資料整備 相思社の存在理由として

二〇〇二年度中に「水俣病関連資料データベース」が国立水俣病総合研究センターから発信、公開される予定になっている。予定通りに進めばこの「ごんずい」が届くころにはインターネットを通じて相思社資料の検索ができるはずだ。

相思社には水俣病関連資料が一〇万点、それとは別に新聞記事資料が一〇万点以上ある。その他にも写真が数万点、ビデオも四〇〇点くらいある。質・量とも水俣病関連資料に関しては日本一(=世界一)と自負している。 毎年何人もの研究者や支援者が相思社の資料室を訪れている。自分の研究や運動に必要な資料をさがすためだ。相思社にしかない貴重な資料も多いし、数がまとまっているので便利でもあるからだ。

一九九五年以前は資料室を訪れる人は限られていた。「水俣病の歴史は対立の歴史」と言われてきた。対立の中では手の内を見せたくない。「患者側」の人しか相思社の資料室は利用できなかった。「客観的に水俣病を研究する」ということは許されなかった時代でもあった。そのことが研究を妨げる一因となってきた。

一九九五年の政府解決策で未認定患者の補償問題に一つの区切りがついた。しかし、この解決策には大きな不安があった。「この解決策で患者の名誉の回復できるのか。患者が地域で普通に生きていけるようになるだろうか、患者であることを隠さないで暮らせるようになるだろうか」ということだった。「患者の名誉を回復するためには未解明な部分を明らかにしなければならない。水俣病研究の質を高める必要がある。そのためには研究者の底辺を広げる必要がある。相思社にはたくさんの資料がある。これを使わない手はない。相思社の資料をたくさんの人が活用できるようになれば、間接的に患者の手助けとなる。相思社にある資料だけではなく、行政や全国連の持っている資料も公開できるようにならないだろうか」と考えるようになった。それには国・熊本県・水俣市・全国連も巻き込まなければならない。

一九九六年に「国立水俣病研究センター(国水研)」に社会科学室と国際情報室が設置され、「国立水俣病総合研究センター」となった。国水研が改組されたばかりのころ、初代の社会科学室長と国際情報室長が相思社を訪れた。私は「資料収集・整備と患者関係者からの聞き取りを最優先にすべきだ。相思社も協力する」と伝えた。

九七年度から「水俣病関連資料データベース作成事業」が始まった。データベースの形式は相思社と国水研とで話し合って決めた。その後相思社・国水研だけでなく、水俣病研究会・熊本県・水俣市立水俣病資料館・水俣病被害者の会も資料のデータベース化に取り組むようになったが、データの形式はほぼ統一されている。そのベースは相思社が提供したものだった。

実は、相思社の資料データベース化への取り組みは一九九一年度から始まっている。以来わずかずつではあるが試行錯誤を重ねながらデータと経験を蓄積してきていた。当時はパソコンの数も少なく、能力が低いこともあって思うようには進まなかった。それでも九六年度末までには八千点くらいの入力がすんでいた。

九七年度から本格的に取り組み始めたが、実用的に使えるようになったのは九九年度くらいからだった。今ではlanによって相思社内のすべてのパソコンからも資料の検索ができるようになっている。

九一年に試行的にデータベース作りを始めて一二年、本格的に取り組みはじめた九七年からでも六年間、ようやくがデータベースが公開されるようになった。 資料整備は時間のかかる、気の遠くなるような作業だが、毎年着実に事業は進んでいる。資料や新聞記事をリンクさせて検索ができるように詳細な年表を作ることも考えている。一九九七年から試行的に作業を開始し、二〇〇三年度から本格的に開始する計画を立てている。

新聞記事の整理とデータベース化は二〇〇五年度か〇六年度には区切りをつけたいと思っている。そのときには八万点程度の「水俣病関連新聞記事見出しデータベース」が完成しているはずだ。

いや、完成ではない。それ以降も毎年成長を続けるはずだ。 まだ手をつけていない仕事、これから充実させなければならない仕事もある。写真の整理もこれからの作業だ。患者聞き取りや出版事業も始まったばかりだ。音声資料を目に見える形にしたい。やりたいこと、しなければならないことは山ほどある。

相思社がある限り、水俣病に終わりがない限り、資料の仕事は終わらない。