救済措置で見えてきたことの百分の一(2)

相思社職員 永野三智

相思社では設立以来、患者相談窓口を設けています。現在は「自分は水俣病ではないか」という人たちの相談に応じ、身体症状の緩和などに関する相談や、補償申請の相談に応じています。特に広報は行っておらず口コミだけなのに、電話が毎日三十件以上かかってきます。

電話の他には、予約制で面接を行う「相談会」を週に二回程度のペースで開いています。相思社の立地条件は悪いのですが、差別偏見などの周りの目を気にして人目を避けたい相談者にはこの立地が逆にいいらしく、この七年で六千人近くの多種多様な相談者を受け入れてきました。

水俣病の症状を持つ相談者の年齢層は様々で、二十代から九十代に渡ります。
救済措置の対象期間は昭和二八~四三年までの間一年間以上水俣近辺に住んでいた方、及び、四四年一一月三〇日生まれまでの方。ですから、二十代や三十代の人達が補償の対象になる確率は非常に低いのです。チッソが廃水の垂れ流し始めたのは一九三二年、終えたのは一九六八年、水銀ヘドロ処理工事の終了は一九九〇年。感受性が特別高い胎児が水銀の影響を受ける可能性は否定できません。しかし、こういった若い世代の水俣病は行政の補償基準ではほとんど認められません。

出身地も、沿岸地域だけではなく、山間部まで拡がりを見せています。中には水俣や芦北の行商から魚を買っていたという、対象地域外である人吉や伊佐からも被害を訴える人たちがやってきます。また、被害者は就職や結婚などで日本各地、果ては海外にまで拡がっています。

相談会では、まず、参加者全員に向けて水俣病事件の歴史を説明します。そして、水銀が体に与える影響や症状の改善方法の例なども詳しくお伝えします。最後に差別偏見の話などをします。

そこで心がけていることが二つあります。一つは、「ここにいらっしゃる、みなさん全員が水俣病です」とはっきり言うことです。水俣周辺では、「水俣病」と名前が付くだけで目をそらす、耳をふさぐというような「水俣病アレルギー」が未だに存在していますので、一瞬みなさん引いてしまいます。しかし、一定期間水俣周辺地域に住んでいて魚を食べた人は、症状の重い軽いはあっても水俣病の症状が出る可能性は十分あります。そして水俣病公式確認後十二年もの間チッソは原因が分かりつつも水銀を流し続け、その間、不知火海周辺に住む五十万の住民に危険は知らされず、漁獲や販売は続きました。その間に生まれた子どもたちの多くは今、胎児性・小児性の症状を持っているのです。
「棚からぼたもち」の感覚で「何となく」補償を手にしてほしくはないのです。「何となく」水俣病になったわけではなく、させられたのです。水俣病事件について少しでも知って、自分の体に何が起こったのかを知ってほしいのです。

そしてもう一つ、最近では相談者の人たちに対して「どうして今まで水俣病の相談に来なかったのですか」と聞くようにしています。私は水俣出身です。市外に出て出身を言うときにいやな思いをすることが多く、相思社に入る頃までは出身地を隠していました。だから「なぜ申請しなかったのか」という問いは、過去の自分に向けているような気がして、相談者を責めているような気持ちになっていました。気まずそうに質問をすると、相手も気まずそうに答えます。しかし、相談会を続け、話を深めるうちにそれではいけないと思うようになりました。隠すとそれは「隠すこと」になっていくし、余計に差別や偏見を助長するのです。

そのようにして分かってきた「申請しなかった理由」は大きく四種類。「差別偏見が怖かった」「申請の仕方がわからなかった」「自分の症状が水俣病だと思わなかった」「本人または親族がチッソ関連の仕事をしている」ということでした。

差別偏見が怖いと思っているのは、主に水俣や芦北、出水の海岸部周辺の人たちです。特に認定患者の関係者や、逆にかつてその人たちを差別した立場の人たちに多く見られます。

また、差別した側の人や山間部出身の人たちは、今だに「水俣病はうつる」、水俣病は「腐った魚を食べた人がなる病気」「貧しい人がなる病気」だと思っているひとがいることがわかりびっくりします。推測ですが、原因究明期、激動の時代に子どもだった人たちは、正確な情報を得ることなく大人になり、今もその知識のままに生活をしているのではないでしょうか。

また、県外や山間部の人たちは、情報が少なく、症状と水俣病が結びつかない、とか、申請の仕方を知らないということが多いです。

相談会に来られた方々の声

<身体への影響>
水俣病の症状は多種多様ですので、たいてい原因不明という診断を受けます。別の病気と勘違いされやすく、治らないという事実を前に精神的な病いを併発する人も少なくありません。加齢と共に症状が重くなる人も多くいます。

水俣に住む元調理師の昭和二十年代生まれの女性は、最近になり味やにおいが分からなくなって退職しました。

同様の症状で、味の調節ができず、塩分や糖分を摂り過ぎて二次障害を起こす方もいます。

水俣に住む昭和四十年代生まれの男性は、耳鳴りがひどく毎日夜中に始まるため不眠を訴えていました。どこの病院へ行っても治らず、長いあいだ眠れないでいることで精神をやられています。

