ごんずい座談会「水俣病を伝える」 

日時;2012年12月18日
場所;相思社
参加者;安藤聡彦・吉永理巳子・永野三智・遠藤邦夫

【イントロ】
遠藤 相思社にとって「水俣病を伝える」ということが、最大の課題でかつ悩みです。最近思うことは、水俣病を学ぶ知るということが疑問に思えて来て、それを伝えて何になるのか? Webや書籍に書いてあるじゃないか。考証館作った目的も、水俣病の資料を集めるのも、全部が伝えるためだけど、考えてみるとよく分からなくなるんです。みなさんの悩みを聞いて、そこに画期的な解決法があるとラッキーだと思ってるんです。
吉永 悩み相談室みたい。
遠藤 いや、解答を誰かが用意してくれているとは、さすがにそこまで思ってはいません。あくまで自分で悩んで、自分で答えをだすというのが基本です(笑)。
永野 じゃあいきなり私からいいですか。昨日、熊本県の啓発事業で、県内の高校に水俣病を伝えに行きました。面と向かって話をしているときはいいんですが、パワーポイントを使うと途端に気持ちがこもらないんですね。解説になってしまう。おまけに操作も苦手(笑)。
安藤 だって聞いているほうも画面ばかり見ちゃうんだよね。
永野 使っておいてこんな矛盾はないんだけど、「私の目を見て!」 って思う(笑)。
吉永 語り部もそうなんですよ。話しながら自分の中に入っていく、考えを整理し深めていくんです。それをパワーポイントに合わせると、頭がそっちに移ってしまうんですよね。「伝える」って、「この場は上手く伝わったな」っていう雰囲気がありますよね。だから次も同じ組み立て方で、話をすればいいかなと思って話すでしょう。そしたらぜんぜん反応が違うんです。聞く人と話す人の微妙な場の雰囲気が伝わるっていうかな。

【自己紹介】
遠藤 まずは吉永さんから自己紹介お願いします。
吉永 一九五一年水俣市明神の自宅で生まれました。吉永理己子です。母は生むその日まで畑で働いてました。小麦の穂をたたいて落とす「麦しの」時期、ちょうど六月ですね。昔は働きながら自宅で産むのが当たり前でした。
遠藤 代々水俣ですか?
吉永 もともとは前の代から女島で網元をしてたんですよ。昭和の始めぐらいにじいちゃんが明神を目指して出てきたわけです。
遠藤 お父さんとお母さんの馴れ初めはどうだったんでしか?
吉永 母の姉に縁談話が持ち上がって、彼女が「厭だ」って断った。そこで、熊本の校長先生のお宅で奉公してた母のところに、父方の伯母と舅が来て、その日にもう連れて帰って・・。
そして、結婚の運びになったそうですよ。それが母が一八歳で父が二七歳の時です。
安藤 すごいな。その話を今度、学生にしてやってくださいよ。良い聞き手になると思う、あいつら(笑)。
吉永 翌年に兄が生まれて、まだ戦争中だったですよね、明神の家の下に防空壕があるんですよ。あそこに赤ちゃん連れて逃げたら、「泣かすんな泣かすんな」と言ってじいちゃんに怒られたって母から聞きました。そして私たち姉妹が三人生まれました。
遠藤 なんで理巳子って名前なんですか?
吉永 実は「理巳子」の「巳」が謎なんですよ。役所に届けを出しに行ったら「み」を変えるように言われて今の漢字になったらしい。憶測だけど、本当は「理己子」と書いて「りみこ」と読ませたかったのでは。父が考えた子供の名前にそれぞれ、意味があるのではと思うんですよね。私は長い間、蛇の巳っていうのは好きじゃなかったので。「己」っていう字を勝手に書いてたんです。
遠藤 え 勝手に変えてたんですか?
