなことを聞かれて答えないといけないです。母はそれにさっささっさ答えてしまって、適応にならないんですね。私たちが子どもの時は、残念なことに国に守ってもらうということは難しかったんですけど、家族に守ってもらって私はここまでこれたんだなと思います。
自分で初めて水俣病っていうのを考え始めて、今度やっぱり亡くなった人のことですよね。水俣病で犠牲になって亡くなった人のことは、どんなふうに考えられているのかなということを思います。補償金を払ってそれで終わり、ということではないんじゃないかな。もし水俣病がなかったならば、生きられた命だったかもしれない。その人たちがもし生きていたならば、どんなことを考えただろうなと思います。今、水俣病の資料館に私は水俣病で亡くなった人の顔を出したいと思っているんです。それは当時の人たちに私はみなさんに出会ってもらいたいと思っているんです。水俣で何が起きたのか、なぜ自分たちが今生きているのかっていうのをその人たちと出会って、語らってもらいたいなと思っているんです。そこから自分たちの生き方みたいなヒントが得られるんじゃないかなと思います。今生かされている私たちと、亡くなった方と出会う場所が欲しいと思っています。そのためには小さい子どもさんから若いお母さんたちまでが、来れるような資料館を目指したいなと。ぜひ若いお母さんたちが一番大切な時期だと思うので、来てもらえるような工夫が出来ないかなと思っているんです。小さい子供さんたちを連れて来てもらえるような資料館であれば、何回も足を運んでもらえるんじゃないかと思っているんです。だからその中で自分たちが生きているっていうのはどんなことかなというのを考えてもらえればと思っています。資料館はとってもいい場所にあります。私の家の畑もあったんです。だから私はこのいい場所なんだから、本当みなさんに来てほしいなという思いがあるんです。みなさんに来てもらいたいために畑も提供したんですから、もっともっと活かしてもらいたいなと思います。
少し話が長くなりましたけど、これで私の話を終わります。ありがとうございました。
吉永利夫さん(以下敬省略):こんにちは、10年振りに会った人が何人かいらっしゃって、ありがとうございます。
一つだけ訂正します。さっきの理巳子の話の中で、義足で換気扇を掃除している姿は間違いです。松葉づえです。
私は1951年、うちの(理巳子さん)とおない歳ですが、静岡で生まれまして20歳の時に水俣に来ましてもう40年目になります。当時は日本全国の大学なんかに水俣病を告発する会があった時代で、大学生がいっぱい水俣に来ていますけど、私は定時制高校だったんで別に大学と関係ありませんし、静岡で何か運動をやっていたこともありません。同級生が鹿児島に行ってましてそいつをたずねて、一週間ちょっと座り込みのテントにお邪魔させてくださいって寄って以来40年います。もうそろそろ「お前はどうするんだ」っていうことを言われなくなってきていますね。20年ぐらい前だと僕らは水俣の人から直接問い詰められるわけじゃないんですけど、「どうせ出て行くんだろう」とかあるいは「どこで死んでいくんだ」みたいな。
今考えてみると私は1972年、20歳で水俣に行きました。40年経ってふと思ってみると、水俣病の発見される1956年、私が水俣に行った年が16年目なんですね。私が行ったときは、なんとなく水俣病は終わったという感じで、裁判は確かにやってました。チッソと自主交渉している川本輝夫さんたちはチッソ前で座り込みをやっていました。いわゆる病気とか被害者の数とかいう意味ではまだまだもちろん、認められない人もいるってみんな言っていましたし、それは山を越えて後は補償をちゃんとしろ、みたいなことだったと思います。私は水俣病のことも水俣のことも全く知りませんでしたので、石田勝さんという患者の人に「ナマコとりに行くぞ、吉永くん」と言われて、はいはいとついて行きました。でも今思えば、ヘドロの海のちょっと向こうの一番危ないとこでナマコ取って、「ほら食え」と言われたのを覚えています。みんな平気で食べてました。
私はどっちかっていうと、自己を開示させる側でやってきました。相思社に入りまして、水俣病歴史考証館をつくりました。もう20年以上経つんですかね。相思社にある考証館にあるものはとても大事なんで、資料館をやりたいと言っているところです。相思社にいて考証館をつくってきたのですが、観光地に行くと酔っぱらっているおじさんがいる。僕が想像したので嫌だったことは、酔った人が来て考証館に来てせせら笑う、そういうイメージが若干あってそれが嫌でしたね。それ以外は患者の人たちの思いをどう展示するかとか、精神的な被害のことをどう展示するかっていうことを、一生懸命考えていたつもりなんですが。やってみて、そんな人はあまり来ませんね。どっかで水俣病って怖い、あんまりそういう方は寄り付かないんだなとこの20年ぐらいで安心しています。
相思社で考証館つくってやってきたんですけども、相思社を辞める頃には二足のわらじを履いていました。片方で相思社の常務理事をやりながら、水俣教育旅行プラングをやっていました。きっかけは吉井さんが市長をやっている時に、水俣に修学旅行を呼びたい。そのための集まりを市につくるんで出て来てほしいというのがありました。熊本県がちゃんと水俣病のことをやらなきゃいけないというので、環境創造みなまた推進事業っていうのが始まって、1993年だと思うんですが、そういう流れの中で吉井さんの呼びかけがありました。最初は「県のやる事業に参加なんかするもんか」と思っていました。ユージンスミスとアイリーンさんの写真をいただいていたんで、それを展示してほしいという要望が確か市役所からあったと思います。その頃は、まだまだ県の人たちと未認定のことで喧嘩してましたので「冗談じゃねーよ」と断ったのを覚えています。県が一万人コンサートというのをやりまして、水俣の人たちが集まってコンサートをやるっていう話なんですけど、当日土砂降りになってかわいそうに中学生濡れながら歌ってました。というぐらいの意識だったんですが、そういうことをやっていく中で、人は出会えばだんだん丸くなるといいますか、気持ちもかわってきて自民党の人とか青年会議所の人とかといろんな話すようになって、考えたこともあります。
