不知火海の海っぷちで生まれ育ったその人と、この一週間、密に連絡を取りました。あまりの人生と、言葉と行為に頭を混乱させながら、各所と連絡を取り合いながら、一つひとつ事柄を整理し、その背景に思いを馳せた一週間でした。
私の携帯電話の番号は、水俣病患者さんたちの間で、出回っています。知らない番号の電話に出ると、簡単な質問から、悩んでかけられる方、地域で見放されている人の存在を知ることもあります。水俣病を罹患した人の中には、傷ついた体を抱え、または他者から傷つけられ、暮らしの中で社会関係をうまく築けない人もいます。そういう状況になれば、誰だってそうだと思います。
もう何年も、もしかすると何十年もそのことで悩み、支援を受けそこね、電話をくださり、週の半ば、私が出張から帰った日をめがけて相思社にやってきたその人は、その後も、立て続けに電話をくれました。相思社に、私の携帯に。
本を読み、インターネットを使いして調べながら対応し、私もつらくなった時、頭に浮かんだ、会ったことのない人たちのこと。相思社の会員さんには、いろんな人がいます。病気の人も、医療や福祉に関わる人も。頭に浮かんだその人に、困ったことを尋ねてみました。固まった頭がほぐされていきました。相思社には、そして私には、ネットワークがある。そう思うと、安心しました。それを皮切りに、制度を運用する、または地域の、医療、福祉、地域、さまざまな立場の方たちと話ができました。専門の方々の話の中で知ったいくつかの事実を組み合わせ、少しずつ、その全貌が見えてきました。これだけの人が少しずつ関わって、誰かに託して、が繰り返されたことも。
そして、相談に見えたこの方は、本当にどうしようもなくて、専門でも何でもない相思社に来られたのかも知れないと思いました。私のほうは、自分が分からないことは、人に聞きながら導いていただくこと、頼ることも心がけ、誰かにも繋ぎながら、一筋縄ではいかないと自覚して、ゆっくりと乗り越えます。
大変なことを乗り越えたら、きっと、次にそのことと似た大変なことが起きた時、落ち着いて、冷静に、向かい合えるようになると信じます。
そのことで福祉関係の方からの電話対応をしていると、夕方、賑やかな声。おなじみの患者さんがいらっしゃいました。もう10年の付き合いです。10分以上経って、電話を終えて顔をだすと、「会いたいと思って待ってたー」という言葉と、見せたかったご自身の写真。福祉の関係者からまた電話があることになっていたので、携帯を気にしながら、一時間。最近、この方のつらい話や悲しい話を聞くことが、私にとって、つらいことではなくなりました。続ける、ということの尊さを思います。そしてあなたがここに来てくれて、私は小休止を取ることができた。
今年も、どんな人生に出会っても、共感と尊重を忘れずに、悶え加勢を続けます。
余談。「食べるということは、嚥下という行為は、自分自身を肯定する行為だ。生きることを肯定することだ。生きるために食べた人たちが、その食べものから否定された。裏切られた。それが水俣病だ」。同僚がいった言葉を「食べる」とき、必ず思い出すようになりました。そして、水俣病の患者対応をする間、幸せそうに、魚の話をする患者さんを前に、私の頭をぐるぐると巡ります。昨日も、今日も。
今週、お弁当を作って駆けつけてくれた友人がいました。友人は、「誰かのために、こんなに心を込めて料理を作ったことはあったかしら」、といいます。そして、「私も、私のために、美味しい料理を作ろうと思う」と。「もっと自分を大切にしよう」と。それで私は安心します。大切な彼女が、自分自身を大切にしてくれることに。こんな私でも、彼女の役に立てたということに。そして、私も幸せであろうと思います。そのために、まずは、自分の心と身体を大切に、休ませて。それが話を聞く第一歩だと、たくさんの失敗を重ねて思います。きっと、もっと多くの失敗や経験を重ねたら、もっともっと、楽になる。
写真は、私たちが裏切った海と、その海に出ようとする、あの時代、海に育てられた、私の大好きな人。記事とは関係ありません。