[1989] 水俣病センター相思社の再生を求めて(答申)

1989年10月29日

相思社存続・管理運営検討委員会

Ⅰ 検討委員会の発足とその経過
1.委員会の発足まで
1)この委員会は、水俣病患者家産果樹同志会にかかる甘夏問題に対して謝罪の意を表すため水俣病センター相思社の理事全員が辞任するという危機的な事態に直面して、相思社の今後のあり方を検討するために、理事会の決定に基づいて設置されたものである。委員会の発足にいたるまでの経過は、以下のとおりである。
2)果樹同志会は、1977年の結成以来、水俣病患者の手になる低農薬・有機栽培の甘夏を販売してきたが、1988年度の甘夏の販売に際して、多量の注文量に応じるため、一部、会の基準以上の農薬のかかった品物を同志会の甘夏として販売するという重大な過ちを犯した。甘夏の販売については、同志会の事務局を引き受ける相思社も深く関わっていたため、1989年6月7日に開催された理事会において理事の責任が問題となり、理事全員が辞意を表明するにいたった。このことは、6月9日付けの新聞等に大きく報道された。
3)相思社は、7月以降、広く関係者を集めて検討委員会を開催し、甘夏問題の経過と問題点、今回の不祥事を防止できなかった相思社の体質や運営のあり方などについて意見を出し合って検討を重ねてきたが、7月29日の検討委員会で、今後は理事会の決定に基づいて正式の検討委員会を発足させ、その答申に基づいて相思社の今後のあり方等を決めることが確認された。

2.委員会の設置と経過
1)相思社は、8月12日の理事会において、相思社存続・管理運営検討委員会の設置を決定するとともに、理事長の名において現委員を含む12名に検討委員を委嘱した。このうち、半数の6名が辞退したが、結局、理事会の申し合わせにより、残り6名の委員をもって検討委員会が発足した。理事会から検討委員会に付託された諮問事項は、「相思社のあり方、仕事の内容、適正規模、適正職員数、適正理事定数、後任理事の推薦」の各項目である。
2)検討委員会は、9月7日第1回の委員会を開催し、委員長に富樫委員、副委員長に丸山委員を選出するとともに、諮問事項に関する検討を開始した。その後、9月16日、9月24日、10月2日、10月15日および10月29日にそれぞれ委員会を開催して検討をすすめた。検討委員会の議事録は、確認が終り次第、各理事に送付するとともに、報道陣にも公開した。10月15日に開催した第5回委員会において答申案の内容を検討し、これを大筋で了承するとともに、水俣病センター相思社の設立にあたって大きな役割を果たした主な患者や支援者にもこれを送って意見を聞き、10月29日の第6回委員会において最終的に答申の内容を確定した。
3)なお、佐藤武春委員は、議事録に明らかなように、第3回委員会まで検討に加わり、主に甘夏問題について発言したが、第4回委員会の開催を前にした9月29日、理事長並びに検討委員会委員長あてに辞任届を提出した。理事会はこれを受理するとともに、同委員の補充は行わないことを申し合わせた。

Ⅱ これまでの相思社の歩み
1.相思社設立の経緯
(財)水俣病センター相思社は、公式には1974年4月26日発足した。
第1次訴訟に一定の見通しがついて来た段階で、原告の間に、「判決後」が次第に意識されるようになった。地域のなかでいかに生きていくか、胎児性患者の将来はどうなるのか、お互いの絆が持続していけるか、等々、さまざまな心配・不安が表出されるようになった。それはまた、支援者にとっても気がかりな事柄であった。そこからやがて、「患者・家族の拠り所」をつくろうとの意識が醸成され、1972年6月のストックホルムで開催された第一回の「国連人間環境会議」に「水俣病センター」の設立を呼びかけた「水俣アッピール」が出され本格的に動き出した。1972年10月に公表された設立委員会の『水俣病センター(仮称)をつくるために』では、その期待される機能ないし果たすべき役割として、①認定・未認定を問わずすべての患者の拠り所、そして加害者に対する戦いの根拠地となり、さらには「もうひとつのこの世」をつくる場所 ②潜在患者を発掘し、患者の医療と養護にあたる血の通った医療機関 ③水俣病資料センター ④共同作業場、などが、具体的に構想され、これらを段階的に実現していくこととし、まず第一期計画が提起され、それに必要な資金へのカンパ活動が全国的に展開されるに至った。当初、目標額は1億円に設定されたが、その3分の1の約3,300万円が寄せられた段階で、ほぼそれに対応した用地と建物の計画が立てられ、1973年12月に起工、翌1974年4月落成、活動を開始した。こうした経緯で発足したために、当初から財政的には全く余裕がなく、その後の寄付は通常経費に組み込まざるを得なかったために、一般の財団経営にみられるような基金運用による経済的安定も望むべくもなく、そのため、発足時点から経済的自立が基本的な課題とならざるを得なかったのである。
なお、財団法人の根本を定めた規則である『寄付行為』では、その目的として「水俣病患者家族及び関係者の生活全般の問題について、相談・解決にあずかるとともに水俣病に関する調査・研究活動を行う」と規定されている。

2.相思社の組織運営
1)意思決定過程
①相思社の最高意思決定機関は、13人の理事からなる理事会である。理事のなかから理事長と常務理事が選任され、その理事長が相思社を代表し、理事会の会務を統括している。役員としては、そのほか2人の監事がおかれている。
②理事会は、設立当初は、年数回開かれていたが、1978年からは、毎年1~2回程度しか開かれなくなり、前年度の決算を承認し、当年度の事業計画と予算を決定するだけの機関になった。運営の基本に関する事項は、もちろん理事会で審議・決定されたが、社員の採用や運営費の調達などについては、ほとんど社員任せといってよい状態で事後承認に等しく、理事会が次第に形骸化していったことは否めない。その意味で、理事会は、相思社の運営責任を十分果たしてきたとはいえない。水俣病患者家庭果樹同志会との関係についても、理事会はもっと明確な方針を打ち出すべきであったと思われる。今回の甘夏問題については、理事会は、理事全員が辞意を表明するという形でその責任を明らかにした。しかしながら、理事の一部には、今回の不祥事をすべて社員の責任とし、自らは社員の責任追及の側にまわるという現象がみられるのは理解に苦しむ。
③ところで、当初は、この理事会のほかに、運営上の個別課題や具体的な活動を検討するために、数名の理事と各部門の担当者で構成された運営委員会が組織されていた。最初の殖産事業であるキノコ工場の計画もこの場で立案されたものである。この運営委員会は、年に3~4回程度開催され、それぞれの部門の活動の報告の場ともなっていた。ところが、1977年11月を最後にこの委員会の活動は停止してしまっている。この年には、申請協の事務局が相思社に移され、また患者同盟が旧訴訟派と旧自主交渉派に分かれ、後者と申請協に属していた認定患者による患者連盟が組織されており、こうした患者組織の変動が相思社の運営の仕方にも微妙な影響を与えたと考えられる。
④このように運営委員会が機能しなくなったために、日常的な活動は理事長の指示と社員の自発性と主体的な判断に委ねられることになった。しかも社員の努力によって経済的自立度が高まり、理事会も年1回程度の開催となるにつれて、ますますその傾向は強まっていった。
⑤こうして、社員の意向が相思社の運営を大きく左右するようになってきた。したがって、内部での協議や意思決定のあり方が重要になるにいたったが、組織の分化が進むにつれ部門が専門化し相互の意思疎通が十分行えなくなり、また、全体の意思統一も形骸化していく傾向が見られるようになり、その点の克服が内部的にも大きな課題となってきていた。

