水俣病センター(仮称)をつくるために

1972年10月 水俣病センター設立委員会

夢の中から

石牟礼道子

「ああもう! こういう話は,夢じゃ夢じゃっ!」

浜元二徳青年が,大声で寝言を云いはじめ,寝入りばなの患者さんたちは,夢の中でいきなりケンカでもしかけられたように,きょとんと飛びおきてしまいました。

「なん? なんや二徳」

「ああもう…センター話のなんの,出来るもんけ!」

「うーん」

ひとびとは,あ,そのことかと,ぼんやり,夢の中にいる彼に返事をし,やれやれ寝言ぞと,またひっくり返る。

寝言は続きます。

「夢ぞうっ! こういうもんは・・・・・・。だいたい,いまの世の中に,そういうもんを見たこともなかぞ」

ひとびとは,しんとしてくるおなかの中で,彼の寝言に,そうじゃそうじゃと相槌を打ちます。誰しも,ことにその夜,そのように思いながら床についたのですから,いやここ二年ぐらい前からそのように考えていたのですから。

たぶん,仮称水俣病センターの話というものは,そのようなえたいのしれない<不安>として,患者さんたちのねむりの間にさえ宿りはじめ,<外側>にむけても患者同志の間柄でも,夢の中から寝言をもって問う形で,対話者を求めはじめているのです。

それは,水俣病裁判の結審近い九月六日公判の熊本の宿屋で,告発する会の本田啓吉さんが茶呑み話に,出来あがった粗案を説明した夜のこと。

患者さんたちの胸のうちを記してみれば

「裁判が終っても,どこにおんなはるかわからん,世のひとびとに,お礼にゆくこともかなわん・・・。

ぼんのくぼは疼く。足はかなわんごつなる。わが身だけじゃなしに,家のうちに重病人はふゆるばっかり。やっぱりもう,支援の方々の,これまでの御情も薄うなろ。水俣病は,はじめから銭の来る病気じゃと,来んうちから憎まれて。裁判で銭の来ると決れば,倉の立つじゃろと地元は言うにきまっとる。きっと,また次の公害の勃発して,助けてくれた人たちも,こんどは,そっちの方に行ってしまいになるかもしれん。

センターちゅうもんの,ひょっとして,出来でもしてみればこれより上のことはなかろうが・・・。そのことでまた,地元から憎まれはせんじゃろか。ここまでよそのひとがたに助けてもろて,これより先も,人間ひとさまになお縋ってもよかろうか。見捨てられても,もう欲を云うてはならんとじゃなかろうか。

親も殺され子も殺されて,いっぺんは自分も死んで,ただの娑婆じゃなかところに,生きあがらしてもろうたが,人の情とわが煩悩で。この先しかし,何年生きてご厄介かけることじゃろか。荷物にならんじゃろか,見も知らんひと方にまで。とてもじゃなかが,この上自分どもから,お頼みできることじゃなか。自分の業ば,ひとさまにうちかぶせるごたる気のして。」

患者さんたちもわたくしたちも

(センターというものの,目に見ゆる形はまだ夢の世の中のこと。見えぬところは,やっぱり恐(おとろ)しか銭の娑婆。そこらあたりがな・・・・・・)

とため息をついています。そこから先へは,うつつの足をどっぶり漬けて,転生しえたものたちは,まだひとりもいる筈はなく,けれども,患者さんたちが,その(夢の世の中)でひとつの柱,ふたつの目の柱と,建てたりほぐしたりしては,火傷でもしたように手を振り払い

「ああ! そげんとは,夢じゃ夢じゃ!」

とひっくり返ったりする。

これはまことやっぱり,賽の河原のことなのでしょうか。

なぜ(仮称)水俣病センターをつくるのか

(1) 水俣病患者が「もう一つのこの世」をつくる根拠地として

すでに公式に認定されたものだけでも,水俣病によって,死者59名(痛苦にたえかね自殺した人も含む),患者292名(昭和47年10月現在)が出ています。そして,現在,認定申請中の人が約370名ありますが,患者の数は決してこれにとどまるようなものではありません。熊大による限られた地域での調査や,患者の追求によりやっと実施された形式的な「一斉検診」によっても,さらに数千,もしくは万の単位におよぶ患者の潜在が想定されています。

