みなまたじてん

不知火(しらぬい)(かい)

不知火(しらぬい)(かい)干潮(かんちょう)満潮(まんちょう)()(おお)きく(なみ)(おだ)やかで、複雑(ふくざつ)()()んだ海岸(かいがん)(せん)をもっています。(さかな)(かい)(たまご)()むのに(てき)した場所(ばしょ)もたくさんあり、たくさんの種類(しゅるい)()(もの)()らしています。タチウオ、アコウ(キジハタ)、ボラ、ガラカブ(カサゴ)、クロ(メジナ)、チン(クロダイ)、アジなどの(さかな)や、ビナ(アラレタマキビ)、フトヘナタリ、ヒザラガイなどの貝類(かいるい)、ヒライソガニやムラサキウニなどの海辺(うみべ)()(もの)がよくみられます。

写真:水俣市魚市場に水揚げされた魚(相思社職員撮影、2019年5月4日)

​​​​​​食卓(しょくたく)にならぶ(さかな)

むかし、水俣(みなまた)漁村(ぎょそん)()(ひと)たちの食事(しょくじ)は、魚介類(ぎょかいるい)中心(ちゅうしん)でした。お刺身(さしみ)に、ゆでたシロゴ(シラス)、エビ、サザエやビナ(アラレタマキビ)などの貝類(かいるい)、タコや海藻(かいそう)()(もの)など。(さかな)は、味噌汁(みそしる)()つけにもしました。このような(うみ)でとれるさまざまな魚介類(ぎょかいるい)が、漁師(りょうし)たちの毎日(まいにち)食事(しょくじ)中心(ちゅうしん)であり、(かれ)らにとっては(うみ)が「(こめ)びつ」でした((こめ)びつとは、毎日(まいにち)()べるお(こめ)保管(ほかん)するための容器(ようき)のことです)。水俣(みなまた)漁師(りょうし)は、チッソが()こした(うみ)汚染(おせん)を「(こめ)びつに(どく)()ぜられた」と表現(ひょうげん)しました。

写真:お客さんが来た日の食卓(相思社職員撮影、2017年3月19日)

えびすさん

不知火(しらぬい)(かい)沿岸(えんがん)()らす人々(ひとびと)生活(せいかつ)(ふる)くから(うみ)(めぐ)みに(ささ)えられてきたため、自然(しぜん)()()った(ゆた)かな生活(せいかつ)文化(ぶんか)()()されました。えびすさんもその(ひと)つで、この地方(ちほう)漁村(ぎょそん)には(かなら)ずと()っていいほど、えびすさんの石像(せきぞう)がみられます。「えびす(さま)」は(さかな)をもたらしてくれる(かみ)さまとして信仰(しんこう)され、漁師(りょうし)たちは(ねん)に2(かい)(りょう)(やす)んで(まつ)りをしました。こうした文化(ぶんか)は、(うみ)とともに()きる人々(ひとびと)(うみ)(たい)する(おも)いや尊敬(そんけい)(ふか)さを(あらわ)しています。

写真:湯堂漁港のえびすさん(相思社職員撮影、2022年)

曽木(そぎ)発電所(はつでんしょ)

水俣病(みなまたびょう)原因(げんいん)となるメチル水銀(すいぎん)(うみ)(なが)したのは、化学(かがく)肥料(ひりょう)やプラスチックの原料(げんりょう)(つく)っていたチッソという会社(かいしゃ)です。チッソはもともと1906(明治(めいじ)39)(ねん)野口遵(のぐちしたがう)設立(せつりつ)した電力(でんりょく)会社(がいしゃ)で、鹿児島県(かごしまけん)伊佐郡(いさぐん)大口村(おおくちむら)現在(げんざい)伊佐市(いさし))にある曽木(そぎ)発電所(はつでんしょ)水力(すいりょく)発電(はつでん)(おこな)っていました。発電所(はつでんしょ)(つく)られたのは、(ちか)くの鉱山(こうざん)(きん)()るときに使(つか)電気(でんき)必要(ひつよう)とされたためでしたが、たくさん(つく)られた電気(でんき)はあまりました。そこで野口(のぐち)(あら)たに会社(かいしゃ)設立(せつりつ)し、工場(こうじょう)(つく)って、あまった電気(でんき)をそこで活用(かつよう)しようと(かんが)えました。そのころ、発電所(はつでんしょ)から30キロメートルほどはなれた水俣村(みなまたむら)現在(げんざい)水俣市(みなまたし))ではもともと(しお)(つく)るのに使(つか)われていた土地(とち)があまっていたので、ぜひ工場(こうじょう)水俣村(みなまたむら)(つく)ってほしいと野口(のぐち)にお(ねが)いをしました。このようなきっかけで、水俣(みなまた)にチッソ工場(こうじょう)がやってくることになりました。

写真:曽木発電所遺構(相思社職員撮影、2009年11月24日)


チッソ旧工場(きゅうこうじょう)

チッソは1908(明治(めいじ)41)(ねん)から、チッソ旧工場(きゅうこうじょう)化学(かがく)肥料(ひりょう)製造(せいぞう)(おこな)いました。日本(にほん)外国(がいこく)戦争(せんそう)をしていたため、外国(がいこく)から肥料(ひりょう)輸入(ゆにゅう)することはとても(むずか)しく、肥料(ひりょう)不足(ぶそく)()こっていました。このためチッソは製造(せいぞう)した化学(かがく)肥料(ひりょう)(たか)値段(ねだん)()ることができました。お(かね)をたくさんかせぐことができたチッソは、かせいだお(かね)(あたら)しい工場(こうじょう)()てるなど、会社(かいしゃ)をどんどん(おお)きくしていきました。

写真:チッソ旧工場 (相思社職員撮影、2019年10月8日)

