エッセイ


エッセイ



 第一話 「梅干し」      川部 岬
 ひとり暮らしをするようになっても、実家から梅干しをもらって食べていた。食欲のないときでも、ご飯と梅干しがあれば何とかなる。長いこと里帰りできなかった時、つい梅干しを切らしてしまった。
 漬物は実家で分けてもらうか、農協婦人部の出しているような産直市場で買うようにしている。市場の農産加工品は、自家製に近い作り方のものが多く、添加物はほとんど使われていない。たまにアミノ酸のくどさが感じられる商品があると、悲しくなってしまうけれど。
 実家で暮らしていた時は、土に接する毎日だった。食べ物の多くを、目の前の畑や田んぼからいただく。ばあちゃんが中心となり、家庭菜園をせっせと作っていた。私は料理をする時畑に行き、あるものでおかずを作ったものだ。四季の野菜・米・小麦・大豆・小豆・ごま・山菜などは買う必要がなかった。

 またとれた作物を用いて、小麦粉・米粉・味噌・しょんしょんを作っていた。家で手づくりしていた時代は、次の季節が来るのが待ち遠しい。おやつでも、おはぎ・栗だご。米んまんじゅう・ソーダまんじゅう・きなりダゴ・きな粉餅・ぜんざい・ひなあられ・かき餅・焼きダゴなど多様だった。行事にともなう食があった。

 そうなのだ。俳句の季語のように、かつてはその季節にとれる作物と行事と食が、一体となっていたのだ。

 一人で暮らしていても、畑を作っていなくても、しっかり衣・食・住したい。それが心とからだの栄養になると思うから。





 第二話「ムラサキウニ」    川部 岬
 二月の半ば、水俣の対岸にある御所浦島へフェリーで渡る。水俣-御所浦-本渡を結ぶこの航路は、今年の五月で運休すると聞いた。定期船は通うらしい。御所浦と水俣の行き来が完全に途絶えるわけではないと聞き、少し安堵する。沢山の甘夏や養殖した魚を島外に出荷していた八〇年代、フェリーの利用は最盛期であった。瀬戸内海航路を走り、不知火海に連れてこられた中古船は、畳敷きの休憩場所があったりして、そこはかとなく哀愁が漂う。

御所浦・店先のムラサキウニ
 島に着いて、いつもお世話になっている濱本さんのお宅を訪ねる。濱本さんは漁師であり、水俣病未認定患者である。この三〇年来、自ら獲ってきた魚介類を自分の店で売ってきた。魚屋をする一方で、奥さんはお好み焼き食堂を営んだ。当時「店」は珍しかった。生け簀のある魚屋は、「生きた魚こそ魚」と感じる島人でにぎわった。今では近所にスーパーもあり、島人といえども若い人は切り身にされた魚のほうを買う時代となった。三年ほど前、奥さんの体調が急激に悪くなったこともあり、魚屋は休店状態にある。
 午後の作業場で、奥さんがザルに何かを並べておられた。近寄ってみると、ウニの卵巣である。「干して二日くらい置くとおいしくなるとよ」。新しいウニは卵の黄身のように濃く鮮やかな色をしている。箱メガネで海面を覗いて一つ一つ獲ってきたという。濱本さんの手先は紫色に染まっていた。ムラサキウニから卵巣を取り出すときに、殻がつぶれて色が出るのである。漁師の手は暮らしの表情にあふれていた。いつか濱本さんのお家のおすそわけ(塩辛・干物・生ウニ)をご紹介したいと思う。