考えたのは、さっき酔っ払いが嫌だっていったんですけどもう一つは、水俣はもっと人口が少ない上にチッソが今でもある。水俣病のことを水俣の人たちに伝えたくて映画会、講演会をやるんですが、金太郎飴みたいなものですね。人口少ないですから、水俣で50人集まるということは、東京1万人以上集まったことになると思うんですけど、50人は集まりますが、「ああどうも」「ああどうも」っていう仲間ばかりでやっている。これは駄目だなって思ったことはあります。これは行政の力を借りて市役所の方や県庁のみなさんが持っているネットワーク、あるいは市役所の人が行こうよっていうと行ってくれる人にも行ってほしいと思って、環境創造水俣推進事業にかかわっていったっていうのもちょっと覚えています。
修学旅行を受け入れるための水俣教育旅行プランニングをつくりました。これをつくろうと思ったのは、今でもあるんですが当時も全く変わりませんで水俣病に対する偏見です。偏見は被害者の中にもあって、自分の家族のことなかなか言いたくないみたいなことがありました。それをなくすのにどうしたいいか考えました。水俣病があってもいいよね。言わない、考えないことがいけないんで「水俣病があってよかったね」と言えるような町あるいは市民にならないと、被害者に対する偏見みたいなものはなくならないんじゃないかと考えました。そのためにはせっかく市長が呼びかけてくれたんで修学旅行やろうよ。5万人を目標に掲げました。「一つの経済をつくろうぜ」というんで2億円を目標にしたと思うんですが、それだけ売り上げがあると一つの事業として見てもらえる。何から何まで有料でやるということをやってきています。もちろん語り部の話も被害者の苦労もお金に変えられない、こんなことは当たり前なんですけど、やっぱり金に換えないといけないものもあると思ってやってきています。現在、シンガポールや九州・関西・関東から1万人が来てくれているはずです。修学旅行を水俣に呼ぶ仕組みというのをこの10年間でつくってきたと思っております。修学旅行は仕組みがはっきりしていまして、旅行社が教育旅行支店みたいな仕組みができていまして、そこの営業マンが私たちに替わってパンフレット持って学校を回ってくれるという業界です。ですからいいものがあれば、あるいは旅行社、先生にとって気に入るものがあれば、パンフレットさえ送れば営業マンがやってくれるという世界がありました。そこに水俣病の環境学習のチラシを送ったりしてやってきた。水俣というネームバリューもあって、かなりうまくいったほうだと思います。
やってきて考えたこともあります。旅行シーズンは埋め立て地がバス10台、15台くらいになるということが実現しました。200人とか250人の人が、うちのとか緒方正実さんとか、川本愛一郎さんの語り部の話を聞いています。もっとここよりも広いホールで、スポットライトが語り部にあたって、聞いている人のところが暗くなっている。ひどい時3分の2の子どもが寝ています。これは子どもたちが悪いわけじゃなくて、そういう仕掛けをしちゃっているこっちが悪いので、これは残念だなと思い続けているところです。やってきているのはなるべく少人数に分かれてくださいというお願いをして、先生たちといろんな連携取りながらやっています。一番少ない学校だと5人ぐらいで患者家庭にお邪魔して、話を聞くというプログラムをやっています。そうするといつもいつもではありませんが、まず寝る子はいませんね。自己を開示するっていうのもありますけど、人の話を聞くっていうのは10人とかそのぐらいじゃないと考えられないんじゃないかと思います。5人になると話している長さが狭められるんで、一生懸命聞いてくれる。中には人生変えてくれる子もいます。辛い話をしながら自分を開示していろんな人たちに話をしてくれている人たちの力、エネルギーだと思います。
もう一つ修学旅行は流行廃りがありまして、一番の流行がディズニーランド、次が体験学習ですがそれはつい何年か前までです。3、4年前から、旅行社のほうから「民泊やっていないんですか」と聞かれるようになりました。2年前から準備して、隣の出水の農家に泊まる民泊をこの春からはじめています。出水市としては修学旅行で一人も来なかった地域なんです。ニーズはちゃんとみなきゃいけないと思っています。そのおかげでまた水俣に来てもらう子どもたちが増えています。
そういうことをやってきて、少し水俣の人たちが自信を持って自分たちの町のことを考えてくれるようになったかな。水俣の山の方に地域全体を博物館として考えて、学芸員が村の親父で、シェフが村のおばさん。そこに修学旅行の子どもも行っています。修学旅行に来る子どもたちは、水俣の人はみんな水俣病のことを知っていると思いこんでくるんですね。そうすると山の手にいって、おじさんたちおばさんたちに水俣病の質問するんです。これ困っちゃった、全然知らない。これに困った村の人が、「だけん吉永さん水俣病資料館に見学に行ったっばい」っていう嬉しい話があるんですね。出水の民泊でもこの間ありました。農家の方が「吉永さん水俣病の勉強会をやってください」というのがありますね、これは涙が出る程うれしい話です。そういうことが少しできてきたなと思って。
今考えていることは、この人(理巳子さん)には最初水俣病の市民会館というところで1,000人を前にしてお話をしてもらったんですが。その時に私と吉本哲郎さんと二人で頼んで、本当に軽い気持ちで自分のことを話してくださいよと開示をさせちゃった側。ボロボロ泣きながら話をしていましたね。たぶん人前で家族の話をするのは初めてだったと思うんですが、話すの大変だろうなとは分かっていました。でもあんまり相手のことを考えてしまうとお願いできないので、かなり気軽にお願いしたつもりはあります。ただし、今その気力がなくなってきているなと感じています。もしもその時彼女が泣き崩れてしまった時には抱きかかえてこっちへ連れてくるなり、話をつなげる覚悟はあったなと思っています。
二年ぐらい前に川本愛一郎さん、杉本肇さんにお願いしてみんなの前で話してよとやりましたね。二人は人の前でぽつぽつと話していたみたいですね。水俣病資料館の語り部になるなんて意識はなかったようですが、これも「気楽にやってよ」みたいなことやったんですが。今二人とも語り部やってくれています。杉本雄さん、上野エイコさんが一番年上。浜元二徳さんもですが、語り部13人のうち4人入院していますね。年齢的にも80、70ですよ。こういう言い方すると怒られるかもしれませんが、小学校5年生、11歳に70歳、80歳が私の子どもの頃はね、と言っても通じない。起きていた現象とか、食べていたものとか、かなりのことは当たり前のことが通じないと思いますよ。語り部が悪いわけじゃないんですけど、そういうことが起きています。