2)組織・部門
①手探りで開始された活動は、対内的・対外的な必要に対応して、ほぼ1年を経過する頃までには運営・医療・殖産・未認定患者担当の4部門に徐々に機能が分化するに至った。
②その後、活動の拡大に対応して組織の改編がおこなわれ、甘夏問題が発生した時点では、大きくは運営部・協同事業部・考証館の3部門に分けられ、これに生活学校が附属する体制となっている。このうち、運営部は、総務・経理・企画・渉外などの業者とともに水俣病認定申請患者協議会(申請協)・水俣病患者連盟とチッソ交渉団の事務局を引き受け、協同事業部は、堆肥班と石鹸・食品・寒漬・リンゴなどの販売、それに温州ミカン関係の事務局と解散前の甘夏の水俣病患者家庭果樹同志会事務局を担当してきた。考証館は、今年から環境調査部門を編入した。全体としては昨年度までより、いくぶん部門の統合がなされてきている。なお、そのほかでは、最近まで水俣市政研究会事務局が相思社の敷地内におかれていた。

3.相思社の活動
これまでの活動を大別すると、(1)患者・家族に対する支援 (2)水俣病被害の情宣・交流 (3)環境調査・監視 (4)運営費を確保するための収益事業、などに分けることができる。もっとも、これらの活動は相互に有機的に結びついており、またそれらは、さらに、それぞれ次のような具体的な活動に分けられる。
1)患者・家族に対する支援
①患者家族の寄り合いの場
物故者の法要を毎年行っている他には、事務局を担当している申請協や連盟それに同志会などの会員の会合の場として主として使われたが、それ以外の患者家族の足は次第に遠のいてきている。
②患者家族の日常生活や生産面での支援
患者家族の悩みや相談事への対応あるいは療養や農・漁の手伝いなどをはじめとして、こまごまとした日常的な支援活動もその要請に対応してかなり行われてきたが、ただし、それらが無原則的に行われた傾向がある。
③患者家族に対する医療面での支援
この活動は、設立時に主要な目的の一つとして掲げられていたものである。しかし、その趣旨に賛同して東京支援者グループから贈られた移動診療車も、医者が常駐できる態勢が整えられなかったこともあって、せっかくの善意を有効に生かすことができなかった。
そうしたなかで、1979年に開所された出月養生所は、鍼灸・マッサージなどを主として、それに食生活指導・健康茶の販売あるいは「養生所だより」の周辺住民への配布などを通して地域への定着を目指していった。しかし、鍼灸の担当者が相思社から独立したため、7年間で活動は終わり、その結果、現在は、恒常的な医療部門はなくなってしまった。
④患者運動の支援
潜在患者の発掘と未認定患者の救済に関する運動は、大きくは、対チッソ・対行政それに裁判闘争の分野で展開され、相思社はそれらのそれぞれの活動の事務局を担い運動を支えてきた。それらの活動は、本格的には、1977年の春に、申請協の事務局を引き受けた時から始まった。
ます最初に取り組まれたのは「総申請運動」であったが、具体的には、そのための広報活動あるいは申請のための検診の補助や諸手続きの手伝いなどをはじめとして、相思社の各メンバーは、当面担当している仕事のほかにそれぞれ部落担当として患者組織の連絡役も務めた。そのほか、行政に対する直接的な運動としては検診拒否運動や行政不服なども長期にわたって展開された。
また、この15年の間には、棄却取り消し訴訟、待たせ賃訴訟、不作為制裁訴訟、謀圧裁判、ニセ患者発言名誉き損訴訟、ヘドロ工事差し止め仮処分申請、川本刑事裁判など実に多くの裁判闘争が行われたが、それらを支えてきたのも相思社であった。そのほか、対チッソ運動としては、公調委への原因裁定申し立てを間にはさんでチッソ交渉が継続中であるが、この交渉団の事務局も相思社が担ってきている。
このように第1次訴訟判決後の水俣病患者家族の復権のためのさまざまな運動は、物品販売収益からのカンパなど資金面も含めて少なからず相思社の社員の活動に支えられてきたが、近年、申請協などの患者組織の衰退とともにこの面での相思社の活動はかなり低下してきている。

2)水俣病被害の情宣ならびに交流
水俣病の実態を広く知らせ、こうした被害の再発を阻止するために考え行動する手がかりを与えることも相思社に期待された活動の一つであった。この面では、具体的には、①水俣病資料の作成・収集ならびに展示・貸出と、②対外的交流の拠点ならびに窓口としての活動が行われてきている。
①水俣病資料の作成・収集ならびに展示・貸出
相思社がこれまで水俣病に関して作成した資料は、その時々の運動のための資料から外来者への説明書の類にいたるまで、実に膨大な量に上っている。そのための原資料の発掘や新たな調査なども少なからず実施されている。水俣の現在を記録しておくための写真集も作成された。それとともに、写真や映画の展示会・上映会にも広範な取り組みが行われている。そうした活動の延長線上に建設されたのが、水俣病歴史考証館である。この施設の前身の資料室は、1983年に建設され資料の収集と整理が本格的に始められ、1988年にかってのキノコ工場を改造して設立されたものである。県外からの来訪者も増加しており、今後、相思社活動の主要な柱の一つとなっていくことが期待されている。
②対外的交流の拠点ならびに窓口
外来者の受け入れ・交流の場として、相思社はこれまで活発な活動を展開してきた。設立間もない頃に早くもカナダインディアンとの交流や住民運動の交流集会などが開催されている。相思社を訪れた人は、設立以来2万人を越えており、そのなかには、学生・生徒・教師・研究者・生協組合員・宗教家それに外国人も含めて、実に多様な人々が含まれている。それら来訪者に対して、現地案内・説明あるいは相互交流・宿泊所の提供と、多様な交流の窓口となってきた。なかでも、1977年以来夏期に開設されてきた水俣実践学校は、水俣病問題や相思社の活動を伝える場として大きな役割を果たしてきている。
1982年に役立された生活学校は、この実践学校の活動をさらに発展させるものとして設立された。設置に要する費用は、支援者に債権を引き受けてもらうやり方で調達され、初年度は定員の3倍もの希望者があり21人で出発した。これらの参加者のなかには、終了後水俣に留まる者も少なからず出てきており、現在の社員のなかにもそうした経歴をもつ者が4人含まれている。しかし、設立を提起した者が学校運営から離れたり、初発の意気込みが薄れてくるにつれて、なかには水俣病問題に対して関心が希薄な参加者もみられるようになり、生活学校の理念に基づいた活動は現状では未だ中途半端な状態にとどまっている。今後、理事会の明確な方針のもとに相思社の一翼を担う活動として充実が図られなければならない。

