第二世代訴訟傍聴

昨日は、第二世代訴訟の傍聴へ行きました。

初めて熊本地裁に行ったのは、二十歳の時でした。その時に、初めて溝口秋生先生からお母さんのこと、息子さんのことを聞かされ受けた衝撃は忘れられません。

昨日は特に、溝口先生が隣におられたので、感慨深いものがありました。

あれから9年、一番の変化は、傍聴人の中に「原発反対運動」をされる方や「三池炭鉱CO中毒患者支援」の方が来られていたこと。

水俣病と同じ事がさまざまな場所で起きています。そして被害者はひっそりと、苦しみの中を生き続けています。私たちの豊かな生活の裏側にいるその人たちのことを、どうか世界中の人に思い出してほしいと、祈るような気持ちになりました。

第二代訴訟は、2007年に始まりました。

原告団長の佐藤英樹さんは、最初から名前を出しての裁判。地元では大変勇気のいることです。原告は9名ですが、みな「胎児性世代」と呼ばれています。家族の誰かに劇症型の水俣病患者がいる方たちです。

英樹さんは、1954年、水俣病公式確認の2年前に水俣病の激発地である水俣市袋、茂道で生まれました。お父さん、お母さん、お祖母ちゃんが水俣病となり認定を受けています。漁師の家に育ったので、魚は生まれる前から沢山食べていました。

2歳の頃から足がつるとを訴えて毎晩のように夜泣きをしており、その後も、頭痛、めまい、しびれや様々な症状が英樹さんを襲います。「また来た」、「小さい頃からこうだから、これが当たり前」「周りもそうだから」と思って少年時代を症状に耐えながら過ごしました。

当時は、劇症型の患者や脳性麻痺のような症状を持った胎児性患者だけが水俣病と思われていた時代です。誰も英樹さんの症状が水俣病とは教えてくれませんでした。

英樹さん自身、水俣病が「奇病疫病」と呼ばれた時代を経験し、水俣病というのは人から嫌われるという思いの中で、水俣病から逃げ続けました。
しかし30代の終わりに、父親に勧められて原田正純さんからの検診を受け、「胎児性水俣病」との診断が下りました。

1995年、認定患者を増やさないという国の方針によって認められない水俣病患者のための「水俣病最終解決策」が取られました。

英樹さんは、「不知火海沿岸に住み、魚を多食し、水俣病特有の症状がある人に対して『水俣病』とは認めないが医療費を無料にしますよ」という矛盾した、詐欺のような和解策に申請をします。ところがひどい症状に長年悩まされてきた英樹さんは、認められなかったのです。
溝口先生のお母さんも、水俣病患者で現在は認定を受けている緒方正実さんも、この時に行政によって捨てられました。

その後、2004年に水俣病関西訴訟最高裁判決で国の責任が明らかになってなお、県、国が自分たちのあやまちを認めず対応を怠ったことがきっかけとなり、秀樹さんたち裁判を提訴することにしました。

私は、裁判に勝つことも重要だと思いますが、起きた事実を「なかったこと」にするのではなく、明らかにすること、歴史のなかに残すことが重要だと思っています。この裁判は、そういった意味を持っていると、思うのです。

それは溝口訴訟も同じでした。溝口秋生先生は、40年をかけて、事実を明らかにし、歴史の中にそれを残しました。

これまでの永い歴史の中で、苦しんできた人は数多くいますが、聞き取りをしていると、水俣病でも多くが闇に葬られていると感じるのです。

原発によって被害を受けた人たちも、何もしなければどんどん闇に葬られるでしょう。

昨日の裁判には、9年前に2歳だった我が娘も連れて行きました。
いま娘は、学校で水俣病を学んでいます。環境モデル都市もゴミの24分別も大切ですが、裁判のことは習わないそうなので、一日くらい社会勉強にあてても良かろうと連れて行きました。あれから9年が経ち、裁判の内容も少し理解できたようですし、何よりも、被害を受けた方の声は響いたようです。

この子が大人になった時、この社会はどんな風に変化しているんだろうと思うと、声を上げ続けたいと思います。もう一つのこの世を目指して。
溝口先生の隣で傘を持っているのが佐藤英樹さん。
しゃべっているのは、山口弁護士(お坊さんも兼任)。

山口弁護士は裁判の前の週に熱中症にかかったとか。

暑い中お疲れ様でした。

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