丸山定巳さんを偲んで

福岡大学医学部講師 牛島佳代

「今日はどうやってきたの?」
二〇一四年十二月二〇日のお昼頃、二回目の抗がん剤治療で体力を消耗し、話そうとしても声が出ない状況にあった先生を、熊大病院に見舞ったあの日、福岡からかけつけた私に先生はいつもと同じように尋ねてくれた。
「今日は新幹線で来ましたよ。先生、早く良くなって、特措法以降の水俣の調査をしないといけませんよ。先生が先頭に立ってくれないと、調査できませんから」
そう答えると、先生は「困ったな」とでも言いたげな表情で苦笑いされた。それが先生と交わした最後の会話となってしまった。
丸山先生との出会いは、熊本大学の学部二年生の時に遡る。先生の社会調査実習に参加したのがきっかけである。私は、元来あまり社交的とは言えない性格で、見知らぬ世界に飛び込むことに躊躇してしまう。そのせいもあって、大勢の人が賑わう先生の研究室を敬遠していた。先生の研究室は、なぜか、いつもたくさんの先輩たちが集っていた。しかも、勉強をしているのかというと、必ずしもそうでもない。昼間はコーヒーを飲みながら、夕方以降は、焼酎片手に、なにやら楽しげに談笑している。いつもその輪の中央には、満面の笑顔の先生が座っておられた。初めは恐々、中に入っていったが、和やかな雰囲気の中で人懐っこい先輩たちに促され、次第に私も研究室で過ごす時間が長くなっていった。
卒業論文と修士論文では、先生の指導の下、水俣病がもたらす生活世界への影響を描くというテーマを選んだ。しかし、実のところ、私は先生から論文指導を受けた記憶がほとんどない。先生は学生指導において「親はなくとも、子は育つ」が口癖だった。学生の自主性を尊重し、成り行きをじっと見守り、学生が行き詰まると、先生が相談にのるといった具合であった。
その後、医学部の大学院を修了後、福岡大学に就職したが、水俣研究を続けたこともあって、先生との交流は途切れることなく続いた。特に、二〇〇四年、水俣病関西訴訟最高裁判決後の水俣病調査では、先生に先頭に立っていただいた。このとき、私たちは「不知火海研究プロジェクト」という研究組織をつくり、二〇〇五年春から夏にかけて、水俣病の新規申請者二七四名を対象に聞き取り調査した。また、二〇〇六年夏からは、不知火海沿岸地域三市三町の四〇歳~七九歳までの住民全体から標本抽出し、調査を実施した。これらの調査を通じて、それまでの水俣病の全体像に関する常識を覆すことができたのではないかと考えている。つまり、水俣病の被害を身体症状に限定するのではなく、多様な生活障害と心身の健康障害として捉えなおそうとした。これらの最高裁判決後の調査結果は、小池百合子環境大臣が設置した環境省水俣病懇談会において報告し、水俣病特措法につなげることができたのである。
上記の調査時は、調査票回収は一軒一軒訪問して行ったために、宿泊場所を点点としながら調査隊が移動する、まるでキャラバン隊のような強行軍であった。先生は、他のメンバーに比べて訪問先での滞在時間が長いため、スケジュールを管理する立場にあった私は「先生、遅いですよ。何をやっていたのですか。」と詰問することもあった。その度に、「いやあ、話が長くなって」と(アルコールが入ったと思われる)赤顔で答えられていたことを思い出す。
このように、先生はどんな時も、誰に対しても自然体であった。自らのペースを貫き、求められれば、限りなく話を聞き、酒を飲む。調査対象者から失礼だと思われる言葉を投げかけられることもしばしばあったが、先生はまったく動揺せず、いつもの調子で「ほっほっほ」と笑いながら受け止める。そして、決して諭す口調ではなく、事実を、ご自分の思っていることを、淡々と述べるだけであった。
私は先生から何を学んだのか。それはきっと大学での学問などではないだろう。おそらく、研究者として、そして一人の人間として、人と接する時の寛容さと包容力だったのではないかと思う。先生の研究室は、学生や教員は言うに及ばず、水俣病に御縁のある人、マスコミの人、役所の人など、だれでも立ち寄りやすい縁側のような場所であった。そのようにしてつながり集った人を、さらにつなげていく、それが先生の隠れた、もう一つの大事な「仕事」だったのではないだろうか。これは、先生が危篤になった時も遺憾なく発揮された。これまで御縁があった人たちがネット掲示板を立ち上げると、書き込みは瞬く間に増え、みんなが一丸となって先生の回復を祈ったのである。
生前、先生はよく「狭い世間を狭く生きるな」と言っておられた。「ただでさえ狭い世間を自分から閉ざして生きることはない、もっと広い世界で様々な可能性に挑戦しなさい」という意味だと理解している。それは先生の生きる指針であり、そして自分の世界に閉じこもりがちな私に向けられた言葉であったように思う。そこにいる全ての人を暖かく包み込み、人と人とをつないでいく、まるで穏やかな木漏れ日のような存在であった先生に、学生時代から今に至るまで弟子として過ごすことができたことは私の一生の財産である。

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