水俣病患者自身の永い歳月にわたる苦しみは言わずもがなのことですが,患者を抱えた家族や周囲の人々の困苦も,私たちの想像を絶して苛烈なものであります。

一つの地方都市で,経済的・社会的・政治的に圧倒的な支配力をもつ一つの企業が,その加害の張本人であるとき,被害を受けた者が,ひと声でも叫びをあげるとどんな扱いを受けることになるか。

「あの患者たちは自分達のことばかり言って,いっちょん反省はせんとだもんね。同情する必要は全くないよ。」

「神経痛か,小児マヒか,アル中か,ようわからんとに・・・・・・」

「あいつらは,弱った魚を喰べたから奇病になったのはこれは事実じゃ。」

このようなことばをふんだんに盛り込んだビラが,「市民有志」の名において,幾度となく新聞にはさみ込まれて全市にばらまかれたりしています。

もちろん,市民のなかには,ひそかに患者たちの主張を支持している人たちもいます。しかし「チッソの城下町」では,公然と声をあげることはむずかしいのが実情です。患者たちやその家族たちは,たんに病苦にさいなまれるにとどまらず,水俣の繁栄をさまたげ,市を暗くするものと中傷されて,針の莚に坐らされたような毎日を送らなければならないのです。

昭和34年,補償を求めて坐り込みを行なった患者家庭互助会は,みそかを前に,生活の苦しい患者の弱身につけこんだチッソによって,死者30万円,生存者1人年金10万円という,おそるべき見舞金契約(患者は将来水俣病がチッソの工場排水に起因することが決定した場合においても,新たな補償金の要求は一切行なわないものとする。)を結ぶことを余儀なくされました。

しかし,それに納得せぬ患者・家族は,長いあいだの沈黙の底からたちあがり,昭和44年,加害者チッソを訴えました。裁判では,来春,おそらくは患者側の主張をいれた判決が出されるでしょう。が,たとえ裁判でどのような判決が下され,金銭による補償がなされようとも,患者や家族たちの痛苦がなくなるものではありません。

さらに,不知火の海辺に,病気と生活の不安におののきながら潜み暮らす,数千数万の未認定患者や家族たちがあります。その中で,チッソの思うがままにせばめられていた患者認定のワクを自らつきやぶり,認定をかちとった人々が,健康と生活の桎梏に耐えながら,チッソとあいたいで物を言い,一律補償を求めて約一年におよぶ自主交渉の坐り込みを貫いています。

ところがチッソは,患者のそのような声に耳を貸さぬばかりか,昭和44年の厚生省の補償処理のように,今また公害等調整委員会による低額補償を多くの患者におしつけようとしているのです。

いま患者たちと家族にとって,なにより果されなければならないことは,チッソが加害者であることをはっきりと自覚したうえで,患者の病苦と生活とを十分に補償する誠意を示すことですが,それとならんで,もうひとつ必要なことは,今後の患者たちの長い人生を支えていく拠りどころとして,ひとつの場所を,具体的につくりだしていくことではないでしょうか。

「なんとか励まし合っていきたい」「気楽に集まれるような場所があれば・・・・・・」

患者や家族や支援者たちのこのような願いは,早くからそれぞれに呟かれていたのでした。もし,水俣に患者・家族らの集会所ができ上るならば,それは,今の認定患者にとどまらず,今後続出する幾千幾万の患者さんの集まる「場」となることができると考えます。それは明らかに,加害者の横暴と専制をつきくずす水俣病のたたかいの根拠地となり,また,本来の海と大地に糧を得る生活を自分自身の手にとりもどす<もうひとつのこの世>をつくる場所となるにちがいありません。

