ポーランドへの旅


 相思社職員 永野三智
 構成 遠藤邦夫

二〇一三年一二月二八日から一月五日にかけて、一家(私、娘、私の父)でポーランドを訪れた。私も父も長く休めるのはこの正月。年に一度の家族旅行、今年は大大奮発だ。
 今回の旅の大きな目的は、国立アウシュビッツ博物館と、ルブリンのマイダネク強制収容所跡地の見学だった。
 ワルシャワに到着の翌日、電車で三時間のクラクフへ移動した。駅のホームではタクシーの運転手マリアンさん(六〇歳)が待っていてくれた。マリアンさんのタクシーは、国立アウシュビッツ博物館の日本人案内人である中谷剛さんが手配してくれた。
 クラクフからの約一時間マリアンさんが、「ヴァヴェル城」や「ヤギウェオ大学」や、丘の上の「ゲシュポタ(国家秘密警察)の事務所だったところ」や「ゲシュポタの病院やお店があったところ」を案内をしてくれた。英語は三三年間の運転歴とともに話せるようになったそうだ。アウシュビッツには沢山の外国人が来ると教えてくれた。「日本人は多いですか」と尋ねると、多いけど他の国ほどではないと教えてくれた。まち案内が嬉しくて、お礼に「水俣市立袋小学校歌」を娘と一緒に披露した。私は学校は嫌いだけど、私の出身地の良いところ表現してくれるこの歌が、私は好きだ。マリアンさんは一九歳の息子さんが弾く、プロ並みのギター曲のテープを流してくれた。おかげでポーランドの音楽も楽しめて、なかなか楽しい時間だった。(永野)

遠藤:聞くところによると、君の家族は中国やタイのディープな旅をしているらしいね。
永野:家族六人で中国の南京大虐殺紀念館に、私が小学校六年生の頃行きました。
遠藤:学校行ってなかったじゃないの?
永野:それは今日のテーマではありません。つまらんツッコミは禁止です。万里の長城なんかも行ったけど、覚えているのは大虐殺の中国だけですね。別の機会に行ったタイでも捕虜収容所で、悲惨な食料不足のことなんか聞いていました。その時は水俣の人たちが、タイのクロントイ・スラムでせっけん作りの指導に行ったのですが、それに便乗したんです。
遠藤:そういえば今回の旅もハードスケジュールだったようだけど、ドゴール空港での乗り継ぎって間に合ったの?
永野:結論から言えば間に合いました。でも時間はオーバーしていて、いつもゆったり歩いている父が走ったのには驚きました。飛行機の中に入ると「こいつらのせいで飛行機が遅れているのか」とじろりとみんなに睨まれました。
遠藤:それでワルシャワに着いて。
永野:いいホテルだったですけどゆっくり寝る暇もなく、午前四時にクラカウ行きの列車に乗りました。八時頃には到着しました。

 アウシュビッツ博物館までの道には両脇に白樺の木がちらほらとあって美しかった。小さな家々のほとんどに煙突があり、そこから煙が出ていている。このあたりには炭鉱があって、炭鉱夫がたくさん住んでいて、バスに乗って出稼ぎにくる人たちもいるという。クラクフの駅に降りたった時に父は「石炭のにおいがする」と言いました。今夏還暦を迎える父にとって子ども頃の暮らしの中で石炭は身近な存在だったらしいが、私と娘にはピンと来ない。この国のエネルギーの九〇%は石炭で賄われているそうだ。
 少し仲良くなったマリアンさんに、「アウシュビッツでお生まれですか?」と尋ねると、「アウシュビッツはドイツ人がやってきて自分の都合で付けた名で、本当の名前は“オシフィエンチム”だよ。だからそっちで呼んでほしい」と言う。当時のドイツ占領下で、こうして地名を変えられたところは少なくない。私の学びはこうしたけっこうやばい失敗から深く刻まれる。マリアンさんが間をおかずに「私のおじいちゃんもおばあちゃんも、そのまた前の代もオシフィエンチムで生まれた。私はここで生まれ学校へ行き、結婚し三人の子どもを育て、そして一生を終える。オシフィエンチムは本当にいいところだよ」と続けてくれた。
 ポーランドではユダヤ人だけが被害者ではなく、地元住民もまた被害者だったと話してくれた。マリアンさんに尋ねると「自分は生まれていなかったが父は一八歳、ドイツ軍によって別の地に移住させられた。母は一四歳、ドイツ人の農家で働かされたよ。そして一九四五年父は帰ってきて、母と出会い結婚をした」と答えた。代々ポーランド人のクリスチャンだった彼の一家だが、当時はユダヤ人やロマ(蔑称ジプシー)でなくともドイツ人のもとでの労働を強要されたという。オシフィエンチムは小さなマチで、アウシュビッツの悲劇がなければポーランド人でもその存在を知らなかっただろうと聞いた。(永野)