吉永 父がまだ結婚する前に読んでいた「大トルストイ全集」という本が残っています。その本を見ると「自己」「真理」「理性」こういった文字が目立つから、意味があって付けた名前かなと思っています。己、これは巳とは読まないんですよね。だから父はもしかしたらこっちを付けたかったんじゃないかなと思っています。ぴしっとして、自分を制して物事を見極めるようにってね。
私が三歳の時に水俣病に発病した父が五歳の時に亡くなって、私の根底にずっと「水俣病」へのわだかまりがあって、誰にも水俣病の家族のことを話せなかったんです。四〇年間の沈黙があって、ようやく自分を見つめ始めた。『水俣の啓示』(筑摩書房 色川大吉編)という水俣病の一冊の本が、水俣病との新たな出会いだったんですよ。それを読んで、今までなかった水俣病に対しての怒りが、沸々と芽生え始めたんです。父たちがなぜ死ななければならなかったか、理不尽だって思いを抑えきれなくなったんですよね。だから、犠牲を強いられ亡くなった人たちの思いが、私の中にあります。自分で最初から紐解いて伝えたいから、被害者の気持ちや水俣病の歴史、その時になにが起きたのかをきちんと見極めたいと今思ってます。
遠藤 次、永野さん。
永野 一九八三年、水俣市袋の出月という小さい集落に生まれました。
吉永 わー、だいぶ違うね五一年生まれとは。
永野 ですね。周りには水俣病患者の人たちがいて、私の家にも来ていました。でもね、同じ年の子たちからはそれを馬鹿にされていたんです。私、子どもの頃に水俣病の人を泣かせたことがあるんです。学校帰りに胎児性の人とすれ違った時に、友だちが真似を始めた時に私も一緒に真似をして、その人は泣いて崩れました。それがずっと心にあって今も鮮明に覚えてます。何年かたったら今度は私の番でした。夏休みに市外の学校で「水俣から来た」と言ったら、みんながザーっと遠のいて、別の場所でもうつると言われ。中学生になってから「水俣病がうつる」と言われて、やっと「水俣病か!」って・・・。
遠藤 問題の所在は解決したわけね(笑)。
永野 はい(笑)、でもそこから出身地が言えなくなりましたね。「患者がいるから私がこんな目にあう」と思いつつ、そういう自分に葛藤していました。
安藤 九七,八年の話でしょ?
永野 えっ何でそんなこと知っているんですか、油断ならないなあ。一六歳で実家を出て熊本市に住みました。それからは、出身を聞かれたら「芦北のほうです」とか意気揚々と言ってね(笑)。その後結婚して出産をしました。水俣に帰って来いと言われたけど、子どもを水俣出身にしたくなかったので帰りませんでした。二十歳を過ぎた頃にある人が、熊本地裁で水俣病の裁判をやってることを知りました。今日でちょうど提訴から一一年ですが、原告の溝口秋生先生は私の書の先生です。先生は私が生まれるずっと前から、認定申請中に未検診のまま亡くなったお母さんのことや、胎児性の息子さんのことで悩んでいたんです。その先生を前にして、自分の患者への眼差しが恥ずかしくて申し訳なくて・・・。
ただね、その裁判で救われたところもあったんですよ。水俣病事件を知ることで「患者が悪いわけじゃない」「水俣を隠すのは私だけの問題じゃない」って改めて考えました。その後離婚して、娘と二人で数年間国内外を放浪しました。最初は障害者の作業所から始まって、人権や環境への意識の高い人たちにお世話になりました。そこで水俣の良いとこを教えてもらったり、この相思社もその頃知りました。この頃には沢山の人に迷惑をかけたけど、この二つのことが自分の出身の誇りを取り戻す作業になったように思います。
吉永 すごいじゃない。迷惑かけられるのがすごい。
永野 相思社で患者やお客さんの受け入れをするようになって、それって大事なことだと思うんです。私、ここを患者や悩んだり迷ったりする若者の拠り所にしたいんです。安心して迷惑をかけあえて、悶え加勢する場所。遠藤さんはトラブル嫌いなので今は無理ですが(笑)。
