水俣と福島を結ぶゆんたくグループ活動

環境社会学会福島大会「ポスト3.11の環境社会学‐原子力災害からの復興を考える」

相思社職員 遠藤邦夫

はじめに

 「みなふくゆんたく」は二〇一四年の活動をどうするのか? 方針も決まらないまま「とにかく福島で開かれる環境社会学会に参加しよう」と場当たり的ではあるけれど、「みなふくゆんたく」らしい行動に出た。当日夕方六時くらいにホテル集合となっていたので、遠藤は平井京之介さんを誘って東京都美術館で開かれているバルチェス展を見てから福島に向かった。そのことを金井景子さんに話すと「そういうのありなんだ。じゃ私は土湯のこけし博物館に容ちゃんといってくるね」ということであった。

 六月一三日夜福島市内で、平井・金井・宮下容子・遠藤は「みなふくゆんたく」の今年度計画について話し合うが、偶然入ったイタリア料理が美味しくてかつ料金も安く、それで飲み食いに忙しくて「みなふくゆんたく」の今年度方針が決まらなかったわけではない。少し前からいわき市に一か月くらい滞在して、いわき住民や被災者・避難者の人たちの実感と現状を知りたいと話していたが、いまの遠藤には相思社を次世代に引き継ぐことが火急だろうから、長期に水俣を空けることはできないだろうとなった。実は福島と水俣というかほとんど「相思社のこれから」を素材とした話は、この日も一五日のいわきから東京に帰る列車の中でも、延長戦としての上野駅のインド料理店でも議論が続いた。が、ついぞ「みなふくゆんたく」としての共同行動にはいたらず、各人が今できることを確認したにとどまった。とにかく確認したことは「グループとして大きなことはできないけど、福島・いわきとの関わりは粘り強く追求する」であった。

環境社会学会報告

環境社会学会ラウンドテーブル

「ともに悶え生きる『支援』~水俣と福島をむすぶ~」

司会:関礼子、話題提供:遠藤邦夫、金井景子。当初の予定では話し合いを重視するために、出席者を二〇人くらいに絞るつもりだったが、実際には四〇人くらいの参加者が来てくれたので残念ながらラウンドテーブルとしての対話は難しかった。遠藤は用意したレジュメで「あなたは福島のリンゴと長野のリンゴ、どちらを選びますか」というエキセントリックな表題で、水俣で起きたこと・福島で起きていることを説明しながら話題提供した。金井さんは天栄村の放射能ゼロ米つくりへの支援を、田植えなどのDVDを使って説明した。教え子の大学生や子どもたちを天栄村に連れて行くとすれば、何をどう踏まえるべきか模索していること、低線量とはいえ、放射能の影響を日々受けて作業を進める農家の方々に対して、自分たちに何が出来るのかといった思いを抱えながら係っていることなどを語った。

会場からの発言

○福島で農業をしている人は、作るほかないと思いながらも、食べてくれる人がいるのか、作り続けて良いのかと矛盾した思いに囚われていることを理解すべき

○食べ物を作る人が被害者にもなり加害者にもなる。

○一言に福島と言っても、各地で放射能汚染の実情も違えば、補償金も違い、避難状況も違うが、外からは福島とレッテルをはられてしまう。

○福島や東北じゃなくて、個人の物語で語ることが大事。でも誰かの物語が誰かの物語を抑圧することが起きることもある。

○見えにくい部分を見やすいようにすることが支援の役割だろう。

○最先端の課題を創り出している場としての福島と考えたい。

午後五時三〇分「いわき市から見る被災・避難の現状と被災地ツアー」出発。楢葉が本拠地だったけれど、震災・原発事故でいわきに拠点を移して営業している浜通り交通のデラックスバスだった。バスガイドは絶好調の関さんが翌日のツアー説明をしながら、車外風景までもガイドする。油断していると「では参加者の皆さんの詳しい自己紹介をお願いします」とくる。こうした多くの人が集まる場所にくると、私は以前にお会いした人のことをちゃんと覚えてなくて冷や汗をかくことがある。何年か前の環境社会学会新潟大会で、まさにこの関さんにお会いした時に、不覚にも目が泳ぎそれを目ざとく見つけた関さんに「遠藤さん、私の名前を忘れているでしょう」と言われた途端「あっ関礼子だ」と思い出した。思った通り参加者の白水史郎さんから、「遠藤さんとは相思社のごんずいのがっこうでお会いしたこともあります。『環境倫理 2』で一緒に仕事をしたこともあります」と言われ、そう言われるとそうだったとこれまた冷や汗をかく。

