溝口秋生さん最高裁判決に寄せて 【平郡真也】

本稿では、溝口訴訟における最高裁判決の内容と意義について解説を試みたいと思いますが、その前に、この事件の本質と争点、第一審から上告審にいたる経過を簡単に整理しておきましょう。

本訴訟の争点と、争点が実体的判断に絞られたことの二つの意味づけ

マスコミ報道では、溝口訴訟および最高裁判決の意義は、「裁判所がチエさんを水俣病と認定したこと」とする論調がほとんどです。もちろんその理解は正しいのですが、判決では触れていないもうひとつの点――この事件は、チエさんをはじめとする未検診死亡者に対する放置・切り棄て事件である点も忘れてはならないと思います。
つまり、県はチエさんの生前に公的検診を完了せず、死後一七年間も病院調査による資料収集を意図的に放置した上、処分を出すまで申請後二一年間もかかりました。しかも、その処分は判断できる資料が揃っていないことを理由に棄却するという、放置の責任をチエさん側に押し付けるものでした。さらに、この違法な県の対応は、チエさんだけの特殊な事例ではなく、未検診死亡者(一九八〇年代末で約四〇〇人にのぼります)全体に対して行っていた構造的・意図的なものであることも明らかになっています。溝口秋生さんが、「この裁判は私だけの裁判ではなく、未検診死亡者を代表して闘っているのだ」と訴えるゆえんです。
ここで、裁判上の争点を整理しましょう。
① チエさんは救済法上の水俣病と認められるべきか否か(実体的争点)
② チエさんの認定審査の過程に手続上の瑕疵(=誤まり)があるか否か(手続的争点)
①には、救済法における認定要件の解釈、現行の認定基準である五二年判断条件の妥当性などの問題が含まれ、②に先ほど述べた未検診死亡者に対する放置・切り棄てという事件の本質が法律的に表現されています。
第一審では、原告側はおもに②に比重をおいた主張・立証をしましたが、控訴審では、①に力点を置くことを余儀なくされました(その理由は後で述べます)。
全面勝訴を得た福岡高裁判決では、②について判断を示さず、当然最高裁判決でも言及することなく、両判決を読む限りでは、②の手続上の誤りが裁判の対象から外され、読む者の視野に入ってきません。繰り返しますが、本件は「行政による未検診死亡者に対する放置・切り棄て事件である」ことをおさえておいて下さい。
他方、裁判の争点が①の実体的判断に関する点に絞られたことについては、積極的な意味づけもしなければなりません。絞られたおかげで、福岡高裁・最高裁ともに、認定のあり方、法の要請する認定基準とは何かという認定制度の根幹にかかわる問題に正面から向き合ったこと、チエさんの認定判断においても、未検診死亡者という事情を考慮するのではなく、法の要請する認定基準に照らせば水俣病と認定できると判断したこと、これにより、溝口訴訟は認定制度のあるべき姿を示し、未認定問題全体をカバーする広がりと普遍性を獲得したと評価できると思います。

第一審から上告審にいたる経過

二〇〇八年一月二五日に言い渡された第一審・熊本地裁の判決は、「認定申請時に添付したS医師の診断書は信用することができず、そもそもチエさんには水俣病であることを示す症候は確認できない、よって水俣病とは認められない」、「病院調査や処分の遅れについても、やむを得ない事情によるもので、県が意図的に放置し遅らせたわけではない」、と県側の主張を全面的に採用し、溝口さんの請求を棄却しました。
控訴審での闘いは、一審判決がチエさんの症状ひとつすら認めないものであったため、もっぱらチエさんを水俣病と認めさせる立証に力を注がねばならず、手続上の誤り(病院調査の意図的放置や処分の遅れ)は、後景に退かざるを得ませんでした。というのは、今の裁判所の審理傾向からみて、チエさんが水俣病であるとの心証を得させなければ、いくら手続上の誤りを主張・立証しても通用しないことがはっきりしたからです。
二〇一二年二月二七日、福岡高裁は、「チエさんは水俣病にかかっていることが明らかだから、本件処分につき手続上の瑕疵があるか否かを判断するまでもなく」と、チエさんの棄却処分を取り消すとともに、認定を義務付ける判決を言い渡しました。
福岡高裁判決を受け、県側は上告受理申立てを行い、これに対し、最高裁は、二〇一三年一月一七日に上告受理を決定し、あわせて三月一五日に口頭弁論を開くことを通知しました。福岡高裁判決から一年もたたないうちに上告を決めたことや、最高裁が口頭弁論を開くときは通常原判決を見直すことなどから、原告に厳しい判決が出るのではといった予想もありましたが、最高裁第三小法廷は、四月一六日、県側の上告を棄却する判決を言い渡しました。これにより、原判決である福岡高裁判決が確定したのです。
以下、福岡高裁判決にも言及しながら、最高裁判決の内容と意義について述べましょう。

