私もアウシュヴィッツで考えた

水俣病センター相思社職員 永野三智

【はじまり】

二〇一三年末、娘と父とポーランドを旅行した。一番の目的はアウシュヴィッツ国立博物館の見学だった。友人に貸してもらった『アウシュヴィッツ国立博物館案内』(凱風社2005)を書いた日本人ガイドの中谷剛さんに会いたいと思った。なぜこのような悲劇が起きたのか。アウシュビッツで起きたことは、現在どのように語られているのか、次世代はどのように受け止めているのかを知りたかった。そしてなぜ日本人である中谷さんがそこで語るのか。水俣病センター相思社のスタッフはそのほとんどが、よその地域から移り住んで仕事として水俣病を伝えている。水俣病の当事者ではない相思社職員や水俣生まれではあるが「水俣病患者」ではない私と、彼を、その役割を重ねてみたいという気もした。

私が伝える中で心がけていることは、「分からせない」で「もやもや」させることだ。分かってしまうとそこで思考は止まる。終わる。しかし分からないと考え続けるしかない。それが可能性になっていくと思っている。

娘が昨年、小学校六年生の修学旅行で長崎へ行ってきた。事前学習の資料には答えがすでに準備されており、出来事は分かりやすく解説されていた。旅行から帰った子どもが「戦争はいけないと思った」「被爆者はかわいそうだった」言う。行く前に、考える前にすでに出ている答えを口にする我が子を見て、考えたり間違えたり傷ついたりすることが、奪われているように思えてしまった。私たちはいつ人を殺す側に、殺される側になるか分からない。他人がひどい目にあったという事実を、安全な場所から見て同情している場合ではないのだ。それはもちろん私にも言えることだ。アウシュヴィッツや長崎を水俣を、自分に立ち返り考えていきたい。娘と一緒にもやもやしたいという思いが、ポーランド行きを後押しした。

行ってみると、アウシュヴィッツと水俣の共通点はいくつもあることを知った。

【語る資格】

水俣病歴史考証館で解説をしていると、時々「私には水俣病を語る資格はない」という来館者に出会う。もちろんそれが謙遜であったり畏怖を込めてのことだというのは分かっている。しかし私はついムキになって、「資格とは何ですか?誰が語る資格のある人で、誰が資格のない人なのですか?」と聞いてしまう。「患者さん、かな・・・」という答えが戻ってくる時、ふと「患者が死んでしまったら水俣病事件はどうなるのだろう」と思う。

私が幼い頃に出会った患者は、みな自らが水俣病になることを選ばざるを得なかった時代を生きてきた初期の認定患者だった。チッソや国・県に怒りを抱き、水俣市内外で受ける差別に抗い、闘い続ける人たち。近所ではおばさんたちが彼らに向ける悪口も聞いたし、子ども時代私自身も差別したりされたことがある。しかし大人になった今、彼らが語り続けたことで現在の水俣病の運動があると思っている。それだけ経験したものの語りと行動の力は大きく、受け手に衝撃を与えるのだ。それだから、当事者抜きに進めてはいけない話は数多くある一方で、「患者が死んでしまえば水俣病事件は終わるのか」という問いが私の中に生まれる。この事件は人間が引き起こした。患者が生きている今でさえ、私たちは水俣病と同じようなことを頻発させている。語り継ぐことを止めた時、その状況は更に悪化するだろう。私たちがそれぞれの場所で語ることで「未来を変える」役割を果たしていると信じたい。そして聞いてくれた人たちには、事件を我が事に置き換えて考え、それぞれの場所で社会や未来を変えてくれることを望んでいる。

【伝え続けるということ】

アウシュヴィッツ国立博物館は、戦争が終わってから三年後に博物館として公開された。きっかけは、強制収容所からの生還者が現地に戻り、殺された仲間を追悼する場所として、また、こういったことが起きてはいけないという教訓を残すため国に働きかけたことだった。だから博物館の館長は生還者、案内も全て体験した人が行っていた。しかし時が経ち、現在三三〇人のガイドの中で戦争を体験した人は一人もいない。体験をしていない彼らは自分たちの言葉で語っているのではなく、例えば博物館ができた当時、現場で生還者が言っていた言葉を代弁しているのだそうだ。

そんなアウシュビッツ博物館で、中谷剛さんは一九九七年に公式ガイドとして認定されている。ガイドとして認められるまでの道のりは長かったという。博物館にとって中谷さんの存在は衝撃だったそうだ。「日本人が、当事者でもないのにアウシュビッツを案内するなんて」となかなか受け入れてもらえずに反対された。案内人になってからも、ユダヤ人のおばさんが来て「よくそんなに冷静に案内ができるわね」と泣きながら言われたことがあったそうだ。「でも私は経験していない。冷静に案内をするしかない」と中谷さんは言う。彼はアウシュヴィッツ国立博物館を初めて訪れた時、大量の髪の毛や子どもの靴を見て衝撃を受けたそうだ。しかし長年案内をするうちに、そこに感情がこもらなくなったのもまた可能性だと言う。