チッソ水俣みなまた工場こうじょう

チッソ水俣(みなまた)工場(こうじょう)ができて以来(いらい)、それまで農業(のうぎょう)をしていた(おお)くの人々(ひとびと)工場(こうじょう)(はたら)くようになりました。工場(こうじょう)(はたら)人々(ひとびと)は「会社(かいしゃ)()きさん」と()ばれ、(おお)くの市民(しみん)にとって(あこが)れの存在(そんざい)でした。会社(かいしゃ)(おお)きくなるにつれて(はたら)(ひと)(かず)()えていき、(いち)番多(ばんおお)いときには水俣(みなまた)市民(しみん)の10(にん)1人(ひとり)がチッソに関係(かんけい)する会社(かいしゃ)(はたら)いていました。チッソの工場長(こうじょうちょう)だった(ひと)水俣市(みなまたし)市長(しちょう)になったこともあります。

チッソがあることによって、水俣(みなまた)には(ひと)(あつ)まり、商店街(しょうてんがい)もできて(にぎ)やかになりました。チッソは水俣(みなまた)政治(せいじ)経済(けいざい)両方(りょうほう)(おお)きな影響力(えいきょうりょく)()っており、水俣(みなまた)発展(はってん)はチッソの発展(はってん)()っても()れない関係(かんけい)にありました。

写真:工場遠景(撮影年不明、写真資料ID 6641)

八幡残渣はちまんざんさプール

水俣病(みなまたびょう)発生(はっせい)した当時(とうじ)、チッソはメチル水銀(すいぎん)(ふく)(みず)百間(ひゃっけん)排水(はいすい)(こう)というところを(とお)して水俣(みなまた)(わん)()てていました。しかし1958(昭和(しょうわ)33)(ねん)から水を捨てる経路(けいろ)変更(へんこう)され、八幡残渣(はちまんざんさ)プールを(とお)して水俣(みなまた)(がわ)河口(かこう)(なが)されるようになりました。この当時(とうじ)水俣病(みなまたびょう)原因(げんいん)物質(ぶっしつ)(あき)らかになっていませんでしたが、チッソの工場(こうじょう)排水(はいすい)原因(げんいん)として(つよ)(うたが)われていました。そこでチッソは、排水(はいすい)()変更(へんこう)することで、(にご)ってしまった水俣(みなまた)(わん)(よご)れが海底(かいてい)(しず)んできれいな見た目(み め)になれば、会社(かいしゃ)への批判(ひはん)()むと期待(きたい)したのです。また、水俣(みなまた)(がわ)不知火(しらぬい)(かい)直接(ちょくせつ)流れ込んで(なが こ   )います。そのためチッソは、水俣(みなまた)(わん)より(おお)きな不知火(しらぬい)(かい)排水(はいすい)(なが)せば、たとえ排水(はいすい)水俣病(みなまたびょう)原因(げんいん)となる物質(ぶっしつ)(ふく)まれていたとしても、大量(たいりょう)海水(かいすい)(どく)(うす)められるのではないかと期待(きたい)しました。このような(かんが)えのもとなされた排水(はいすい)()変更(へんこう)でしたが、結果的(けっかてき)(となり)(まち)津奈木(つなぎ)芦北(あしきた)対岸(たいがん)天草(あまくさ)にまで被害(ひがい)範囲(はんい)(ひろ)がることになりました。

写真:八幡残渣プール (1990年以前、写真資料ID 28966)

水俣病(みなまたびょう患者(かんじゃ)支援(しえんする人たち

水俣病(みなまたびょう)発生(はっせい)以来(いらい)10年以上(ねんいじょう)もの(なが)(あいだ)患者(かんじゃ)立場(たちば)にたって(かんが)え、患者(かんじゃ)支援(しえん)しようとする組織(そしき)はいませんでした。患者(かんじゃ)たちはひっそりと()らし、水俣病(みなまたびょう)(わす)()られようとしていました。しかし1968(昭和(しょうわ)43)(ねん)新潟(にいがた)水俣病(みなまたびょう)患者(かんじゃ)たちが水俣(みなまた)訪問(ほうもん)したことをきっかけに、水俣(みなまた)(びょう)市民(しみん)会議(かいぎ)ができました。これは水俣(みなまた)市民(しみん)によって(つく)られた、患者(かんじゃ)支援(しえん)するはじめての組織(そしき)でした。市民(しみん)会議(かいぎ)ができたことで、患者(かんじゃ)たちは裁判(さいばん)にふみきることができました。

写真:水俣病市民会議の水俣駅前通りデモ(1970年代前半と推測、写真資料ID 2414)

裁判(さいばん)

1968(昭和(しょうわ)43)(ねん)になってようやく水俣病(みなまたびょう)公害(こうがい)であるということが(みと)められ、チッソの社長(しゃちょう)患者(かんじゃ)たちに謝罪(しゃざい)しました。その()チッソと患者(かんじゃ)問題(もんだい)解決(かいけつ)のための(はな)()いを(おこな)いましたが、お(たが)いが納得(なっとく)するような結論(けつろん)()せませんでした。そこで患者(かんじゃ)たちの一部(いちぶ)はチッソを相手(あいて)裁判(さいばん)()こし、数年間(すうねんかん)裁判(さいばん)(つづ)いたあと、チッソは有罪(ゆうざい)となりました。排水(はいすい)(うみ)(なが)(まえ)安全性(あんぜんせい)確認(かくにん)すべきであったということ、また安全(あんぜん)でないことがわかったときにはすぐに排水(はいすい)()めるべきだったのに、そうしなかったことなどが指摘(してき)されたのです。これを()け、水俣病(みなまたびょう)患者(かんじゃ)たちには、つぐないとしてチッソからお(かね)支払(しはら)われることになりました。

写真:裁判所に向かうバス(1969年-1973年と推測、写真資料ID 2565)、第一次訴訟判決日の熊本地裁前(1973年3月20日、写真資料ID 2270)