遠藤 いや、そんなことはないよ(一同笑い)。
永野 溝口先生の支援がしたいと思って入ったけど、旅先で相思社設立の趣意書を読んだ時から、相思社に理想を抱いていました。患者の拠り所であり、生きづらさを抱えた人たちが活き活きと生きてるって思ったんです。でも、入ったら理想とちょっと違ったんですけどね(一同笑い)。
遠藤 永野は入ってきていきなり「相思社は間違ってます!」って言ってさ、なんだこいつと思ったよ。「じゃあ辞めろ!」と弘津に言われても、「辞めません!」ってきっぱり応えていたよね(笑)。その時、意志だけは見上げたもんだとは思ったよ。
永野 私にとって相思社は希望の場所ですから。ここでなら夢が実現できると今も思っているし、一生をかけてやるつもりでいます。
遠藤 次は安藤さんいいですか。
安藤 一九五九年生まれ。生まれも育ちも関東です。水俣に初めてきたのはもう二〇〇〇年代に入ってから、ずっと遅れて来た人間なんです。でも水俣病のことは絶えずメディアにも流れてもいたんですが。父はサラリーマンで、生まれたのは神奈川県藤沢市の住宅地ですが、小学校の二年間静岡市に住んだことがあります。富士市を通るとすごい煙でさらにものすごい匂い、海は重油やヘドロだらけでね。「公害」っていうのがあるんだ、っていうのが子供の頃に焼き付いた。
遠藤 流し放題だったからね、あの頃はね。
安藤 公害が同時代史でした。一九七八年に大学に入ったんですが、社会運動が形を変えていく中で、その最後の余燼の中にいました。入学直前の三月に、成田空港の管制塔破壊事件があったんです。大学に入って社会的なことに関わりたいと思って、選んだのは重度障害者のボランティアでした。でも入ったら、三里塚闘争の支援団体のダミーサークルだったんだよな(一同笑い)。
障害者の解放運動の支援をしながら、同時に三里塚にいこうって話でした。その時に「支援運動」っていうことに違和感を持ったんです。障害者本人とあんまり話ができない、出会えない。もっと付き合いたいと思って、同世代の障害者の中に入りました。大学院の時まではまって、五,六年やったのかな。一年間は、まったく大学行かないでずっといりびたっていました。それで一緒に風呂に入り、トイレに行ったらおしりをふきといったことを続けて、ようやく障害者の人と出会えるみたいな感じを持ちました。自分は「支援」よりも「出会い」を求めていたんだと思います。だから今の学生たちって、自分の延長線上にいるなという感じを持っています。それで大学に戻って勉強するようになったら、自分の恩師が公害の教育をやっていた人だったんですよね。
吉永 なんていう人?
安藤 藤岡貞彦っていう人なんですけど。教育学の世界では公害問題みたいな地域問題を研究の対象にする人はあまりいないし、極めてポリティカルな問題を避ける人が大多数。けど、うちの先生は日本の教育の根本的な転換の方向性を公害教育が示していると考えて、六〇年代の末ぐらいから追っかけてました。日教組の教研運動にも関わっていて、一九七一年の一月に作られた「公害と教育」という分科会の世話人なんかもやっていた。その最初の集まりのときに、水俣の教組の人たちが浜元二徳さんを連れてきて、浜元さんが「先生方遅すぎます、今頃こんな分科会つくって!」って問いかける場面もあったと記録されています。