最高裁判決の内容と意義

四月一六日の最高裁判決は、一月一七日付の県側の上告受理を決定する段階で、上告理由を総論に関する論点に絞ったため(チエさんの各論は除外した)、総論についてのみ判示しました。その内容は、原判決(福岡高裁判決)の判示を妥当だとするものであり、結論において、県側の上告を棄却しました。
最高裁判決のポイントは、次の三点に整理できると思われます。
<認定制度の基礎概念の定式化・統一化>
第一に、水俣病認定制度の基礎概念(基本となる考え方)について定式化し、統一的な解釈を示したことです。
判決はまず、救済法上の水俣病とは、「魚介類に蓄積されたメチル水銀を経口摂取することにより起こる神経系疾患をいう」「水俣病は客観的事象」と定義します。あわせて、県側が、「メチル水銀がなければそれにかかることはないものとして他の疾病と鑑別診断することができる病像を有する疾病」と主張したのに対し、判決は、そのように狭い意味に解釈すべきではないと批判しました。
判決の定義は常識に沿い、また、「客観的事象」という判示の意味は、水俣病とは客観的に認識できる一つの事実であること(制度の枠組みによっていくつもの水俣病が存在するわけではないこと)を明確にしたとみるべきでしょう。
次に、判決は、認定審査の対象は、「水俣病罹患の有無という客観的事実」であり、この水俣病罹患の有無とは、「申請者が有する個々の症候と原因物質(メチル水銀)との間に因果関係が有るか無いかである」とします。県側が、認定審査の対象(=認定要件の充足性)は、「もっぱら水俣病にかかっていると医学的に診断できるか否かである」と主張したのに対し、判決は、そのように狭い意味に解釈すべきではないと排斥しました。
つまり、水俣病罹患の有無は客観的事実ですから、その事実を認定するに際し、医学的診断は一つの要素・材料にすぎないことになります。
したがって、判決は、水俣病の認定(=水俣病罹患の有無という客観的事実の確認)に当たり、個々の申請者の「病状等についての医学的判断」のみならず、「曝露歴や生活歴および疫学的知見や調査結果等」を十分考慮した上で、総合的、多角的見地からの検討が必要である、と判示しました。
この認定のあり方につき、原判決(福岡高裁)は、「『水俣病にかかっている』か否かの判断は、事実認定に属するものであり、医学的知見を含む経験則に照らして全証拠を総合検討して行うべきものである」と、最高裁判決と同旨の判示をしています。
さらに、上告審での主要な争点である「行政庁の判断に関する裁判所の審査のあり方」について、判決は、県側の「認定審査会の調査審議・判断に過誤・欠落があるか否かという観点から行なわれるべき」という主張をしりぞけ、「個々の症候と原因物質との因果関係の有無を対象とし、申請者の水俣病罹患の有無を判断すべき」という手法を採用しました。
つまり、裁判所は、行政の裁量を認めて消極的な審査をするのではなく、積極的に実体判断に踏み込むべきだという審査のあり方を明示しました。
<認定制度という建物全体を建て直すべき>
以上の論点は、いずれも認定制度の根本にかかわるものであり、最高裁が初めて統一的な解釈を示した意義は極めて重要です。と同時に、最高裁は、これらの論点に関する県側の理解が誤っていると厳しく批判したわけですから、認定制度という建物の土台が誤っている、当然その上に建てられた認定基準も、その運用も間違いだということになります。
要するに、最高裁は、行政に対し、認定制度という建物全体を、判決の趣旨に従い改めて建て直すよう強く命じているのです。最高裁判決を分析するに当たり、この最高裁の断固たる意思を前提にしなければなりません。
<四肢末端優位の感覚障害のみの水俣病>
最高裁判決の第二のポイントは、「四肢末端優位の感覚障害のみの水俣病」の存在を認めたことです。
判決は、一般論として、四肢の感覚障害のみの水俣病が存在しないという「科学的な実証はない」と判断し、また、四肢の感覚障害のみしか確認できないチエさんを水俣病と認定することができるとした原判決を維持しています。