六月一五日「いわき市から見る被災・避難の現状と被災地ツアー」

(一)いわき市海浜自然の家所長大和田正人さんの物語

いわき市の抱えている課題の根幹をなすように思った。お聞きしたことは、

○東日本大震災で八か月閉所になり、いわき市教育文化事業団の指定管理者として再開した。

○自然の家の再開に向けて、所員が放射線量を定期的に測定し、自分たちで屋根や壁を洗浄した。独自に芝の張り替えも行った。

○小中学校の利用はかなり減ったため、社会教育団体など、大人にターゲットを絞って集客している。いわき市内の小中学校の利用は震災後に激減し、震災後の状況に戻るまでにはまだ時間がかかるだろう。

○自然の家の本来の海の活動、山の活動も制限される状況の中、現在も環境整備に向けた取り組みが続いている。

(二)久之浜語り部による現地案内

いわき市が募集したとても元気な語り部佐藤トヨ子さんは、久之浜の津波で流されなかった秋葉神社の前で「前は有名ではなかった」とあっさり話してくれた。水脈にそって井戸が残っていた。国の買い上げが済んで、前年九月に来たときにはコンクリの土台が残っていたが、それは全て砕かれて山になっていた。防潮堤(六・五メートル)の内側の緩衝地に松や落葉広葉樹を植えることになっていて、今日は栃木の小学生たちが苗木を植えにやって来てくれる。久之浜漁協の建物は片付けられていたが、製氷工場が作れずここを拠点とした漁業は再開出来ていない。漁師たちはよその漁港からでている。昔は築地と活魚で直結しており久之浜ブランドと呼ばれていたんですが・・・。バスの中で佐藤さんの元教え子の子どもが撮った津波のDVDを見せてもらった。翌日の午前六時頃まで押し寄せ、久之浜の海岸地区は全てもっていかれ、おまけに火事まで起きた。でも現在、久之浜の復興では若い人が頑張っているので嬉しい。DVD映像のバックミュージックに「花は咲く」が流れていた。

(三)みんぷく(「みん(・・)なが()興の主役」の略、正式名称「3.11被災者を支援するいわき連絡協議会」)

赤池孝之さんのお話と薄磯地区の視察。赤池さんは二〇一二年に、熊本のNPOの支援でザピープルの吉田恵美子さんたちと水俣に学ぶために水俣に来られた。これまたお聞きしたことは、

○最初はニーズと違う支援があった。状況で必要な支援は変わっていく。

○豚汁が作りやすいので作り続けていると、被災者から申し訳無さそうに「豚汁も美味しいけど、たまには違うものも食べたいよね」と言われた。それで被災者の人たちや違う企業の支援者にも手伝ってもらって芋煮なんかを提供した。

○現在スタッフは五人いるがその支援金がいつまで続くか分からない。防災ツアーは自主事業で昨年度は二五〇〇人位案内して三〇〇万円くらいの収入になったが、これも来年までの事業になるかもしれない。防災ツアーは普遍性を持っているが、来年度には国と福島県が観光ツアーに重点を置く活動をするが、それ以降は分からない。

○被災者は自分がありがとうというだけではなく、人からありがとうと言われるようにもなりたいと思っている。

○行政との関係づくりは難しい。例えば、こちらから会議を提案すると「なんで民間が行政を呼びつける」なんていわれる。

○避難者は家族分裂の危機に加えてDVなどもあり、その相談には苦慮している。熊大紛争学の石原明子さんの協力で、そうした状況への対応もしていきたい。

お話の後でバスに乗って赤池さんの説明を受けながら、津波の甚大な被害を受けた薄磯地区の視察に向かった。震災当日赤池さんは消防団員として、海岸近くの道路で通行止めの役目をしていた。「この先に家がある。どうしても帰らなくては」と言われると、通行止めばかりを優先することはどうなのか、危急の際の振る舞い方の難しさを実感したと語ってくれた。薄磯地区の中学校は今も津波の痕跡が残ったままだった。

エピローグ

 先日相思社に宿泊した西南学院大学の宮崎ゼミの人たちとの相互自己紹介で、「うちのゼミは長く顔を見せないメンバーは破門にするんだ」と聞いた。続けて「でも破門はその学生に奮起を促す効果もある」と聞き、そう言えば破門シスターズ(とある芸事で師匠の逆鱗にふれ破門された二人組)を自称してがんばっている人もいるなと思い、さらに妄想は広がって「みなふくゆんたく」のメンバーは誰も「正史」から自らを破門した人じゃないのかなとも思った。「相思社の職員と一緒にしないでよ」とメンバーからクレームが出そうだけど、水俣への関わり福島への関わり方にはそれぞれ独自性があって、とはいえお山の大将を目指すのではなく、ちゃんと「多数派のなかの少数派」を自認しているように思う。破門が穏やかでないというなら、脱構築って言葉もあるけどね。

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