今うれしいのはですね、杉本肇さんとうちのと川本愛一郎さんと緒方正実さん、この四人は私とかなり年齢が近いです。何が起きているかというと、確かに言いたいことが言える。正実さんですら、「今日話長かったね」とか言える。ちゃんとそれに応えてくれます。そういう関係がなくてやっているのはよくないと思います。水俣病資料館の方、市役所の方ですし、パートの方ですし、館長も2年ごとに変わりますので、吉本哲郎さんは別格でしょうけど、他の館長さんは語り部の人にモノが言えない。それは仕方ないにしても、子どもたちとの関係性とか、高校生が今何を習っているとか、新しいところが見えないままやり続けているのは、語る側に対しても申し訳ないなと思っています。
正実さんたちと一つは語り部の会を自立させようと言っています。非常に言葉を悪く言うと、水俣市立水俣病資料館は語り部の会を利用していた。それは一人ひとりが自分で、「市長さんに頼まれたけんやりよっとよ」という気持ちが集まって会をつくっていただけですから仕方ないと思うんですが、会を法人化させようと言っています。正直言って、愛一郎さんたちが語り部やってくれるのも後20年か30年。その後は誰もできなくなっちゃう。これはまずいなと。実際に経験していなかった人間が、語れる仕組みを作らないと今の資料館、相思社もそうですけど、後に人材がいないじゃないかと何とかしたい。もっというと、修学旅行誰も来ないよと。語り継ぐための仕組みをつくりたいと思っています。
午前中、東京おもちゃ美術館に行ってきました。なんとなくお母さんが子どもを連れて行きたくなるような空間にすることはいいんじゃないかと思って。先週は沖縄のひめゆり資料館と、対馬丸記念館と佐喜眞美術館にお邪魔して、どんなことで悩んでいるのか、語り部は何をなさっているのかを聞いてきました。その前は新潟水俣病資料館、富山のイタイイタイ病のみなさんにもお会いしてきました。全国どこでもそうですね。みんなもう80歳で、あと少し何人か出て来てくれていると事はいいんですが、だいたいみんな困っちゃってますね。戦後、あるいは戦中起きたことで僕らが考え続けなきゃいけないんだって思っていることって、今こういう事態になっているだなって思いますね。考えているのは今の高校生が仕事として飯を食う手段として、あるいはそこまでいかなくても仲間として、サークルつくって語り継いでいく仕組みをつくらないともう50年続かないと思います。
自己を開示する、当事者性ということを聞きましたけど、私が患者家族だと言えば曖昧な立場です。お母さんに半年ぐらい前に「あんたも申請せんな」って言われたことがあって、これちょっと自分でも愕然としている。当事者性を考えると、私はどこにいるんだと考えているんです。次のことを考えないといけない時代に、水俣も入っているなと思っています。具体的には水俣市の資料館を、環境省も国も県も市もお金を出してやっていく。基金をちゃんと積んでもらって続けられるようにしたいと思っています。運営のメインは民間がやる、被害者の意志が入った形でやっていく。遺影があって当たり前、怖くて当たり前です。死んだ人がいっぱいいるんだから。怖くて楽しい場所にどうするかを考えたいと思っています。東京のおもちゃ美術館に行って思ったのは、おしゃれですね。だからおしゃれで怖くて楽しい。そのための仕組みをつくらないといけないと思っています。ボランティアガイドとか。展示もみなさん言ってください、分かりにくい。今現在の資料館の展示を小学校5年生に分かれっていうのは非常に難しい。これもなんとかしないといけないと思う。
もう一つは、宮本さんなんかもそうだろうし、ちゃんと自分で開示されている。皆さんもフォーラムのメンバーも語り部ですよ、証言者だと思うんでちゃんとお前らも責任とって時々は水俣に来て語り部やれ、ですね。市民の前で、あるいはよそから来る人の前で、自分が水俣病にどうかかわったかということを話してもらえるような資料館にしたいと思っています。
どうもありがとうございました。
遠藤:吉永さんのお話もいろいろな意味での問題提起かなと思うし、実際は水俣病のことにかかわってきて吉永さんも僕も還暦過ぎちゃって、自分でも信じられないくらい時間が経っているんですよね。本当にここから先どうなんだよと、関わってきたものとしての責任は果たさないかんやろなと。
今のこと、もうちょっと聞いておきたいとか、どなたかありませんか?
会場:水戸から参りました橋浦です。吉永さんに20何年振りでお会いしました。去年と一昨年と水俣を訪れました。大分変っていたのに驚きました。私は教師の卵を育てる職業についてますけども、私のゼミの出発は石牟礼道子さんの著作を、文学を読む、その討論からすることにしています。私の専門は文学、近代文学です。
今のお話を思い返して、子どもたちが水俣を訪れるという状況がありましたけど、その時に中に入る先生方への何かお気持ちご感想あるいはご要望があれば、是非聞かせていただきたいと思います。よろしくお願いします。
利夫:一つは形が出来過ぎちゃっています。具体的に言うと、熊本県が県内の小学5年生に「水俣に行きなさい」とバスの予算出してくれます。一年間に一回は必ず行くんです。そのためにはこれとこれは最低しないさいというのがありまして、環境センターと資料館見なさい、語り部聞きなさい。その形が出来過ぎてて、今までは相思社やうちに直接相談があって、あんなことしたいんです、こんなことしたいんです、と言っていた先生たちがいなくなっちゃった、ほとんど。ワンパターンになって動きだしちゃったねっていうのがちょっと、今の特にその熊本県の小学校5年生の先生に対する僕らの気持ちです。
昔からそうだと思いますけど、もう決めてくる先生。「水俣病って大変なのよ、被害者の話ちゃんと聞きなさい」とだけで来る先生がいます。ありがたいんですけど、子どもたちに何かを発見させるんじゃなくて。眠くていやになっちゃう子もいるじゃないですか。もっと子どもに発見させる、正実さんたちがたじろぐような質問を子どもが平気でするような、そんなことがないかなと。被害者に対してつまんないとか分かんないとか非常に大事だと思うんですけど、子どもたちが発見するような仕組み、やり方みたいなことを「吉永さんやりたいんだけど」っていう先生がもっと出てこないかなと。
遠藤:こんなふうにお願いします、というような先生向けのパンフレットとかは?