チッソとの直接交渉 1年9か月

患者(かんじゃ)(なか)にはチッソとの直接(ちょくせつ)(はな)()いで問題(もんだい)解決(かいけつ)しようとした(ひと)たちもいました。その(ひと)たちは、チッソは裁判(さいばん)(1()訴訟(そしょう))に参加(さんか)した患者(かんじゃ)だけでなく(あと)から患者(かんじゃ)として(みと)められた患者(かんじゃ)にもつぐないのお(かね)(はら)うべきであると考え、チッソの会社(かいしゃ)工場(こうじょう)のまえで1971(昭和(しょうわ)46)(ねん)から1(ねん)ヶ月(かげつ)もの(あいだ)(すわ)()みを(おこな)(うった)えました。しかし、水俣(みなまた)市長(しちょう)(ふく)(おお)くの市民(しみん)は、患者(かんじゃ)にお(かね)支払(しはら)ったせいでチッソが倒産(とうさん)することをおそれ、チッソに味方(みかた)しました。水俣(みなまた)市民(しみん)(おお)くがチッソに関係(かんけい)する会社(かいしゃ)(はたら)いており、もしチッソがなくなれば、自分(じぶん)たちの生活(せいかつ)(わる)影響(えいきょう)()ると(かんが)えたからです。こうして患者(かんじゃ)(くる)しみを理解(りかい)する(ひと)(すく)なく、患者(かんじゃ)たちは地域(ちいき)のなかでますます(たす)けがなくなっていきました。

水俣病みなまたびょう患者かんじゃへの支援しえん

水俣病(みなまたびょう)患者(かんじゃ)支援(しえん)する()次第(しだい)(ひろ)がっていき、集会(しゅうかい)募金(ぼきん)活動(かつどう)などが日本(にほん)のさまざまな場所(ばしょ)(おこな)われました。水俣(みなまた)とは直接(ちょくせつ)つながりのない都会(とかい)大学生(だいがくせい)若者(わかもの)が、水俣病(みなまたびょう)映画(えいが)上映(じょうえい)し、イベントを企画(きかく)し、募金(ぼきん)(あつ)めました。チッソのまえの(すわ)()みに参加(さんか)する(ひと)や、長期(ちょうき)(やす)みには水俣(みなまた)(おとず)れて患者(かんじゃ)生活(せいかつ)支援(しえん)する(ひと)(なか)には水俣(みなまた)移住(いじゅう)して患者(かんじゃ)(ささ)えた人々(ひとびと)もいました。

写真:熊本市内の商店街(1969年-1973年と推測、写真資料ID 2289)

​​​​​​​​​​​​​​​​水俣病(みなまたびょう)患者(かんじゃ)への補償(ほしょう)

1973(昭和(しょうわ)48)(ねん)裁判(さいばん)()わり、チッソの責任(せきにん)(みと)められて、患者(かんじゃ)()償金(しょうきん)(つぐないのお(かね))が支払(しはら)われることが決定(けってい)しました。その()(いま)まで水俣病(みなまたびょう)であることを公表(こうひょう)していなかったたくさんの患者(かんじゃ)たちも、自分(じぶん)水俣病(みなまたびょう)だと(みと)めてほしいと(こえ)()(はじ)めました。しかし、水俣病(みなまたびょう)(みと)められるための基準(きじゅん)(きび)しく設定(せってい)されており、実際(じっさい)には症状(しょうじょう)があるのに水俣病(みなまたびょう)(みと)めてもらえない患者(かんじゃ)(おお)くいました。症状(しょうじょう)がある自分(じぶん)たちを水俣病(みなまたびょう)(みと)めるようチッソと(くに)政府(せいふ))、熊本(くまもと)(けん)(もと)める(ひと)たちの運動(うんどう)裁判(さいばん)(おこな)われたのち、1995(平成(へいせい)7)(ねん)には政府(せいふ)から(あら)たな解決(かいけつ)(さく)発表(はっぴょう)されます。この解決(かいけつ)(さく)は、これらの人々(ひとびと)水俣病(みなまたびょう)患者(かんじゃ)としては(みと)めないものの、一定(いってい)(*1)(かん)(かく)障害(しょうがい)(ゆう)しているため、(くに)(けん)などが()わりに医療費(いりょうひ)などを支払(しはら)うというものでした。(おお)くの患者(かんじゃ)たちは水俣病(みなまたびょう)患者(かんじゃ)として(みと)められることや、(くに)(けん)責任(せきにん)(あき)らかにされることを(のぞ)んでいたため、この解決(かいけつ)(さく)満足(まんぞく)できるものではありませんでした。しかし患者(かんじゃ)(おお)くは高齢化(こうれいか)し、(のこ)された時間(じかん)(ちから)はわずかであったため、この解決(かいけつ)(さく)受け入(う い)れました。政府(せいふ)はこの解決(かいけつ)(さく)水俣病(みなまたびょう)事件(じけん)決着(けっちゃく)をつけるつもりでしたが、実際(じっさい)には解決(かいけつ)(さく)対象(たいしょう)(がい)とされた患者(かんじゃ)や、時間(じかん)()ってから(あら)たに()()出た(で )患者(かんじゃ)たちがいました。そこで2009(平成(へいせい)21)(ねん)には(あたら)しい法律(ほうりつ)(つく)られ、これらの患者(かんじゃ)たちにも医療費(いりょうひ)などを支払(しはら)うことが()められました。

写真:交渉のために東京を訪れた未認定患者たち(1988年7月26日、写真資料ID 15338)

百間(ひゃっけん)排水(はいすい)(こう)

