宮崎さんのその後&宮崎茶はいかが

1月初旬、人吉の相良村で50年以上お茶づくりを続ける宮崎さん(成正さん81歳、ミヨシさん85歳)のお宅に行きました。宮崎さんは相思社が無農薬のお茶を扱うようになったきっかけの人たちです。一昨年成正さんがご病気をなさって以来、お見舞いの訪問をするうちに、農業高校で先生をしているお嬢さんにお会いするようになりました。というか、月二回お嬢さんが帰ってこられる休日をねらってお嬢さんに会いに行くのです。今回も宮崎さんの淹れてくれる、甘くてコクのあるお茶を飲みながら、お嬢さんの「食品添加物」の危険性についての話を伺いました。いつ聞いても、テンポが良くて、ユーモアに溢れるお嬢さんの話に心惹かます。食卓で、買い物中、家族や友達を思う時、日常の中にお嬢さんの声が蘇ります。お仕事と家庭の合間をぬって定期的に訪れるお嬢さんは、ご病気後の宮崎さんと私たちとの橋渡し役を担っていただいています。

【宮崎さんと相思社の出会い】

農業を始めて10年が経った頃、宮崎さんは農作業中に突然のどを絞られるような吐き気に襲われました。同級生の緒方俊一郎医師の診察を受けると『農薬中毒』の診断。無農薬栽培ば強く勧められました。「私はこん時に、農薬の恐ろしさば身をもって感じました。その恐ろしさは経験したもんが一番知っとります」と語る宮崎さんは、その後、無農薬農業を始めます。緒方医師は、水俣病患者の支援活動をしてきましたが、帰郷後の1971年、相良村で医療活動を開始した頃に、農薬中毒の患者たちと出会います。人の健康を支え、命をつないでいくはずの農業に従事する人たちが、農薬中毒で次々に倒れる実態を見せつけられて、何ができるか考えました。農家や学校の先生と共に「食べものと健康の集い」という会を立ち上げ、食をテーマに勉強会を開いてきました。宮崎さんはそのメンバーになり、無農薬の農業について学び、実践を始めます。1974年、水俣病センター相思社ができてすぐ、緒方医師は相思社に宮崎さんを紹介します。当時相思社では、患者の作った無農薬の柑橘を扱っていました。チッソが経済成長に必要なものをつくるなかで工場排水としてメチル水銀を流した。それによって海が汚染され、当時の不知火海周辺の住民にとって重要なタンパク源であった魚が汚染された。住民は水銀に汚染された魚を食べて体を侵され、命を奪われた。水俣病患者のなかには、「食べものでなった病気だから、食べものでなおす」といい、無農薬で、または最低限の農薬で農業をはじめた人がいます。環境と自分たちの体を守りながら安全な食べものを作り、それを届けることで社会を変えたいというのが私たち相思社の考えでした。農薬中毒の被害者、生産者の暮らしを守ることは私たちの活動の理念とも重なりました。

【宮崎さんのこだわり】

もともと研究者肌で突き詰める質の宮崎さん。「無農薬でも味にこだわりたい」と長年の努力と経験によって生み出された、まろやかな風味と豊かな香りの煎茶は、一度飲んだら忘れられません。「お茶づくりは奥の深か仕事ですもん。20年、30年てゆう長い年月の努力が美味しいお茶を生み出す。コクと甘みととろみと重みを出すために研究を欠かさんです」。動物性肥料を使わんで米ぬか・なたね・有機ぼかしを肥料に、コクが出るように挑戦を続けています。

【宮崎茶はいかがですか?】

宮崎さんは、お茶の一番美味しいところを相思社に卸します。ご自身で売る分を少し残して、あとは全部、農協(JA)に卸します。農協に卸すと、農薬をかけたお茶と混ぜて生産者も分からないまま販売が始まります。私たちは、宮崎さんのお茶を、宮崎さんのお茶のまま、飲んでもらいたいと考えてきました。一番茶200gを再入荷しました。のどの通りが良い、甘みと深み、重みのあるやぶきた茶です。50年のこだわりを、味わってみてください。

今が旬の伊予柑(いよかん)と一緒に送ることもできますよ!

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