水俣巡礼 青春グラフィティー’70~72

葛西伸夫

「1968年、全国に燎原のように広がった全共闘運動ですが、2年ほどで鎮圧され急速に下火となりました。そのなかではけ口を失いくすぶっていた熱は、成田闘争と水俣病運動に活路を見出したのです。水俣病運動が全国的な盛り上がりをみせたのには、そういった背景がありました。」
私はいつも水俣病の歴史の一部をこんなふうに説明している。間違ってはいないけど、このとき岩瀬政夫さんのこと(著書でしか知らない)が心を掠めることがある。こんな乱暴な説明で申し訳ない、という気持ちになる。
元来公害問題に無関心であった学生運動が、対象に水俣病を持ち込んでくる中で、水俣病との出会いに触発され、もっと本質的な、実存的な問題意識を持ち始めた若者が少なくなかった。
九人からなる「巡礼団」のひとりとして、1970年から約2年にわたり全国を旅歩き、水俣病支援の浄財を集めた岩瀬政夫さんもそのひとりである。彼がその頃の出来事や思いを詳細に綴った日記が無修正で(ただし抜粋)本のすがたになったのがこの書物である。
日記には、旅先での様々な人との出会いが、彼の心を温めたり、怒らせたり、いろんな風に動かし、次の道行きへと駆り出す力になっているのが伝わってくる。
また、運動や支援のありかたについて批判的な分析が、自己批判も含めたかたちで絶え間なく成されている。当時、運動の「女神」であった石牟礼道子にも心酔せず、同行者の砂田明にも時には冷ややかな視線を送るほどだ。
日記には「自律した個人」の大切さが、「組織」と対比されるかたちで何度も強調される。
「巡礼団」もまたひとつの運動組織にほかならなかった。しかし彼にとって、ユニフォームの白装束は自分の足元の世界を見つめなおす独り旅のための小道具であった。日記には「自分の根を探す」、「根無し草」、「存在の根」という言葉が頻繁に顔を出す。
「水俣」こそ、彼が「根」として探し求めていた「どこか」「何か」だった。しかしそれは一体どこにあるのか、何なのか。あるとき砂田明が水俣に移住するということになって、彼の批判は鋭く強くなる。(砂田は)「水俣に寄生しようとしている」とまで言っている。また、反公害闘争という組織の目指すところや、果たして「水俣」は存在しているのか?そういう疑問も立ち込めてくる。「水俣という幻」という表現も出てきた。
結局、岩瀬は二年間にわたる巡礼を終えた後、水俣病に直接関わることをやめ伊豆大島に移住し教員となる。あとがきで「日記から30年経つが、水俣への片思いは続いている」とあった。


ここからは自分自身の話になる。私は十七歳のときに石牟礼作品に出会い衝撃を受けて以来ずっと、水俣病のことが気になり、関わりたいと思い続けてきた。数年に一度は東京から水俣を訪れた。といっても、何をするでもなく、漫然と市内に滞在している奇妙な旅行者だった。運動の組織に加わるのは嫌だった。相思社を運動体だと勘違いし、近寄りもしなかった。「水俣」を幻想し、「片思い」していたのである。「水俣」に関わりたいけと関われないもどかしさ。
九九年にこの本が出たとき、すぐに読んだ。東京者の自分と岩瀬さんが重なった。いまでも白装束団があったら間違いなく自分も加わったろう、と思った。
彼の批判的精神にも共感した。ただ、私の水俣への「片思い」は東京者にありがちな、石牟礼美学に酔った浅薄なものだったのだろう。その十二年後に私は水俣への移住を実行することになる。
そして一〇年。いまではもう『苦海浄土』は〈水俣病関連資料〉のひとつに過ぎず、最初の読書の衝撃が心に蘇ることはない。「水俣」と自分の生き方の問題、そのような本質的な問題から遠ざかり、日々の業務の中で感覚を鈍磨させ、今ではお気楽極楽な水俣移住案内などを書いている。水俣に居ながら「水俣」を喪っているのに、そのこと自体も忘れている。
ただこの本のページをめくるときだけ、束の間思い出す。私の探す「水俣」とは何?自分自身への問い、本質的なものへの憧れ、そしてそれを探す旅の時間が自分にも存在していたことを。

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