3)環境の調査と監視
行政主導型の水俣湾の環境復元工事が着手されるに及んで、それに関わる安全性の点検の問題は緊急の課題となった。これに対しては、相思社は主要には、①ヘドロ・魚介類の水銀分析を定期的に実施するとともに、②ヘドロ処理事業が始まったのに対応して、陸海で継続的な監視体制をとってきている。そのほか、水俣湾の生物調査や湾周辺や不知火海沿岸の漁民への聞き取り調査などを実施、そうした環境調査も加えながら監視を続けてきている。

4)運営費を確保するための収益事業
早くから、経済的自立が目指されたために、そのための収益手業はやがて相思社活動の大きな部分を占めるに至った。そうした方向への傾斜が、結果的に相思社の本来の理念を損なうことになってしまったのである。もちろん、取り組まれた事業のほとんどは単なる収益追求を目指すものでなく、同時に患者との共同作業や安全な生産消費の生活様式をつくりだしていこうとするなどの別の意義を合わせもっていた。具体的な事業としては、殖産と物品販売に分けられるが、最初に取り組まれた殖産事業であるキノコ生産はとりわけそのような思いが込められていた。そのほか、各種の販売事業にしても、今回問題を起こした甘夏では、生産者患者家庭を経済的に支えるとともに低農薬有機栽培による安全な生産物を供給していこうとするねらいがあった。また、生活部が取り組んできた石鹸や食品販売も同様の理念のもとで取り組まれてきたものである。
①殖産事業
経済的自立と患者との共同作業場の両面を目指す最初の殖産として、キノコ生産工場が相思社が発足した年に着手された。しかし、資金は全て借入金で賄われたために、その後の返済金の負担が重く、しかも技術不足や価格の低迷などが重なって、結局9年目で閉鎖せざるをえなくなった。これに対して堆肥の生産は、患者家庭の柑橘類の生産で低農薬・有機栽培を働きかけていったこともあって、患者家庭や地域住民との交流において重要な役割を果たした。そのほかでは、小規模ながらみかん園が経営されている。一時、取り組まれたミミズの生産は結局「武士の商法」に終わってしまった。
なお、生活学校が独自に取り組んでいる殖産では、健康茶と鶏卵事業が安定した成果を上げている。
②物品販売
この部門でもっとも大きな取扱い高になったのが柑橘類なかでも甘夏の販売である。
水俣芦北地域では、かなりの患者家族が甘夏や温州ミカンを栽培しているが、農協の指導のもとでは農薬と化学肥料が大量に使用されており、生産者・消費者双方の健康が害されるおそれがあった。そこで、水俣病の被害者が加害者にならないよう、低農薬有機栽培による安全なみかんの生産を働きかけ、その産物の販売を担当することによって併せて患者家族の家計の安定に寄与することを目的としたものであった。そのため事務局を相思社におき、水俣病患者家庭果樹同志会や温州ミカン関係の部門を組織化し、事業の拡大を図ってきているが、この事業から得られる手数料収益は、結果的に相思社の財源の大きな部分を担い、その経済的自立を達成させるにいたった。そのほかでは、地元水俣の産物である寒漬の販売も早くから続けられてきている。
一方、外部から取り寄せた物品の販売では、長野県の低農薬・有機農法によるリンゴの販売がかなり大口としてある。そのほか、昨年度まで生活部が担当していた石鹸や安全な味噌・醤油・食用油・牛乳などの食品などの販売も安定した収入源となってきている。それとともに、こうした活動は、地域における石鹸使用・合成洗剤追放の運動の広がりへの大きな力となり、水俣において石鹸工場を実現させる一つのきっかけとなった。また、共同購入会の組織化へも貢献してきている。そのほかでは、写真集や関係書籍などの資料販売による収益などもあげられる。
こうして殖産・物販の規模が拡大するにつれて、それらを高率よく進行するための分業体制が固定化した。そのため、効率は上がったが、一面では分業化が進行し全体としての共同性が低下するという問題も生じてきた。ただし、一面では、その結果、収益活動以外の活動に取り組む時間的余裕ができてきたことも否定できない。
このように、当初、具体的な活動としては、①集会所・診療所・診察車・作業場の維持運営 ②患者・家族の生活・健康・労働についての相談・解決 ③その他、目的を達成するための必要な事業の3項目が掲げられたが、その後の相思社を取り巻く内外の条件の変化によって、その活動内容は少なからず変容を余儀なくされるに至ったのである。