僕自身は学部の四年生くらいから、熊本の田中裕一さんという中学校の先生にいろいろ教えていただいていました。彼は一九六二年ぐらいに、鶴屋デパートで桑原史成さんの写真展をやっています。すごく早いですよね。田中さんが日本で最初に水俣病のことを授業で取り上げて、大騒ぎになったのが公害認定直後の一九六八年の一一月でした。六二年から六八年までの間に、保護者や子どもたちと一緒に何度も何度も患者さんの家を回って、坂本しのぶさんの所にも行っていたそうです。そんな先生にあれこれ学んでくるなかで、公害教育のことをきちんとやらなきゃいけないなって考えるようになって、二〇〇三年に田中さんが亡くなられたのをきっかけとして、自分が大学にいるんだったら学生たちと水俣のことを考えたいって思って、二〇〇五年にこちらにこさせていただいたのが、合宿としては最初でした。

永野 次は遠藤さん。
遠藤 一九四九年岡山県鴨方町まつばさ生まれ。家は田舎でね、山の沢水を竹の筒で引いて繋げて風呂にも入れていました。途中は外せるようになっていて風呂に水を入れるときはがしゃっと嵌め、普通は池に落ちてる。それをガシャッといれ、風呂のとこにも入れ、そうすると山水が風呂へくるわけよ。これが嫌でさ。水道がないわけだよね。当たり前だけど。もう超田舎くさい。
永野 そうですか、私は超素敵だと思うけどね。
遠藤 いや、あとから聞いて泣けたのは、おふくろが結婚して来た時に風呂に水を入れるのは、坂の下の井戸から水を運んでたわけね。すごく大変で、嫁さんにそんなことさせられんって言うんで、じいさんが作ったんだよ。
安藤 素晴らしいね。
遠藤 で、水俣に来た理由は簡単で、とある理由で住む場所も仕事もなくなったからです。秋だったから暖かい南がいいかなと思って水俣に来たんです。でも俺なんか水俣病の門前の小僧みたいなもんだけど、何十年もいるとやむなく入ってくる知識もあるけど水俣病の知識は多くないと思いますね。

【マニュアル】
安藤 「伝える」って言っても、相思社の仕組みをちゃんと言ってもらわないとよく分からない。相思社では統一したマニュアルみたいなのを作っているの?
遠藤 ここは先に言っとかなきゃいけなかったね。
永野 相思社はまったくマニュアルがありません。わたしも先輩の案内に二回ぐらい連れて行ってもらったことがあるくらいですかね。
安藤 すごいやり方ですね、それ。
永野 放り出されて勉強ですよね。伝えられるものって考えた時、まずはできることは自分のことくらいですよね。自分が経験して見てきたことしかない。私が伝えたいのは患者の苦しみや理不尽な水俣病の背景、じゃあどうしてこんな風になっちゃたのよってところから歴史を引っ張ってきて、そこで本や映像も利用する。
遠藤 何年か前にいた職員から「自分が見てないものは伝えられない」って言われて、答えられなくて困ったんだよね。今だったら「そんなものは伝えるな。自分の見聞きして、経験したり関心を持ったものだけ伝えればいいじゃん」って答えられる。どっかで経験主義とはイコールとは思わないけどね。
吉永 自分を一度通して出てきたものじゃないと、聞いた人には入っていかない。
安藤 僕、そういう語り手自身の関心や経験に根ざした話ってすごく大事だと思っています。よくあるのはマニュアルを作って、誰もが同じようなこと話しましょうというやり方。でも相思社はそうじゃない。
遠藤 教えるの面倒くさいもんね(笑)。
永野 それが本音でしょう。
遠藤 うちは案内するとき好き勝手にやってんだけど、やったことを朝ミーティングで報告するから、誰が何やってんのか、どんな質問が来たのか共有できるんです。それに対してみんなでコメントするから、決して一人でやって一人で終わってるわけじゃないよね。だから、マニュアルにまとめようという発想は一回もしてこなかった。それはきっと面白くないだろうなって思ってたんでしょうね。
永野 最初の頃は本当にマニュアルが欲しかった。正解が欲しかった。だって不安でしょ? だんだんと、自分が経験したこと感じることがまずあって、そこから水俣病を語るようになってきた。正解なんてないんだとだんだん分かってきた。今は相手がモヤモヤしたら成功、正解と思ってる(笑)。最近ね、他の団体のマニュアルをもらって読んだら、こんなの本読めばわかることじゃん、色がないってガッカリしました。こんなもんが欲しかったのか私は、って。