 第三話 「僕の味覚−水俣の食と妻の料理」    坂西 卓郎

ある日の我が家の食卓


鶏をさばく妻。
ちなみに妻はベジタリアン


我が家の畑を耕す息子・朔
 僕の舌は鈍い。お世辞にも味覚が良い方ではない。よく料理を食べて、何が入っているとか、味付けはどうだ、とか理解する人がいる。僕の妻もそうなのだが、ただただ感心するばかりである。でも舌が鈍くても、それほど不幸な事でもない。なにせ何を食べても美味しいからだ。と言っていると、妻に「何を作っても美味しいと言うから作りがいがない」と言われてしまうが。
 そんな味覚オンチの僕だが、最近少し味がわかるようになってきた。なぜだろう?
 この変化は水俣に移り住んでから、そして妻と一緒に生活するようになってからだと思う。水俣暮らしも丸4年を過ぎた。僕の舌が日々成長していることが、最近とみに実感できるようになってきた。
 一つはやはり食べ物の変化だろう。水俣の風土に育まれた野菜や柑橘類、お米や卵たち。幸いそれぞれに愛情たっぷりに育てられた安心・安全な食べ物をいただくことができている。安心だから生でもよく食べる。野菜の甘みもわかるようになってきた。
 あともう一つは妻の料理の腕だろう。自分で作るとだいたい濃いめの味になる。が、妻の料理は薄味。妻は舌も腕も良いので野菜などの素材の味を生かして作る。その旨味は本当にうまい。最近では2,3日の出張で外食が続くだけでしんどくなるほど。昔は外食がいくら続いても平気だったのだが。
 何かで「単純な味や調理法だけのものを食べていたら、思考も単純になる」とあった。最近は、頭を使う機会が増え、あまりにも集中しすぎて頭がオーバーヒートしてしまうことも。これも昔はなかった。きっと以前は全力でも、あんまり頭が動かなかったんだろう。
 そう思うと、今の僕があるのも水俣の豊かさと妻のおかげ。やはり食べ物は体を作るもと。日々、感謝。我が家では食後に「ごちそうさまでした。お母さんありがとう」と言う。すると妻から「自然にも感謝しないと」と。全くその通りである。
 と言っても、僕の舌はまだ人並みよりちょい下。料理に何の隠し味が入っているとかは聞かないように。



 第四話 「月と八朔と息子の名前」    坂西 卓郎
意味不明なタイトルだが、一つだけ共通点がある。それは『月』。なぜなら息子の名前は朔(さく)と言う。「だからどうした」と言われそうだが、少しお付き合い下さい。


<純日本産みかん、八朔の由来>

 まず『八朔』から。八朔は1860年頃に発見され、1902年に八朔という名前が与えられた。発見した広島県因島にあるお寺の住職が、旧暦の8月1日から食べられるということで八朔と名づけたらしい。8月の朔日(1日)に食べるから八朔だそうな。
 ちなみに旧暦の1902年8月1日は新暦では9月2日。まだ八朔には小さな実が実り始めるぐらい。現在の八朔の食べ頃は2月〜3月。9月だとまだまだ酸っぱくて食べられないと思うが?昔は違ったのか?
<新月の日に生まれる>

  で、次は『朔』。妻は助産師さんの元で朔を出産した。自然分娩というやつ。促進剤などももちろん使わない。すると息子はちょうど新月の日に生まれた。また同じく自然分娩のお母さん達も新月の日前後に集中して出産。新月の日が過ぎるとぱったりと出産ラッシュはストップ。不思議なものだ。女性は今でも月の満ち欠けに影響されるが、男性は全くないと思う。妻は「満月の日は感情的になるし、新月の日は寂しくなる」とよく言う。そういえば昔、妻と協定を結んだことがある。「意味なくイライラする日はあるの。そういう日は反論せずに、Yesと言って」と。今思えば「月の協定」と言えるかも。また現代社会も夜まで煌々と電気がついており、月のことなどほとんど気にもとめない。そんな日常を送っていながらも、赤ちゃんはきちんと月の満ち欠けに影響されて生まれてくる。驚きと感動でいっぱいだった。人も食べ物も大いなる自然の恵みを受けて生かされている、その「のさり」に感謝したい。生まれてきてくれてありがとう。


朔と八朔
<太陰暦と太陽暦の生活>

 そして『月』。息子の朔は水俣生まれ。水俣の人や風土のことも名前に込めたいと思った。農家の生活は太陽に沿っている。日の出とともに起き、日没とともに休む。ですが、漁師の人たちは月の満ち欠けで生活している。朝だろうが、夜だろうが、潮の加減によっては船を出す。すると世間の人とは生活スタイルがずれることも。そのことが偏見を生んだりしましたが、海に生きる人たちの豊かさも感じて欲しい・・・。


朔、初めてのみかんちぎり
と、述べているときちんと信念を持って名付けたようだが、実は市役所に届け出をする直前まで妻と迷いに迷う。最終決断は市役所の駐車場。ちょっとしたことで息子は別の名前になっていたはず。おいおい。ちなみにもう一つの候補は「水人」(みなと)。水俣生まれってことで。どっちが良かったかな?