水俣人物図鑑(もじょか堂・諸橋賢一さん)

相思社職員 木下裕章 

水俣人物図鑑第三回です。今回ご紹介するのは、水俣で有機野菜や柑橘類、お米などを扱うオーガニックマーケット「もじょか堂」で働く諸橋賢一さんです。水俣でいろんな垣根を越えて多様な人たちと繋がり、精力的に活動している諸橋さんのお話を伺いました。

農業について考え始めた学生時代

 東京都出身で中高と私立の進学校に通い、環境問題について興味を持ちました。一方で大学受験のために勉強することに違和感を抱き、卒業後は二年間浪人をします。循環できる環境づくりをするためには、人間の営みも変えていかなければと思い、農業について考え始めました。

その後、本格的に農業について学ぶために東京農業大学へと進学しました。学んだことを現場で深めるため、一年目は高原野菜の農家でアルバイトをし、学んだことが通用しないことを実感します。二年目は山形県高畠村での有機農業研修に、三年目はドミニカ共和国まで農業研修にいきました。その中で、日本の農業に役立ちたい、農業の主流を知りたいと思い、卒業後はサラリーマンとして農業に関わることを決意しました。

一般的なものを知ってから対局にあるものを知る

 就職した会社は、農薬の販売メーカーでした。「一般的なものを知ってから、対局にあるものを知ること」。農業に例えると、有機農業や無農薬といった「良い」と言われているものを、それだけしか知らないで語るのではなく、その反対にある農薬のこともよく知った上で、表現したり語ったりすることです。この会社では営業や商品開発などを担当し十二年間働きました。

東日本大震災被災地との関わり

茨城で商品開発の仕事に携わっていたころ、東日本大震災が発生しました。ニュースを見ながら無力感を感じ、自分の分野である農で何か役に立てることがあるかもしれないと思い、被災地を訪れました。ガレキの撤去や撤去したところに花を植える活動、大学の後輩たちを組織して団体でのボランティア活動など仕事の合間を縫って、被災地支援に携わりました。支援活動をする中で、地域がなくなったら仕事が成り立たない、仕事というのは地域があってこそという想いを強くしていきました。

二〇一五年、水俣に移住する

 一二年勤めた農薬メーカーでの最後の二年間は福岡での勤務でした。大学時代の友人が水俣にいたのがきっかけで水俣に通い始めました。移住を決めた理由は三つあったそうです。その一つ目は、既存の農業への違和感です。今の農業の世界では「村」ができ、農薬ありきの農業しか認めようとせず化学肥料と農薬や資材を使うことで成り立つ大きなフォーマットが出来上がっていて選択肢がありません。「自己否定出来ないところに発展はない」と、今の農業の業界から抜け出ることを決めました。

 二つ目は自身のライフスタイルを変えたかったことです。移住前は仕事と自分が住む地域の距離が離れていることがきつく、水俣なら仕事と地域づくりをマッチさせた形で働けると考えました。

三つ目は東北と水俣との繋がりでした。福島の原発事故で水俣病と同じように人命より経済が優先されていること、今の社会に水俣病が活かされていないこと、自分自身も何も知らなかったことにショックを受けました。「水俣が輝けば東北も輝く、水俣が先だ」。今なら東北で経験したことが水俣で活かせるかもしれないと考えました。水俣で農業の新しい流通をつくりたいとの想いから「もじょか堂」で日々働き、まちづくりの活動に関わったり音楽イベントを企画したりしています。

水俣食べる通信のこと

 昨年十二月にもじょか堂を発行元として、食べもの付き情報誌「水俣食べる通信」を創刊しました。「食べる通信」とは、岩手県花巻出身の高橋博之さんが震災後に始めた「東北食べる通信」が元となっており、地域の特産品とともに生産者や生産物をクローズアップした情報誌をセットにして消費者へ届けるプロジェクトです。

 今ではそのコンセプトに共感する日本各地の人々によって地域独自の食べる通信が生まれています。流通の過程で失われる生産者の情熱をダイレクトに消費者に伝えています。

水俣食べる通信の今後に寄せる想い

 「東北食べる通信」に共感した諸橋さんは「水俣食べる通信」のテーマを「みなまた・食の恩返し」と考えます。水俣病の被害で苦しむ中で食べものに向き合ってきた人たちがどう考えているかを伝えたい。一人ひとりの答えは違うだろうけど、それが深みになるのではないか、一人の人生は否定出来なくて認めた先に次がある、今は白か黒かの二項対立ではなくグラデーションの中で生きていて、白と黒の間にいる人たちが大事なのではないかと考えました。

 そして水俣のもやい直しの後の次世代の役目は、いまつくられている様々な関係を今後どうやって編んでいくのか、先に答えを決めてからでなく、互いに関係をつくりながら編んでいったものを大切にすることだと考えています。

 諸橋さんは水俣で生きる人たちを山の人、海の人、町の人と考え、山と海が繋がることでもっと豊かになる、自分は町の人で、現場で頑張っている山の人と海の人を繋げること、水俣と外の人たちを繋げることがその役目だと言います。

 まずは水俣の人たちが地域の魅力を知り、誇りに想い豊かに活き活きと暮らしていることが外から見た時の魅力になり、町の人が水俣の良さを語り出すことが内側から水俣全体を良くしていくことに繋がっていく。「水俣食べる通信」をそのきっかけの一つにしたいと展望を語っていただきました。

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