遠藤 それは持ってなかったからだよ。「伝えるって何」は常に相思社のテーマで、何を伝えるかは決まってもないし分かってもない。分かっていたらマニュアル作ると思うんだよね。でも作った途端に、永野の案内もなければ遠藤の案内もないわけだよ。マニュアルが間にあると、もう出会いなんか課題にはならない。
安藤 学生の反応のしどころはそこですよね。彼らはよく「自分は伝えられてない」という言い方をする。水俣病だけじゃなく、あらゆることが「自分たちは教わってはいるんだけど、伝えられてはいない」と言う。「教える」というのは、何がどうなっているのかということを客観的に提示すること。学ぶ側にしてみると、それは多くの場合、自分自身の生活の文脈と直接クロスしないから、試験が終わってしまえば「自分の人生には関係ない」となってしまいがちなんです。だけど、「伝える」っていうのは、「何がどうなっているのか」ということも含め、話すことの全体に語り手の感情や価値観が塗り込められている。学生たちはたくさんの学校知識は獲得してきたのだけれど、多くの場合自分の人生にも自分自身にも自信が持てず、揺らいでいる。そこに水俣の皆さんの、体の奥底から出てくるような言葉が投げかけられると、それはもうノックダウンですよ。何よりも一人の人間としてそうやって語りかけられること、伝えられること自身がとても嬉しい、という感覚じゃないかな。
吉永 学生はそうですよね。「あんたはそれでどうなの」っていうのを付けると、伝えてもらおうと思って喜ぶんですよ、
永野 私もその手は案内でよく使います。受け身な人には「他人事じゃない」って思ってもらいたい。
吉永 自分につきつけられて初めて、「おっと」と思って「聞こうかな」という姿勢になっていくのよね。
永野 一体感も生まれるしね。そして、講演に行って感じるのが水俣の場所の力です。現場にはあるんだなって。漁村や埋立地の持つ力が言葉に凄みを持たせてくれるような気がします。
安藤 なるほど。体育館で話をするとはやっぱり違う?
吉永 そうですよ。場所の持ってる力っていうのはやっぱりありますよ。
遠藤 明神で吉永家に行くとですね、仏壇もあってお母さんがお茶入れてくれて、「この漬物食べて」と言われたら、人はそこに自然に溶けこんでしまいます。人を騙すには格好の手口ですよね。話す人と聞く人が一体化する自然な装置になっているんです。
吉永 人を詐欺師みたいに言わないでください(笑い)。人数も大事だと思うのよね。せいぜい一〇人ぐらいかな。お互いの顔が見えて、息遣いが聞こえるようなところで感じながら話す。まあ聞く方もその人の気持ちが汲み取れる。
遠藤 前に杉本栄子さんが語り部の頃に、鼻ピアスやウォークマンしてすごい髪色の高校生が話聞きに来てね。先生が「うちの子どもたちは箸にも棒にもかかりません」と断言されたんです。もうちょっと内輪話をしておくと、その先生が生徒たちからは一番慕われていました。それで語り部室で生徒たちは体を斜めにして、「おばちゃん、まあ話すんなら勝手に話せ」ってそっぽ向いていたんです。でも栄子さんが話しだしたら、その生徒たちの姿勢がだんだん変わってきて、よく見ると涙を流していたんですね。栄子さんは最初から「こいつを泣かす」と思ってやっているんだけど、そういう関係を作ってしまうところがさすがだなと思った瞬間でしたよね。こいつらちゃんと聞く耳持ってんじゃん! って思いました。
永野 違うんだよ。今の若い子たちは、白鳥と同じだと思うよ。外見は美しく泳いでいるように見えるけど、見えない水面下では足をバタバタとさせてもがいているんだよ。孤独だと思う。それが栄子さんには見えたんじゃないの?
