写真を使ってワークショップをしてみよう

水俣病学習の導入に役立つ1冊「写真を使ってワークショップをしてみよう」を作成しました。

水俣の今や昔の写真を見て、数人で話し合いながら写真を読み解くワークショップ(フォトランゲージといいます)に活用できます。1枚の写真から、自由に考え、いろいろな考え方と出会うことで、気づきや発見が学びにつながります。

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写真の解説

■P1

2022年4月、相思社職員(小泉)撮影
水俣市茂道

水俣市南部にある茂道の海には、集落の住民がカキやビナ(巻貝)を拾いにやってくる。海辺の森は「魚つき林」と呼ばれ、木々が魚を寄せると言われ大切にされてきた。

■P3

1960年7月、桑原史成撮影
水俣市坪段

1956年5月1日の水俣病公式確認のきっかけになった2才と5才の姉妹が暮らしていた家。窓から釣り糸を垂らせるほど海と家が近い。

■P5

1956年6月、鬼塚巌撮影
チッソ水俣工場遠景

■P7

1988年7月28日、田中史子撮影
鹿児島県出水市

「畳に沿って歩くだけで」

1988.7.22東京で行われた「みなまたを支援する全国集会」でKさんに会った。

彼女の訴えを聞いて、ご自宅で写真を撮らせてくださいとお願いすると、快く承諾してくださったので7.28に出水に行き、Kさんのお宅に伺った。

周りの人たちは誰も彼女のことを水俣病とは思っていなくて、「Kさんが水俣病なら、私らみんな水俣病だよ」と言われる始末だった。ある日NHKが来てKさん夫妻の撮影をしていった。その映像が放映されてから、もう大っぴらに水俣病の運動もするようになったという。私も水俣病はどんな病気なのか、まだわかっていなかった。医者が行った検診だったら間違ったことはしないだろう。「それでは、その時にどんなところを撮られたのかやって見せてください」とお願いすると、お二人は、検診で調べられたことをいろいろやってくださった。

「真っ直ぐな線の上はふらつかずには歩けんばい」と言うので二人に畳の縁を歩いてもらった。たしかに二人ともまっすぐ歩こうとするとひどく安定性を欠いて右か左かにいまにも倒れそうになる。六畳の部屋を横切って行って戻る。「すみません。ちょっとピントが合わなかったので、もう一度お願いできますか?」と気軽に声をかけると「ちょっと待ってください。疲れてしまって。」という言葉が返ってきた。ほんの六畳の部屋を横断しただけのことなのに。水俣病の特徴は「手足のしびれ」だと聞いていたけれども、それは私が認識している「手足のしびれ」だけではないんじゃないかと感じた最初の経験だった。

二人は、水俣協立病院の藤野先生にもほかの先生にも「絶対水俣病だ」と言われたので昭和58年に二人そろって申請し棄却された。その後ふたりとも出水水俣病原告団に参加して裁判を戦った。東京で座り込みやチッソ交渉でもよく顔を合わせることがあった。1995年の政治決着で経済的には救済されることになったが、公式には水俣病とは認められていない。本当は水俣病と認められることがKさんの望みだったのに。(田中史子)

■P9

1971年12月、宮本成美撮影
東京、チッソ本社内

1971年から川本輝夫は、水俣のチッソ工場前で座り込みを始めた。川本は環境庁の裁決によって認定された患者の1人であり、チッソはそれ以前に認定されていた患者と区別し、川本らへの補償を実質的に切り下げようとした。患者を差別なく認めることと謝罪を求め水俣で交渉を行ったが硬直状態になり、東京本社での交渉に入った。

「(前略)・・・その交渉を横で聞いていると、チッソの役員たちと患者さんの言う言葉がかみ合わない。世界観がまったく違う、もしかしたら言葉が違うんじゃないかと思うぐらいにかみ合わない交渉だった。それでも患者さんたちはあきらめない。このパートのタイトルに「相対の思想」という言葉を私はあてた。川本さんは「人なんじゃから会って話をすれば絶対に分かるはずだ」ということを最後まで言い続ける。人を信じようとする川本さんたちのカに私はどこかで圧倒されていたんだなと今でも思う。(中略)

(背広姿の男性を険しい視線で取り囲む人々)これは島田との交渉。川本さんはかみそりを持っている。鉛筆削りだけど。 [お互い誠実な交渉を続けましょう」というそれだけの文章の血書に、自分も血判を押すから社長さんも手を傷つけて血判を押してくれ、つまり同じ痛みを分け合ったところで話し合いをしようと川本さんたちは提案する。社長さんの感覚からすれば受け入れられない。それで川本さんが詰め寄っている。後ろにいる女性が(作家)石牟礼道子さん。新聞記者と看護婦さん、医者もいる。」(「アジア記者クラブ通信 228号」(2011年7月号)の宮本成美による解説より抜粋)

もっと知りたい人へ
祈りの言葉 川本愛一郎(2014年慰霊式)
・水俣病誌、川本輝夫著(2006年、世織書房)・・・相思社で閲覧可

■P11

1997年、水俣病センター相思社蔵
水俣湾埋立地・エコパーク水俣 実生の森

水俣湾の埋立工事完了後、市民は種から育てた樹木の苗を植えた。木々は大きくなり、今は森になっている。

1974年1月 水俣湾の入り口に仕切網を設置
1977年10月 埋立工事を開始
1977年12月~1980年6月 工事差し止めの仮処分のために工事が一時停止
1990年3月 水俣湾内の埋立工事が終了
1997年7月 3年連続で水俣湾魚介類の水銀値が暫定基準値を下回わる。県知事による安全宣言
1997年10月 仕切網を撤去。漁業は再開

■P13

2013年3月、ガイアみなまた提供
低農薬栽培甘夏みかん畑

不知火海の汚染を受けて甘夏みかんの栽培を始めた漁師・水俣病患者は低・無農薬で甘夏みかんを栽培を始めた。

もっと知りたい人へ
映画 水俣の甘夏
エコネットみなまた
からたち

■P15

2021年10月、からたち提供
湯の児海水浴場

もっと知りたい人へ
からたち 甘夏とSUP

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