大師匠と師匠と弟子と

今日は溝口先生と一緒に、渕上清園先生の家へ行きました。裁判が終わって、初めてのプライベートでの(?)飲みです。溝口秋生先生の勝訴のお祝いと、出会って師匠と弟子の関係になって61周年のお祝いでした。昼間から宴です。

 

清園先生の口癖は「ありがとう、ありがとう」「最高、最高」「良かった、良かった」。人を褒めたり、人に良くしてもらった経験ばかりを話す、清園先生。こんな風に年を取りたい。溝口先生は、この人の思想に惚れ込んでいます。
渕上清園さんは86歳の現役の書家。溝口先生が20歳の頃から書を習っているそうで、清園先生は当時25歳。その時から今でも一日10時間、書を書き続けています。
溝口先生が書をはじめてしばらく経った頃、友だちから「書ばはじめて大分経ったが、少しはお師匠さんとの距離は縮まったかな。師匠さんのごて、上手くなったかな」と聞かれ、溝口先生は「離れる一方ぞ」と答えたそうです。それだけ書を書いていれば、縮まるはずがありません。
石牟礼道子さんが先日おっしゃっていたことには、思想家でもあるそうで、道子さんはよく清園さんのお宅に足を運んだそう。様々な水俣への「お客さん」たちを清園先生のところへ連れていったそうです。
そんな清園さん、チッソの工員として定年まで働きました。水俣病事件については、「俺達は、チッソで飯を食うた。今もチッソの年金で暮らしている。チッソは今も私にとっては大事な存在じゃ。それには誇りを持つ。しかし、間違いは認めて正していかんといかん。ただの従業員であっても、知らんだったとしても、間違いは間違いたい。」とおっしゃっていました。
水俣では、水俣病とチッソが今も共存しています。外から見たら矛盾しているようだけど、市民、というか私にとってはそれが当たり前の光景でした。水俣病事件の構造は、そう単純ではありません。昨日、水俣の(患者ではない)高齢の人に、「水俣病センター相思社」と名前を出して電話をしたら、電話口で「あーいた、水俣病はすかん(嫌い)」「せからしか(うるさい)」などと怒声が聞こえ、ちょっとへこみました。友達に話したら、「水俣病好きな人なんていないよ~」と言われ、「あぁ、私もちょっと前までそうだったよな」と納得。なんだかこっち側に来てしまったなぁ(笑)。こっち側とかあっち側とか関係なく、もっと対話の場がほしいなぁ。作っていこう。
裁判については、「こん人(溝口先生)は、国だけじゃなか。シャバとまで闘ってきたっぞ。こん人が言う当たり前のことば、みんな無視して押さえつけてきた。当たり前のことがやっと通ったのが今回の裁判たい。」とおっしゃっていました。
そして先日から、清園先生は私にも「ありがとうありがとう」と言ってくれていました。さっき、何がありがとうなんですかと聞いてみたら、「文字通訳」でした。清園先生は、昭和36年3月6日に突然難聴に陥り、伏せる毎日を過ごしたそうです。「それから耳が遠くなったから、難聴者の気持ちはよく分かる。耳が聞こえない人の気持ちによく気づいたと思ったら、やっぱりありがとうなのよね」と。
2009年、原田正純先生が証言台に立った時に、溝口先生が居眠りをしていたことで、事の重大さに気が付きました。先生のための裁判なのに、原告の本人が聞こえていないのです。それから二人で病院へ通い、もう治せないことが分かりました。補聴器を使っても無理でした。そして山口弁護士を通じて裁判所へ通訳者の入廷を求めました。
原田先生はその日、先生の一番の心配ごとである胎児性水俣病患者の息子さんと、先生のお母さんについて証言をしました。一番聞いてほしかった原田先生の証言を聞くことができなかった先生の状況が悔やまれ、私が気付くのが遅かったと、ずっと悔やんでいたので、清園先生の一言が胸に刺さりました。
まだまだ後片付けが大変だけど、先生の生活が少しずつ取り戻されていくような気がします。こんなふうに、ちょっと飲みに行ったり、ちょっと旅行に行ったりしながら、残りの人生を一緒に愉しく送っていきたいなと思います。
明日は午前中に琉球大学の阿部さんという基地問題を教えている先生と、西南学院大学の田村さんという先生と学生さんがやってきます。午後からは、長年大阪Fさん訴訟の支援を続けた阪南中央病院さんをご案内。私の感じた水俣病を精いっぱいに伝えてきます。

 

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