設立目的 : この法人は、水俣病患者および関係者の生活全般の問題について相談、解決にあずかるとともに、水俣病に関する調査研究ならびに普及啓発を行うことを目的とする。(財団法人水俣病センター相思社 寄付行為より)
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設立 |
1974年4月7日 |
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理事長 |
富樫貞夫(法学者) |
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理事 |
荒木洋子(患者) 遠藤邦夫(相思社職員) 緒方俊一郎(医師) 富樫貞夫(法学者) 弘津敏男(相思社職員) 松崎重光(患者) 松ア忠男(患者) 松村守芳(患者) 丸山定巳(社会学者) |
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| 監事 | 内川清雄(公認会計士) 永野隆文(エコネットみなまた) |
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| (2008年5月1日現在) |

「ニセ患者発言」の抗議に出向いた患者達(撮影 芥川仁 1980年)
水俣病多発地から丘を少し登ったところに相思社があります。眼下には不知火海がゆったりとたたずんでいます。半世紀ほど前、不知火海に面した漁村に得体の知れない病気が発生しました。病に冒された人々は近隣の人々のさげすみの目を避けるようにひっそりと暮らしていました。なぜ、罪科のない人々が理不尽な苦しみを強いられなければならなかったのでしょうか。
水俣病事件は一企業の犯罪にはとどまりません。便利で豊かな生活を追い求めるという、ごく当たり前とされる行為が歴史の必然として産み落とした事件でした。水俣病患者は歴史の、人間の欲望の犠牲者だったのです。
半世紀を経た今も人々は便利さ・豊かさという呪縛から解き放たれてはいません。水俣病事件は人間のあり方を根元的に問い続けています。水俣病事件の真実と意味を明らかにすることは人類の未来にとって重要な意味があります。相思社はそのために努力を続けています。
ストックホルムの第1回国連環境会議(1972年)に初めて坂本しのぶ、浜元二徳さんら水俣病患者が出席した。あの時、世界中の人々が水俣病を初めて目の当たりに見た。そこで、この人類初の大規模な環境汚染による被害を忘れないためにも、また苦闘している被害者を援助するために支援拠点を造ろうという呼びかけに国内外の多くの人々が応えて相思社はできた。最初の寄付のコインはストックホルムの市民であった。そして30年を経た。
水俣病は20世紀人類の「負の遺産」で、大切に後世へ正しく伝えねばならない。それには被害の全貌が明らかにされねばならない。そして被害者の問題も決して終わっていない。さまざまな問題が新しく起ころうとさえしている。被害者には依然として支援が必要である。原点を忘れず、さまざまな苦労を乗り越えて水俣病の拠点の一つであり続けてほしい。さらに、従来を超えた新しい創造も模索してほしい。
足尾鉱毒事件は100年の今も多くの各方面の人々が研究を続け、伝承している。水俣病は100年どころか200年も研究されていくと思う。そのためには歴史考証館などももっと充実してほしい。明確な目的を持ち、市民や被害者も参加する開かれた学問を模索し、それを水俣学と呼ぼうとしている。それは今まで相思社が実践してきたことであるから、多くの人から支持や支援が得られるはずである。そのためにも21世紀の新たな発想と活動が求められている。
1969(昭和44)年、水俣病訴訟(第一次訴訟)が提訴されました。1972年には原告患者側勝訴の見通しがつくようになってきました。そのころから患者たちは判決後のことを考えるようになってきました。水俣病患者とくに訴訟派、自主交渉派患者は地域の中で孤立するしかありませんでした。「地域の中でいかに生きるか」ということが患者たちの中で大きなものになってきました。また、若い患者、特に胎児性患者の将来が心配でもありました。そういった中で「患者・家族の拠り所」を作りたいという機運が生まれてきました。
1972年6月に、ストックホルムで第1回「国連人間環境会議」が開催されました。そこに参加した患者たちは「水俣アピール」を読み上げました。そこには「水俣病センター」の設立が呼びかけられていました。
1972年10月には、「水俣病センター(仮称)を作るために」が発表され、センターの果たすべき機能や役割が記されていました。その機能、役割とは次のようなものでした。
1、患者の拠り所となり、闘いの根拠地ともなる。そして「もうひとつのこの世」をつくる場所として
2、潜在患者を発掘し、患者の側に立った医療機関の設立を目指す
3、水俣病資料センターの機能を持つ
4、若い患者のための共同作業所を持つ
「水俣病センター」の設立のためのカンパを全国に呼びかけられました。全国から3,300万円の寄付が寄せられました。そして、水俣病の多発地のすぐ近くの小高い丘に約1,000坪の土地を買い求め、センターの建設に着手しました。
1974(昭和49)年4月、水俣病センターは落成し、「相思社」(互いに思い合う)と名付けられ、活動を開始しました。
相思社は、未認定患者運動の拠点として様々な活動を行ってきました。患者団体の事務局として、総申請運動、検診拒否運動、棄却取消訴訟、待たせ陳訴訟、不作為違法確認訴訟、暴圧裁判、ニセ患者発言名誉毀損訴訟、ヘドロ工事差止め仮処分訴訟、川本刑事裁判、原因裁定、チッソ水俣工場前座り込みなど、常に様々な訴訟や活動の中心となって活動してきました。