チッソ工場(こうじょう)()てたメチル水銀(すいぎん)(ふく)んだ排水(はいすい)は、(おも)百間(ひゃっけん)排水(はいすい)(こう)から(うみ)(なが)されました。百間(ひゃっけん)排水(はいすい)(こう)のそばには新潟(にいがた)水俣病(みなまたびょう)被害(ひがい)()けた人々(ひとびと)から水俣(みなまた)(おく)られたお地蔵(じぞう)さんが()かれています。新潟(にいがた)水俣病(みなまたびょう)は、昭和(しょうわ)電工(でんこう)という会社(かいしゃ)阿賀野(あがの)(がわ)にメチル水銀(すいぎん)(なが)したことで発生(はっせい)しました。水俣病(みなまたびょう)事件(じけん)(けっ)して(わす)れてはならないという(おも)いが()められ、阿賀野(あがの)(がわ)(いし)使(つか)って(つく)られました。水俣(みなまた)(ひと)たちからはお(かえ)しとして、水俣(みなまた)(がわ)(いし)使(つか)って(つく)ったお地蔵(じぞう)さんが新潟(にいがた)(ひと)たちへ(おく)られています。水俣(みなまた)人々(ひとびと)新潟(にいがた)人々(ひとびと)(たが)いに(ささ)()交流(こうりゅう)(つづ)けています。

写真:百間排水口(相思社職員撮影、2023年)

​​​​​​​​​​​​​​水俣(みなまた)(わん)埋め立て(う た )工事(こうじ)

熊本県(くまもとけん)は1977(昭和(しょうわ)52)(ねん)から1990(平成(へいせい)2)(ねん)(あいだ)汚染(おせん)された水俣(みなまた)(わん)再生(さいせい)させるため、大規模(だいきぼ)埋め立て(う た )工事(こうじ)(おこな)いました。このとき、水銀(すいぎん)(ふく)海底(かいてい)(どろ)()()げ、水銀(すいぎん)による汚染(おせん)がひどかった場所(ばしょ)()()てました。また、水俣(みなまた)(わん)(ない)(およ)汚染(おせん)された(さかな)()らえて、()()げられた(どろ)一緒(いっしょ)()()()めました。

()()()(かべ)(こう)矢板(やいた)シェル)はとても重要(じゅうよう)で、もしこの(かべ)(こわ)れてしまうと、()められている水銀(すいぎん)(ふたた)(うみ)(なが)()してしまうかもしれません。そのためこれからも、(かべ)異常(いじょう)がないかどうか確認(かくにん)をし(つづ)ける必要(ひつよう)があります。

仕切網(しきりあみ)

1974(昭和(しょうわ)49)(ねん)には、水俣(みなまた)(わん)仕切(しき)るための(おお)きな(あみ)()()けられました。水俣(みなまた)海辺(うみべ)には看板(かんばん)()てられ、水俣(みなまた)(わん)仕切網(しきりあみ)内側(うちがわ)にいる(さかな)はメチル水銀(すいぎん)汚染(おせん)されているため、とらないようにと()びかけられました。

水俣(みなまた)(わん)()()けられた仕切網(しきりあみ)(あみ)()があまり(こま)かくなかったため、(おお)きい(さかな)(あみ)(とお)()けられませんが、(ちい)さい(さかな)(とお)()けていくことができました。また、(ふね)出入(でい)りのために仕切網(しきりあみ)があいている場所(ばしょ)には、(さかな)(ちか)づくことを(いや)がる装置(そうち)()()けられましたが、その装置(そうち)(まわ)りには(さかな)がたくさん(あつ)まっている様子(ようす)()られました。いちど(よご)してしまった(うみ)完全(かんぜん)仕切(しき)ったり、水銀(すいぎん)()()んだ(さかな)全部(ぜんぶ)()()めることは、人間(にんげん)(ちから)では不可能(ふかのう)なのです。

写真:水俣湾の水中写真 仕切網(写真資料ID 15996)、仕切網の開口部に置かれた魚が嫌がる音がでる装置(写真資料ID 33034)

水俣(みなまた)(わん)さかな

仕切網(しきりあみ)内側(うちがわ)(およ)いでいた(さかな)水銀(すいぎん)汚染(おせん)された(さかな)であるとされ、水俣(みなまた)漁師(りょうし)たちによってとられました。とられた(さかな)はチッソによって()()げられ、コンクリートと一緒(いっしょ)にドラム(かん)()められて埋立地(うめたてち)()められています。(さかな)()められたドラム(かん)(かず)は、(やく)2500(ぽん)にものぼりました。これまで(うみ)(さかな)(つよ)(むす)びつきを()って()きてきた漁師(りょうし)たちにとって、()()てるために(さかな)をとるのはとても(かな)しいことでした。

1997(平成(へいせい)9)(ねん)には、仕切網内(しきりあみない)(さかな)(ふく)まれる水銀(すいぎん)(りょう)が、3(ねん)連続(れんぞく)(くに)(さだ)めた基準(きじゅん)よりも(ひく)くなったことが確認(かくにん)されました。そのため仕切網(しきりあみ)撤去(てっきょ)されて、水俣(みなまた)(わん)での漁業(ぎょぎょう)再開(さいかい)しました。

水俣(みなまた)(わん)埋立地(うめたてち)

1977(昭和(しょうわ)52)(ねん)から1990(平成(へいせい)2)(ねん)にかけ、水俣(みなまた)(わん)()()工事(こうじ)(おこな)われました。(やく)13(ねん)歳月(さいげつ)と485億円(おくえん)費用(ひよう)をかけて、水銀(すいぎん)(ふく)海底(かいてい)(どろ)()()げや、水銀(すいぎん)による汚染(おせん)がひどかった場所(ばしょ)()()てなどが(おこな)われました。これによって海底(かいてい)()まっている水銀(すいぎん)がかきまぜられることになり、汚染(おせん)(ふたた)拡大(かくだい)してしまうのではないかと心配(しんぱい)した(ひと)たちもいました。完成(かんせい)した()()()(やく)58ヘクタールの(ひろ)さで、地上(ちじょう)には公園(こうえん)整備(せいび)されています。

