東京工業大学で新入生を対象に「他者をとおして見る世界」というタイトルで話をしました。今年は若松英輔さんという新潟出身の方が聞き手をしてくださいました。人数が多かったので午前と午後と二回。一回目はエピソードが多く、二回目は概念的なことが多くなりました。
テーマは・水俣病とは何か。どれほど長く「見過ごされた」のか、いま、どのような状態になっているのか。・個人と組織。学問の責任の重さ、東工大の教授が有機水銀説を否定し被害が拡大したこと。・「聞く」ということ。聞く人がいて初めて話すということ、語りえないことをどのように認識するのか、「答え」のない「問い」をいかに深めえるか。・若者たちに伝えたいこと。
質問は6つ。一つ目は、「結局、言いたかったんですか?何が伝えたかったんですか?体験談ですか?」というもの。患者さんたちのことが頭に浮かび、患者さんから「第一号患者は誰ですか」と尋ねられた話をしました。教科書どおり答えると「こどもの頃に、52年に隣のおばさんが『父ちゃんが狂わした』と言って我が家に逃げてきよらした。それから俺の周りで水俣病が広がっていった」と言う。私は「1941年に発症した方がいるから、第一号はその方でしょうか」と答えると、「俺の、第一号は違うとたい」と言う。このかみ合わなさ。
彼が何を聞いたのかではなくて、「何で聞いたのか」が大切なのに、私の中の正しさや知識を伝えようとする私は恥ずかしくないですか?と聞くと「恥ずかしいですね」という学生さん。本や論文で読んだことなんて、事実のほんの一部でしかないと自覚しようと思うと話し、「ところで心を殴られたことはありますか」と聞くとありませんという学生さん。水俣に相思社に来た人たちの中で、「私は水俣病のことは勉強した、分かっている」と言う人が町に出て、漁村に出て人に出会い、心をガツンと殴られて、宿泊棟に引きこもる。そうして出てきたその人が、自分の言葉で自分のことや水俣病を語るときに受ける感動。考えて、苦しんで、自分の言葉を持つことの強さと豊かさ。自分の言葉は自分を支えてくれる。でもそれは、誰かや自分自身との関係の中で分かること。恥をかいていい、失敗をしていい。外に出よう。水俣においで」と言って話を終えました。彼は本当に、私が何を言っているのか、分からなかったのだと思います。それを素直に表現した彼を、私は清々しいと思いました。
次の質問は、「誰にも言ったことはなかったけど」、という前置き付きでした。私の親戚は病気持っていて、小学校から高校生の今まで普通に学校に通ってきた。だけど就職すると、時給が最低賃金に満たない、200円くらいで、一人暮らしなんてできなくて。私はそんなことを何も知らなくて。私は何もできないという、質問とも戸惑いともつかぬ言葉でした。私も戸惑って。それでも、何もできないわけじゃない、その子の現状を、障害者の状況を知ることはできる。そのこと、「私のことを理解したいと思う人がここにいる」と親戚の子が知ることは、それは強いこと。そう言ってみたものの、でもそんなのは、きれいごとで、何ができるのか、私は十分に答えることはできませんでした。
次の質問は、私は広島の被爆者の話など聞いてきたけれど、こんなにたくさんの人の前で話をするのは怖くないですか、というもの。私は正直に、「怖い」と言いました。怖いけど、飛び込んだら、最低ひとつは出会いがあって、気づきがあって、救いだってある。そう答えながら、それは再会も同じだな、と、たった一つの出会いのために、だから飛び込もうと思いました。
次の質問は、「先ほどの1959年に通産省から水銀を除去する装置の設置の指導を受けたが、設置したサイクレーターに効果がなかったと言いましたが、根拠になる論文を教えてください、まさか、なんの根拠もないのに言うはずはありませんよね(だったかな?もっと難しい感じ)」。それは、冒頭の質問とも違う雰囲気を持っていて。私は根拠が載っている文書を紹介しながら、自分に対しても彼に対しても、違和感を覚えました。彼には私の言葉は通じていない。彼は私の言葉を信じていない。そう思ったことを伝えられなかった。言葉を知らない私が何も言わなくなる空気が彼との間にはあると思いました。例えば患者の人と一緒に交渉に行った先で熊本県や環境省、チッソに対するような虚しさが。私が言葉が伝わらないと思ったところで話は終わりました。私はもっと彼と対話すべきだった。同じ人間なのだから、きっと伝わると信じて、諦めずに。