利夫:作ってませんね。それは僕が悪いですね。
遠藤:質問があったらどうぞ。特に今なければこの後休憩をとって。
(休憩)
遠藤:最近水俣に行かれた方はご存じだと思いますが、少し長らくご無沙汰の方もいらっしゃると思いますので、少しその辺をご紹介したいなと思います。
(スライド1)このページはですね、こんなにおいしいものが不知火海にはあるんだよと。つい水俣病のことで水俣を訪れた人というのは、もちろん水俣病の原因が魚ということもあるので、「えっ、魚」と思われるんですがすでに水俣湾を含めて普通に食べる分には問題ない。厳密にいうと安全かどうかは国の基準は確かに下回っています。しかし基準っていうのはリスク論的なレベルですから、万全というと各人で決めてくださいということです。例えば今福島で食品については500ベクトルという数字が出ていますが、成長途中の人たち、幼児や妊婦の人に対しては500という数字は全く違うものと思います。
(スライド2)水俣病と全く関係ないですね。冷水(ひやすじ)の森です。ちょうど袋小学校の近くの森なんです。昔この冷水の森の脇に袋小学校が1970年頃までありました。水が湧いている。山は官山というか国有地だったので、その国有地というだけではなくて神様の関係、しめ縄なんかもあって足を踏み入れるなという、そういう場所だったそうです。とてもきれいな井戸、今度行かれた時には是非ここに行って水をがぶがぶ飲んでください。
(スライド3)「往時の水俣」、昔の水俣、景気の良かった頃です。これは主にですね『水俣民衆史』からとった写真です。
(スライド4)これは水俣市の昭和の初めにつくった絵葉書なんですけど。チッソの旧工場が写っています。その隣を流れている川は古賀川というんですね。昭和7年以前は今の水俣川ではなくて、川が二つ、チッソのポンプ場になる下のところで分かれていましたから、古賀川というのがメインの水流です。チッソの旧工場はこの川のそばにあります。中学生ぐらいに質問出すんですが、「なぜこの工場は川のそばにあるんでしょう?」。いろんな答えが出て来て面白いです。基本的には運搬ですね。やっと鹿児島本線ができた時代です。ですから基本的な運搬は機帆船でやっています。明治時代の終わりまでは塩を出したりしていました。
(スライド5)今はこの風景は全くありませんが、昔の永代橋です。僕ですら見たことありません。こんなに人間がいたんだな〜と。
(スライド6)これがチッソ旧工場の脇の岸壁ですね。今は空き地になっています。
(スライド7)河口にあった避病院です。昔の伝染病の隔離病棟ですから、これは水俣病とは別に、ここに入れられたら生きては出れないよ、という場所でした。最初、水俣病の人たちはこういうところにも入れられて、そういう意味では暗いイメージがあります。
(スライド8)チッソが景気のいい時代。チッソの岸壁の写真より上の大園にですね。旧古賀川大園にあった女郎屋です。
(スライド9) 「水俣病の水俣」水俣の人にとっては水俣病の水俣はちょっと待て、でよね。もちろん水俣病が起きたのは事実だし、このことが長い間辛い言葉でした。
(スライド10)これは昭和30年、ちょうど水俣病公式確認の前年ですね。湯堂という水俣市の南部の漁村です。中央に船に乗せた鰯のいかし籠が写っていますね。水俣市の梅戸の先にある二子島で、孟宗竹を使って大きいのは8畳間くらいの籠をつくっています。カツオ船が生きた鰯を餌にして撒くんですね。カツオがそれを食べるために狂乱状態になって来ると、もうその後は水でもいいやというね。その最初の鰯を生かしておくための籠です。これは御所浦とか天草に出荷していました。
(スライド11)これは歴史考証館をご覧になった方はご存知かと思いますが、1961年の坪段の写真です。普通は市場に出した残りの雑魚を、みんなで分けて今日の晩御飯にしようよというね、子どもたちがあれ食べたいなというような表情ですよね。僕は写真としてとっても好きなんですが、1961年というのはチッソがアセトアルデヒドを一番作った時ですから、メチル水銀も一番流出していた年です。ですからこの魚のメチル水銀平均値は11ppmと言われています。今の日本のメチル水銀暫定規制値は0.3ですから、大方40倍近く入っています。この魚をみんな食べたわけですよね。
(スライド12)僕は1987年に相思社にはいりましたから、こんな時代は知りません。1971年、相思社もできていませんね。71年というのはちょうど環境庁が出来た年です。怨の旗を持って行っていますね。これは考証館に展示してありますが、僕なんか水俣病のことをあまりよく知らない時代には、この写真の印象はちょっと変わった運動だなと思いました。
(スライド13)環境庁大石武一長官が水俣に来た時に、駅前に迎えた人たちです。よく読んでいただければ分かるんですが、書いてあることは変なことではありません。どれをとっても住民たちが要望するというか、こうありたいな、誤解しないでねというのは全くその通りだと思います。ただその写真を撮った時に、ここは肥薩おれんじ鉄道の水俣駅の前です。ちょうどここから100メートルほど西に行くと、チッソの正門があります。川本輝夫さんたち自主交渉派の人たちが、テントを張って座り込んでいたんです。そこのテントの前には「私たちを被害者として認めよ」って書いてあるんですね、更に「水俣病患者は数千人いるぞ」と書いてあります。当時水俣病として認められた人たちは100人ちょっとですから。川本さんたちはそんなもんじゃないぞ、というので書きました。残念ながら被害者の数はそんなものじゃ収まりませんでした。
これは通常は水俣病事件史では病名反対運動と呼ばれていて、だいたい運動側からすると糾弾の対象です。僕の意見ですが、水俣市民が自分の生まれた土地が病気の名前なわけですから、いやだなと思う感情的にはその通りだと思います。しかし問題は、被害者と加害者の争いがあり、更に座り込みをしているという状況の中でこの人たちが駅前に立って環境庁の長官に訴えるのは、非常に政治的な行動だったとして、患者や関係者は思って批判の対象とします。
(スライド14)これは1990年に完成した埋め立て地です。変な線が引いてありますが、ここが元の海岸線です。随分もとは広かった。実は埋め立て地の説明をするのですが、私の好きな説明は明治の終わりまでここは塩田だった場所です。塩田が日露戦争の戦費調達で専売制になり、全部つぶれて空き地だったんですよね。この辺はさっき理巳子さんが紹介した『水俣の啓示』の中で小嶋麗逸さんが、チッソはどのようにして土地を獲得していったのか書いています。10ヘクタールだと思って買ったら100ヘクタールだったと、普通はないんじゃない? と。どうもチッソは勝手に国有地をゲットしていたらしいです。
(スライド15)1996年、埋め立て地の上に実生の森をつくっているところです。水俣あたりっていうか温帯モンスーンの地域っていうのはおそろしいもので、ほおっておくとあっという間に森になりますね。単に森をつくるっていうだけじゃなくて、環境創造みなまた推進事業をやっていましたから、水俣病患者と水俣市民、チッソと行政、支援者、距離を縮めようというのがテーマとしてありましたから、いろんな人が集まって植えています。水俣市は勘違いがあるらしくて、この森はほっとくとあと50年くらいで立派な照葉樹林になるはずなんですが、草取りや肥料をやって一生懸命育てています。ほっとけば、元々の森に戻るはずです。茂道とかグリーンスポーツとか今そんなふうになっています。