現在(げんざい)水俣(みなまた)(わん)()()()(うえ)は「エコパーク水俣(みなまた)」と名前(なまえ)をつけられた公園(こうえん)になっています。そこには(いし)(つく)ったたくさんのお地蔵(じぞう)さんや仏像(ぶつぞう)などが()かれています。(たましい)(いし)()ばれているこの石像(せきぞう)は、水俣(みなまた)(わん)埋立地(うめたてち)水俣病(みなまたびょう)事件(じけん)によってさまざまな()(もの)(いのち)(うしな)われた場所(ばしょ)であることを(わす)れないために(つく)られました。この場所(ばしょ)(うしな)われたすべての(たましい)(かえ)りつく場所(ばしょ)になってほしいという(いの)りを()めて、患者(かんじゃ)やその関係者(かんけいしゃ)たちの()によって()られたものです。

実生(みしょう)(もり)

エコパーク水俣(みなまた)水俣(みなまた)(わん)埋立地(うめたてち))に「実生(みしょう)(もり)」という場所(ばしょ)があります。この(もり)は、患者(かんじゃ)漁民(ぎょみん)(ふく)めたさまざまな市民(しみん)共同(きょうどう)(たね)から(もり)づくりをすることを(とお)し、もういちど()関係(かんけい)(きず)いていこうという目的(もくてき)のもとで(おこな)われました。1997(平成(へいせい)9)(ねん)()えた(なえ)は、25(ねん)以上(いじょう)()ち、(おお)きくなっています。

写真:植えられた直後の実生の森の苗木(写真資料ID 23547)

慰霊式(いれいしき)

水俣病(みなまたびょう)公式(こうしき)確認(かくにん)()である1956(昭和(しょうわ)31)(ねん)5(がつ)1日(ついたち)にちなんで、水俣市(みなまたし)では毎年(まいとし)5(がつ)1日(ついたち)に「水俣病(みなまたびょう)犠牲者(ぎせいしゃ)慰霊式(いれいしき)」が(おこな)われます。これは、水俣病(みなまたびょう)犠牲(ぎせい)となって()くなった方々(かたがた)(いの)りを(ささ)げるとともに、環境(かんきょう)破壊(はかい)(たい)して(ふか)反省(はんせい)し、環境(かんきょう)再生(さいせい)への(ちか)いをあらためて(おこな)うことを目的(もくてき)としています。会場(かいじょう)水俣(みなまた)(わん)埋立地(うめたてち)で、式典(しきてん)には犠牲(ぎせい)になった方々(かたがた)家族(かぞく)患者(かんじゃ)やその家族(かぞく)だけでなく、環境(かんきょう)大臣(だいじん)熊本県(くまもとけん)知事(ちじ)(くに)政府(せいふ))や(けん)関係(かんけい)機関(きかん)代表(だいひょう)・チッソ代表(だいひょう)やさまざまな市民(しみん)参加(さんか)します。

写真:水俣メモリアルで行われた慰霊式(1998年5月1日、写真資料ID 8106)、水俣湾埋立地で行われた慰霊式(2022年5月1日、相思社職員撮影)

慰霊(いれい)さい

水俣病(みなまたびょう)犠牲者(ぎせいしゃ)をまつる乙女(おとめ)(づか)では、水俣病(みなまたびょう)公式(こうしき)確認(かくにん)()である1956(昭和(しょうわ)31)(ねん)5(がつ)1日(ついたち)にちなんで、毎年(まいとし)5(がつ)1日(ついたち)慰霊(いれい)(さい)開催(かいさい)しています。慰霊(いれい)(さい)患者(かんじゃ)団体(だんたい)によって(おこな)われ、患者(かんじゃ)とその関係者(かんけいしゃ)犠牲(ぎせい)になった方々(かたがた)(いの)りを(ささ)げ、ひとときを(とも)()ごします。

写真:慰霊祭(相思社職員撮影、2006年5月1日)

チッソの現在(げんざい)

チッソは2011(平成23)(ねん)(あら)たにJNCという子会社(こがいしゃ)設立(せつりつ)し、製品(せいひん)をつくる事業(じぎょう)をすべてJNCに()(わた)しました。現在(げんざい)チッソは患者(かんじゃ)たちへの()償金(しょうきん)支払(しはら)いなど、水俣病(みなまたびょう)関連(かんれん)した業務(ぎょうむ)のみを(おこな)っています。

みかん(やま)

水俣病(みなまたびょう)事件(じけん)影響(えいきょう)によって(うみ)(りょう)をすることが困難(こんなん)になった漁師(りょうし)たちは、生活(せいかつ)(つづ)けていくために(あま)(なつ)みかんを(つく)(はじ)めました。(あま)(なつ)みかんの栽培(さいばい)(はじ)めた(ひと)(なか)には、「水俣病(みなまたびょう)被害者(ひがいしゃ)が、(はたけ)農薬(のうやく)をまくことで(あら)たな加害者(かがいしゃ)になってはいけない」と(かんが)え、農薬(のうやく)化学(かがく)肥料(ひりょう)(まった)使(つか)わなかったり、使(つか)(りょう)をできるだけ(すく)なくしようとしたりする(ひと)たちが(あらわ)れました。水俣産(みなまたさん)農産物(のうさんぶつ)は、水俣病(みなまたびょう)のイメージによってあまり()れなかった時期(じき)もありました。しかし、水俣病(みなまたびょう)教訓(きょうくん)()かしたこれらの()()みにより、安心(あんしん)安全(あんぜん)の「水俣(みなまた)ブランド」として(みと)められてきました。

(ちゃ)

