生駒秀夫さんのこと

生駒秀夫さんが2月23日に亡くなられました。81歳でした。

生駒さんは、1943年に朝鮮半島で生まれました。母親はすぐに他界し、次の母も5歳くらいの時に他界されたと聞きました。

水俣に引き上げた直後は、中心部の防空壕に暮らしておられたそうです。その後、引っ越した先は、水俣病の激発地である袋湾のそばの弾薬庫。

脳梗塞で倒れた父親をヤングケアラーとして介護しながら、極貧生活をおくったといいます。

中学生だった1958年の夏休みに、洗濯場であり、風呂であり、「米びつ」だった目の前の海で発症して、「カニ食べて発症」と新聞に掲載されたのが生駒さんでした。

「水俣病は終わった」「患者はもう出ない」(水銀はバンバン排出されていたのに!)と言われた頃の出来事で、それによって水俣病に再び光があたったそうです。

発症した中学生の生駒さんは、熊本大学病院、藤崎台病院などに入院し、症状が改善したとはいえないまま、中学卒業後に奈良のボビン工場に就職をされました。

2018年、水平社博物館から私に、講演のオファーがありました。すぐに、「また奈良に行きたい」といっしょに仕事をしたときに言っていた生駒さんの顔が浮かびました。だけれども、私だけではムリ!と、近所の高平さん、熊大の香室さん、同僚の葛西さんに声をかけて、みんなで奈良行きを計画しました。

そして、当時お世話になったボビン工場と、寮でお世話になった寮母さんに会いに行くことができました。

当時、病状を必死に隠して、誰とも交流せずに働くも、奈良で水俣病であることが知られて差別を受けたこと、休みの日にはたった一人で寮にいるか、または大阪環状線をひたすら乗り続けるしかなかったと、奈良へ行く道中につぶやいたことが忘れられません。

すさまじい苦労と努力のなかに、生駒さんの人生はあったのだと思います。胎児性水俣病患者のようにある意味で守られた存在ではない生駒さんは、水俣病を隠さなければならない状況にあり、自立して一人前に働くことを強いられた。

奈良の旅では、1956年の「水俣病の公式確認」も知らず、1969年の水俣病第一次訴訟の原告になるという選択肢も知らず、ただひたすらに、必死に、日々を過ごしておられた生駒さんを知りました。

講演のクライマックスはいつでも妻の幸枝さんとの出会いと、結婚が決まった瞬間に、空に向かってガッツポーズをして「やったー!」と叫んだというくだりで、その場面は楽しくも、いつも切ないのでした。

その後、ふたりのこどもをもうけ、水俣に帰って、水俣病の原因企業、チッソの子会社である「チッソ開発」に働きました。

どうしてチッソ?と聞いたとき、「チッソが憎いが、水俣には仕事がなか。こどもば育てあげんばいかんけん、こらえて必死に働いた」と言われていました。

たくさんの苦難の道程を歩いてきた生駒さんは、船が好きで、こけしを作るのが好きで、人が好きで、話が好きでした。

2000年に入ってからの生駒さんは、公式確認50年事業の教訓部会に入られたり、田園調布学園や埼玉大学安藤ゼミをはじめとする高校生や大学生、海外の人たち、人権を学ぶ人たちに、ご自身の経験を伝えました。私はそのおかげで、相思社に入社以来、何度も生駒さんの語りの隣にいることを許されました。とても幸せなことでした。

生駒さんは、とても早くに水俣病に認定されましたが、自分以外の認定されていない人たちへの支援を力の限りなさいました。いつも力の限り、叫んでいました。

2013年の「水銀に関する水俣条約」の国際会議のとき。当時の安倍首相が「水俣病を克服した日本が」と言いました。私は、被害地域で加害者である国の長が、いとも安易に「克服した」という言葉を使ったことに傷つき悔しい思いでいっぱいでしたが、生駒さんがその瞬間に「克服していない!」と、壇上に駆け上がろうとしたときには、さすが生駒さん!と手をたたきました。

また、相思社のスタッフや居候の青年を船に乗せてくれたり、出張講演へ行く道中では、社会人としての振る舞いを教わったりしました。

伊東さんや谷さんたちが運営するほたるの家、遠見の家に通われていた頃には、「とちゃん(父さん)」と呼ばれて顔をほころばせておられました。そこで一緒にごちそうになったご飯は、すべてがとても美味しかったです。

生駒さんは、大きくおおらかな笑顔と雰囲気を醸し出す反面、とても感性が鋭く、私は生駒さんの前ではいつも、自分を見透かされ、丸裸にされました。たくさんのことに傷つきながら生きてきたと思われる生駒さんは、とても敏感な一面と、それをユーモアで覆い隠す一面があったように思います。

誰にでもそうだったと思いますが、全力でぶつかる人でした。それにおののきながら、ときに泣きながら、逃げたいとか、避けたいとかも思いながら、心を大きく揺さぶられ、でも結局は、私も全力でぶつかりました。

そういうぶつかり方ができる相手はめったにいないし、そうやってぶつかりあえたことが、今になってとても幸せだったと思います。

あの日に生駒さんの話を聞いてくれた皆さん、どうか一緒に、生駒秀夫さんが生きたことを覚え続けてください。

生駒秀夫さん、私の心身を大きく揺さぶってくれて、そしてぶつからせてくれて、心から、ありがとうございました。

カテゴリー: スタッフのひとこと パーマリンク

コメントは停止中です。