福岡に住む元トラック運転手の二十年代生まれの男性も、四十代の頃から耳鳴りが続くようになり、五十代に入ってから耳が聞こえなくなり、運転の仕事を辞めました。若い頃から耳が聞こえないことが恥ずかしくて人の話を聞き返すことができず、空返事をしてしまう自分が嫌だと涙を流されました。

昭和三十年代前半水俣生まれの女性は幼い頃から慢性的に疲れやすく、頭痛やしびれ、肩凝りや足がつる、よくつまずくなどの症状が日常的にあり、年々ひどくなっていったそうです。病院に行っても、異常が見つからず、「原因がわからない」「気のせい」などと言われ、家族からも怠けているとなじられ、うつを患いました。

めまいの薬を日常的に服用する水俣市出身の昭和二十年代生まれの男性は、中学生の頃から朝礼でよく倒れるなどの症状があったそうです。

昭和四十年代後半の芦北町海岸部出身の男性は幼い頃から慢性的に疲れやすく、頭痛や耳鳴りなどを訴えますが、病院へ行っても原因は分かりません。親御さんが手帳を取得しておられますので、自分も水俣病ではなかろうかと来られましたが、補償の対象にはなりませんでした。

津奈木町出身の二十年代終わりの生まれの女性は、手が震えることで嫌な思いをしてきたそうです。人前で字を書けない、書いた時に馬鹿にされる。同級生に震えを持った人が結構いる、震えを馬鹿にされて自殺した人もいると話していました。

就職や結婚によって四日市や淀川に移住した人、ぜんそくと水俣病症状の、二重の公害病を患う水俣出身者もいます。

<偏見・差別>
昭和二十年代生まれの男性は、親は認定患者ですが、自身がチッソで働いていたため申請しませんでした。チッソは紛争防止のための懐柔策として、認定患者の家族に職を斡旋していたことがあります。その場合、家族はなかなか申請をすることができません。
水俣市出身の四十年代生まれの女性は一八才のとき関西の、とある生協に就職しました。水俣市出身ということでお客からお釣りを受け取ってもらえないという経験をし、「もうここにはいられない」と親に頼んで「ソフ・キトク」の電報を打ってもらって帰ってきました。
京都に住む水俣出身の二〇年代生まれの女性は十代の頃、職場に水俣の銘菓「恋路」をお土産に持って行ったら、同僚から「これを食べたら水俣病になる」と言われ、食べてもらえなかった、と涙を流しながら話しました。

水俣市山間部出身の昭和二十年代生まれの男性は、就職で関西に移り住みました。結婚の際に「水俣出身」と言うと、相手の家族から身元調査をされました。
関西に移り住んだ昭和二十年代生まれの認定患者の家族の男性は、水俣病が遺伝すると信じて、子どもを作らなかったと言います。

関東に移り住んだ昭和三十年代前半生まれの女性は「水俣出身者は症状がなくても、それだけで補償の対象になりますよ、自分の出身地を言えないというのはそれだけで苦痛です。精神的な被害は随分受けてきましたよ。」と言います。

県外に出た人は、自分の出身を隠してしまうことで医者は水俣病と関連付けらません。反対に、水俣出身ということを言って医者から診療拒否をされたという相談もあります。

<若い世代の水俣病>
気がかりなのは胎児性世代の方たちです。症状がありながら何とか社会で生きている人たちが多くいる一方、自宅に引きこもるケースや、身体が弱く働くことができない、とか、軽い障害を持っているというケースも少なくありません。

若い世代の人たちは、母親の胎内もしくは幼少期に水銀の影響を受けますから、生まれながらにして症状を持っています。しかし、成人して影響を受けた人たちに比べると、比較する対象がありませんので「自覚症状」が分かりにくいのです。ですが、相談会でお話しを聞いていくと、「あれもある、これもある」ということになります。

今は自覚症状のない若い被害者が、数年後に症状に苦しむ可能性があるのです。これからも保健手帳のような窓口を恒久的に開け続けることが必要です。

<水俣の現状>
私がかつて働いていた水俣で最も大きい病院では、職員の間で、水俣病患者のことを「水俣の恥、患者が騒ぐと見苦しい、私たちまでそうだと思われる、患者が騒ぐとチッソが潰れる」という会話が交わされていました。

合コンでは女子の人気のトップは一生安泰のチッソマン。私の娘の通う学校のPTAの中では「子どもをチッソに入れる方法」の情報交換が行われる。市内の大きな看板には「チッソと水俣は運命共同体」と書かれている。そんな状況の中で水俣病患者は今も生きています。

相思社はもともと、「水俣病患者」という社会的少数者の拠り所として作られました。今後もその根本精神を崩さず、拠り所+患者の方のエンパワーメントに繋がる活動を続けていきたいと思います。また、患者が自らの身体を理解し症状と向き合えるような講座(古くはたけのこ塾)も開催したいと計画中です。現在の相思社は患者の通り道にすぎませんが、核となっていく活動を展開していきます。

そして、差別や偏見の解消とともに、この水俣で、一人でも二人でも「私は水俣病患者の味方です」と言える人たちを増やしていきたいと思います。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です