水俣市(みなまたし)(ひろ)部分(ぶぶん)(やま)()めています。水俣(みなまた)(さん)間部(かんぶ)(とく)産品(さんひん)はお(ちゃ)です。水俣(みなまた)でのお(ちゃ)づくりは100(ねん)以上前(いじょうまえ)(はじ)められていて、(なが)歴史(れきし)()っています。しかし、「水俣(みなまた)」という地名(ちめい)()病気(びょうき)のイメージのせいで、(つく)ったお(ちゃ)を「水俣(みなまた)のお(ちゃ)」として()()すことは、(なが)(あいだ)とても(むずか)しいことでした。(いま)では、「公害(こうがい)経験(けいけん)()水俣(みなまた)のお(ちゃ)だからこそ、自然(しぜん)にも(ひと)健康(けんこう)にもやさしくありたい」と(かんが)えたお(ちゃ)農家(のうか)によって農薬(のうやく)化学(かがく)肥料(ひりょう)(まった)使(つか)わないお(ちゃ)づくりも(おこな)われています。

写真:水俣の山間部にひろがる茶畑(相思社職員撮影)

サラダ(たま)ねぎ

水俣市(みなまたし)とその(となり)芦北町(あしきたまち)では、(たま)ねぎの栽培(さいばい)(さか)んです。この地域(ちいき)気候(きこう)()かして、(ほか)生産地(せいさんち)より(はや)収穫(しゅうかく)されます。サラダ(たま)ねぎはみずみずしくて(から)みが(すく)ないので、(なま)でサラダとしておいしく()べられます。サラダ(たま)ねぎを(そだ)てるときに使用(しよう)する化学(かがく)肥料(ひりょう)農薬(のうやく)(りょう)をできるだけ()らす()()みを(おこな)っている農家(のうか)(おお)くいます。このような()()みは、水俣病(みなまたびょう)という深刻(しんこく)公害(こうがい)経験(けいけん)したからこそ安全(あんぜん)作物(さくもつ)(そだ)てようという(かんが)えのもと(おこな)われていますが、以前(いぜん)あるテレビ番組(ばんぐみ)がサラダ(たま)ねぎについて()()げた(さい)産地(さんち)水俣市(みなまたし)であることを(かく)して放送(ほうそう)するという出来事(できごと)がありました。一度(いちど)ついてしまった公害(こうがい)のイメージを()(のぞ)くのは簡単(かんたん)ではありません。

写真:サラダ玉ねぎ(相思社職員撮影)

御所(ごしょ)浦島(うらじま)

水俣(みなまた)対岸(たいがん)には天草(あまくさ)島々(しまじま)があります。その(ひと)つが御所(ごしょ)浦島(うらじま)で、日本(にほん)最大級(さいだいきゅう)肉食(にくしょく)恐竜(きょうりゅう)化石(かせき)がみつかったことから「恐竜(きょうりゅう)(しま)」として()られています。水俣病(みなまたびょう)発生(はっせい)した当時(とうじ)は、御所(ごしょ)浦島(うらじま)人々(ひとびと)水俣(みなまた)人々(ひとびと)(おな)じで(さかな)をたくさん()べる()らしをしていました。また、御所(ごしょ)浦島(うらじま)漁師(りょうし)たちが(ふね)()って水俣(みなまた)にやってきたり、水俣(みなまた)(ちか)くの(うみ)(りょう)をすることもよくありました。そのため、御所(ごしょ)浦島(うらじま)()人々(ひとびと)のなかにも、水銀(すいぎん)汚染(おせん)された(さかな)()べて水俣病(みなまたびょう)になった(ひと)がたくさんいます。熊本県(くまもとけん)は1960(昭和(しょうわ)35)(ねん)から、不知火(しらぬい)(かい)(まわ)りに()人々(ひとびと)(かみ)()(ふく)まれる水銀(すいぎん)(りょう)毛髪(もうはつ)水銀量(すいぎんりょう))を調査(ちょうさ)したのですが、このとき(もっと)(たか)い920ppm(ppmは水銀(すいぎん)(りょう)(あらわ)単位(たんい))という数値(すうち)御所(ごしょ)浦島(うらじま)女性(じょせい)でした。当時(とうじ)水俣病(みなまたびょう)注意(ちゅうい)必要(ひつよう)とされていた毛髪(もうはつ)水銀量(すいぎんりょう)が50ppmですから、この女性(じょせい)体内(たいない)にはとてもたくさんの水銀(すいぎん)存在(そんざい)していたといえます。しかしながら、この検査(けんさ)のデータは()かされず、女性(じょせい)水俣病(みなまたびょう)であると()らされないまま()くなりました。御所(ごしょ)浦島(うらじま)水俣(みなまた)から(とお)(はな)れているため、病気(びょうき)についての情報(じょうほう)(ひろ)まったり、御所(ごしょ)浦島(うらじま)にも患者(かんじゃ)がいることが(あき)らかになったりするまでには(なが)時間(じかん)がかかりました。

写真:水俣から見える御所浦島(相思社職員撮影)

恋路(こいじ)(しま)

恋路(こいじ)(しま)水俣(みなまた)(わん)入口(いりぐち)()かぶタブノキの自然(しぜん)(りん)(おお)われた(しま)で、水俣(みなまた)(わん)埋立地(うめたてち)からすぐ(ちか)くの場所(ばしょ)にあります 。1960(昭和(しょうわ)35) 年頃(ねんごろ)までは(ひと)()んでおり、キャンプや海水浴場(かいすいよくじょう)利用(りよう)されていましたが、現在(げんざい)無人(むじん)(とう)です。恋路(こいじ)(しま)にはさまざまな動物(どうぶつ)がすんでいるほか、準絶滅(じゅんぜつめつ)危惧(きぐ)(しゅ)指定(してい)されている植物(しょくぶつ)()えているなど、貴重(きちょう)自然(しぜん)(のこ)っています。

写真:水俣湾埋立地(親水護岸)から見える恋路島(相思社職員撮影)

冷水(ひやすじ)水源(すいげん)