(スライド16)これは相思社の集会棟ですね。杉本栄子さんが小学生に向かって話しています。「メモしないで私の顔をみよ」って言っているところだと思いますが。逆に熱心な学校の先生は患者さんの言っていることを書きとれと、みんな下を向いちゃうんですよね。下を向かれてると話しづらいですよね。真ん中に仏壇があります。水俣病で亡くなった方や関係者のお位牌が増えています。時間の流れ、しょうがないんですけども。相思社1974年からやっているんですけど、今年で37年目です。37年間本当に経営は自転車操業ですよね。37年間自転車操業できるっていうのは結構な能力じゃないの? と最近は勝手に自覚しています。よく、相思社ってどうして暮しているのと聞かれるんですが、やってる本人がうまく説明できない。なんとかうまくいっているんだよね、という。相思社って本当にみなさんによって支えられているものです。みなさんから会費とか寄付、カンパをもらうし、ミカンやリンゴ、殿様商売だろと言われていますし、環境省の方からデータベースの助成金をもらったりですね。90年代中ごろは水俣市の事業委託で一千万近く仕事をしたり。こんなのは5年先どうなるかといわれも何もわからないです。
(スライド17)考証館のネコ実験の小屋です。これは吉永さんが畑の中に転がっている小屋をもらってきたようです。世界で一個しかない、民俗博物館の平井京之介さんによれば「考証館の価値ある財産は、このネコ小屋と石牟礼道子の自筆原稿だけだ」と言います。
(スライド18)これは水俣湾埋立地。エコパークという愛称がついているんですが、私は絶対に使いたくない。やはり土地の本願を理解するためには分かりやすい名前がいいのかなと思います。資料館の駐車場に曲がるところの右側の空き地、埋め立て地最後の遊水池だったところです。そこに1974年から捕獲して保存していた汚染魚を、この名前は魚が聞いたら怒ると思います。その魚をコンクリ詰めしてドラム缶に入れて、その最後に残ったスペースに放り込んでいる。鬼塚巌さんに言わせれば2,500本ぐらいはあったようです。看板を立てた理由は、生物の命をごみのように扱うことはよろしくない。看板は熊本県のフィールドミュージアム事業という事業で作ってもらいました。
(スライド19)資源ごみの分別風景が映っているんですけど、移動すると必ず消える写真の一つです。僕の意見としては環境負荷とかごみ減量になっているとは全く思っていません。資源ごみの分別はコストかかり過ぎだし、本当にいいのかどうかの検証は必要だと思います。残念ながら水俣市の資源ごみ分別は、ごみ減量のためのステップアップするための一段階とは残念ながらなっていません。93年くらいから資源ごみの分別をはじめて、何が起きたのかが大事かなと思っています。ここから先は僕の解釈です。
それまで水俣は水俣病で知っているし、相思社は全力で水俣病患者や水俣病のことを隠蔽しようとしてきた水俣市とか水俣市民を糾弾してきました。ある程度ものを考える人たちの間では理解されていたんですけども、水俣市民というのは周りからよく思われていない。ちょうど水俣に来た頃、1987年頃ですが、その頃まだ相思社と水俣病患者と行政とか市民は敵対関係だと思っていましたから、水俣の子どもたちが修学旅行に行って随分つらい目にあう。僕の正直な気持ちは「ざまあみろ」です。お前らの親たちが水俣病患者を差別しのけ者にしようとしたからそんなことが起きるんだ。反省しろと僕はその時思っていました。
理屈とすると幼い理屈かなという気もしますが。問題解決をしようとする気がない主張ではありました。かく言う私も1995年に子どもができました。この子どもは水俣生まれ水俣育ちなんですよね。ちょっと時制がずれるんですが、この子どもがそんな辛い思いをするっていうのは嫌だなと、完璧親のエゴなんですけど、そういう想像力も働いていく中で、水俣をこれからどうしようという話が、90年代半ばに盛り上がっていくわけですよね。ごみ減量で何が起きたかと言うと、最初16分別だと思いますが、当時そんな地域はあまりありませんでした。全国から議員とか市民団体とか、行政職員が見学に来て、「水俣市民すごいですね」と褒めてくれた。実際に資源ごみを分別していた人たちはうれしいですよね、褒められているわけですから。来た人たちはこう言うんです、「やはり水俣市民は水俣病で環境意識が高いから」と言われる。こういわれてみると悪い気もしない。想像の部分もありますが、ずいぶん気をよくしたと思うんですね。環境のこととかごみのこととか水俣病のことも少しは考えていていいか、そういう企画や事業もいっぱいやっていたこともあり、少しずつ水俣病の中で少しずつタブーでなくなっていった。きっかけが資源ごみ分別だと僕は思っています。
(スライド20、21)これは石鯛を掲げているのは杉本肇さんです。子どもたちがお魚教室というので、不知火海でとれた魚を焼いて食うという。とれたアジをさばくんですね。小学生から大学生まで、やったことある子どもはあまりいないですね。不知火海の魚を子どもに食わしていいのかという意見もありますが、黙って食わしているわけではありません。個体のアジの水銀値は0.2ppm以下ですから、普通に食べる分には心配ないという話をします。子どもが親に言うんです、「今日水俣の魚食べたよ」と。でも、親に子どもが説明してくれるというので、なかなか面白い企画だと思っています。
(スライド22)これはあの、2008年からはじまった水俣エコタウンの中にあるエコボ水俣というビンのリユース工場ですね。リサイクルよりリユースがいいだろうという。焼酎飲む場合は、Rビン以外は飲まないでね。Rビンは回収されて洗ってまた出て行くという仕組みがあります。
(スライド23)修学旅行の生徒たちが茂道の海岸で眺めているところです。ナマコやらいっぱい引っ張り出して、きゃーきゃー喜んでいる。修学旅行の生徒連れて行って一番喜ばれるのはここです。
(スライド24)秋にやっている火のまつり。民間人が主体で水俣病の慰霊をやろうということです。主に寄ろ会の人たちがリードしています。
(スライド25)これは2000年に杉本栄子さんと東京荒馬座がつくった2001ハイヤ節という踊りです。この時やっと50年近く経って、水俣病のことを歌や踊りで表現できるようになったというのは、とっても喜びだったんですね。
(スライド26)3月の明神海岸です。わかめをとっていますね。石の上にみえるのはヒジキです。ヒジキは2月が旬ですからもう固いかな。
(スライド27)埋立地の一番端の親水護岸には、本願の会の人たちが彫って安置している魂石です。この魂石は1000年経っても残りますから、水俣病の記憶装置です。
(スライド28)これは水俣で一番高いところにある大関山にある山の神様です。ご承知のように「山が豊かだといい水が出てくるよ」という意味では、山神さんに参るのは漁師さんですね。ですから塩や海岸の石やサンゴが納めてある。
(スライド29)これは茂道海岸を歩いている中学生。真ん中を歩いているのは生駒秀夫さんという50年代に中学生で発症した人ですね。
(スライド30)これは茶摘みをしています。水俣のお茶が売れないのは風評被害なんですよね。水俣のお茶がチッソのメチル水銀に汚染された可能性はゼロですから、福島、東北は残念ながら風評被害と被害はきっちり線引きできない。
(スライド31)水俣市の東の端にある久木野の棚田です。ちょうど収穫前、景色としてはいいですね。こんな狭い棚田で米を作るのは大変です。
(スライド32)杉本さん家のバッチ網という、片口いわしをとっている船。今若干巻き上げの方式は変わりましたが、ズボンをさかさまにしたような巨大な網でとっています。
(スライド33)これは今から10年ほど前の杉本水産の船おろし。新造船のお披露目ですね。もう水俣でこんなふうに新造船をつくるのは珍しい。
ありがとうございました。
遠藤:この後ですね、いろんな疑問とか意見交換しませんか?