4.相思社の財政
1)収入
収入総額の推移をみると、相思社が発足した1974年度は1,580万円、以後1981年度までは漸増、その後多少の増減を繰り返しながらも1988年度にはほぼ当初の3倍の4,870万円となり、かなり高い増加率となっている。この間の変化を財源構造の面から概観すると、大きくは3つの時期に分けられる。
①寄付金のウェイトが大きい時期(1974~1976)
この時期は、寄付金収入に大きく依存していた時期であるが、とりわけ発足持とその翌年度は、それぞれ1,230万円、1,030万円と1千万円以上に上り、総収入に対する比率も77.6% 45.9%と大きな割合を占めている。その後、寄付金は1978年度には830万円とやや減少したが、しかしまだかなりの額に上り、総収入の3割以上を占め財源の大きな柱となっている。なお、このころまでの寄付金のなかには、専従社員が毎月の給与の一部を寄付していた分も含まれている点を指摘しておかなければならない。
この時期のいま一つの大きな収入源はキノコ工場からの収入となっており、初年度を除くと総収入の4~6割近くをも占めている。ただし、人件費と経費を含めると、1975年度までは赤字となっており、ようやく1975年度に約60万円の黒字を出すに至ったが、しかし黒字経営もこの年以降3年間だけで、その後はまた赤字続きとなり、当初期待されたようには、実質的に相思社の財政的基盤を支えるところまで展開することはできなかった。
そのほか、寄付金とキノコ工場関係以外では、宿泊料や上映・書籍販売などによる収入や、それに1975年度からは寒漬の販売など「物販」収入が計上されるようになったが、まだ、いずれも全体のなかで占める割合は小さい。
②経済の自立が目指された時期(1977~1980)
1977年度には、それまでの経営経験から財政の安定を目指して、「寄付に頼らない」経済自立4カ年計画が立てられた。これによるとキノコ工場からの収益はその借用金の返済に当てるために一般財源としてはこれに頼らないことを前提としているが、結果的には、上述したようにキノコ工場は1979年度から再び赤字経営となり頼るどころではなくなっていった。この期の経済自立は、堆肥収益とみかん類の販売を柱とするものであった。実績としては、目標年度の1980年度には、前者が431万円、後者が424万円と総収入に対して両者ともそれぞれ12%余りと計画は達成したが、しかし、そのための経費や活動費も増大したため完全に自立するところまではいかなかった。なお、そのほかでは、この期の後半にはリンゴや鮭それに石鹸や食品の販売による収益が恒常的な収入源の一部として定着するに至っている。
③経済的自立期(1981~1989)
この時期になると、総収入のうちで寄付金の占める割合は10%前後以下になっており、とりわけ1985年度はわずか4.1%しか占めないほどになり、ほぼ自立を達成するに至った。このため、長期にわたった維持会員制度は1987年度を最後に廃止された。もっとも、1988年5月から、それまでの維持会員に代えて相思社協力会員が組織されている。ただし、こうした寄付金に代わって、収入の大きな柱になってきたのが甘夏販売関係の収益となっており、1983年度からは総収入の3割以上、とくに1985年度以降の3年間は4割前後を占めるに至っているほどである。これに、甘夏に関連する堆肥による収益を加えると、両者で1984年度から4年館は5割以上を占めており、これら両部門が相思社の財源として大きな位置を占めていることがわかる。そのほかでは、この期もリンゴや鮭、それに石鹸や食品のいわゆる物販収益が引き続き安定した財源となっている。なお、1986年度から、それまで一貫して現象してきていた寄付金が金額的にも比率的にも増加傾向を示してきているが、これは考証館建設にともなういわば目的的寄付が多かったことによるものである。
このように、財政的にみると、経済的自立が強く指向されている点が際だっており、それが結果的にともすると収益優先の事業活動を推進させることになってしまった。
2)支出
支出の内訳で恒常的に大きな割合を占めているのは、人件費と運営費である。人件費は、初年度を除くと1982年までは3割台に止まっていたが、それ以降はほぼ4割台で推移してきている。ただし、職員の給与は、一般社会と比べるときわめて低い水準となっている。一方、後者は過去5年間は5割近くを占めいま一つの大きな支出分野となっているが、その内容が複雑かつ支出目的別のデータがわからないために、自動車維持費が目立っているなど断片的には傾向が捉えられるが、全体としての分析は困難である。運動体的組織が内包しがちな問題ではあるが、今後、会計処理についてはさらに検討を加えていく必要がある。とくに収益事業におけるコスト計算については厳格に取り組むべきである。

5.甘夏問題の背景と経緯
1)水俣病患者家庭果樹同志会の結成と展開
①相思社が同志会の結成を働きかけたきっかけには、大きくは二つの目的があった。一つには、多くの患者家庭が栽培している甘夏を通して生活を支援しつつ相互の連帯の場をつくりだしていくこと、いま一つは、農薬を減らして生産者・消費者双方にとって安全な甘夏づくりを推進して行くことである。そのために、1977年に同志会を結成、販売は産直方式をとりその事務局を相思社が担うことになったものである。
②初年度の出荷量は36トンと少量であったが、生活クラブ生協との提携などによって販路が拡大したことにより、出荷量は翌年には会員外の甘夏を含めて早くも118トンと百トンを超え、以後331トン・366トン・593トン・787トンと急増、1984年以降はほぼ800トン台と大規模な扱いで推移してきている。
③会員数は、最初は19人で出発、4年後に49人になったところで水俣芦北地域の会員数は固定化した。1985年には、このうち1名が減少、一方、御所浦の会員11人(翌年から12人)が認められ本年にまで至った。このようにある時期から、会員の拡大は、会員の甘夏の売れ残りを心配して同志会から認められなくなったが、一方、会員の増加を図っていた事務局としても完売の確信がもてるまではそれを強く要請することはできなかった。なお、水俣芦北地区の会員の平均出荷量をみると、最初の年は1.9トン、2年目3.2トン程度と当初は少量であったが、1982年以降は10~15トン台を占めるまでに増大して現在に至っている。

