新潟水俣病「読書」週間

新潟水俣病の患者と支援者がもたらした2つの公害認定

今日はふたつの「水俣病」公害認定の日。この出来事は新潟水俣病患者の強い意思によって生まれたものだ。

今回は、新潟水俣病「読書」週間と題して、新潟を代表する書籍を紹介します。

まずは里村洋子さんの『安田の唄の参ちゃん+(プラス) 瓦職人・新潟水俣病未認定患者 渡辺参治さんの聞き書き』。本の前半は瓦職人で新潟水俣病未認定患者 渡辺参治さんの聞き書き、後半は新潟水俣病安田患者の会の旗野秀人さんの聞き書き。参治さんは仲間6人で阿賀野川沿いにあった昭和電工社宅の屋根葺き仕事に行って、昭和電工が垂れ流した水銀に汚染された魚を毎日毎晩食べ続け、水俣病になりました。参治さんは唄が大好き。十八番は「博労唄」。若い頃からいろんなところで唄ってきた参治さんをみて「ニセ患者」と心ない言葉を浴びせる人もいました。でもその一方で参治さんの唄は聴衆の耳に心に心地よく響きます。後半では水俣病患者の語り部として25年間、全国を行脚した様子が描かれます。全国行脚へは、安田住研を運営しながら、新潟水俣病安田患者の会のボランティア事務局をする、また参治さんの唄の囃し手である旗野秀人さんが一緒です。二人がの行脚のなかで繰り広げられる、豊かで愉快な世界観に魅了されること間違いなし。

次に紹介するのは『参治さんはみんなのもん! 渡辺参治さん追悼文集』。新潟へ行った際、パーンと明るく伸びやかで、はつらつと、味わい深い唄声を聞かせてくださった新潟水俣病患者の渡辺参治さんが、2020年7月2日に104歳で逝去された。参治さんと生前親交があったひとたち、全国の参治さんファンたちが寄せた追悼文集。CD「うたは百薬の長」もあわせて販売中です。

続いて『記録集 旅地蔵阿賀をゆく』。これまた新たな表現で新潟水俣病の世界を描きます。相思社にもいらっしゃり、ハンセン病との関わりも深いアーティスト・髙橋伸行さんが水と土の芸術祭2015で行ったアートプロジェクト「旅地蔵ー阿賀をゆくー」の記録を中心としたお地蔵さんの物語。ちょうどこの直後に水俣へいらして、車でまちをご案内したのが懐かしい。足尾・渡良瀬川で生まれ、阿賀で行き場のなかったお地蔵さん。“旅地蔵”と名付けられ、阿賀野川の最河口 松浜から鹿瀬の草倉銅山精錬所跡地に近い阿賀のほとりの神社跡に落ち着くまで旅をした日々が写真と文章で綴られています。なぜ地蔵がここに来て、阿賀野川を遡上し歩いたのか。「阿賀に生きる」からつながる“新潟水俣病”のことは、たくさんの人々の想いと行動によって形づくられています。地元では声に出しにくいであろうことをアートプロジェクトとして考えるきっかけを与えたという意味も大きいでしょう。

次に紹介したいのは新潟水俣病短編小説集『律子の舟』。この本を知ったのは、いつも細やかな気遣いで周囲を和ませる、新潟県立大学の後藤岩奈教授が、泣きながらこの本の一節一節を朗読してくれたのを聞いたとき。新潟の方言とともに描かれるのは水俣病を巡る差別と偏見。主人公の律子は自ら命を絶つのですが、その死による周囲の気づきと人生が描かれます。

次も新潟水俣病短編小説集『葦辺の母子』。こちらは『律子の舟』の続編。表題作「葦辺の母子」は胎児性水俣病の子を持ち、自らも水俣病に苦しむ母子の、周囲からの偏見と差別に苦しむ姿を描いた作品で、新潟水俣病に関わる無理解な差別と偏見を乗り越え、昭和電工と国に対して立ち上がる人々の姿も描いています。

『新潟のメチル水銀中毒症 その教訓と今後の課題』は患者とともに歩んできた齋藤恒医師。90歳の齋藤さんは、なんとも今年の4月まで新潟市の木戸病院で外来診療を続けておられました。診療の合間を縫って書かれたこの本には、2017年11月に新潟水俣病の行政訴訟で、東京高裁は一審判決では認められなかった2人を含む9人全員を認めるよう新潟市に命じられ、患者側の逆転全面勝訴に至るまで半世紀が描かれています。水俣病対策会議の初代議長として、患者と歩んだ医師による「第二の水俣病」の真相と深層に注目です。