遠藤 そうかもね。だからコミュニケーションする力、感応する力を持ってたんだなと思ってね。それぞれ悩んできたし、なんか変わりたいなと思って来たし、なおかつ変わらず後ろ向きになることもあるし、というぐちゃぐちゃ。永野の言葉じゃないけど、希望を持って生きていくというところがすごく大事。俺たちは希望を与えてるのよ! 人に(一同笑い)。
永野 ちょっと自分を見失っていませんか? (一同大笑い)

【世代間ギャップ】
安藤 今、大文字の水俣病だけを語るんじゃなくて、やっぱり「私の水俣病」を語ることが大事になってきていると思うんです。僕がナショナル・トラスト活動にかかわっている狭山丘陵では、一九七〇年代ぐらいから開発反対運動が展開されてきました。今は公益財団法人となり、全国から寄付金をいただいて土地を買い取りながら「トトロの森」を保全しています。そこで僕自身もガイドをやりますが、最初から運動をやってきた世代の人たちの語り方と、自分たち後から参加した世代の語り方は違うんです。例えば、「こういう思いを持ってこの土地を買ったんだ」という話し方は自分にはできないんだよね。それこそある種の引け目じゃないけれども、半当事者、遅れてきた人間はここまでしかできないのかなと思う。だけど、後から生まれてるんだから、できっこないと言えばできっこない。だから彼ら草創期の世代の人がどうやって語っているのかを見よう、そしてそれを記録しておこう、ということを言っています。お手本じゃないけど彼らの語りを踏まえて、自分たちの語り方を作っていくってのが大事じゃないかなと思っています。こういう「語り継ぎ」にかかわる課題は、いま全国どこにでもにあると思うんですね。
遠藤 俺がこのところ感じているのが、運動のタイプが異質になったんだなってこと。俺や弘津なんかが考えてきた運動と、葛西以下の若い人たちが考えるそれが違うような気がしてる。時代背景とか、伝えるだとか、水俣病の受け取り方も違うんだよね。でも自分には分かんねえしこれしかねえから、永野たちは俺たちの言うことを、うかうか「あ、そうなの」と思う必要はない。年食った俺たちのほうが正しいとは思わないし、相思社ってそういう場だから好きにすればいいじゃんって思っている。でもね前に面接に来た人に「相思社ってその時にいる人が作る場だから、あんたの好きなようにしていいよ」と言ったら、受けなくてね。「私こんなところには絶対入りません」と言われちゃったんです。あら、なにが悪かったのかな。俺たちは俺たちの世代の反省をちゃんとしなきゃいけない。団塊の世代が世に与えた害悪の数々を明らかにして、もう一つは、引き継ぎ方だよね。
永野 今まで、良くなかったと思うんだよ。相思社が人を育ててこられなかったっていうのは。
遠藤 なんで、俺が突っ込まれてんの?
安藤 いいじゃない、どんどんやってやって(笑)。
遠藤 悪かったよ、すみません。だってそれまでは、若手はライバルみたいなもんだから、なるべく出る杭は早く潰そうと思ってたんだもん。
永野 でもライバルだと思ってる相手が、実は自分たちの後を継ぐ人たちだったんだよ。自由にしてと言いながら、自分より経験値の低いねずみみたいなものに対して、ライオンがぐわーぐわーって襲ってかかって、それで今まで来ちゃったからね、相思社って(一同大笑い)。
遠藤 ひどい例えだな(笑)。
永野 だから今からでも遅くないから、どんどん育ててくださいよ。もっと遠藤さんたちはもっと大人にならないといけないんですよ。
吉永 そうそう、大人になってください!(笑)

【何のために水俣病を伝える?】
遠藤 「水俣病を伝える」って永野さん、何を求めてやっていますか?
永野 私は複数あります。二度と水俣病を起こさない社会を作る。仲間づくり、水俣病患者へ伝える。
遠藤 どういう仲間なの?