(2) 放置された患者に血のかよった医療を

水俣病は,その詳細な病像も,被害の拡がりも,患者・家族たちの生活の実状も,20年を経ようとする今日に至ってなおほとんど明らかになっていません。われわれは,組織的に克明な実態調査をすすめ,水俣病の真実を医学的にも社会的にも明らかにしていく中で,チッソ・行政,ならびにチッソに手を貸した医学者を追及していかねばなりません。

水俣病患者全体からすれば,ほんのわずかな数の認定患者に,治療費と医療手当,介護手当が,少額支給されているだけで,社会的な医療態勢も何一つ整えられておらず,すべての患者が放置されたままで,チッソはもちろん,自治体や国も,何ら積極的な救済の手段を講じていません。例えば,湯の児にリハビリテーション・センターというのがあります。これは,はじめは水俣病患者のためといわれ,当初,たくさんの患者がいました。そして,一部の良心的な職員の努力はありましたが,経営問題もからみ,病院がわでは,金のとれる他の病人に顔を向けるようになりました。水俣病患者は敏感にこの成り行きを感じとり,次第にそこを出て行くものが増えました。

港在患者を発掘しつつ,全ての水俣病患者の医療と養護にあたる,血の通った施設と人々が,切実に必要なのです。「もっと身近な医者がいたら」と多くの患者さんも要望しています。海辺,小路の隅々にはいって行けるような,私達の手になる検診車が一台あれば,放置された患者たちにとって,それがどんなに大きな光明となるかわかりません。患者さん達にとって,このような医療の機関を,ぜひ設置したいという念願は久しいのであります。

(3) 水俣病の真実を医学的,社会的に明らかに

日がたつにつれて,水俣病の真実を語る資料は失なわれつつあります。失われ,忘れられることを強く望み,事実を人々の目から隠そうとやっきになっている力も現にあるのです。水俣病の医学的,社会的な諸事実の発掘,究明,蓄積を早急にはかることは,水俣病にかかわるすべての人々の願いです。水俣病センターは,これら諸記録の蒐集保存のセンターともなるべきものであります。

(4) 共同作業場を,生活の糧を

現段階では,治癒の望みのない水俣病患者やその家族たちにとって,日々の生活の重圧と,将来に対する不安は,はかり知れないものでしょう。

しかも,患者さんと家族は生きなければならず,どんなにささやかなものであれ,患者がその日々の中で,生きるしるしを見出して行くことがなければなりません。

「共同の作業場を・・・・・・」という夢が,自然に生まれてきていました。患者や家族たちに親しい支援者たちの中にも,患者・家族たちの最も人間的な姿に触発されて,彼らとともに,支えつつ支えられつつ,「もう一つのこの世」をつくりたいと望む夢がふくらんできました。

「薬草を植えよう」,「蜜蜂を飼ったら」,「うまい漬物を漬けて売り出そう」などと語り会われることもしばしばでした。

病む体になじむことのできる作業には限りがありましょうが,支援者の労働を加えて少しでも暮らしを支える糧とすることができるならば,今日の夢は明日の現実に相わたってゆくことにもなりましょう。

(5) 水俣病センターはさらにどんな意味を担うか

私たちが患者や家族の方々の志をうけて計画することは,ささやかといえばささやか,素手でとりくむにしては,遠大といえば遠大なものかも知れません。しかし,高度成長を誇る日本の経済社会,あるいは現代文明そのものの犯しつつある人間破壊にあらがいながら,私たちみずから,もう一つの異った人間的な連帯の原理と現実を求めて試みることは,あるいは途方もない結実を,この現世にもたらすことになるかも知れません。