この点に関し、原判決(福岡高裁)は、「四肢末端優位の感覚障害は水俣病における最も基礎的、中核的な症候である」、「メチル水銀に対するばく露歴等の疫学的条件を具備する者について、メチル水銀ばく露歴に相応する四肢末端優位の感覚障害が見られ、当該感覚障害が他の原因によるものであることを疑わせる事情が認められない場合には、当該感覚障害はメチル水銀の影響によるものである蓋然性が高いというべきである」と、水俣病認定に当たり、四肢の感覚障害を重視するべきである旨明確に判示しています。
<五二年判断条件に対する評価>
第三は、法律的にはもとより、社会的に最も注目を集めた五二年判断条件に対する評価です。
判決は、五二年判断条件につき、まず、症候の組合せが認められる場合に認定するとしているのは、多くの申請に対し迅速に判断する基準だという意味で、その限度での合理性を有すること、しかし他方で、症候の組合せが認められない場合も、総合的に検討した上で、個々の症候と原因物質との間に因果関係があるかないかという「個別具体的な判断により、水俣病と認定する余地を排除するものとはいえない」ことを判示しました。
判決の趣旨は、症候の組合せ該当性による認定は、「迅速な救済」という限度で合理的だが、他方、「幅広い救済」という観点からは、症候の組合せに該当しない場合(その典型例が四肢の感覚障害のみの場合です)に、因果関係に関する個別具体的な判断が必要不可欠だとするもの、両者の認定手法が相まって五二年判断条件を構成するものと理解すべきでしょう。
そうだとすれば、判決は、現行の五二年判断条件の内容および運用の両者につき、注文を付けていることになります。
まず、内容に関し、五二年判断条件は、症候の組合せが認められない場合に、総合的な検討を行うべきであることや、総合的な検討のあり方を全く規定していません。四肢の感覚障害のみの水俣病が存在することにも言及していません。ですから、こうした内容を盛り込んだ新しい認定基準を策定するよう求めているのです。
この「総合的検討」のあり方につき、原判決が、「臨床上把握し得る神経症候が四肢末端優位の感覚障害のみである者については、(中略)その一事をもって水俣病であることを否定するのは相当ではなく、メチル水銀に対するばく露歴等の疫学的条件のほか、当該感覚障害が水俣病に見られる感覚障害としての特徴を備えているか否かといった点(例えば、その発現部位や発現時期、あるいはその原因が中枢神経の障害にあることをうかがわせる事情の有無等)や、当該感覚障害について水俣病以外の原因によるものであることを疑わせる事情が存するかどうかといった点等、認定申請者に係る具体的な事情を総合的に検討して水俣病にかかっていると認められるか否かを判断すべきである」と具体的に判示した内容を盛り込むべきです。
さらに、運用に関しては、原判決が「症候の組合せに該当するときには水俣病と認定するものの、該当しないときには、個別具体的な事情を総合考慮することなく棄却していた」「五二年判断条件を硬直的に適用した結果、重症者のみを認定し、軽症者を除外している」旨判示するとおり、最高裁判決が示した運用のあり方に反する実態であるのは明らかです。最高裁は、判示の内容に沿ってただちに五二年判断条件の運用をあらためるよう求めているのです。
<判断条件を違法と断言しない問題>
ただし、残念ながら最高裁判決は、五二年判断条件が違法・無効であるから撤廃すべきだと言い切ることはしませんでした。
判決は、四肢の感覚障害のみの水俣病の存在を認めた以上、四肢の感覚障害は「水俣病における最も基礎的、中核的な症候」(原判決)であり、現在の大多数の患者に見られる典型的な症候であるのは証明されているのですから、「法の趣旨に適合する認定基準として、四肢の感覚障害のみで十分であり、症候の組合せを要件にしてはならない。したがって、症候の組合せを求める五二年判断条件は違法・無効である。」と結論づけるべきでした。判決の論理を推し進めると、これが必然的に導かれる結論です。
しかし、行政の立場を尊重する判断が働いたのでしょう、そこまで断言しませんでした。この不徹底さが、環境省をして、「判決は五二年判断条件を否定していない」といわしめる口実を与えてしまっています。
この点は、最高裁判決のもつ最大の問題点だといわなければなりません。

コメントは停止中です。