次の質問は、自分の立場を守りながら意識を変えるには?というものでした。誰だって自分を守りたい、家族を守りたい。だけどそう思いながらも意識を変えることは、決して不可能ではないと思います。自分の暮らしを守る人の裏側には、暮らしを奪われた人がいる。自分とは一見違って見える立場の相手のことを知ること、できれば行くこと。他者を知るときに、自分が見えたり、自分自身に疑問を持ったりできる。
次の質問は、いじめと一緒に聞こえた。誰かを守ろうとしたら自分がいじめられる、そういう時は、どうしたらいい?私には、その場で、答えが出ませんでした。どうしたらよかったのか。いまも思い出し、悩んでいます。
サイン会に来てくれた学生さんは、自分が出来事に出会って何を感じたかが熱を持って語られて、体温が感じられる講義で、いままでで一番好感が持てたと感想を持ってきてくれて。
先生たちが、大学一年生の1,200人全員を対象にした最初の講義でなぜ水俣からわざわざ私を呼ぶのかを考えると、理工系の彼らに人間にとって一番大切なことを、深い部分をおかされた人たちのことを、その加害者に自らがなる可能性が十二分にあることを、学問を究めようとあがく四年間の大学生活の最初に知ってほしいからだと思えます。そういう先生たちの意気込みが感じられて、行ってよかったと感じています。
私を推薦してくれた弓山達也さん、事前に水俣を訪れてともに時を過ごしてくれて、当日も言いたいことに時間のかかる私を待ち、相手をしてもらった若松さんに、感謝です。中野民夫さんや中島岳志さん、上田紀行さんにも会場で支えていただきありがとうございました。
※1957年、熊本大学は熊本県に対して「水俣病の原因は重金属、水俣湾内の魚が危険」と報告、熊本県は厚生省に食品衛生法を促しました。国は熊本県に対して「水俣湾内すべての魚が有毒化しているという明中根拠はないため食品衛生法の適用は出来ない」と答申します。その後、今現在にいたるまで、法律によって水俣湾の漁獲や摂取の規制がなされたことは一度もありません。その後、水俣病は深刻化していきます。チッソは毒の希釈効果を期待して、水俣湾よりも広い不知火海にメチル水銀を含む排水が流れるように排水口の場所を変更しました。翌年、通産省がチッソに対し「排水口の場所を元に戻すこと」「水銀の除去をするための装置を設置するよう」指導しました。チッソはサイクレーターを作りました。実際に作ったのは患者たちです。公開の式典でチッソの社長は、排水口からの廃液をコップについて飲んで見せました。新聞社はそれを記事にし、水俣市民はチッソの廃液は安全だと信じました。魚を食べ続けました。しかしその水は社長が飲んだのはただの水道水で、サイクレーターには水銀を除去する効果なんて、ありませんでした。水俣の人たちは、騙されて、毒を飲まされて、水俣病になり、放置されました。
その頃、猫実験によってチッソはその原因を突き止めましたが、排水を止めてくれという漁民の根本的な要求は無視されました。そしてその年の12月30日、魚はとれず、家族は病気になり、年を越せない、餅も買えない状況に追い込まれた漁民や患者たち。それにこたえた熊本県知事が、患者や漁民とチッソとの間に入る形で、「原因が分かった場合においても新たな補償金の要求は行わない」いう条件付の見舞金契約が結ばれました。サイクレーターがあることで水俣病患者は発生しないとされ、水俣病は終わったとされ、その後も9年間、排水は流され続け、目の前の海が安全と信じた水俣や周辺の人たちは、魚を食べ続けました。
水俣病事件から生まれたもののなかには様々ありますが、棄てられた民、「棄民」という言葉ものがあります。何年か前に水俣に来た当時の天皇の妻の美智子さんが、水俣の市民に「水俣は、見棄てられたのですね」と言いました。サイクレーターのくだりで、棄民という言葉を思い出し、紹介しました。