遠藤:そう言えばこないだ「ハンナ・アーレント」の映画を見たんだよ。ナチスのことを「凡庸な悪」と定義して、ユダヤ人コミュニティーから猛反発されている。もうひとつユダヤ人コミュニティーの指導者たちが、ナチスと取引をしていたことがアイヒマン裁判で明らかにされるだけど、イスラエルはそれを公開しなかったんだ。その裁判を傍聴していたアーレントはアメリカの雑誌にそのまま書いたんだよ。彼女は別の機会に「ナチは私たち自身のように人間である」と述べており、緒方正人の「チッソは私であった」と通じているんだけど、でも今回はその話はパスだな。
永野:だからこの私のポーランド旅行は、今号は旅行記でいいけど次号は案内人中谷剛さんの言葉とその考察を論文にしたいんです。
遠藤:ちょっと待てよ、それは面白いと思うけどごんずい編集会議で決めようよ。
永野:まあそれでいいですよ。

 この場所(アウシュビッツ収容所跡)は戦争が終わって、三年後に博物館として公開されています。きっかけは生還者の方がここに戻ってきて、殺された仲間を追悼する場所だったんです。そして、こういったことが二度と起きてはいけないという教訓を残すために、国に働きかけて博物館になったんです。この博物館の館長はみんな、強制収容所の生還者です。ガイディングも全て経験した人がやっていたんです。でも現在三〇〇人のガイドの中に戦争を体験した人はおそらく一人もいません。でも自分たちの言葉で語っているんではなくて、例えばこの場所で生還者が言っていた言葉を代弁するんです。ユダヤ人のおばさんが来て「よくそんなに冷静に案内ができるわね」と、泣きながら言われたことが二回あった。でも自分は経験していない。冷静に案内をするしかない。(中谷剛)

写真を見ながら
永野:アウシュビッツ博物館には一一時頃到着し、まず昼食にポークカツレツにチーズとトマトソースをかけたもの、マッシュポテトと野菜サラダを注文しました。一一時半、総勢一〇名が集まり慌ただしく案内が始まった。中谷剛さんは早口で語尾が聞き取れないところがあるものの、一番若い私の娘(小学六年)に分かるように、時代背景とここで起きたことを自分の言葉を交えて語ってくれた。こちらが質問することによって時々入る中谷さん自身の考えや経験に基づいた話も面白い。自分の水俣での「案内」が若干恥ずかしくなった。
 博物館の入口にある有名な「労働は自由への道」は、収容者たちが作らされたので、Bが上下逆になっているのはせめてもの抵抗と解されています。
遠藤:なんだか入場者は若い人が多いようだけど?
永野:アウシュビッツ博物館の入館者は、EU各国から来た一五歳から二四歳までの若い人が七〇%です。日本人より韓国人や中国人の方が多いようです。

おわりに
 私がアウシュビッツへ行きたい理由は二つあった。一つはアウシュビッツ国立博物館の案内人である中谷さんに会い、考証館のこれからや相思社での自らの案内を結びつけて考えたかった。アウシュビッツも水俣も、語り続ける必要がある。どちらも人間が起こしたことで、これからも起こりうることだ。ここで生涯語り続けようと思うとき、中谷さんの意志や仕事に興味が湧いた。
 もう一つは小学六年生の娘のこと。修学旅行で長崎の原爆資料館へ行き、語り部の話を聞いた。旅行から戻り、帰りの会での子どもたちの感想はどこか遠い世界の話のようだった。「被爆者の方が可哀相」「戦争はひどい」「だから戦争はダメ」。「ダメ」は分かりやすい。分かるということは「考える」をやめることだ。
 しかしこれは彼らにも私にも起こりうることで、今回たまたま自分じゃなかっただけ。なぜこのことが起きてしまったのか、その根本を考えなければ繰り返す。もやもやしながらでも考え続けることが大切だ。自分で判断する力を一緒に身につけたいと思い、娘を誘った。考えたことは次号、お伝えしたい。(永野)

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