患者の側に立つ医療機関もはり・きゅう・マッサージ治療を行う「出月養生所」を設立し、医療活動を行ってきました。(出月養生所は1986年に相思社から独立し、今も水俣市内で治療にあたっています)水俣病被害の情宣や交流の場として、資料室を中心に資料集作成・収集・展示・貸出にあたり、1988年には「水俣病歴史考証館」を設立しました。カナダインディアンとの交流、住民運動との交流、水俣実践学校、水俣生活学校(1982〜92年)などの活動を通じ、多くの人々と交流を続けています。環境調査や監視活動も行ってきました。水俣湾ヘドロ処理工事の監視をつづけ、水俣湾や不知火海のヘドロや魚介類を採取し水銀調査もしてきました。患者や不知火海住民の聞き取り調査も行ってきました。若い患者たちとの共同作業場としてキノコ工場も運営していました(1981年に閉鎖)。低農薬有機栽培を支えるための堆肥製造・販売もおこなっていました(1977〜90年)。また、水俣病患者たちが栽培する低農薬甘夏やその他の柑橘類の販売も手がけてきました。
1989年に「甘夏事件」を引きおこし、理事が総辞職を表明するなど、相思社は設立以来最大の危機に直面しました。そして「相思社存続・管理運営検討委員会」を設置し、それまでの活動の総括と新しい活動方針を検討しました。検討委員会の答申「水俣病センター相思社の再生を求めて」が出され、それ以降この答申を指針として再出発しました。規模を縮小し、一方では患者運動を支えながら、水俣病を伝えることを活動の中心据えて活動を続けてきました。
しかし、その後水俣病や相思社を巡る状況は大きく変化しました。相思社は長年チッソや行政と対立してきましたが、その中心的な課題が未認定患者救済問題でした。1995年の政治解決によって未認定患者の「救済問題」は一応の決着を見ることとなり、それ以降相思社は新しい活動の方向性を見いだす必要が生まれました。また、財政的にも厳しい状況に直面していたこともあり、2000年に「今後の相思社を考える検討委員会」を設置して、財政面も含めて活動のあり方を検討してきました。2001年5月に「転換期を迎えた相思社の活動のあり方(答申)」が出され、今後相思社はこの答申をもとに活動を開始することになりました。
| 1908 | 水俣村にチッソ工場建設 |
| 1932 | 水俣工場、アセトアルデヒド製造開始(水銀使用) |
| 1956 | 水俣病公式確認 |
| 1957 | 水俣病患者家庭互助会結成 |
| 1959 | 見舞金契約 |
| 1968 | 政府、水俣病を正式に公害病と認定 |
| 1969 | 水俣病訴訟(第一次訴訟)提訴 |
| 1971 | 自主交渉闘争、チッソ本社前座り込み |
| 1972 | 原告患者の中に「患者・家族の拠り所を作りたい」との希望が芽生える |
| 第1回国連人間環境会議(ストックホルム)で水俣病センターの設立を呼びかける | |
| 全国から寄付を募る | |
| 1973 | 水俣病第一次訴訟判決。原告勝訴 |
| 1974 | 水俣湾に仕切網設置 |
| 水俣病センター落成。「相思社」(互いに思い合う)と名付けられる | |
| 水俣病認定申請患者協議会結成 | |
| キノコ工場竣工。患者と共同作業開始(〜1983年) | |
| 水俣湾内水銀ヘドロ、魚介類の採取と水銀分析 | |
| 1975 | 熊本県議杉村らの「ニセ患者発言」 |
| カナダインディアン水俣病患者代表団との交流 | |
| 1977 | 未認定患者運動の拠点としての活動を開始。様々な訴訟や運動を展開 |
| 「水俣実践学校」開始(1週間ほどの夏期セミナー、水俣病学習と交流) | |
| 患者らが栽培する低農薬甘夏などの販売を始める | |
| 1978 | 新次官通知。チッソ県債発行開始 |
| 1979 | 「出月養生所」を設立。はり・きゅう・マッサージ治療を行う(1986年に相思社から独立) |
| 1980 | 水俣病第三次訴訟提訴 |
| 写真集「水俣 現存する風景」出版(写真 芥川仁) | |
| 1982 | 「水俣生活学校」開設(1年間のフリースクール、水俣病と有機農業の学習、〜1992年) |
| 関西に移住した水俣病患者が関西訴訟を提訴 | |
| 1983 | 資料室完成。水俣病関連資料の収集・整理・展示・貸出・資料集作成などを行う |
| 1986 | 水俣湾沿岸の生物分布調査を行う |
| 公式確認30周年、アジア民衆環境会議開かれる | |
| 1987 | 不知火海沿岸の聞き取り調査を行う |
| 1988 | 「水俣病歴史考証館」開館 |
| 1989 | 甘夏事件で相思社理事総辞職 |
| 水俣病患者連合結成 | |
| 1990 | 考証館移動展を各地で開催(〜1994年) |
| 水俣湾公害防止事業(ヘドロの浚渫埋立)終了 | |
| 機関誌発行開始 | |
| 環境創造みなまた推進事業開始(〜1999) | |
| 1993 | 「絵で見る水俣病」出版(日本語・英語版) |
| 1994 | 水俣の再生を考える市民の集い「そろそろもやい直しばはじめんば」の実行委員会に参加 |
| 1995 | 政府、水俣病「最終」解決策を決定 |
| 1996 | 公式確認40周年、水俣・東京展開かれる |
| 1997 | 水俣湾の仕切網撤去 |
| インターネット・ホームページ開設 | |
| 1998 | 「絵で見る水俣病」インドネシア語版・タガログ語版出版 |
| 2000 | 政府、国費投入によるチッソ金融支援策を決定 |
| 2001 | 水俣病関西訴訟控訴審判決 |
| 2001 | 水俣水銀国際会議参加者を対象とした講演会を開催 |
| 2002 |
ヨハネスブルグ・サミットに参加。水俣病写真展、セミナーなどを開催 |
水俣病歴史考証館は水俣病センター相思社の敷地内にあります。

●タクシー 10分
●南国交通バス 南国交通出水方面行きで「湯堂」下車徒歩15分
●産交バス 茂道漁港行きで「月浦団地前」下車徒歩10分