収容されていた人は痛みが強すぎる分、周りや全体像が見えなくなることが多いという。その部分は、実は戦争を体験していない人たちの方が、冷静に客観的に物事を捉えられるし話ができる。それを併せて将来のことを考えていこうとするとき、案外その冷静な説明が受け入れられて、見学者がどんどん増えているそうだ。今、戦争を経験しないものが語ることが期待されているという。

そして生還者たちも、「次の世代に任せられる」という感じになりつつあり、そのことで案内人自身も歴史の継承を次の世代に繋いでいけると自信を持ってきているそうだ。「

生還者もやがていなくなるわけだから、その中で伝えるということは難しく、いつも試行錯誤している」という中谷さん。しかし案内のさなかに「ここを歩いているだけでも一つ。ナチスに協力させられた同胞のユダヤ人が、連行されたユダヤ人に『今からシャワーを浴びてくれ』と伝えている時の心境は何なのか。両サイドにはガス室があって、それをみんな周りで見ている。多くの人たちはここに連れてこられて、もうどうしようもないわけです。そういうことを人が人に対してできるということだけでも・・・」と冷静に語る中谷さんの解説に胸が詰まるのは正直なところだ。答えを出すのではなく、ただ事実を語ることで受け手に様々な理解の可能性を見出していくことに繋がっている。

【共に生きる】

中谷さんの存在も、日本人としての案内人が一人博物館にいるだけで、活性化に繋がっているそうだ。ポーランド人ばかりが案内するよりも、その中にぽつんぽつんと異なる存在が入っていくことが刺激となって見方が変わるという。見方が多方向になっていくことで可能性が広がり、アウシュヴィッツの歴史の見方もまた広がっていくのだそうだ。日本人は様々なものを分けて考えたり、階層を作って決めつけるのが好きだ。アウシュヴィッツの最大のテーマは、ユダヤ人や社会的弱者や少数者を排除していったことだ。水俣病事件もまたマイノリティな人間たち、漁民や移住者に対する差別から始まっている。アウシュヴィッツ国立博物館には現在、加害国ドイツの案内人もいるという。中谷さんからは、ヨーロッパ諸国で障害者や外国人の力を決めつけ、特定の仕事しか与えないことが、コミュニティー=市民社会の力や可能性を弱めてきたと教えられた。異なる者同士が認め合い共に生きることが利に繋がるという実践が、なされているように思えた。

【語る条件】

中谷さんからアウシュヴィッツのあるオシフィエンチムの市民が、いまだにその悲劇を語れない状況にあると聞いた。

一つの原因は、大きな虐殺の行為についてポーランド人自体も多く被害にあっていることだそうだ。彼らは被害者同士でどちらがよりひどい被害にあったかを競い合うという。自分の経験を知ってほしくてユダヤ人の被害を素直に受け入れられない。水俣でも、水銀の影響による具体的な身体への被害、差別偏見などによる外部者からの被害に加え、患者を含む市民同士が傷つけ合った対立の歴史がある。中には今も続いていることもあり、そういった意味で、水俣で「水俣病」の話はタブーだ。

もう一つは、「あなたが悪い」と言われれば語るチャンスはあるが、戦争責任を問われる国とは違って、市民に対しては誰もそうは言ってこなかった。語る条件が整わないため、語ることができなかったのだという。アウシュヴィッツで言えば、市民も被害者であり同時に加害者であった。今も語れないという構図と、「水俣病」の今が重なって見えた。しかし今ポーランドでは、戦争責任がある程度程度片付き、次には市民がそのとき何をしていたのか、市民全体の責任について調べているそうだ。これだけ被害にあっていながら、侵略され、戦争に勝った国なはずなのに、ポーランドの中で占領したドイツに協力した人がいる、ユダヤ人を排除するのに加担した市民がいるということが社会的なテーマになっている。「あなたはあの時何をしたのか?」と問われた時、「ユダヤ人をドイツ人に突き出した」「異端者を告発した」と答える。問われ語り始めたとき、市民は初めて戦争と向き合うことになるのではないだろうか。そしてようやく、戦争は終わりに向けて歩き始めるのかもしれない。白か黒かをはっきりさせるのではなく、グレーゾーンに注目する。そして問う。実はそのグレーゾーンが社会を作っているのだから。