加害者との直接交渉を拒まれ,何の具体的補償も受けられぬまま,現地に於いて孤立しながらも,裁判を闘い抜き,あるいは,更に突きつめた形での謝罪と補償を求めるあいたいの交渉を望んで,すでに一年になんなんとする期間をチッソ東京本社前に坐り込む患者家族に対して,チッソは,何らかの誠意を示すどころか,責任回避と醜い居直りを一貫して強めています。被害民たちが,いまなお,汚名病-水俣病と言った市民感情にさいなまれながら,現地で,あるいは,東京駅頭丸の内ビル街の路上で,生活に根ざした闘いを続けていることは,私たちの時代の悲惨と汚辱を,まごうことなく照らしていると思われます。患者さんの不屈のたたかいの中から,患者さんの故郷に共同の根拠地を築くことは,替えがたい励ましにもなることでありましょう。

自らの精神と肉体の限りない痛苦と代償に,水俣病患者たちがさまざまなありようをもって私たちに示唆するものは,きわめて深いものがあります。多数の私たちの小さな手によって建設されようとする水俣病センターは,これらすべての意味を,そして私たち自身の,いきるということの決意を,目に見え,形のあるものにする貴重な試みの,一つの出発ともなるものでありましょう。

水俣病センターは当面どんな活動をするか,そのため何が必要か

(1)集会所をつくる

  1. 患者家族の定期・臨時の集会所となる。
  2. 患者家族の連賂の中心となり,患者家族のあらゆる情報を集中する。
  3. 患者家族に対する一切の日常的世話活動を行なう。
  4. 患者の簡易な機能回復訓練・屋内軽作業の場所となる。
  5. 必要があれば胎児性患者・老齢患者などを保育所方式で預かり世話をする場所となる。
  6. 患者家族及び患者とかかわりのある地域の人びとの休息・入浴・娯楽の場所となる。
  7. 援農援漁などの支援者を宿泊させ,援農援漁の計画をたて実施にあたる。

人員 全体の世話係,患者の世話係

施設・設備 集会場,事務室及び浴場などの付属施設(約45坪)必要備品。

(2)医療基地をつくる

1 検診治療車をおく

  1. すべての患者を定期的に検診するとともに,かくれた患者のほり起しにつとめる。
  2. 救急車の役割をかねる。
  3. 検診と同時に巡回治療も行なう。
  4. 医療相談所を開設する

来訪患者の医療相談を受け,患者の要求に応えていく。

3 水俣病の医学的研究のための基礎資料を集める。

人員 各種医療従事者

施設

  1. 医療相談室及び資料保存室(10坪集会所と同一建物)と医療器具
  2. 検診治療車

(3)資料室をつくる

  1. 水俣病研究会の保管資料を移す。
  2. 広く資料の提供を求め,水俣病にかかわりのある一切の資料を集める。
  3. 利用者に開放する。

人員 集会所世話係で管理する
施設・設備 資料室(5坪-集会所と同一建物)本棚・保管用ケースなど

(4)共同作業場をつくる

  1. 作業の可能な患者家族の参加者と,共同作業者とで,主として屋外での生産活動を行なう。患者はその労働可能度に適した作業を行なう。
  2. 主として農作物など第一次産品の生産と簡単な加工を計画する。
  3. 患者家庭での農作物(みかんなど)農産加工物(寒漬けなど)を集め,熊本市,八代市の生協を販路として販売する(既に実施中)。
  4. 近い将来に患者の生活自立を目ざし殖産事業として拡大する。その内容は現在患者を中心に研究中であり(養蜂・養鶏・生薬栽培など)直ちに試験的実施に着手する。

人員 患者家族の参加布望者のほか常時従事の共同作業者数名。支援者の共同作業への一時的参加も受け入れる。

施設・設備 屋内作業場をふくむ患者と共同作業者の宿舎(40坪-集会所と同一敷地内にたてる)農地3ヘクタール、農器具,機械,加工用器具機械

以上はあくまで当面の構想計画であり,将来は,患者収容施設,付属病院をもつ研究所の建設まで期待されている。

患者さんの声

なによりも大事なのは,生ける人形といわれるような人,なにもできん人までも一生の間養いきることをするかどうかだ。(渡辺栄蔵さん 患者互助会代表)

