溝口訴訟最高裁判決前夜

私は水俣市袋の出月という小さな集落で生まれた。水俣病の激発地で、周囲には水俣病の患者が多くいて、我が家に立ち寄るその人達の存在は身近だった。

思春期の頃からその存在を疎ましく思うようになった。
小中学校のころ市外で「水俣出身」を理由にネガティブな経験をした。反論する術がなくて、そのまま「水俣」はコンプレックスになった。熊本市で暮らし始めた高校時代には出身を隠すようになっていた。水俣病患者がいるから私がこんな目にあう、全部患者が悪いと思って、見ないふりした。それで済んだから。

20歳の頃、子どもの頃の書の先生が裁判をしていると知った。当時2歳の娘を連れて、傍聴に行った。水俣病の裁判だった。
それまで、私は先生のことを表面しか知らなかった。先生のお母さんは、水俣病の認定申請をして亡くなったあと、行政から不当な放置を受け続け棄却されていた。胎児性水俣病の息子さんの将来を、先生は心底心配していた。私は彼の存在自体を、知らなかった(知宏さんは私が子どもの頃から引きこもりでした)。

裁判所で先生は、再会を喜び、息子さんの被害について切々と語った。知ろうとすれば知れたのに、目を逸らして気付けなかった。そして自分の持っていた眼差しに気付いた。「全部患者が悪い」。
どうやって帰ったか分からない程ショックだった。ただ、最後に先生が「みっちゃん、また来んな」と言ってくれたことで、裁判に通うようになった。先生の話を聞いたり書籍を読むことで、水俣病事件の理不尽な歴史を知った。行政に、企業に、そして自分自身に怒りが湧いた。
患者は悪くないこと、差別に加担した自分、国策としての水俣病に苦しみ続ける多くの被害者がいることを知った。先生が声をあげたことが、水俣病を我が事として考えるきっかけとなった。

その後、命の危険を感じていた夫のDVから逃げるため離婚をした。シングルマザーになってその大変さを知った。社会は優しくないと思った。一人での子育てが苦しくて、「助けて」が言えなくて逃げたくて、だけど子どもを放棄したくなくて、全部捨てて二人で逃げた。興味があった障害者施設や環境に取り組む人たちを頼って、娘とバックパックとテントを担いで、ヒッチハイクで国内外の放浪を始めた。環境や原発や基地問題や障害者運動をやってる人なんかにお世話になった。そんな人達に出身を聞かれて答えると、水俣や水俣病のことを語ってくれて、だんだん「水俣生まれ」と言えるようになった。

インドから日本に帰ってホームレスしてた時、娘が「誕生日プレゼントには、テントじゃない”イエ”がほしい」、「学校に行きたい」と言い出した。ボロ雑巾のようになった私の頭に浮かんだのは「水俣」だった。娘の小学校入学の4ヶ月前、水俣に帰った。働くことを考えたとき、頭に浮かんだのが「水俣病」だった。どうせ水俣に帰るなら、自分のコンプレックスと向き合おう。溝口先生の支援をして、生活の中から水俣病を学びたい。相思社に入り、先生から水俣病を学び、仕事の中で潜在患者と呼ばれた被害者と出会った(2年間での特措法申請者は6万5千人。私たち相思社は6千人の対応をした)。水俣病は続いていた。そして水俣病公式確認から55年、原発事故が起きた。水俣病から何も学ばなかった私たちは、同じ経緯を辿るのだろう。

初めて溝口先生の裁判に行ってから10年が経とうとしている。色んなことがあったけど、2歳だった娘は11歳になって、私は29歳になって、いま水俣にいる。そして明日裁判が終わる。

地元で裁判を起こすことは、決して楽なことではないと、地元に帰ってきて思う。先生が21年間提訴せず耐え続けたことが物語っている。先生の勇気とこれまでの頑張り、気力は、愛する母のため、息子のためだ。

勝っても負けても、この裁判は、私にとって大きな意味を持っている。
あの時に、先生からもらったショックと罪悪感を持ち続け、先生や患者の人たちと繋がり続け、水俣病を伝え続けたい。

そして裁判が終わって先生が、ご自身の生活を取り戻せるように、
ここに生きて幸せだと思える場所、安心して死ねる環境を作りたい。

私が相思社で目指す「もう一つのこの世」の原点は、溝口秋生先生です。

溝口訴訟団

 

 
写真は相思社入社の2008年福岡高裁での溝口訴訟。
前列左から山下善寛さん、川本ミヤコさん(川本輝夫さん妻)、溝口秋生先生、永野三智、荒木洋子さん。高倉史朗さん、
後列左から牧野喜好さん、沖縄大学学生さん二人、緒方正実さん

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