永野 旅を終えて水俣に帰ってきた時に、私と同じように患者に対する偏見の目を持った人に出会ったんです。その時に、「私は水俣病患者の味方です」と公言する人の存在は、必ず患者の力になると思いました。水俣病の失敗の一つに社会的弱者や少数者を除外してきた歴史がある。差別偏見を無くしたい、水俣病患者の味方だって思ってくれる人を増やしたいと思ってやってます。
遠藤 してるでしょう。
永野 うん、そしてそれをもっと外に向かってやりたい。それがゆくゆくは社会全体の底上げに繋がると思う。他にね、水俣病を伝えたい人たちがいるんです。相思社に入って分かったけど、溝口先生の他にも「自分は水俣病かも」って相談に来られる人がいるんです。ひとつひとつの具体を見て、今度はそれを言葉にしたい。発信して人に伝えたいと思い始めた。そして相談に来る人たちにも水俣病を伝えたい。被害を受けたのに、みんな水俣病の歴史を知らないんですよね。なぜ自分がこんな体になったのか、差別を受け続けているのか。その背景には理不尽な歴史や失敗の数々がある。
吉永 それで「あなたは水俣病ですよ」って伝えているんですよね。
遠藤 あれは良かったよね。救済策に来る人来る人にさ、「あなたたちはみんな水俣病なんです」って言うだよね。いきなりびっくりするよね。
永野 みんな一瞬引くんですよ(笑)。
吉永 そうなの?
永野 でもね、みんな半分は分かって来られているんです。だからね、そう言うとぽろぽろ泣き始めるんですよね。いきなり当事者になる。そして事実を知ろうとする。この経過は自己認定だと思っています。
吉永 自己認定に時間がかかるのよね、みんなね。
遠藤 以前にごんずいでやった「水俣病患者とは誰か」で、国や県や人じゃなく自分自身で認定するのが大事なんだ。それがその時のタフなおじさんたちの一つの結論でしたよね。
安藤 そうですね。学生たちを相手に「水俣病を伝える」目的は二つあるかなと思っています。一点目は、永野さんに賛成で「二度と水俣病を起こさない社会を作る」ということ。でも、それをフクシマのあとに語ることはシンドイですね。在学中ずっと一緒に水俣に来ていた学生が卒業して、故郷の福島で小学校教員になった。そしたら三・一一の事態になって。原発が爆発しそうだというので、仲間の間で「退避すべきかどうか」が議論になったっていうんですね。そのとき彼女は、「水俣で学んだことは、政府は本当のことなんか言わないっていうこと。だからやっぱり逃げなければ」と主張し、結局みなで退避した、っていうんですね。それが後になって、「先生が生徒より先に逃げていいのか!」って問題にもなったんです。教え子にこんな究極的な水俣学習をさせてしまった年長世代としての責任を痛感しています。水俣病という「社会的な苦しみ」を水俣市をはじめとする地域の皆さんはどう生きてきたのか、その背後にはどのような社会的力学があり、どこに問題があったのか、僕らはこれから何をすべきなのか。やっぱりそうした一連の問いについては一緒に考えていきたい。
目的はもう一点あって、これも永野さんの言われる「仲間づくり」ということにつながるのですが、学生たちが水俣の皆さんと知り合いになってほしい、ということを思っています。水俣で合宿をし、埼玉に戻ってふりかえりをすると、「あれだけつらい思いを私たちに話してくださって、自分たちはただ聞いているだけ。何かそれだけじゃいけないと思う」ということを多くの学生たちは言うのですね。僕はその感性はとても大事だなと思っています。合宿を始めてから僕たちは水俣や出水の皆さんにお世話になって、いろいろなことを教えていただいてきました。面白いことにここ数年学生たちが自分たち自身でこちらの方々とつながって、泊まりに行かせていただいたり、こちらの方が東京にこられたときに一緒に遊んだりしているんですね。そういう交流はとってもいいなと思います。僕自身、うちの学生たちやこちらの若い世代の皆さんと一緒になって、水俣病の歴史と経験をふまえた、ともに育ち生きる社会づくりのお手伝いができるといいなと思っています。

【当事者】
遠藤 うまいことに理巳子さんは患者家族だし、本人も被害を受けていて語るに難くない。けど俺たちは前提がいるんだよ。水俣病患者や患者家族を水俣病の当事者と言うときには誰も疑わない。でも当事者っていっても語らない人もいっぱいいるし、補償金もらったら当事者というわけでもない。じゃあ相思社の俺たちって何なの、永野さん?
