学校教育における 水俣病のいま

相思社には、多くの教員や生徒・学生が水俣病のことを学びにやってくる。熊本県では水俣病教育がプログラム化しており、特に小学五年生は課外授業で水俣を訪問することになっている。相思社にはその事前学習としてやってきたり、依頼されて講話に出かけていくことも多い。相思社の教員免許更新講習でもたくさんの先生たちがやってくる。そうやってこれまで多くの先生方に話をしたり質問を受ける機会があった。そこでいつも感じるのは、先生方は水俣病をどう教えたらよいのかとても悩んでいるということである。同時に、水俣病のことを教科書的にしか知らないということも感じる。たとえば「アセトアルデヒド」という難しい単語はほとんどの教員が知っている。でもそれがプラスチック原料として生産されていたことを知っている人はとても少ない。水俣病がプラスチック産業で引き起こされたことを知らなければ、現代史との接点が希薄になってしまう。また、水俣病というと、初期の、全身を痙攣させ苦しんだ劇症患者のイメージと、胎児性患者のイメージがいまだに根深く定着している。現在の大部分の水俣病患者が苦しんでいる症状が、頭痛であるとか、視野狭窄、様々な種類の感覚障害などであるということについてはほとんど知識を持っていない。だから外見から症状がわからないことが差別の大きな要因になっているという認識に届いていない。なにか大きな、大事な知識が、ごっそりと抜けているという感じだ。それが水俣病の教育の現状を映していると思う。だから私はここ数年「水俣病のことを知ってほしい」と題し、患者の症状をはじめ、水俣病にまつわる地理や歴史など、基本的な知識を押さえてもらおうとして話をしている。
先生方は真剣に話をきいてくれる。だが、終了後、ある一定の不満足感が伝わってくる。それは、もっと人権や、差別の話をしてほしい、それも具体的なエピソードが聞きたい、ということであるのが、最近わかってきた。現在、水俣病を授業で扱っているほとんどの学校現場では、水俣病を人権の問題としている。だがそもそも水俣病における最大の人権侵害とは、水俣病そのものであったはずだ。チッソや国が犯した殺人・致傷行為。会社を守り、国の経済が発展するために、中央(東京)から遠くはなれた不知火海沿岸の住民が差別的に殺され、健康を奪われた。

現在の教育現場では、このような一企業を悪者扱いする表現は、生徒の身内にその関係者がいるかもしれないという理由から、ほとんどなされない。教科書から「チッソ」の名前が消えてゆき、やがて「とある企業」に替わる日が来るのも時間の問題かと思われる。かくして今や水俣病をめぐる教育は、患者や、水俣市民・出身者への差別の問題という、限定的なテーマの中に押し込められている。
差別が悪いことだとは、誰もが分かっているので、教育内容はその認識の強化と徹底化になる。「病気の苦しみより差別された痛みのほうが辛かった」という、ある患者の言葉が象徴化され、差別された痛みを味わい、辛さに共感するということが学びの主眼となる。それで、差別の学びは当事者の話を聞くことこそが最上の学びになると言われる。それは具体的なエピソードが豊富なだけではなく、聴く側のこころに直接作用するからだと思う。患者の語りを聴く教員研修会などを持ったあと感想文に最も多い表現は、「こころに響いた」というものである。
いかに「響いた」かが、あたかも語りの評価の指標でもあるかのようにみえる。
こころに及んだ学びの徹底について私は二つの危惧を持つ。ひとつはそれが、こころの中に差別を持つことすらいけないということになり、こころの中にあるそれを一掃へする方向へと向かうこと。それは、ネガティブとみなされるものを排除するという、差別と同じ心の働きによってなされ、根を残したまま表象だけが摘まれていく。それが現実には「言葉狩り」「表現狩り」とつながっていく。狩られた言葉・表現は、差別的概念をもう一枚まとい、差別自体の強化に貢献して
いく。もうひとつは、当事者の(こころの)痛みや悲しみに共感するといった教育的行為が、あらたな疎外を産み出すということである。「かわいそう」と思っ
た途端にそれは他人事となる。ひとには誰も自分を安全なところに置きたい欲動がある。わたしたちは、当事者の語りにこころを揺さぶられ、怒りや涙で震えながらも、〈じぶんとは違う〉ことを知って密かに安心しているのではないだろうか。それは「共感」という満足感のなかでなされるので、気が付きにくい。しかしよく考えてみる必要がある。

以上、これまで水俣病の問題が教育現場において人権や差別の問題ばかりに集約されていることを批判した。そして、差別の問題を、こころの中の問題として捉える傾向を批判した。水俣病の教育は袋小路にはまっている。それが多くの悩んでいる先生方と話して感じた現状である。ギアをバックに入れるときだ。「こころ」から抜け出し、人権・差別の観点からも抜け出し、いったん水俣病事件全体を俯瞰してみてはどうだろうか。

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