2)甘夏問題の背景
①水俣病患者家庭果樹同志会が、会員以外のしかも同志会の低農薬基準に合致しない甘夏を、会員が栽培したものとして偽って販売した今回の問題は、偶発的に発生したものではなかった。
②今回の問題の直接的な原因となった会員外の甘夏の扱いは、会が発足した翌年の1978年、会員の生産量が注文量を下回ったために、それをカバーするために早くも会の方針として始められている。この時点から、すでに、会員の生産量より注文が上回った場合には、会員以外の甘夏を調達して注文に応ずるという方針が会として承認されていた。そして、そうした会員以外の甘夏は、まずは同志会規格に近いものが集荷されたが、年によってはそれだけでは注文量に対応できず、たとえば、1985年にも今年と同じように同志会の低農薬基準に達しないものを取り扱って出荷量を確保したことがある。ただ、この時は、販売先に対しては、その旨相思社事務局の名で予め断わって販売したとのことである。このように会発足以後、同志会とその事務局を担当した相思社は一貫して販売量の拡大に努め、そのため、注文量に応じて会員外の甘夏も取扱ってきた。その結果、取扱量は、会が発足した1977年にはわすか36トンであったものが、1984年以降はほぼ800トン台で推移するほどまでに大規模化するに至ったのである。
③このようにとくに相思社事務局が、会員以外の甘夏を積極的に扱いだした背景には、低農薬・有機栽培という理念を共有する生産者を拡大したいとする意図と、「一定の価格を保証して会員の甘夏を完売」しなければならなかったために常に販路を拡大・維持しておく必要から生産量と注文量のギャップを埋めるために調整部分をもつ必要があったこと、それに、事務局自体としても、手数料収益を増大させていく必要があったことなどがあげられる。とりわけ、事務局の手数料収益は、相思社の経済的自立が目指されるなかで その大きな柱として期待されたために、注文量に対する確実な供給と販路の拡大は事務局にとってもいわば至上命令となっていた観がある。こうして、いわば、一石三鳥をねらった会員外甘夏への取り組みが行われたといえる。
④しかも、手数料の引き上げが抑えられていた同志会会員の場合と比べると、御所浦などの会員外の甘夏の手数料収益は大きかったために、後者との取引は事務局にとってはきわめて魅力ある取引となっていた。事実、事務局の総手数料収益のうちで、会員以外の手数料は1981~83年までは2割そこそこだったものが、1984年になると3割台、1985年以降今年までは4~6部までも占めるほどになっているのである。
⑤相思社事務局は、このように会員外取引を増加させていったが、それとともに同志会にその取引の全容をきちんと報告しなかったり、全く内密に取り扱った部分などを抱え込むに至った。このように、事務局が、同志会に内密に取引を拡大していった背景には、同志会自体が会員の甘夏の完売に固執し、会員の拡大による売れ残りを危惧して新会員の加入に消極的であったことがあげられる。すでにみたように、水俣芦北地区の会員数は1981年に49人になったところで固定化し、その後は1985年に御所浦の会員がわずかに11人(翌年から12人)が認められたのみであった。会員の甘夏のすあがり返品など不良品の問題もあったとはいえ、そうした会員外取引が、1983・86・87年などの同志会の甘夏の売れ残りを出し、会員にその損害を負わせる結果になった原因の一つともなったことは否定できない。
⑥もともと相思社事務局としては、同じ患者家庭の生産する甘夏である以上、水俣芦北地区の既存の会員のそれと、御所浦などの患者家庭の甘夏を区別せずみ平等に扱うという考えをもっと強く主張すべきであった。また、会員外の甘夏は、同志会とは別に、相思社の責任において集荷販売することもできたはずであり、扱うとすればそうすべきであったにもかかわらす、対外的には、あくまでも同志会の甘夏として販売するという無理を重ねてきた。こうして事務局の運営に不透明さが生ずることになったのである。
⑦もう一つの問題点として、会員の生産する甘夏を全量引き取り、それを完売するという方針を絶対化した点があげられる。こうした方針自体にもともと無理があったし、これが相思社事務局と同志会との関係を歪める落し穴になってしまった。その結果、同志会の会員の家計を全面的に抱え込んでしまうとともに、会員に生産量さえ拡大すれば、それに応じて収入も確実に増やすことができるという幻想を与えてしまったことも否めない。こうした患者家族に対する支援のあり方は、きわめて問題である。このように患者家庭の要求には全面的に応えなければならないという誤った支援の思想が、結果的に今回の事件を引き起こしてしまったのである。
⑧それに加えて、販路が拡大するにつれて水俣病被害者に対する支援という面とともに、「低農薬・有機栽培」による甘夏だから購入するといった消費者も増加してきて、事務局は、顧客管理や品質あるいは納期などで一般の商取引と変わらない厳しさを求められるようになってきたにも拘らず、そうした新たな段階のもとで要請されてきた手数料や宣伝などでの同志金との関係のあり方の検討を怠った。
⑨また、事業規模の拡大に応じて、事務処理や販売活動の合理化が進められたことによる事務局の専門化・主導化が、会員の事務局への依存傾向を助長するとともに、一方、相思社内部では、その活動を点検・共有する機会を少なくしてしまった。その結果、事務局が抱えたそうした問題状況を放置させることになり、内部告発とマスコミ報道によってはじめて問題が明るみに出されざるを得なかった状況をつくり出してしまったのである。
⑩いま一つの問題点として指摘しておかなければならない点は、被害者が加害者にならないために「有機農業による無農薬栽培」(規約第4条)を目指すとした理念が、会員・事務局いずれにも十分自覚化されていなかったことである。そのために、同志会会員以外の甘夏を安易に扱いはじめてしまったのである。会員のなかにも、その理念的価値に基づくというより、その方が収益が大きいがために低農薬・有機栽培の生産方式に従っているといえなくもない姿もみられる。

6.小活
1)かなり早い時期から、いつまでも支援者の好意に甘えてはならないとして相思社の経済的自立が目標として掲げられてきた。その目標がほぼ達成された段階で、今回の甘夏事件が顕在化したということは、そうした目標の達成を最優先するあまり、相思社の本来の理念と目標が内部で見失われていたからに他ならない。
2)活動面では、当初は「患者・家族の日常生活の拠り所」としての期待が大きかったが、しかし、発足当初から現実には、当時水俣病問題の焦点となってきた「未認定患者運動の拠点」としての任務が大きくなり、前者の機能を十分果たせなくなり、そのため旧訴訟派を中心とした認定患者の期待にあまり応えられなくなった。とりわけ、申請協の事務局が相思社に移管された以降は、この組織の運動を支えることが最大の活動となり、膨大な未認定患者が存在したが故にその支援活動だけでも相思社の力量を超えるほどのものであった。そのため、相思社から次第に疎遠になっていった旧訴訟派の人たちとの対話がおろそかになっていった。もっとも、長い間苦しい闘いを続けてきた旧訴訟派の人たちが、勝訴判決とそれに次ぐ協定書の成立で当面の目的を達成し、運動の担い手から生活者へ回帰していったこともその背景にはあったといえる。また、立地条件や施設の面からも、相思社が単なる集会所としてだけ機能していくことにはもともと無理な一面があったことも否定できない。
3)ところが近年、未認定患者の運動が壁に直面して停滞してきているために、「運動の拠点」としての性格自体が薄れ、しかも、経済的自立が最大の目標として掲げられそのための活動にウェイトを置きそれに大きなエネルギーを注ぐようになったために、運動の拠点としての意識が一段と希薄になりがちな社員も見られるようになった。その結果、「社員の共同生活の場」としての一面が強く意識されるに至ったことも否めない。こうした実情に対しては、既に1981年度の理事会でも、経済活動と運動それに社員一人一人の生き方を大事に生きていくためにはどうしたらよいか、話を深めてほしいとの要請が出されているが、内部において十分受け止められぬまま現在に至っている観がある。