永野 うーん、私は半分は当事者意識があるんですよ。
遠藤 半分!? 半分かよ。じゃあ、残り半分はなんなの?
永野 なんだろう、利用者かな、相思社を利用して夢を実現する。
吉永 そうじゃないでしょう、みっちゃんは当事者なんじゃないの。
永野 自分を当事者というのが申し訳ない、おこがましいように思っちゃうんです。
遠藤 おこがましいというのは、私は水俣病患者でもないのに水俣病のことを自分の問題のようにして喋ってる自分が恥ずかしいの?
永野 その遠慮があるかもしれないです。
遠藤 それだけ? まだ言い尽くしてないだろう、本当のところを言えよ。何に対して誰に対して申し訳ないのかをもっと詳しく。誰に遠慮しているの?
永野 そういう言い方が人を萎縮させるんですよ。
遠藤 すいません(一同笑い)。語ってください。
永野 水俣病患者とか、長く関わってる人たちですかね。なんかね「水俣に○○年います」「水俣病患者の誰々さんとは私のほうが長いから」とか言われたり、、ドロドロとした水俣病を知らないとか、若い、経験がないと言われるとね、経験も付き合いも短い私が、当事者って名乗っていいのかなって思っちゃう。
遠藤 それを負いきれないというのと、負う資格があるのかとか、そう思ってしまうのは縄張り意識がじゃましているからだよね。永野の今の悩みは、沖縄戦の証言員の継承者や広島や長崎の次世代も感じてるわけだよね。水俣からどうにかしろよ若手で(笑)。
吉永 語り手を育てるとか、継承者とかって言われると、自分が負わなきゃいけないって重たい気持ちがあって、やっぱり入りにくっていうことは言われるよね。
永野 今取って代わろう、継いで行こうとしてる私が「当事者です」となかなかぴしゃっと言えない。それは誰からも「あなたは当事者ですよ」と言われたことがないのも理由かもしれない。甘えてると言われそうだけど、私が相談者に「あなたは水俣病ですよ」と言うのと同じように、私にも後押しが必要なのかもしれません。それからは自己認定というか(笑)、だから若い人たちに言っていくといいんじゃないかな。あなたが当事者! って(笑)。
吉永 育成とかそういう言葉じゃなくてね。当事者。
遠藤 でもそのさっき永野が言った、どっかで躊躇していることはもうちょっと解明がいるね。
吉永 語り部の会で、「語り部が高齢化して、次世代をどうするか」という課題があるんですね。それで始めたのが「語り継ぐ会」です。でも、その名前に限定されると入りにくい、自分が語り継ぐ立場なのか、それは違うかなというので、名前を限定するのはどうかという意見もある。
遠藤 でも名前は限定しなきゃ名付けにならんもんね。
安藤 参加者にはどんな方たちがいるんですか?
吉永 水俣病資料館の語り部補助、相思社の職員、商店街の人や農業やっている人など、今までにない人たちにも入ってもらってます。まずは水俣病事件の歴史を知ってもらおうと思って、『水俣病小史』(高峰武 熊本学園大学)を中心に勉強会をしてるんです。若い人たちにきちんと水俣病の歴史を知ってもらうのと、偏見をなくしたいっていう思いがあります。だからみっちゃんは十分語り部の素質があるんだと思うんです。自分を通して自分の水俣病を語れる人、自分の生き方として伝える。次世代が育ってくればいいと思うんですけど、そのままの体験を真似できるわけでもない。
だからみっちゃんみたいに、水俣病があった現場を自分なりに見て、水俣病っていうのはこうだよっていうことを確立する。その生き方を、相思社の理事長として伝える(一同笑い)
安藤 素晴らしい言葉がでたね。
永野 すごい、常務理事超えて理事長?(笑)
吉永 私はこれを言うためにここに呼ばれたのよ。
遠藤 まいったね、これは。いやこの間から常務理事のイスを狙ってるという話はあったけど。
吉永 面倒くさいもんねぇ、常務理事なんか。
永野 とにかく後は任せてください、遠藤さん(一同笑い)。

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