はじめに―セーシェル共和国の国際会議への参加/マイヤーズ、ダビッドソン両教授への批判/ユージン・スミスの写真
第一部 なぜ悲劇は繰り返されたのか
第一章 新潟水俣病の真実/新潟水俣病の発生/新潟メチル水銀中毒症の発生/新潟における一斉調査
第二章 熊本水俣病で食品衛生法は適用せず/水俣奇病は食品中毒/深まる混乱と見せかけの集結/一九世紀から知られていた水銀中毒/メチル水銀中毒と世界の発症例/行政に的確に指導したカーランド―カーランドの勧告/食品衛生法はなぜ適用されなかったか/食品衛生法の適用は不可欠だった―食品衛生法―宇沢弘文氏の考え方
第三章 新潟水俣病の汚染源の究明/新潟県民主団体水俣病対策会議(民水対)の結成/またもや行政の横やりが
第四章 ついに法廷闘争に突入/「民水対」の支援運動―昭和電工の反論―鹿瀬の毒水と阿賀野川の生物汚染/患者たちは立ち上がった/新潟水俣病第一次訴訟の勝利/新潟水俣病患者の補償協定/協定の到達点と教訓/次々に勝利した四大公害裁判―富山のイタイイタイ病―三重県四日市訴訟―熊本水俣病裁判判決
第五章 水俣病認定をめぐる攻防/大石環境庁長官による再点検指示/認定の違いを生み出したハンター・ラッセル症候群―臨床症状の特徴/水俣病国際フォーラムにてー新潟水俣病の実情/第三・第四・第五の水俣病―有明町の汚染―関川病の棄却―徳山水俣病/尊敬する学者の変節/棄却の流れを決定づけた環境庁の部長通知/安田町千唐仁地区の検診/新潟水俣病第二次訴訟へ/補償対象と補償料の問題/中公審の議論
第二部 新潟メチル水銀中毒の解決のために
異一章 疫学と水俣病認定問題/疫学と方法論の重要性について/メチル水銀における四肢の感覚障害/四肢の感覚障害に関する津田論文/疫学の誤った使われ方/日本精神神経学会総会での決議
第二章 メチル水銀中毒症の病理/末梢神経障害か中枢神経障害か/大脳の障害/感覚障害について/運動失調について/水俣病患者に見られる協調運動障害の定量的解析/小児メチル水銀中毒症/耳鼻科の課題
第三章 半世紀を経ても終わらない水俣病/水俣病は集団食中毒である―処分庁代理人からの説明―それに対する斎藤意見書の要旨

※新潟水俣病の発生を防ぐチャンスはいくつもあった。

例えば水俣の漁民たちは、水俣病公式確認の以前から、海の汚染を理由に何度も何度も声をあげ続けていた。公式確認後は同じく患者もだった。しかし、原因企業のチッソ(現JNC)は、幾度もその原因をあいまいにした低い金額の見舞金契約を結び、結果、水俣病事件の収束を図る。

例えば熊本県は、公式確認の翌年、熊本大学からの「水俣湾の魚が危険」「ある種の重金属が原因」との水俣病の原因の調査報告を受け、厚生省(当時)に「食品衛生法」の適用を促す。しかし、厚生省は「水俣湾内すべての魚が有毒化しているという明らかな根拠はないため食品衛生法の適用はできない」と返答し、それ以来、今現在に至るまで法律によって水俣湾内の魚介類の漁獲や摂取の規制が行われたことは一度もない。

例えばチッソはその翌年に、もっと広い海に流せば水銀の希釈効果が期待できるとし、水銀を含んだ排水を不知火海へと流し始める。細川一チッソ附属病院院長の「そんなことをすれば人体実験になる」という反対をしている。その後チッソ(現JNC)は、水俣病の原因究明のためのネコ実験(800匹のネコが犠牲)により、水俣病の原因を突き止め、そして隠蔽する。 排水口の変更によって、被害は不知火海全域に広がった。生業の場を奪われた漁民はチッソに対し、抗議し、患者たちは、座り込む。そんな中、科学者はチッソ擁護し、水俣病の原因究明を混乱に導く。 不知火海の漁民たちはチッソに殴り込みをかけた。彼らの止むに止まれぬ暴力行為は、法律によって裁かれ、漁協の幹部レベルの漁民ばかりが選ばれて有罪判決を受けた。

見舞金契約の6年後、昭和電工は新潟で、水俣と同じ「メチル水銀中毒事件」が発生させた。新潟の患者たちは、公害史上初の裁判を提訴する。そんな患者たちに対し、熊本水俣病の患者たちは寄付を送った。新潟の患者たちはそんな水俣の患者を激励に来水し、そして「ともに闘おう」を呼びかけた。一度は終わった、終わらされた水俣病の闘いはそこから再開する。皮肉なことだが、新潟で水俣病が発生しなければ、「水俣病」は闇に葬られたままの運命だった。そして私は同じように水俣に生まれたとして、「水俣病」も患者の存在も知らずに育ったことだろう。 新潟は水俣にだけでなく、いまも社会に対して水俣病を通したさまざまな学問や文化を伝えている。相思社でも新潟に関する書籍類の扱いや、新潟へ数年に一度通っての交流を続けている。