会場:小笠原と申します。さっき理巳子さんがおっしゃった遺影を資料館に飾りたいという話ですよね。私は相思社の集会棟に一人で泊まった時に、位牌があれだけたくさんあるっていうのを見ると、本当にこれだけの方が亡くなったっていうのが実感として迫ってきて。資料館に遺影を飾る企画はとてもいいと思う。怖くても私はあった方がいいと思う。遺影を飾るとう資料館の企画は進んでいることなんですか?
利夫:さっきの話は今夫婦二人が頭の中で考えているだけで全く進んでいません。今そんな話を市役所の人たちに言い出しているところです。スペースもありませんし、やろうと思うともうちょっといろいろな工夫を。
会場:支持はありそうですかね?
利夫:どうですかね、支持はないでしょ多分。被害者団体からも反対が出てくると思います。水俣もたぶん患者家族からは。実際に水俣フォーラムが水俣で遺影を展示しようとした時に、自分の家族はやめてくれっていう人は何人かいました。とってもいいことだと思っていま、反対しろと思っています。多分私がやるんだったら、断りもなく貼っちゃう。そうすると遺族が怒ってくる。これ幸いで、なんで嫌なのって言うのを徹底的に話し合う。申し訳ないけどそれぐらいしないと、遺影ってあすこには展示できないなと思っていますね。一軒一軒に聞いて回ったら、孫の世代、ひ孫の世代もありますから、うちのじいちゃんばあちゃん、いやですという人の方が多いのではと思います。
遠藤:相思社の位牌も今の世代に聞くと返してくれという人もいる。持って帰った人も一人いるんですね。
今頃なんで産廃のパンフレット配ってるんだよっていうご意見がおありかと思います。2008年に産廃は計画が中止になったわけですが、実はこのパンフレットは高木仁三郎基金の助成で、IWDが計画を中止する一か月前につくっちゃったんですよね。こういう準備を積み重ねていったってことが処分場断念になった理由なのかなと思います。産廃処分場っていうのはどの場所にも決して無縁じゃないと思いますが、こんな尾根の上につくる産廃処分場は日本中にない。産廃処分場は基本的に谷につくる。谷っていうのはだいたい水で掘れて硬い岩盤が出ているので、そこにつくるのが普通なんです。こんな尾根の上につくったらどうなるかっていうと、当たり前ですが重さによって変形して次々汚水が漏れていくんです。それに対して熊本県は42項目に及ぶ県知事意見を出しました。IWDは杜撰な調査で自分の首を絞めました。最大の難関は、処分場の浸出水を処理施設に入れる時に、浸出水の汚染の濃度の中身を明らかにしろという県知事意見です。不可能ではないですが、こんなことをやっていたら商売になりません。こんなところをキチンとしている処分場はまずないです。熊本県は浸出水の処理をしなくていい屋根付きの産廃処分場をつくるんですよ。そうすると、さっき言った県知事意見はクリアできるんですね。いろんな意味で教訓というのは、熊本のことは参考になるのかなというので配りました。
理巳子:私もですね、遺影を展示するのに二つほど意味合いがあると思っているんですよ。一つは亡くなった人たちは未だに差別される、恥ずかしい存在であるっていうことで、出してもらえない人なのか問いたいと思っているんです。水俣病の慰霊碑というのがあります、5月1日に毎年慰霊祭も行われるんです。その時に名前も入れます。だけどもそれは慰霊碑の中に小さな銅板に名前を書いて入れられるんですけど、外からも見えない存在なんです。今でも300名程度の名前しか入ってないです。もう亡くなられた人も認定患者だけでも1000何人いらっしゃると思うんでけど、名前すら出されない存在っていうのはどういうことなのかというのを問いたいと思っているんです。
私の父は30半ばで亡くなりました。もし私の父が遺影として出てくるならば、今の人たちに何を語りたかったか。私の父は、今から日本を復興していこうというチッソで働いていました。だけどその時に政策転換をしようと思えば、水俣で亡くなった人がいっぱいいるっていう時にできたはずです。だけども残念ながらその時代っていうのは、ほぼ水俣病のことを終わったことにして、私たちに知らされた時には終わりにされた時だったです。今福島の原発も起きてますけど、その時政策転換が出来ていれば原発のことはなかったかもしれない。そういうことを父親たちは問うていると思います。あの時、もう少し自分たちの命をもう少し大切に考えてくれれば、自分たちが幸せのために突き進んだはずが、また同じ過ちをしているんじゃないかということを問うていると思うんです。そこまでみんなに考えてもらいたい。水俣が問いをしているのはそういうことだと思います。50何年経ってもまだ解決できない水俣っていうのはそういうことなんじゃないかな。
遺影は怖いというのもあります。誰が水俣病なのかっていうのもはっきりしないままです。今水俣フォーラムで展示をされている遺影も土本典昭監督さんが書かれた遺影が500名程度ありますけど、認定患者じゃない人もいらっしゃいます。誰が水俣病なのかわからないままです。そういったこともいろいろ考えてもらえる場に、私はもっと深い場所にしてほしいなと思っています。まだ私と私の連れ合いだけの考えだけですけど、そういった資料館の場所にしたいな。今の資料館ではそういったことまでは考えてつくられなかった資料館ですから、場所にしても狭いです。後50年100年先まで考えたらばもう少し広い場所も欲しいです、そして小さな子どもさんが来れるような託児の場所も。お母さんたちに伝えるような仕組みをつくらないといけないと思っているんです。もう少しそういったことも考えて、お金もかけてほしいなと思っています。よろしくお願いします。
遠藤:遺影の展示を続けてきた水俣フォーラムの人も来ているんですが。
会場:服部と申します。実は水俣市は最初に水俣東京展が終わった後に、遺影を水俣市で展示してはどうかという提案というか、遺影をとった土本さんの意向もあって打診したんですけど、水俣市では到底できないという返答でした。当時の水俣市はそういう態度だったというか、返答だったということで。ですから今の吉永理巳子さんのような方がそういうようなお考えをお持ちというのはすごく何かが、たかだか10数年前の話ですけども、ちょっとそういう水俣市で遺影を展示する意味っていうか、それは意味のあることだと個人的には思っています。それはただ、私たち外、よそ者だと思っています。それは私たちがどうこうというよりは、今水俣に生きている人たちがどう考えるかによるでしょう。それについては、少なくとも私は、吉永理巳子さんがお考えになっていることは、いろんな人に知ってもらいたいなと思っています。私たちができることであれば、お互いに考えながらというか、そういうことはすごくやっていきたい、そういうふうに思っています。