水俣(みなまた)()(みず)がたくさんあります。冷水(ひやすじ)水源(すいげん)は、シイやクスノキなどに(おお)われた、うっそうとした(はやし)(なか)にあります。この水源(すいげん)では1時間(じかん)(やく)125トンもの(みず)()きだしているといわれています。また、冷水(ひやすじ)水源(すいげん)(ちか)くにある(ふくろ)(わん)海底(かいてい)には「ゆうひら」と()ばれる()(みず)()いているところもあります。むかしからこの地域(ちいき)()人々(ひとびと)は、()(みず)をくみ、()んぼや(はたけ)作物(さくもつ)(そだ)てるのに利用(りよう)し、冷水(ひやすじ)水源(すいげん)(みず)とともに生活(せいかつ)をしてきました。この場所(ばしょ)には(みず)神様(かみさま)がまつられています。

写真:冷水水源(相思社職員撮影)

(ふくろ)(わん)

水俣市(みなまたし)南部(なんぶ)位置(いち)する(ふくろ)(わん)(おお)きな巾着(きんちゃく)(ぶくろ)のような(かたち)をしています。海底(かいてい)から真水(まみず)()場所(ばしょ)がたくさんあり、むかしは様々(さまざま)動物(どうぶつ)植物(しょくぶつ)()きていました。(しお)()いたときには干潟(ひがた)(ひろ)がり、人々(ひとびと)(かい)()ったりカニを(つか)まえたりしました。(ふくろ)(わん)(そそ)水路(すいろ)では、ウナギやアナゴをとることもできました。(ふくろ)(わん)周辺(しゅうへん)には、農業(のうぎょう)漁業(ぎょぎょう)盛ん(さかん)だった湯堂(ゆどう)という集落(しゅうらく)や、漁業(ぎょぎょう)盛ん(さかん)だった()(どう)という集落(しゅうらく)があります。このあたりに()人々(ひとびと)(まち)中心部(ちゅうしんぶ)()人々(ひとびと)よりもよく(さかな)()べました。そのため水俣病(みなまたびょう)発生(はっせい)したはじめの(ころ)症状(しょうじょう)(おも)患者(かんじゃ)(おお)()つかったのはこれらの地域(ちいき)でした。

写真:みかん山から見た袋湾(相思社職員撮影)

どう

()(どう)という集落(しゅうらく)は、鹿児島県(かごしまけん)出水市(いずみし)との県境(けんきょう)位置(いち)します。()(どう)対岸(たいがん)天草(あまくさ)から(うつ)()んできた人々(ひとびと)(おお)()地域(ちいき)で、(おも)漁業(ぎょぎょう)(いとな)みました。そのため(さかな)()べる(りょう)(おお)く、水俣病(みなまたびょう)発生(はっせい)したはじめの(ころ)症状(しょうじょう)(おも)患者(かんじゃ)(おお)()つかった地域(ちいき)(ひと)つでもあります。

むかしこの付近(ふきん)海岸(かいがん)には()(どう)(まつ)()ばれる(まつ)()えられていました。人々(ひとびと)海岸(かいがん)(まつ)()えることで、(うみ)をより(ゆた)かにしようと(かんが)えたのです。(まつ)によって水面(すいめん)にできた日陰(ひかげ)(さかな)たちの休憩(きゅうけい)産卵(さんらん)(てき)した場所(ばしょ)になり、(まつ)落葉(おちば)によって栄養(えいよう)豊富(ほうふ)になった(つち)養分(ようぶん)(うみ)(なが)()むことで、(さかな)がよく(そだ)つからです。地域(ちいき)人々(ひとびと)大切(たいせつ)にされてきた()(どう)(まつ)でしたが、(いま)ではほとんど(のこ)っていません。

現在(げんざい)()(どう)には、みかん(ばたけ)がたくさんみられます。これは、水俣病(みなまたびょう)事件(じけん)によって(うみ)(りょう)をすることができなくなった(ひと)たちが、()わりに(りく)(かたむ)いた土地(とち)利用(りよう)してみかん栽培(さいばい)(はじ)めたことに由来(ゆらい)します。

写真:茂道のみかん山、茂道沖の海藻の森(相思社職員撮影)

境川(さかいがわ)

水俣市(みなまたし)()(どう)のはずれには境川(さかいがわ)という(かわ)(なが)れており、この(かわ)()えると鹿児島県(かごしまけん)出水市(いずみし)です。水俣病(みなまたびょう)はその病名(びょうめい)に「水俣(みなまた)」という地名(ちめい)がついているので、熊本県(くまもとけん)水俣市(みなまたし)()きた病気(びょうき)であるというイメージが(つよ)いですが、実際(じっさい)には(うみ)はつながっているため、水俣(みなまた)だけで発生(はっせい)した問題(もんだい)ではありません。また、水俣(みなまた)やその付近(ふきん)でとられた(さかな)県境(けんきょう)()えてえて取引(とりひき)されることも(すく)なくありませんでした。現在(げんざい)水俣病(みなまたびょう)被害者(ひがいしゃ)として(みと)められている(ひと)たちのうち、(やく)(にん)に1人は鹿児島(かごしま)()んでいます。(じつ)鹿児島県(かごしまけん)にも水俣病(みなまたびょう)になった(ひと)がたくさんいます。

写真:県境の漁港(相思社職員撮影)

明神(みょうじん)

水俣病(みなまたびょう)()こり(はじ)めた(ころ)明神(みょうじん)には(いえ)が4(けん)しかなく、(はたけ)(ひろ)がるのどかな場所(ばしょ)で、(うみ)がとても(ちか)くにありました。水俣(みなまた)(わん)()()てられたあと海岸(かいがん)(とお)くなり明神(みょうじん)風景(ふうけい)(おお)きく()わってしまいましたが、ほとんどむかしのままの自然(しぜん)海岸(かいがん)(いま)(のこ)っており、(おお)くの()(もの)がすんでいます。また、現在(げんざい)明神(みょうじん)には水俣市(みなまたし)運営(うんえい)する水俣病(みなまたびょう)資料館(しりょうかん)なども()っています。