わたしはたったひとりだから,みんなで寄っておしゃべりできるところがあればと思います。(山田ハルさん)

小学校を出てから兵隊に行くまで畑仕事をしていたから,たいがいのことはできる。百姓ははじめてみるとだんだん面白くなるし,皆でやれば働き甲斐もある。自分は心臓がよくないから重労働はできないし,最近は右腕がしびれたり肩の関節が痛んだりするから,若い人たちと一緒に働けたらよかですな。(渕上才蔵さん)

この前とうちゃんが市立病院に入院したとき,そばにいてくれろと涙を出して頼むからつき添って泊ったら,許可がいるといってひどくおこられた。そういう時,親身になってくれる所がはしかなァ。(前島サヨさん)

しのぶ達(胎児性の患者)の場合は学校を出ても自分は患者だから何も出来んち思うとじゃなかろうか。何か仕事をさせたりすれば,自分も何か出来るちゅう気持だけでも喜ぶんじゃなかろうかち思うとっとです。(坂本フジエさん)

まず採算を度外視してやらんといかん。そして中で仕事をしてて外に働きに出かけても続かんかった場合帰って来るよな台風の避難所みたいな所で良かじゃなかかち思うとです。(田上義春さん)

設立委員ならびに賛同者

【設立委員】
石牟礼道子(作家)
宇井 純(東大工学部助手)
木下順二(劇作家)
篠山 豊(朝日新聞論説委員)
高木隆太郎(東プロダクション)
谷川健一(評論家)
原田奈翁雄(「展望」編集長)
原田正純(熊大体質医学研究所助教授)
日高六郎(社会学者)
日吉フミコ(水俣市民会議会長)
本田啓吉(水俣病を告発する会)
松田道雄(医師・評論家)

