水俣市立袋中学校へ講話

今日は地元の水俣市立袋中学校の2年生のこどもたちが、水俣病歴史考証館へ来てくれた。

袋は私の出身地で、市内で唯一、考証館でも学んでくれる学校。来てくれるようになったのは確か5年前。そしてこの3年、わたしを指名して講話の依頼もしてくれる。わたしは緊張しながら楽しみにしている。そして自由に、話したいことをそのままに、話させてもらう。

考証館は、同僚の木下裕章さんと坂本一途さんが担当した。水俣病の歴史や、水俣に来て学んだこと、知ったこと、患者や地域と関わり、その中で変化した自分について語ったのだと思う。

今回のこどもたちのテーマは「内なる差別と向かう」。

講話の冒頭で、仏壇にお預かりしているお位牌のことを話した。奪われたもの、人間や猫や魚や貝や水鳥や、それから漁民が現金収入を得るために魚頭をあげて赤ちゃんから育てた豚や。

かつて海だった水俣湾埋立地や、水銀ヘドロによって失われた魚のたまり場、「あじろ」のこと。わたしたちの地域で多発した流産や死産。生物学的に弱者であるために淘汰された男の胎児たちの命の話。

水俣病公式確認よりも20年以上前から、チッソは水俣湾にメチル水銀を流していた。だから袋の地域では公式確認より以前から、水俣病様の症状をもった人たちが続々とあらわれた。それでも公式確認に至らなかった理由とは。

チッソは経済的に(精神的にも)チッソに支えられてきた水俣。1920年代、水俣病が発生する以前から海洋汚染を続けたチッソに声をあげた漁民や、水俣病発生後に抗議した患者を抑圧したチッソの従業員やその関係者、水俣市、市議に市長、熊本県や国、マスコミや科学者たちの存在。

例えば私がその時代に生まれていたら。私がチッソで働いていたら、チッソで働いている家族をもった一人だったら。私は同じ行動をしなかっただろうか。一度は抑圧に屈した患者たち。

1965年に新潟で水俣病が起き、その患者たちの叱咤激励を受け、水俣市民が立ち上がる。学校教員、議員、チッソ労働者、市役所職員、主婦、、、二度と屈しないと心に決めた患者たちが起こした裁判。新潟水俣病やイタイイタイ病、四日市ぜんそくに続いて勝訴。しかし患者が「裁判に勝ってしまったら地域で阻害されるだろう」という不安をいだき、その解消のために生まれたのが相思社という話。

そして今日のテーマ、「内なる差別と向き合う」。向き合えているかは定かでないが、自分の話をした。

彼らと同じ中学2年生の歳のころの私は、なにもない土地に生まれたかったと思っていた。水俣は特別だと思っていた。中学を卒業してひとり、水俣を離れて出身地を偽ったころのこと。少しでも楽に生きたかった。けれど、本当の意味では楽にはならなかったこと。

私が水俣病センター相思社に入って良かったと思うことの一つは、水俣が特別ではないと知ったこと。最初私は、外から来た研究者の本を読んだ。特に水俣を調査した色川大吉の本は、読むのがつらいときがある。調査の中で明らかになったこの地域の、階層が反映された差別構造や、チッソからの植民地的支配、それを背景とした水俣病差別。

好きな場所が、嫌なこととして語られているようで心が痛む。水俣病を知るというのは私にとって、今でも少し、つらい。でも研究者たちが調査した事実は押さえておきたいし、いろいろな知識を得て、その中で水俣病や水俣を見たい、伝えたいと思う。それから日本には、30以上の公害病があることを知った。

例えば土呂久のヒ素中毒、大牟田や北九州や日本中の大気汚染や海洋汚染。相思社とつながりのある食中毒事件であるカネミ油症や三池の炭塵爆発によるCO中毒の話もした。

どうして日本には公害病は4つしかなかったと、わたしたちは思っているのか、その理由。知ると、かつて日本中のどの地域にも同じような構造が広がっていた。そしていまも。水俣は、社会であり世界だ。世界はひろい。水俣は水俣を特別じゃない。客観的に、冷静に日本中の公害を知ろうとすること、世界に目を向けようすることで、私は楽になり、力が湧いたという話。

質問は相次いだ。すごくびっくりした。

Q,仏壇にはどのくらいお位牌がありますか。どんな人ですか。

A.120以上の命のお位牌をお預かりしています。2才で亡くなった方もいますし、公式確認より前に亡くなった方もいます。研究用犠牲猫族の霊という、チッソ附属病院の細川一院長が作った位牌もお預かりしている。

Q,コロナでの差別をどう思いますか。どうして差別が起きますか。

A.差別の心は誰にでもあります。それを止めることは難しいです。人は分からないとき、または怖いものに対して差別をすることがあります。自分が持つ、分からないことを、怖いという感情をまずは受け止めること。認めること。それが大切だと思います(→明確な「答え」でなくてごめんなさい)

Q,考証館への来館者は年間何名ですか。

A.コロナ禍でないときは、年間2,600〜3,000人の人が訪れます。

Q,どんな人が考証館にきますか。

A.考証館は少し辺鄙なところにあります。新聞や誰かの著作で読んだり、インターネットで興味を持ったりした人が来てくれます。時々看板を見て迷い込んでくれる人もいます。今はコロナ禍で水俣病資料館が閉まっていて、それを知らずに行った人が紹介されて考証館に来てくれるケースが増えました。