行政も市民もマスコミも化学界もみんながチッソ(現JNC)に味方し、リーダーを失った漁民や患者は孤立していった。追い打ちをかけたのは、通産省の「排水口の場所をもとに戻し、水銀除去装置(サイクレーター)を作ること」というチッソへの指導だった。チッソ(現JNC)は排水口を戻し、サイクレーターを作った。下働きをした労働者の中には、水俣病の家族を抱え、現金収入が必要となった患者家族たちもいた。サイクレーターのお披露目式で、チッソ社長は熊本県知事立ち会いのもと、サイクレーターからの排出された工場排水を飲んでみせる。 このことは水俣、そして不知火海全域に報道を通じて知らされ、漁民や患者を含む住民は、「これでチッソの排水は安全」、「不知火海の魚は安全だ」と考え、魚を食べ始めた。思いたいよね。みんな、海とともに暮らしてきたんだから。

だけどチッソの社長が飲んだ水は、工場排水じゃなく、ただの水だった。それが分かったのは、10年以上もあとのことで、患者が起こした裁判によってだった。 それでも、サイクレーターができたことで工場排水の安全が証明され、水俣病はもう起きないと思われた。チッソは、熊本県知事から促され、熊本日日新聞社長らの立ち会いのもと、患者と見舞金契約を結んだ。 「原因が何であるか分からないが、近所の貧しい人たちが病気になっているからお見舞いをして差し上げる」というスタンスで。水俣病は終わったことにされ、患者たちは身を潜めるようにしてひっそりと暮らした。 63年には熊本大学医学部は水俣病の原因を突き止めた。しかし、社会的処理は終わったとされたあとだったため、国がチッソの同業他社、7社8工場について、何ら対策が取ることはなかった。

例えば57年に、59年に、63年に、漁民が最初に海も汚染を巡ってチッソ(現JNC)に対して声をあげた1923年に、国が、熊本県が、水俣市が、市民が、熊本の水俣病を解決していれば、新潟水俣病は起きてはいなかった。 65年、新潟水俣病が公式確認され、患者は67年に原因企業である昭和電工に損害賠償を求めて提訴した。しかし、訴訟中、昭和電工はその原因を否定し続ける。 そこで患者たちは68年、水俣を訪ねた。熊本水俣病患者に助けを求めた。初めて両方の患者が握手をし、ここで新潟水俣病患者から持ち出されたのが、「国に自分たちの被害を公害と認めさせよう」とした。水俣病が終始あいまいにされたことで、新潟水俣病を引き起こされたことに、水俣の患者たちは、責任を感じざるを得なかった。双方の患者たちが声を上げたことによって、科学技術庁は新潟水俣病を、厚生省は水俣病を公害として認定する。ただし通産省の傘下にある科学技術庁は新潟水俣病の原因は曖昧なまま認定したため、水俣の場合とは状況がまったく違い、その後も新潟の患者たちの原因追求の闘いは続いた。

一方の水俣では、チッソの社長が患者に詫び状を持参し、初めて謝罪した。直後、厚生省は第三者委員会をつくり、患者をバカにしてるのかというくらいの安い値で水俣病事件に決着をつけようとした。 一度煮え湯を飲んで、事件を闇に葬られていた患者たちは、怒った。二度と屈するものかと言った患者たちもいたが、しかし多くの患者たちはそれを受け入れざるを得ないほど疲弊していた。 そのなかで僅かな患者たちが立ち上がり、裁判を提訴したのだ。その中でもチッソに屈せざるを得なかった患者たちが、チッソから仕向けられて訴訟派の患者たちを切り崩そうとする場面や、水俣内での差別など、闘うことは容易ではなかった。

新潟にならって裁判を始めたことで、終わりにさせられていた水俣の運動は再開した。

いま行政は教育の場で、水俣病の差別や偏見についてばかりを教える。しかし、住民の権利を最初に奪ったのは誰か。なぜ、差別や偏見が生まれなければならなかったのか。そこに行政の思惑はなかったか。

水俣病の原因企業は、戦前から国策会社として機能してきた。敗戦後、戦後復興と高度経済成長の中で、水俣病は拡大している。国はここで、経済成長と被害拡大を天秤にかけ、被害には目をつぶった。水俣は、環境を破壊され、住民や生きとしいけるものたちの命を奪われ、声をあげてもなお、無視をされ、放置されつづけた。 国民の命を守るべき国が、国家権力によって、自ら環境を破壊し命や健康を奪っていった。それに加担したのは、熊本県であり、水俣市であり、マスコミであり、化学界であり、そして私たち国民であり。

その体質は、いまだ、この国に根付きつづけている。被害者の声は聴こうとしなければ聴こえない。声を聴くことを、そして声をあげることを恐れるな。消されようとした水俣病の運動が再開したことを思いながら。

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