Ⅲ 今後の相思社のあり方
1.相思社設立の理念と活動の方向
1)水俣病センター相思社は、水俣病患者の囲いに心を寄せる全国各地の幅広い支援者たちの寄付金によって建設された。相思社は、患者たちの長い人生を支えていく拠りどころとして、水俣の地に、患者家族がいつでも寄り合うことのできる集会所などを確保し、その生活全般にわたる相談に応じながら、種々の問題の解決にあたることを主たる目的として設立された。また、相思社は、補償協定の調印によっては、水俣病問題が終わっていないことにも思いをいたし、水俣病に関する調査をふまえて、まだ救済されていない未認定患者の闘いを支援するということも同時に期待されていた。
このような目的を実現するために、水俣病センター相思社の設立にあたって、つぎの4つの具体的な目標が掲げられた。①集会所を作ること、②医療基地を作るための第一歩として移動検診車を備えること、③水俣病に関する資料を収集・保存するために資料室を作ること、④患者のための共同作業場を作ること。
2)それでは、水俣病センター相思社の設立運動は、どのような思想なり思いに支えられていたか.水俣病センター設立委員会のアッピール『水俣病センター(仮称)をつくるために』は、つぎのように述べている。
「私たちが患者や家族の方々の志をうけて計画することは、ささやかといえばささやか、素手でとりくむにしては、遠大といえば遠大なものかも知れません。しかし、高度成長を誇る日本の経済社会、あるいは現代文明そのものの犯しつつある人間破壊にあらがいながら、私たちみずから、もう一つの異なった人間的な連帯の原理と現実を求めて試みることは、あるいは途方もない結実を、この現世にもたらすことになるかも知れません。」
また、つぎのようにも述べている。
「自らの精神と肉体の限りない痛苦を代償に、水俣病患者たちがさまざまなありようをもって私たちに示唆するものは、きわめて深いものがあります.多数の私たちの手によって建設されようとする水俣病センターは、これらすべての意味を、そして私たち自身の、生きるということの決意を、目に見え、形あるにものする貴重な試みの、一つの出発ともなるものでありましょう。」
水俣病センターの建設にかけるこれらの思いは、それによって現代日本の社会のただなかに、「もうひとつのこの世をつくる」ということばでも表現された。「もうひとつのこの世」がそう簡単には実現できるものではないという意味では、これは、一つの夢であり、しかもきわめて壮大な夢である。
3)このように、相思社は、水俣病を通じて新たな連帯の原理をつくり出し、それを目に見える形で現実化するという遠大な理想をかかげて設立された.しかし、相思社は、「当初から困難な課題をもって発足した。当面の具体的な目標として設定された4つの目標も、その後の経過を見れば明らかなように、これを実現するのは容易なことではない.医療基地の建設は、いまだ実現できていないし、キノコ工場の実験が示すように、患者との共同作業場を維持するには、多くの困難を覚悟しなければならない。しかも、運営費をまかなう基金があるわけでもなく、相思社の財政基盤は、きわめて脆弱である。しかしながら、水俣病センター相思社は、自らの理想と目標をかかげて、苦闘しながら存在し続けることに意味があり、相思社の存続自体が新しい社会的実験である。したがって、水俣病センター相思社には、もともと安易な道などあり得ないのである。相思社がこうした初心をさすれ、設立当時の壮大な夢とこれにかける決意を見失うならば、そのとき相思社の存在理由もなくなるであろう。

2.今後の活動のあり方
1)基本的には、一方で、水俣病患者の運動がつづく限りそれを支え、水俣病に関する資料を収集・保存・展示し、水俣病事件の経験を正しく伝えていくとともに、他方、さまざまな事業活動を通じて相思社を維持するのに必要な収益を確保する。収益を上げるための事業が自己目的になってはならず、むしろ相思社の行う事業を通じて、患者運動に対する支援を訴え、ともに水俣病事件の経験を学び、連帯の輪を広げていくという意味を持つことを軽視してはならないであろう。
2)将来の水俣病闘争を展望するならば、これまでのように、患者運動の支援を中軸にして相思社を運営するようなことは考えにくいであろう。したがって、相思社は、今後、もっと日常レベルの活動に目を向けていく必要がある。考証館の活動、個々の患者を対象とする世話活動、実践学校、水俣病関連の諸団体のネットワーク作り、連帯の輪を広げていくための広報活動、被害の聞き取りを含めた調査活動など。キノコ工場の実験は成功しなかったが、その経験を生かして、もう一度共同作業場に挑戦することも今後の課題であろう。
3)相思社の活動がマンネリズムに陥らないように、活動を担う者がたえず学習し、新鮮な問題意識をもち、想像力を働かせながら活動を展開していく必要がある。そういうなかから、新しい活動の内容やスタイルを作り出していくことが求められている。
4)相思社の運営費をまかなうための事業活動は、今後とも相思社の活動の柱の一つである。これまでは、同志会の甘夏の取扱手数料を主とする事業収益が相思社の財政を支えてきたといっても過言ではないであろう。しかし、今回、この事業活動に関連して弁解の余地のない不祥事を引き起こし、水俣病の運動に心を寄せる全国の支援者や国民の信頼を裏切るという過ちを犯した。今回の不祥事に対する批判に応えるためには、事業活動を含めてこれまでの相思社のあり方を総点検し、もういちど出発点に立ち返って出直すしかないであろう。そのために、同志会の甘夏の取扱いについては、当分の間、取扱いを中止することを含めて抜本的に再検討すべきである。このことが相思社の財政に与える打撃の大きさは計り知れないものがあるが、むしろこの苦境を積極的にとらえ返して相思社の再生をはかるべきである。