遠藤:ありがとうございます。
会場:藤沢から来ました駒崎と申します。「水俣病を生きる」っていう題名に非常に感動しました。僕は心の病を生きる若者が、統合失調でも発達障害じゃないかとかいろいろ言われている、引きこもっている若者たちとたまり場をつくったりしているんです。その彼らが自己を開示することを経緯にして、父とか母とか、アルコール依存になっていた人が、あるいはDVを受けていた自分とか、そういうのを開示するっていうこととつながる話じゃないかと思って来まして。案の定と思って、来てよかったと思います。
聞きたいのはですね水俣のニュースの題名、『告発』『水俣』の変化を含めて、どうして変化したのか。今のをテーマにして、福島の原発の後、飯館村に二・三回行っているんですが、飯館村みてますと再生するってどういうことなのか思ったりします。非常にホコリの高いすばらしい村なんです。脱原発のいろいろ集会やデモがありまして、ノーモア・フクシマ、ノーモア・ヒロシマってセットで言われることがあるんです。当然そうなんですけど、脱原発の取り組みをするのに、そこの怒りというか、御用学者を攻撃するのは当たり前なんだけど、そこにポイントおかない動きもあるんですよね。その辺のいろんな動きがあって当たり前なんだけど、再生っていうことを考えると、例えばノーモア・ミナマタ、ノーモア・ヒロシマってつなげる話が必要だと思って。その時に、『告発』っていう名前を『水俣』に変えたその辺の経緯が、関係あるんじゃないかと思って想像するんですが、遠藤さんどうでしょうか。
遠藤:すみません、その経緯は全く知りません。時制から言うと『告発』は50号まで出ていますが。77、8年だと思うんですけど、その後…
会場(宮本成美さん):もっと前。私よりも詳しい人がいると思うんですが、裁判闘争が終わって一応交渉が73年の7月何日ぐらいまで環境庁とチッソと補償金以外の年金の交渉をやっています。それが一応終わって、撤収するんですね東京の方から。それで水俣に戻ります。それが整理がついた段階ぐらいで、9月か。詳しい人がいれば補足してください。9月ぐらいに最終『告発』の紙面がでまして、ここで一応『告発』というものは休刊にしますという掲示がでます。その後に水俣病のことを伝える情報誌として『水俣』がでると確か書いてあった気がします。それが最後にできたわけで、73年の動きだったと思います。それは熊本の方の動きですから、私東京におりましたので、内部でどういう論争があったかは私は知りません。
遠藤:その『水俣』も休刊になるのはいつだっけ…。相思社の動きも『告発』の時代からヤナヤナ日記とか『告発』にも『水俣』にも書いてもらっています。とくにその、相思社は独自に機関誌という発想ではなくて、『水俣』に情報を集めて外に出すということだったと思うんですけど。ずっと『水俣』という機関誌に書いていました。ですから、『水俣』の送り先のラベルは、95年前だと思うんですが、水俣から送ってましたよね。お金も来ていました。それは95年前後だと思うんですが、その頃にほぼ休刊になったと理解している。時期がよくわからないんですが、『告発』が休刊になった時期というのは、『告発』はいつまでだというと、渡辺京二さんでいうと勝手な推測ですが、1973年の3月21日までじゃないかと勝手に思っているんですが。違います? もうちょっと後まで? 補償協定までぐらいですね、が『告発』の時代だったと思います。
会場(橋崎):言葉を単純化して言うと、告発だけしている場合じゃないっていうも変だけど、告発ももちろん大事だし、糾弾も大事だし、批判して体制変えるのも大事なんだけども、それを更にうわまわって、今脱原発でやっている中でもね、もちろん糾弾するんだけど、どういうのが日本の文化とかこれからの若者たちと、構築する運動としてあるのかなっていうことで、『水俣』っていうのがでてきたと思うんで。わかんないけど、ノーモアヒロシマ、ノーモアフクシマの話はするんだけど、もう少しノーモアミナマタの話をしてもいいかなっていう。福島と合わせてねっていう感じを。
遠藤:十分にこたえる用意のある人はあまりいなくてですね。今はっきり言えることは、水俣市、水俣市民が総体として水俣病の教訓はこうでしたね、このことが福島のことに活かせるというのには残念ながらなっていないですね。個々人的にはいろんな考えがあってやってはいるんですけど、「もやい直し」は90年代初頭からやっているわけですが、なかなか前途多難なこともいっぱいあるんですけど。今言われた流れで言えば、『告発』から『水俣』と言うこところで言えば、水俣のもやい直し、地域直しという念頭はほぼなかったというふうに僕は思っています。時代が70年代ですから、まだまだ遠かったですね。やっと地域がどうかという話は90年代になってやっと僕らも言えるようになったと言っていいかと思います。90年になるまでは患者の救済すら終わっていないのに、地域振興なんてふざけんじゃねーよ、というのは言っていたんですから。
会場:白木と申します。産廃の問題で水俣の埋立地に関して、鋼矢板が打ってあると思うんですが、あれは50年しか持たない。でももう37年経っているということでそれに関する動きは何かはじまっているんでしょうか?
遠藤:民間人のほうからその問題があるとは言っていますが、実質的な動きとしては県がなんとかしなきゃというので検討はしています。検討の中身は現時点では入手していない。こちら側のほうでは、水俣市内のヘドロの処理や埋め立て地、いろんな汚染の問題提起という段階ではあるんですが、動きにはまだなっていない、という状態ですね。
会場(白木):もうとりかかないと、手遅れになる可能性があると僕らは思っているんですが、そういう危機感ではないんですか? どちらも。
遠藤:間に合わないというのはどういう意味でしょう?