Q,水俣病を伝えるときに気をつけていることはありますか。

A.相手と会話をしたいなと思っています。私の話が伝わったのか、気になります。相手がどう思ったのか、また元々の相手の考えを知りたいと思います。この前、考証館にやってきた小学校の先生の一人が「水俣病や差別の話がタブーだ」と言いました。間違ったことを教えないようにと思ったら、確実なことしか話せなくなると。だったらそのことを知って自分が考えたことを児童に伝えてほしいと思います。私が気をつけていることは、相手が語る環境を作りたいということです。

Q,外国人が来ますか。

A.昨年度まではたくさん来ていました。世界には水銀汚染が今まさに広がっています。火力発電や小規模金採掘の現場では、多くの市民が被害にあっています。みんなやみんなよりも幼い子どもたちが金山で金を採掘し、それをきれいにするために使う水銀の毒を吸い込んで体を壊させて、金は日本にやってきます。そういう課題を抱えた国の人たちが日本にやってきて、日本の失敗の歴史を学び続けていました。日本にとっても貴重な機会でした。今はそれまで来ていた人たちとオンラインでつながっています。

Q,チッソの人が立ち上がったなんて、とてもびっくりしました。すごい勇気だと思いました。

A.水俣病の公式確認の6年後、チッソで働いていた人たちが、労働条件の改善を求めて立ち上がりました。「安定賃金闘争」、略して「安賃闘争」といいます。労働組合と言って、働く人たちの権利を守るために、働く人たち自身が作った組合が、そのときにもう一つできました。第二組合と言います。第二組合は、チッソを守ろうとした組合です。双方は切り崩しと言って、お互いの労働者を仲間に入れようとして闘います。そのときに、第一組合の人たちは、チッソに虐げられてきた自分を顧みて、かつて自分たちが抑圧した患者たちを思い出します。そして数年後、「患者と闘い得なかったことを恥とする」という「ハジ宣言」を発表するんです。その宣言は、患者の心にどう届いたでしょうね。きっと心強かったと思います。

Q,日本に公害病が30以上あるなんてびっくりしました。

A.土呂久について少しだけ、お話しますね。土呂久では、1920年から40年以上、農薬や毒ガスの原料になる亜ヒ酸という毒を作る鉱山がありました。精錬がまが吐き出す毒煙と汚染水で、多くの住民が病気に苦しみました。あるとき、公害の報道を見た女性が「私も公害患者だ」と気づき訴えました。だけど鉱山会社はすでに倒産しているし、病気と鉱山創業の因果関係は確定できず、調査は行き詰まり。そんな時、地元の小学校教師が埋もれていた公害の掘り起こしを始めて絵地図を作って、教育研究集会で発表、マスコミが大きく報道して社会問題になりました。宮崎県は調査し、公害否定をしましたが一転、その存在を認めて環境庁に報告し、土呂久の慢性ヒ素中毒が「第四の公害病」として定められました。宮崎県による患者認定は、いまも続いています。

うまくできるか分からないけど、カネミ油症の話もさせてください。水俣病もカネミ油症も、幸せな食卓から生まれた公害です。人間は食べなければ生きていけません。カネミ油症は、国が健康と美容に良いと推奨した油を食した人たちが発症した病気。1968年、西日本一帯で、カネミ倉庫株式会社が製造した食用油、「カネミライスオイル」を食した人たちが様々な健康被害を訴えました。被害者数は実態調査自体が行われていませんが、当時、保健所などに届け出た人だけで1万4千人におよぶ食品公害事件です。

これは私がお世話になっているお医者さんから聞いた話ですが、当時九州大学の医学部の教授がカネミ油症を発見しましたが、それを隠しました。彼は、症例を集めたかったといいます。カネミ油症は彼が症例を集める間にどんどん広まっていきました。カネミ油症の症状は、皮ふ症状や全身の倦怠感、内蔵疾患や手足のしびれ、爪の変色や鼻血。油症という公害は、母からも父からも遺伝します。当時は「黒い赤ちゃんが生まれる」ために堕胎も行われました。いまや三世代目のこどもたちが生まれています。この苦しみがさらに何世代にわたるか、誰も知りません。

生徒たちは話を聞くあいだ中、シーンと、水を打ったように静かでした。それなのに、カネミ油症の話になったとき、さらに静かになったのです。こんなに人が集まって、こんなに静かなことがあるんですね。みんなの全身が、耳になったようでした。わたしもそっと、ゆっくりと、一つひとつの言葉を噛み締めて、話をしました。
最後の「お礼の言葉」は、その場で4グループから一人ずつ代表を決めて即興の感想。「怨の旗が一番印象に残りました」「水俣病に詳しくなれてよかったです」「日本に公害が30以上あったことが衝撃でした。これから水俣病だけじゃなくて、他の公害病のことを調べて知りたいです。それで、知ったことを周りに知らせたいと思います」「僕は県外の高校に行きます。愛知です。そこで水俣病や他の公害について話したいと思います」。最後の生徒に、愛知にはね、「東海の会」というのがあるよ。とても優しい人たちが、東海の患者の人たちと、ずっとずっと共にいてくれたんだよ。安心してね。そして、興味があったら紹介するよ。いつでも言ってと伝えた。彼のひいおばあさんは、石牟礼道子の作品を読み聞かせてくれるといいます。終了後の振り返り、石牟礼道子の机が袋中学校の音楽室にあると聞いてびっくり。ほぉ。。。

※今年はコロナ禍でグループを複数に分けた。私が2つのグループに話をしている間に別の2つのグループが考証館で職員の木下と坂本の解説を受けて、後半はそれを反転した。

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