宮崎さんの一番茶はいかが

どうも、とてもおそいご挨拶ですが、新年あけましておめでとうございます。年末年始、やぶきたの一番茶、在来種の紅茶と緑茶、ほうじ茶、相思社に咲いていたお茶の花などなどを飲み、スッキリしまくった永野です。お茶ってもう、体の一部ですね。

さて、年が明けてすぐの1月6日、人吉の相良村で50年もお茶づくりを続ける宮崎さんのお宅に行ってきました。

今年80才になる宮崎成正さんと84才になられるお連れ合いのミヨシさんのご夫婦は、相思社が無農薬のお茶を扱うようになったきっかけの人たちです。朴訥として正直で、自然と対話しながら暮らすような二人の姿にいつも教えられてきました。

いつも行くのは新茶の季節ですが、今回は、病気をなさったと聞いて、年明け早々、お見舞いの訪問でした。

宮崎さんの淹れてくれる、甘くてコクのある、「落ち着くー」とか「しみわたるー」という言葉がぴったりのお茶を飲みながら、この間の大変だったさまざまを聞かせていただきました。宮崎さんがいつも、お茶を淹れてくれたあと、私が飲んだのを見たあと自分も飲んで「よし」とか「よかですな」とかいうときの低い声と満足げな顔が好きです。

【宮崎さんが、農業を生涯のしごとにしようと決めたとき】

宮崎さんは修行先の、北海道の酪農家の「奥さん」から語りかけられた言葉によって、いままで農業を続けてきたといいます。

「私が農業ば続けていこうち思ったとは、やっぱ農業ば始めた60年前に、修行先の奥さんから『夢を抱きなさい、農業はこれから。50年先を考えて』と言っては、奥さん自身が自分の夢ば語るのに、私はその言葉や奥さんの夢に刺激ば受けたっですもんね。60年、生き方も金儲けも下手で、結局妻にもパッとした生活はさせならんやったですけども、その言葉と、信用だけを大切に、精いっぱいやってきました。農業に夢を持つ、人に夢を与えるというのは大事かっです。人間は農業なしでは生きていかれんですもん。実際に、農業の本当の良さは年ば取って初めて分かります。作物が本当に育つには5年10年てかかる。農業は一時の思いつきではでけん。ぬっか(暖かい)、寒か、雨の降る雪の降る、自然相手ですけん色々あります。しかし、本当の喜びは続けてこそですもん。喜びを、知ってほしかです」。そう語る宮崎さんはキラキラしています。

【農薬の恐ろしさば身をもって感じた】

北海道の修行から帰り10年が経った頃、宮崎さんは農作業中に突然のどを絞られるようなひどい吐き気に襲われました。

「同級生の緒方先生の診察ば受けたら『農薬中毒』て言われたっです。そして無農薬栽培ば強く勧められたっです。私はこん時に、農薬の恐ろしさば身をもって感じました。その恐ろしさは経験したもんが一番知っとります」という宮崎さん。

宮崎さんの語る「緒方先生」とは、水俣病患者の支援活動をしてきた医師の緒方俊一郎さん。1971年、地元の相良村で医療活動を開始した頃に、農薬中毒の患者たちと出会います。時には田んぼのあぜ道で点滴をしたこともありました。

ひとびとの健康を支え、命をつないでいくはずの農業に従事するひとたちが、農薬中毒で次々に倒れる実態を見せつけられて悩んだ緒方さんは、「食べものと健康の集い」という会を立ち上げ、農家や学校の先生を集め、食をテーマに勉強会も開きました。

宮崎さんは「食べものと健康の集い」のメンバーになり、勉強会で無農薬の農業について学び、実践を始めます。

【宮崎さんと相思社の出会い】

1974年、水俣病センター相思社ができてすぐ、緒方医師は宮崎さんを相思社に紹介します。

当時相思社では、患者の作った無農薬の柑橘を扱っていました。チッソが経済成長に必要なものをつくるなかで工場排水としてメチル水銀を流した。それによって海が汚染され、当時の不知火海周辺の住民にとって重要なタンパク源であった魚が汚染された。住民は水銀に汚染された魚を食べて体を侵され、命を奪われた。水俣病患者のなかには、「食べものでなった病気だから、食べものでなおす」といい、無農薬で、または最低限の農薬で農業をはじめた人がいます。環境と自分たちの体を守りながら安全な食べものを作り、それを届けることで社会を変えたいというのが私たち相思社の考えでした。

 農薬中毒の被害者、生産者の暮らしを守ることは私たちの活動の理念とも重なりました。

【宮崎さんのこだわり】

もともと研究者肌で突き詰める質の宮崎さん。「無農薬でも味にこだわりたい」と長年の努力と経験によって生み出された、まろやかな風味と豊かな香りの煎茶は、一度飲んだら忘れられません。「お茶づくりは奥の深か仕事ですもん。20年、30年てゆう長い年月の努力が美味しいお茶を生み出す。コクと甘みととろみと重みを出すために研究を欠かさんです」。

動物性肥料を使わんで米ぬか・なたね・有機ぼかしを肥料に、コクが出るように何度も挑戦を続けた宮崎さん。お茶は安定した味に仕上がり、宮崎さんのファンも全国に広がっていきました。

めでてめでて、こだわりを持ってお茶を作り、今年度は特に美味しく贈答にも活躍しました。ところが、昨年大病をした宮崎さん。病気と闘い復帰したものの、後遺症に苦しみながら、今後のことを考えておられます。

「無農薬米や、牛のことは、規模を縮めたりやめたり、なんたりが、必要て思います。しかし、守り続けてきたお茶の畑を簡単にはやめたくない、これだけこだわって、安心して飲んでもらえて、しかも美味しいお茶を作ってきました。お茶だけは続けたかです」という言葉を聞きながら、私たちには何ができるか、考えています。

たとえば今後どうしていくかを考えたときに、宮崎ファンの方たちに後継者を募ったり、草取りやお茶摘みやお茶を運ぶのやお茶を蒸すのや袋詰めやを手伝ったり。(わたしはじゃまになりそうだけど)。そう思いながら、まずは宮崎さんがこれからどうしていきたいかを一番に、宮崎さんの負担にならない、納得のいくかたちを一緒に模索する、今年をその年にしようと思います。

【宮崎茶はいかがですか?】

宮崎さんは、お茶の一番美味しいところを相思社に卸します。残りのお茶は、ご自身で売る分を少し取っておいて、あとは全部、農協(JA)に卸します。 農協に卸すと、農薬をかけたお茶と混ぜて生産者も分からないまま販売が始まってしまいます。

私たちは、宮崎さんのお茶を、宮崎さんのお茶のまま、できるだけたくさん売っていきたいと考えてきました。今年度、相思社に卸していただいた分のお茶はもう売り切れたのですが、宮崎さんのお茶を皆さんに味わっていただきたいと思い、一番茶200gを再入荷しました。のどの通りが良い、甘みと深み、重みのあるやぶきた茶です。

50年のこだわりを、味わってみてください。

https://www.soshisha.org/jp/nosari/ocha/ocha.htm

いま、宮崎さんのお茶を、宮崎さんのお茶のままに、宮崎さんのお茶として売ってきたことが、そして宮崎さんのお茶として口にしてきてくれた人たちの存在とその歴史が、無性に誇らしいです。

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