二〇〇四年の関西訴訟判決以降、不知火海周辺地域出身者の中から「自ら」水俣病であることを受け入れた人たちが現れ始めた。その数は、現在六万五千人にものぼっている。二〇〇八年、相思社に入社以来患者担当となったおかげでそういった人たちとの出会いに多く恵まれた。そこで知ったのは、今なお自分の被害や水俣病を表に出せずにいる人たちの存在だ。語れない、その理由はなんだろうか。

彼らの中には、これまで患者を差別してきた側の人たちがいる。私は、当時不知火海周辺に住んで魚を多食した人たちは、多かれ少なかれ症状があり、皆水俣病に罹患していると考えている。だからやってきた人たちに「あなたは水俣病ですよ」と話す。彼らはたじろいたり焦ったり否定したり諦めたり認めたり様々な反応を見せるが、そこから初めて語りが始まる。語り始め、自分の抱いている罪について初めて気がついた時、そこから水俣病を二度と起こさないことへ近づいていけるのではないかと思っている。

だから、アウシュヴィッツの「あなたが悪い」というのと、水俣の「あなたは水俣病」というのは何か、同じ意味を持つように思うのだ。

【反省の仕方】

アウシュヴィッツでは多くのユダヤ人が犠牲になったが、同じく多いのがロマ(蔑称ジプシー)の人たちだ。ロマは言葉がアイデンティティだ。かつて、地元の人から言葉を強要されるため、民族を失ってしまうので馬車で移動した。フラメンコを踊り皿を売りながら生活をする。今でも彼らは偏見の眼差しで見つめられ「犯罪をおかす」、「治安を悪くしている」と言われている。その彼らがヨーロッパでうまく生きて行けるにはどうしたらいいか、それを考えることがこの歴史の反省だと言う。戦後ヨーロッパは、少数派の擁護を念頭に入れて学問も技術も民主的社会のシステムを変えるという風に考えを大きく変えた。極端に言うと、少数派の幸福度が社会全体の幸福度だという考え方に入れ替わったのだ。

そして欧州連合に入ると連帯責任ということで死刑制度は廃止しなければならない。ヨーロッパの人たちが死刑撤廃を求めるのは、人道的な思いや宗教上の理由ではなく、死刑制度があったら民主主義社会が成り立たないからだ。責任をある一箇所に押し付けるということはしない。つまり犯罪そのものが社会全体の責任ということだ。それがこの歴史を背負わされたヨーロッパの姿であり、反省の仕方だった。

【謝られた気がしない】

アウシュヴィッツ国立博物館を歩いていて、若者が多いことに驚いた。中谷さんによると、訪れる人たちの約七〇%が、一五~二四歳だという。その理由はEU連合加入のため、協働していくために互いの戦争責任を明らかにしていくことが求められるからだという。

この被害を認めなければ前に進めない。関心を持たざるを得ない状況になっているために、これだけ若者の見学者が多いのだという。中でも多いのはドイツ人の見学者だそうで、私が訪ねた時も、彼らは団体で訪れていた。一方でユダヤ人の団体が収容所の建物の一角で聖書を朗読している姿もよく見られるという。

加害国ドイツの国民が、過去に犯した罪に正面から向き合うのは辛いことかもしれない。ヒットラーやナチス協力者だけのせいにして、今の自分とは関係ないことだと考えた方がずっと楽なはずだ。しかし、それを我が事として捉えていくことで、この悲劇を繰り返さないこと、協働して新たな未来を作っていくことに繋いでいるのだ。例えばチッソと患者は、そういった関係が築けているだろうか。または市民と患者では、被害者同士では、支援者同士では…

そんな話を聞いていて、「チッソには何度謝ってもらっても謝られた気がしない」という患者の発言を思い出した。ドイツが犯した罪に関しては無数にある。しかしドイツでは国家に関する責任を追求し続けている。ポーランドと協働で歴史の教科書を作っている。アウシュヴィッツ国立博物館に多くのドイツ人が学びに来る。今、その姿勢によって、ドイツに対する怒りや極端な偏見が解けつつあるという。

チッソにもぜひ、ドイツのような反省をしてもらいたいと思う。水俣病から何を学ぶのかによって、その問題も解消されていくのではないだろうか。語れる条件を、企業や国をあげて作っていく。事実を問い、向き合うことで二度とこの事実が繰り返されない下地づくりをするのだ。

【おわり】

娘は今年、小学校を卒業した。卒業文集に「どうすれば自分の明日を考えるように、世界の平和を考えられるのか考えています。でも答えは出ません。考え続けます。」と綴られていた。「よし」、してやったり。「旅の目的の半分が終了した」。

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