授業案発表に寄せて

向井良人

世の中に理不尽なことは沢山あるが、水俣病問題にはそのエッセンスが詰まっていると思う。言い換えれば、それくらい長期に多方面から語られ続けてきた。水俣病問題が広く長く注目を集め続けるのは、被害の様相と共に、人と自然の啓示的な魅力のためだろうか。

ともかく水俣病問題は「社会科教育の原点」ともいえそうだ。水俣病問題を通して他の事例を観る、あるいは他の事例を通して水俣病問題を観ることで、社会問題を立体的に捉えられるようになるのではないか。水俣病問題そのものが幾つもの顔を持つ大きなテーマだが、その中から何か一つ、引っ掛かるものと出会ったなら、それを火種として育てたい。

多くを知らなくても、火種があれば、身近な事例をその火で照らせるようになるのではないか。「もやもや」は火種であって、出発点に過ぎないだろう。知るほどに疑問が広がる、というのが健全な学びだと思う。水俣病問題が投げ掛けるのは、知ることでは解消できない疑問なのだ。「誰を犠牲にするか」という倫理的な問題だから。

答に誘導するために「問い」を与えるのではなく、「問い」へ導くために事実を示すこと。では、事実をどのように選択し、どのように配置するか。どのような出会いをつくるか。そこに創意工夫と試行錯誤がある。水俣に学ぶことで教員もまた「如何に伝えるか」の命題を共有する。水俣に集った人々が共振し合う相乗効果。これも、培われてきた長い伝統と言えそうだ。 完成形はないものとして、伝える(伝えたい)側、教える(教えたい)側が試行錯誤を続ける、その営みに生徒・学生を巻き込んでいく、ということか。効率的に答を見つける訓練とは、相容れない教育。その拠点であることが、水俣の魅力ではないだろうか。

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