3.組織運営のあり方
1)これまでの歩みを撮り返ってみると、相思社の運営は、1977年から1978年にかけて、大きく変わっている。理事会の開催回数が減り、それまで重要な役割を果たしていた運営委員会が廃止され、理事長と社員、とくに理事長中心の体制になった。そのため、申請協を軸とした患者運動の支援体制としては効率的になった反面、相思社の運営に外からの意見が入りにくくなり、設立時に掲げられていた目標も次第に見失われていったように思われる。このようにして、相思社は、次第に外に開かれた存在ではなくなり、特定の患者集団の拠点としての性格を強めることになった。少なくとも、旧訴訟派をはじめとする他の患者グループからそうみられるようになったことは否定できない。このような体制は、運動の必要上、一時的にはやむをえないという面はあったが、それが長期化し固定化したところに問題がある。
2)理事会は、相思社の運営について実際上の責任をもち得る理事9名から構成し、最低年2回は開催する必要がある。理事は、これまでの経験に照らして、7名ないし9名とすることが適当であるが、さしあたりは9名とすべきであろう。また、相思社の活動における社員の重要牲を考えると、社員理事を考えてよい時期にきている。また、相思社の運営に関して理事会を補佐するため、諮問機関として運営委員会を常置し、毎年数回開催することが望ましい。運営委員会は、特定の検討事項について理事会の諮問に応じるほか、総支社の活動全般について報告を受け、必要に応じて、随時、理事会に提言する委員会とする。理事以外に少数の顧問を置き、必要に応じて意見を聞けるようにすることが望ましいであろう。顧問としては、理事長経験者を推薦したい。
3)相思社の活動は、日常的には社員がその担い手である。相思社の運営がうまくいくかどうかは、社員一人ひとりの決意と自発性にかかっているといっても過言ではない。その意味で、相思社の社員は単なる職員ないし使用人ではない。
相思社の活動を活性化し、それを円滑にすすめていくためには、社員会議を定例化し、最低月1回は開催し、社員全員が相思社の活動全般について理解を深め、問題意識を共有できるようにする必要がある。そのほかに、随時ミーティングを行い、社員の意思形成が円滑に行われるようにすべきである。
社員のまとめ役として、これまで同様に、相思社世話人を置き、社員会議の招集や司会、各部門間の調整、対外的な連絡、外来者の応接その他、いわば事務長としての責任を果たすようにすべきである。世話人は、社員会議の推薦に基づいて、理事会が任期(2年)を定めて委嘱することが望ましい。
4)相思社の運営に必要な社員の定数は、一律に定めることはできない。未認定患者の運動がどう展開するか、どのような訴訟が提起されているかなどの事情によって、社員の必要数は流動的だからである。この点については、理事会が判断して決定すべきである。ただ、当面の問題としては、現在いる社員がこのまま相思社にとどまる意思がある限り、社員としての身分を保障すべきである。したがって、将来の問題になるが、通常必要な社員の数としては10~15名程度が適当であろう。相思社の財政事情を考えると、社員が多すぎては運営に支障がでてくるが、逆に10名未満では、相思社の活動が円滑にいかなくなるおそれがある。
5)社員の採用と処遇については、これまでのように社員任せではなく、理事会がきちんと責任をもつべきである。社員の給与についても、社会的にみて妥当と思われる水準のものを支給すべきで、いつまでも社員の奉仕の精神に依存するのは問題である。この点で、社員とボランティアないし社外の支援者とは明確に区別すべきである。
6)これまでの経験が示すように、専従の社員だけで相思社の全活動をカバーするのは容易なことではない。状況にもよるが、相思社はつねにボランティアの参加を必要としている。従来は、この点について積極的に考えてこなかったように思われる。今後は、ボランティアの参加をもっと前向きにとらえていく必要があるとともに、専従社員とボランティアとの協同のあり方についても検討すべきである。

4.財政基盤の確立
1)水俣病センター相思社の基本財産は、現有の土地と建物だけであり、もともと運営費をまかなえるような基金は設けられていない。相思社は、設立当初から、いわば運営費を保障されていない財団法人として発足した。したがって、毎年度の運営費は、相思社の活動にともなう収益金や寄付金などによって調達しなければならない仕組みになっている。相思社にとって、運営費を調達することは、それ自体、運動の一環をなすといってもよいであろう。
2)運営費の調達方法は、①寄付金、②考証館等の収入、③事業収益の3つの柱からなるが、この3つはバランスのとれたものであることが望ましい。ここ数年の収入状況をみると、寄付金の占める比率が年々低下し、甘夏の取扱手数料を主とする事業収益が増えて、年間収入の過半を占めるまでになっている。その意味で、相思社の財政は甘夏によって支えられていたといっても過言ではない。しかし、相思社の財政が一つの事業収益に依存するという状況は、決して健全なものとはいえない。収入源をもっと多様化し、分散する必要がある。
3)とくに、寄付金収入が大幅に減ってきていることは問題である。支援者から寄せられる寄付金は、物心両面で、相思社にとって文字通りの命綱である。相思社は、その活動を通じて支援者にメッセージを送りつづけ、これに応えて支援者からは相思社維持のための寄付金が送られる。このような関係を維持することは、相思社の運動にとって本質的に重要なことである。ここでは、金額の多寡よりも、相思社のあり方の問題として、支援者との関係をどう位置づけ、作り出していくかということが問題の焦点である。これまで、相思社は、甘夏関連の収益に安易に依存するあまり、この点を軽視してきたといわねばならない。
4)長期的には収支の均衡が財政の基本であるとすれば、相思社の適正な活動規模に合わせて収入と支出を見直す必要がある。ともすれば過大になりがちな支出を前提として、それに見合う事業収益を増やすことだけを考えるのは本末転倒であろう。将来の問題としては、人件費も全体として適正な規模のものにする必要がある。

5.患者と相思社の関係
1)水俣病センター相思社は、もともと患者家族がいつでも寄り合うことのできる場所として、また、水俣病患者を長期にわたって支援していくための拠点として作られた。その意味では、相思社は、文字通り水俣病患者あっての相思社である。相思社は、もともとどの患者グループにも開かれた施設であるとともに、そこで働く人々による現地支援活動の拠点でもある。しかし、一口に水俣病患者の支援といっても、患者数は、設立当時とは比較にならないほど増大し、多くのグループに分かれ、その考え方も非常に多様化してきている。
このような状況のもとで、水俣病患者と相思社との関係はどうあるべきなのか、また相思社はどのような形で患者を支援すべきなのか。この点は、従来、必ずしもはっきりしていなかったし、そのために患者と相思社の間に誤解やトラブルがなかったとはいえない。これまで、両者の開係は、なんとなくまだ数の少なかった時期の患者と支援者の関係の延長線上で考えられてきたように思われる。個々の支援者の立場では、各人それぞれの考えにしたがって患者と多様で個性的な付き合い方が可能であるし、それで割り切ることもできる。しかし、相思社という組織体においては、患者との付き合い方についても一定の方針を立ててやってく必要がある。
2)働き手の点でもまた財政的にも、相思社のなしうることには限りがあり、患者の要求にすべて応えることはとてもできないことである。まして特定の患者の生活上の問題を丸抱えするような形で支援することなどは到底不可能であり、またやるべきことでもない。その時々において相思社がどのような問題を重点的に取り上げて支援していくかは、結局は理事会と運営委員会で判断していくよりほかないであろう。
いったい、相思社との関係では、患者は支援を受けるだけの受益者なのか。そうではないであろう。本来、相思社の運動は、患者有志の主体的な参加を期待し、その経験を生かしながら患者と支援者との共同の事業として展開されるべきものである。その意味では、患者と支援者との関係を固定的にとらえて、それを絶対化するのは問題であろう。同志会との関係においても、支援のあり方に大きな問題があったといわねばならない。
3)相思社の社員を含めて、患者と支援者の関係は、同じ人間として深い意味で対等のものでなければならない。水俣病患者が人間として解放されなければならないのと同様に、水俣病に拘わる支援者もまた同じように人間として解放されなければならない存在である。両者の関係は、ともに人間としての自己実現を求めて闘う者同士の連帯関係でなければならない。そして真の連帯関係は、互いの人間としての主体性と自発性を最大限に尊重し合うところにしか生み出されないであろう。しかし、現実には、日本の社会そのままに、一方が他方を支配したり、両者が甘え合う関係になりやすい。これは水俣病の運動が克服すべき大きな課題である。水俣病の運動は、患者の認定・補償という当面の具体的な要求を実現することで終わるのではなく、患者と支援者、また支援者同士の深い交わりを通じて新しい連帯の原理を作り出していく運動でもある。それが、「もうひとつのこの世」を作るということの意味である。