会場(白木):50年と言われているけれども、それよりも短い可能性っていうのが結構あると聞いているんですけども。水銀が外に流れ出すという可能性が高くなっていると聞いているんですが。
遠藤:鋼矢板が壊れると中の水銀ヘドロが、ドボドボ出ていくという可能性がないとは言いません。鋼矢板が劣化して、一部破損状態が確認されるぐらいの状態だと中の水銀ヘドロが一挙に外に出て行くということはないと思います。それは鋼矢板の打ち方の問題と内側の始末の問題、鋼矢板とヘドロの間はかなり斜めに山土をぶち込んでいますから。鋼矢板が壊れた段階でどうなるのっていうのはそれほど予測はできないですよね。ただ、少なくとも50年を迎える前に今の状態を改善しようということですよね。白木さんがおっしゃるようなことは当然対象になっていると思います。一番端っこの鋼矢板は海水や静電気で劣化してますから、それは調べていますよね。ただ、県の仕事は常に聞いていったほうがいいし、見ていったほうがいいと思います。
会場:友澤と言います。埼玉から来ました。1980年生まれで、直接公害が大変だった時のことを知らないんですけども人事ではないと思っています。そんな形で水俣のことを感じたりできる理由は、直接今日みたいにお話を聞かせていただく機会があるからだと思うんですね。さっき遺影というかお顔を残されたいと話されていました。そういうものがあると、例えば100年後とかになってももしかしたら今生きているところのつながりとして、そういう人たちの存在を具体的につなげられるきっかけになるかもしれないと思いました。どんなお顔をして、服を着て、家族をもっていたのか、そういうことから話を聞く。想像力を広げていく断片がたくさん残っているのは、後から追いかける者にとってはすごくうれしいことだと思っています。今念頭にあるのは足尾鉱毒で村を追われた谷中村の方々の暮らしが分かるようなものがほとんど残っていなくて。調べればいけばたくさんのことがもちろん見えてくるんですけども、もっと具体的な形でお顔が分かるというのはすごくいいなと思います。
理巳子:ありがとうございました。若い方に感想をいただいてありがたいなと思います。形に残るものはすごく訴える力がある。話だけではやっぱり伝わりにくいというのがあるんですね。たまたま今日皆様にお見せした父親がチッソに入院していた時の着物が、この間押入れから見つかったんですよ。そっくりそのまま、少し虫食ってますけど、着物と帯と写真に写ったそのままがありました。この間資料館で夜にお話するというのをしたんですが、着物の他にタライとかも残っているんでそういったのと一緒にお話すると、当時の暮らしっていうのがよくみなさんに伝わるんですね。モノが持っている力っていうのはすごく大事だと思っています。そういった意味では資料館はモノが少ないですから、今あるものを私は保存していきたいと思います。
利夫:遺影を展示するためには被害者自身がいいよと言ってくれないといけないというのがあるんですが、偏見をなくすことをちゃんとやらないといけない。これが今まで運動してきた側がほとんどやってきてないと思います。語り部の人たちにある意味でおんぶに抱っこでお願いしてきて、水俣市も熊本県も環境省も水俣病の教訓をと言われていますが、具体的に偏見をなくす努力はできていないと思っています。熊本県から水俣病啓発事業っていうのがありまして、熊本県下の教育事務所に語り部が出かけて行って話をする。うちが提案してのは、語り部の話を聞くだけで終わっちゃうのは嫌だと。二つ提案しました。私や遠藤くんが行くパターンと、語り部と私たちがついて行くパターンを提案して。先生たちの要望は、遠藤邦夫とか私に来てくれというのが多かった。それは先生たちが語り部の話を一回聞いているというのもありまして、水俣病全体のことを知りたいというのがあったと思うんですが。少しそういう動きがでてきてうれしいと思います。この事業が終わったら、熊本県下、水俣市内の先生たちと市民の人たち巻き込む形で偏見をどう解消していくかの動きをしたいなと思っています。
遠藤:最初に橋浦さんからいただいた、先生たちへの働きかけっていうこと。僕や吉永さんが行って人権担当の主任たちに話をしています。結構刺激的な話をするんですが、全く反応もなければ質問もない。これは僕の怠慢だと思っているので、来年やるとすれば人権の先生が、この講演会に出てきたことを後悔するようなワークショップをやろうと思っています。人権担当の主任ってこれほど大変なことなんだよっていうのを、力いっぱい迫ろうと思います。
このイベントは相思社が企画したんですが、以前に生活学校に参加した渋谷さんから手紙をもらいました。渋谷さんに一言。
会場(渋谷):渋谷と言います。25年程前、水俣に生活学校があってそこにいました。今日聞いて思ったのは、身内で話すべきで十分なんでしょうが、外の人、水俣に関心がない、忘れられている人間に対してどう説得するのか、訴えることができるのかなと。今こういう会って、この中ではいい話を聞いたなでいいんですが、ここにいない人間、あるいはあまり関心がない人間にどれだけインパクトがあるのかということを思います。
遠藤:熊本県の啓発事業もそうなんですが、自分が語った言葉で伝えられた人たちがどうなのか、反発持っている人たちとか、水俣病なんて終わったんじゃないの、という人が耳をそばだてられるような問題提起を。駒崎さんからも出ましたが、福島で起きていることに対して、水俣って気の利いたことがいえないのか。50年も公害や被害補償、人間性を問う、行政の問題だといいながら。そういうプレッシャーの中で仕事をしていきたいと思っていますので、渋谷さんのように難問を出してください。その中に考えなきゃいけないことがきっとあるので。それを探して是非がんばりたいと思います。
会場:千葉県から来ました、相川です。10月1日に船橋で福島と水俣をくっつけて、映画とパネルディスカッションをやります。これの狙いの一つは、水俣を福島の問題は根っこでつながっているんじゃないかという私の感じですが、同根であると発言されている方も結構いる。逆に原発の問題で水俣を連想するかたはまことに少ないと思います。狙いとしては水俣で活躍している方にも来ていただきたいし、放射能って大変と言っている方に、50年経っても終わっていない水俣というのをもう一回思い出してほしい。人の命を大事にしない世の中を支えて来てしまったことなんかもさらけ出そうと。その後ははっきり言ってまだ見えていない。来年の2月にはエネルギー問題どうするの、っていうので考えてみたい。福島だけの問題じゃなくて同じような問題は起きてくると思います。よろしくお願いいたします。
遠藤:どうも今日は長い時間本当にありがとうございました。気を付けてお帰りください。
会場:(拍手)
2011年度水俣病情報発信事業報告書
2011年12月15日
水俣病センター相思社編集