水俣生活学校

ぼくが水俣に来たのは1985年の4月のことやった。
ヤナさん(柳田耕一)にさそわれて生活学校に入学するためやった。
ホントのこと言うたら、生活学校へ来とうて水俣に来たんやない。
『相思社」というところに興味があったというか、入りたかったからやった。
そやから、「相思社への入り口として生活学校に入った」というのがホントやった。

大阪から水俣に来るときはセンチになってた。
大阪を出る前に何回か送別会をやってもろた。
「こんなことせんでもええのに」という気持ちと、「ありがとう」という気持ち、
それに、「ああ、これで当分大阪とも、みんなともお別れやなあ」というような気持ちが混じってた。
「最低でも3年は水俣におる。気に入ったらずっとおるかも知れん」
と決めとったから、その分よけいにセンチになってたんやと思う。

大阪から福岡までは新幹線、そっから熊本まで特急で行って、各停に乗り換えた。
水俣駅には特急が止まるんやけど、「各停に乗ってゆっくりと水俣に近づきたい」という気持ちやった。
ぼくはちょっとイイカゲンというか、テキトウというか、手抜きするところがあって、
相思社とか、生活学校がどこにあるかよう知らんまま水俣に来た。
生活学校から送られてきた手紙の住所が「水俣市袋」って書いたったから、
「袋駅っちゅうのがもよりの駅なんやろう」ってかってに思てた。
で、袋駅で降りたら、そこは無人駅やった。
駅の近くに小さなお店があって、赤電話がおいてあった。
相思社に電話したら、「今日はみんな出払ってるから、タクシーで来て」ちゅうことやった。
タクシーを待ってるあいだ、タクシーで生活学校に着くまで、ものすごう長う感じた。
袋駅から生活学校まで車やと10分もかからんくらいの距離やのに、見知らぬ異国の長旅のように感じた。
その時のタクシーから見た景色は今も目に焼き付いてる。

生活学校はヘンなところやった。
ぼくは4期生やったけど、ぼくが生活学校に来たときには3期生も何人か残ってた。
4期生は全部で12人くらいやったと思う。
参加者以外に、専従、アルバイト、宿泊客、それに胎児性患者も何人かいたから、いつも20人以上いた。

生活学校におる人間は大阪におったときに周りにいた人間とはずいぶんと違ってた。
よう言うたら「個性的」、言葉を換えたら「変人」、悪う言うたら「落ちこぼれ」。
そんな連中といきなり共同生活が始まった。
最初の頃は神経をすり減らして、毎日毎日胃が痛かった。
後悔はせんかったけど、毎日腹を立てて、「あほとちゃうか、こいつら」って、思ってた。
生活学校の広間に5〜10人くらいいっしょに寝起きしてたから、プライベートなんちゅうもんは全然なかった。
それがストレスの最大の原因やったと思う。

まあ、いろいろあったけど、3〜4ヶ月が過ぎたとき、突然「ここはええとこやなあ」って、思うようになった。

生活学校にはクーラーなんてないから、夏は戸をみんな取り外して、カヤをつって寝てた。
梅雨明けの頃やったと思うけど、ある朝、目が覚めたとき、ふと目に入ったのが庭先のミドリやった。
「ああ、緑に囲まれて生活してるんや」って、その時、初めて気がついた。
毎日毎日見慣れてるはずの景色やのに、ある時突然、その見慣れた景色に感動をおぼえた。

目の前にあるものをそのまま受け入れるしかない、
「あいつが悪い」、「なんでこんなことがわからへんねん」、「このくらいでけへんのか」って、
いつもいつも腹を立ててた自分があほらしくなった。
ちょっとかっこつけて言うたら、「捨て去ることの大切さを知った」っちゅうことかな。

それからは毎日毎日が天国のような生活やった。

シャバの常識が通用しない社会、それはシャバで生きている人間には異様な世界でしかない、受け入れ難い世界でしかない。
しかし、その異様な世界(=非日常の世界)はハダカの社会やった。
カッコをつけない社会、カッコつけが通用しない社会。
「そんな社会は架空の社会であり、現実的ではない。現実の社会がすべてである」
たしかに、この社会に暮らしている以上はこの社会にあわせて生きるしかない。
しかし、自分自身にとってはそれがすべてではないし、他の人にとってもすべてではない。
現実の社会で生きていくためにはいろんな知恵を身につける必要がある。
それができないと落ちこぼれになる。
でも、それって良いことなの? ホントに必要なの?

三十数年間シャバで暮らしてきた。
気がつかないうちに、何重にもアカが身に付いてしまっていた。
そんなアカがさっぱりと落とせた気がした。

生活学校の1年が過ぎ去ろうとしていた。
「自分は生活学校によって、新しい生き方を見つけることができた。
この経験を他の人にも味わってほしい。
それは、生活学校によって救われた自分のつとめだ」
そう考えるようになっていた。

その後2年ほど、生活学校担当アルバイト、専従として暮らすことになった。

さくせいび:2003ねん7がつ5にち