写真:玉ねぎ畑が広がる明神(2022年11月、相思社職員撮影)

寒川(さむかわ)水源(すいげん

水俣市(みなまたし)久木野(くぎの)寒川(さむかわ)地区(ちく)にある寒川(さむかわ)水源(すいげん)では、標高(ひょうこう)902メートルの大関山(おおぜきやま)地下水(ちかすい)()()しています。水温(すいおん)年間(ねんかん)(つう)じて14()で、この(つめ)たい(みず)にちなんでこの場所(ばしょ)寒川(さむかわ)()ばれるようになりました。地区(ちく)住民(じゅうみん)はこの()(みず)活用(かつよう)して、(ふる)くから棚田(たなだ)(まも)棚田(たなだ)(まい)栽培(さいばい)してきました。この場所(ばしょ)真夏(まなつ)でも(すず)しいので、毎年(まいとし)(おお)くの(ひと)(すず)しさを(もと)めて(おとず)れます。また、水源(すいげん)のすぐそばで()べられる「そうめん(なが)し」も有名(ゆうめい)で、水俣(みなまた)人気(にんき)観光地(かんこうち)(ひと)つです。

写真:寒川水源(相思社職員撮影)

SUP

現在(げんざい)水俣(みなまた)(うみ)では、SUP(サップ)などのマリンスポーツを(たの)しむ人々(ひとびと)姿(すがた)があります。SUP(サップ)とはスタンドアップパドルボードを省略(しょうりゃく)した()(かた)で、ボードの(うえ)()って()ぎます。水俣(みなまた)(うみ)は1(ねん)(とお)して(なみ)(おだ)やかなので、SUPの初心者(しょしんしゃ)でもチャレンジしやすいといわれています。また、ボードには安定感(あんていかん)があるので、(くるま)いすに()ったままでも(たの)しむことができます。

水俣(みなまた)(うみ)はダイビングをする(ひと)たちにも人気(にんき)があり、タツノオトシゴなどの(うみ)()(もの)姿(すがた)間近(まぢか)()ることができます。

写真:SUPを楽しむ人たち(からたち提供)

ごみ分別(ぶんべつ)

水俣市(みなまたし)では水俣病(みなまたびょう)反省(はんせい)()かし、環境(かんきょう)破壊(はかい)をしない資源(しげん)循環型(じゅんかんがた)社会(しゃかい)(つく)るために、1992(平成(へいせい)4)(ねん)に「環境(かんきょう)モデル都市(とし)づくり宣言(せんげん)」を(おこな)いました。(とく)にごみの分別(ぶんべつ)(ちから)をいれており、分別(ぶんべつ)種類(しゅるい)全部(ぜんぶ)で23あります。資源(しげん)ごみの収集(しゅうしゅう)()地域(ちいき)ごとに毎月(まいつき)1(かい)設定(せってい)されており、収集(しゅうしゅう)()には住民(じゅうみん)はその地区(ちく)資源物(しげんぶつ)ステーションにゴミを()っていって、自分(じぶん)たちで分別(ぶんべつ)します。市内(しない)中学生(ちゅうがくせい)放課後(ほうかご)自分(じぶん)地域(ちいき)分別(ぶんべつ)作業(さぎょう)手伝(てつだ)ったり、地域(ちいき)(ひと)分別(ぶんべつ)作業(さぎょう)にボランティアとして(かか)わったりします。この活動(かつどう)(たん)にごみを収集(しゅうしゅう)するというだけでなく、地域(ちいき)()人々(ひとびと)毎月(まいつき)一度(いちど)対面(たいめん)でのコミュニケーションをとる貴重(きちょう)機会(きかい)にもなっており、地域(ちいき)活性化(かっせいか)にも役立(やくだ)っています。

写真:ごみを分別する人(1990年代、写真資料ID 53562)

水俣病(みなまたびょう)(つた)える

水俣病(みなまたびょう)事件(じけん)によって人々(ひとびと)対立(たいりつ)し、地域(ちいき)人間(にんげん)関係(かんけい)破壊(はかい)されてしまいました。水俣(みなまた)では(なが)(あいだ)水俣病(みなまたびょう)(はなし)をすることさえ(むずか)しい状況(じょうきょう)がありました。しかし1990年代(ねんだい)後半(こうはん)には、()れてしまった地域(ちいき)(きずな)(ふたた)(むす)(なお)そうという「もやい(なお)し」の(うご)きが、患者(かんじゃ)地域(ちいき)住民(じゅうみん)行政(ぎょうせい)(あいだ)(はじ)まりました。「もやい(なお)し」という言葉(ことば)は、漁師(りょうし)言葉(ことば)(ふね)(ふね)(むす)びつける(つな)のことを「もやい(づな)」と()ぶことに由来(ゆらい)しています。

このような(うご)きの(なか)で、患者(かんじゃ)(なか)には被害(ひがい)経験(けいけん)(かた)りだす(ひと)(あらわ)れ、水俣(みなまた)市民(しみん)どうしの対話(たいわ)()(もう)けられました。現在(げんざい)では、水俣(みなまた)経験(けいけん)(まな)ぼうとする人々(ひとびと)が、患者(かんじゃ)(はなし)()くために日本中(にほんじゅう)世界中(せかいじゅう)からやってきます。水俣病(みなまたびょう)事件(じけん)発生(はっせい)から(なが)年月(ねんげつ)()ぎて患者(かんじゃ)高齢化(こうれいか)していくなかで、この経験(けいけん)をいかに(つぎ)世代(せだい)(つた)えていくのかが課題(かだい)となっています。

写真:フィールドワークをする関東の大学生(2019年8月、相思社職員撮影)

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