6.相思社と他の団体との関係
1)水俣には、患者団体をはじめとして、直接間接、水俣病の運動に連なる団体やそこから発展した運動体がかなり多数存在し、それぞれ独自の活動をつづけている。それらの団体のなかには、相思社またはその社員が中心となって関わっているものもあれば、相思社が事務局を引き受けているもの、相思社内に事務所を置くものなどさまざまである。今回問題になった水俣病患者家庭果樹同志会もその一つである。従来、これらの団体と相思社との関係はかなり曖昧で、責任の所在も明確ではなかった。こうした曖昧な関係は、それぞれの団体ないし運動体の主体性を損ない、双方にとってマイナスである。
2)この際、相思社本体と相思社が関わる団体との関係をきちんと整理し、両者の関係をもっと分かりやすいものにする必要がある。まず、相思社が関係する団体の主体牲を明確にし、ある団体成体を相思社が丸抱えするような関係はやめるべきである。そのためには、患者団体を含めて関係団体の事務処理なども相思社本体のそれと区別できるような形にするのが望ましいであろう。果樹同志会については、その事務局を相思社以外の場所に置き、同志会の主体性をもっとはっきりさせるのが望ましい。果樹同志会は、もともと相思社の呼びかけに応えて結成されたという経緯があるにせよ、会員数の増加、取扱い高の飛経的増大、それに伴う経理その他の事務長の増大といった状況を考えれば、自前の事務所と事務員をもって甘夏の生産・販売に当たる必要のある規模に達しているといえる。もし同志会が今後も相思社からの援助を必要としているならば、両者の間で明確な協定を績んで、事務の委託を受けるなり事務員を出向させることなどを考えるべきである。
3)水俣の現状をみると、水俣病の運動に関わる団体がばらばらに存在し、互いに反発し合い、それぞれの活動に当たって相互の協力や連携がうまくできない状況にある。このような状況のなかで、相思社も特定の患者グループや運動体と一体のものとみられてきたことは否定できない。これは悪い意味でのセクト主義文化であり、相思社もセクトの一つとみなされることによって運動の活力や広がりが損なわれる結果になっている。これは、相思社にとって克服すべき課題である。むしろ、今後は、相思社自体が外に開かれた存在になることによって、多様な団体や活動の間をつなぐ役割を積極的に担っていくべきであろう。相思社が、いろいろな団体の間の対話と協同をつくり出す場となることは、水俣の現状に照らして、十分意義のあることである。

Ⅳ 残された検討事項
1.財団法人水俣病センター相思社の理事定数は、これまでの経験と実際上の必要に照らして現行の13名から9名に減員することを提案したが、そうするには寄付行為の変更が必要である。また、寄付行為の変更は、主務官庁の認可を受けなければ効力を生じない。現理事会で寄付行為の変更を行い、その発効をまって9名の新理事を選ぶか、それとも、とりあえず13名の新理事を選び、その理事会で寄付行為の変更手続をするか、いずれかの方法を選択しなければならないが、相思社の15年の歩みを一つの区切りとして新たなスタートを切るためには、前者の方法が適当である。
2.現行の寄付行為は、この15年にわたる運営の経験を考慮し、また相思社の今後のあり方を考えると、実情に合わない点や不備な点が少なくないので、これを手直しすべき時期にきている。寄付行為の見直しと必要な変更は、多少時間をかけて行うべきであろう。

Ⅴ 次期の理事および運営委員について
1.検討委員会が推薦する次期の理事は、別紙のとおりである。
2.理事会は、できるかぎり早急に運営委員会を発足させ、新規事業の検討などを含めて当面必要な検討に着手すべきである。

Ⅵ むすび
1.この委員会が同志会の甘夏問題をきっかけにして設置されたことは、前述のとおりである。この問題が一部の同志会会員の内部告発という形をとって指摘されなかったならば、おそらく同志会はもとより相思社も問題の重大性を深く自覚することは困難であったと思われる。水俣病センター相思社の15年にわたる歴史のなかで今回の事件のもつ意味をどう考えるかは、これを見る人びとによってさまざまであろう。問題の重大性といっても、どのような意味での重大性であるかは、これまた見る人の立場によって異なる。
いずれにせよ、この委員会は、甘夏問題を含めて、設立以来15年にわたる相思社の活動全体を点検し、その運営上および活動上の問題点を明かにしながら、できるかぎり事実に即して公平に15年の歩みを評価しようと努めた。
2.相思社のこれまでの歩みを振り返ってみると、設立当初に考えられていたものとはかなり違った歩み方をしてきたことが分かる。なぜそうなったか。一つには、未認定患者を中心とする、この15年間の水俣病の運動とそれが置かれた状況がこのような歩み方を要請したということができる。しかし、もう一つの要因としては、当面の運動に追われて設立当初に掲げられていた水俣病センター相思社の理念が次第に見失われてきたことを挙げなければならない。今回の不祥事もこの点を抜きにしては考えられないことである。
しかし、甘夏問題に関連して犯した今回の過ちをもって、この15年間の相思社の活動実績を性急に否定し去るのは明らかに行き過ぎである。相思社は、数々の裁判闘争を含む未認定患者の運動を支える拠点として大きな役割を果たしてきたし、実践学校や生活学校の試み、さらに最近の考証館の建設などを通じて水俣病の経験を正しく伝えていくという活動においても、かなり大きな成果を上げてきた。また、結果的には失敗に終わったが、キノコ工場の操業も貴重な試みであったといってよい。
3.その意味で、この15年間の水俣病の運動は、相思社の存在を抜きにしては語ることができないし、現在においても、水俣病センター相思社はその存在の意義を失っていない。しかしながら、この15年間に、相思社が抱えてきた運営上および財政上の矛盾や問題についても、目を閉ざすわけにはいかない。私たちは、検討委員会の作業をすすめながら、改めてその問題の大きさと深刻さに気づかされた。相思社のあり方の根幹に関わる問題は、これまでのあり方をそのまま継続していくだけではおそらく解決が困難であろう。その意味でも、いま、相思社は、もう一度出発点に立ち返って新しく歩み出すことが求められている。そして、それこそが相思社の再生を実現する道である。

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