【賛同者】
青木靖三(神戸大助教授)
青塚俊雄(名古屋精糖労組委員長)
秋元松代(劇作家)
秋山ちえ子(評論家)
荒畑寒村(社会学者)
飯島宗享(東洋大教授)
飯沼二郎(京大助教授)
池田 新(大阪・沖縄連帯の会)
池松彦繁(済々黌教論)
石川直美(会社社長)
石川昌子(藤沢市主婦)
市川房枝(元参議院議員)
伊藤義清(女子学院教師)
稲葉三千男(東大教授・新聞研)
井上光晴(作家)
井上良雄(日本キリスト教団常任委)
岩崎 昶(映画評論家)
岩永遠郎(明大助教授)
上野英信(作家)
魚津郁夫(熊大数授)
宇佐美 承(朝日新聞叢書編集長)
梅根 悟(和光大学長)
遠藤豊吉(小学校教諭)
大岡 信(詩人)
大島孝一(女子学院院長)
大浜亮一(清流会代表)
岡本清一(清華短大学長)
沖津正己(佐竹商店支配人)
梶谷善久(評論家)
樫本慶次(映画評論家)
片岡啓治(ドイツ文学者)
金沢嘉市(教育評論家)
蒲池正紀(熊本商大教授)
川喜田愛郎(元千葉大学長)
金沢嘉市(教育評論家)
蒲池正紀(熊本商大教授)
川喜田愛郎(元千葉大学長)
河野健二(京大人文研所長)
河野信子(評論家)
川本信正(スポーツ評論家)
菊池昌典(東大助教授)
岸田 森(俳優)
木下恵介(映画監督)
書屋武真栄(沖縄選出二院クラブ)
吉良敏雄(熊本県県会議員)
久保田一郎(熊大生協専務理事)
熊井 啓(映画監督)
桑原史成(写真家)
桑山正一(俳優)
高 史明(作家)
甲岡寿彦(蛙声通信)
上妻四郎(医師)
後藤孝典(弁護士)
斉藤喜博(教育者)
佐々木 勝(小学校教諭)
佐多稲子(作家)
佐藤忠男(映画評論家)
崎間昌一郎(弁護士)
沢井 裕(関西大学教授)
実相寺昭雄(映画監督)
島田マサ(熊本県重度身体障害者福祉促進会会長)
白井健三郎(学習院大教授)
宍戸 寛(成蹊大講師)
柴田 翔(作家)
柴田徳義(熊本市市会議員)
篠田正浩(映画監督)
新藤兼人(映画監督)
末川 博(立命館大名誉総長)
菅 竜一(高校教師)
杉山とく子(俳優)
砂田 明(劇団不知火座主宰)
住谷悦治(同志社大総長)
世良完介(熊大名誉教授 元水俣病研究班)
袖井林二郎(アメリカ研究家)
高橋晄正(東大講師)
高畠通敏(立教大学教授)
高見 優(新潟水俣病を考える会)
滝沢克己(哲学者)
武満 徹(音楽家)
田中 宏(アジア留学生会館)
津崎鉄夫(山岸会)
津島幸生(熊本県教組委員長)
土本典昭(映画監督)
坪野米男(弁護士)
鶴見良行(東京JATECセンター)
塚本光三(東洋精糖労組委員長)
出口勇蔵(京大名誉教授)
寺田健一郎(画家)
寺田 利(豊沢教会牧師)
寺田 農(俳優)
田 英夫(参議腕議員)
富樫貞夫(熊大助教授)
鳴海正泰(横浜市役所)
なだ いなだ(作家)
中島正昭(日本キリスト教協議会総幹事)
中野好夫(評論家)
中野重治(詩人)
永畑恭典(宗教史家)
野間 宏(作家)
橋川文三(評論家)
羽仁五郎(歴史家)
羽仁 進(映画監督)
馬場 昇(熊本県高教組委員長)
林 洋子(俳優)
原 知佐子(俳優)
原 保美(俳優)
左 時技(俳優)
秀島由己男(画家)
広野 広(農業)
深田俊祐(作家)
福田令寿(水俣病熊本県民会議代表)
福富節男(数学者)
福島菊次郎(写真家)
藤川治水(映画評論家)
藤島宇内(評論家)
ふじた あさや(劇団三十人会)
藤原審爾(作家)
船橋泰彦(大分大助教授)
前田俊彦(評論家)
松岡洋子(評論家)
松山樹子(バレリーナ)
真継伸彦(作家)
松山善三(脚本家)
丸木位里(画家)
丸木 俊(画家)
丸山邦男(評論家)
丸山定巳(熊大助教授)
水谷 智(東海精糖労組委員長)
見田宗介(東大助教授)

水俣病センターの運営方法について

できるだけ早く法人格を取得し,法人として運営します。どのような法人格にするか現在研究中です。実質的な運営のために運営委員会を置き,運営の方針,方法を決定します。

運営委員会は水俣病患者家族をもって構成し,それに実務のため必要な人員を最小限参加させます。

水俣病センターの資金について

水俣病センター(仮称)建設資金はぼう大なものでありますので,その目標額を達成するためには,全国のあらゆる階層の人々から拠金を仰がねばならぬことはいうまでもありません。そこで募金の要領としては一口いくらという規定を設けることはせず,任意の金額で,また同一の方から何回でも応じていただきたいと考えております。またセンターの毎年の維持についても多額の経費を必要とします。そのためには当然毎年一定額の拠金をしてくださる,いわゆる維持員制度を設ける必要がありますが,まだセンターが実現していない現状では,はじめから維持員制度を固定的なものとして設定することには難点がありますので,当面の募金期間中には将来にわたるご協力をお含みの上,センター実現のための募金をお願い致します。

(注)「水俣病センター(仮称)を」つくるために」は1972年10月に発表されました。

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